ジョウショ君よ、いまどこにいる?2021年04月30日 23時09分

 あいつ、どうしているかな。
 40年前、東京駅の新幹線改札口で別れた友の顔を思い浮かべている。正真正銘の文学青年だった。名前は、城処久志という。仮名にしたが、本人はもとより、彼を知っている人なら、ピンとくるだろう。
 昨日、カミさんに尻を叩かれて、天袋に押し込んだままの収納ボックスを片づけた。するとB4サイズのファイルが出てきた。少し色あせたピンク、イエロー、ブルー、グリーンの表紙の分厚い4冊。
 ファイルには400字詰め原稿用紙のコピーが合計596枚綴じられている。万年筆の黒インクで書かれた細かい文字がびっしり。旧字の漢字や仮名遣いの混じっているところが、いかにもあいつらしい。
 書き直した跡がないので、推敲を何度も重ねた上で清書したことがわかる。一字一字を間違えないように書くのに一枚当たり20分かかるとして、ざっと12,000時間。一睡もしないで書き続けて500日かかった計算になる。そこに至るまでの下書きの時間を入れたら、いったいどれほどの労力を費やしたことか。
 城処君は、ぼくがカミさんを連れて福岡市に転居する直前に、この4冊のファイルを携えて、ぼくらが暮らすアパートまでやってきた。
 「このコピーを保管しておいてくれ。万一、俺の手元にある原稿が火事で燃えたりしたら、ぜんぶが無になってしまう。だから、たのむよ」
 この未発表の論文のタイトルは「春秋左氏傳についての研究」。春秋左氏傳(略称・左伝)は紀元前の前漢末期に世に出たといわれる中国の古書で、孔子の編纂と伝えられる歴史書「春秋」の代表的な注釈書の一つである。
 いまでは苦笑いするしかないが、学生時代に城処君の発案から仲のいい先輩を加えた三人で「左伝」の読書会をはじめた。講師は城処君、場所はぼくの四畳半のアパート、時間は毎週土曜日の夕方、読書会の後はそのまま部屋で一杯やることに決まった。
 彼から教えられた神田神保町の中国書専門店で購入した「左伝」は、まさしく漢籍そのものだった。高校で使った教科書や参考書のように返り点など、どこにもついていない。文字はすべて旧字体で、文字の画数の多さにも辟易(へきえき)した。漢文の素養のない先輩もぼくも、これどうするのといった感じ。まるで固い岩盤に爪を立てるように、ぼう然として、なすすべなしだった。
 そのむずかしい白文を、城処君は声を上げてすらすら読んでいく。登場人物や時代背景のことも併せて、一つひとつ解説するのである。
 しかし、いくら教えてもらっても、まったくのお手上げで、先輩とぼくは二カ月足らずであっさり根を上げてしまった。
 そういうぼくたちに比べると先人たちは偉い。かつての武士をはじめ、塾や寺子屋で勉強していた子どもたちは尊敬に値する。論語や孟子の漢文に親しみ、できる人は四書五経まで諳(そら)んじていたのだから。
 ぼくが記者になった後も、城処君はよく遊びにきた。「左伝」に登場する人物の心理をどう理解すればいいのか、そういう話が多かった。ぼくは事件や政治の取材を通じて知った人間の欲望や葛藤の例を持ちだしては、ああだ、こうだと、人の心の動きに想像をめぐらしながら、「左伝」の解釈について意見を出し合うことがおもしろかった。
 そのころ城処君は大望を抱いていた。それは「左伝」の訳文で主流派と言われていた京都大学の高名なK教授の学説を堂々と論破することだった。そして、彼はますます「左伝」の研究に没頭し、乾坤一擲の思いを込めた論文を書き上げて、ついにK教授の研究室に送ったのだ。
 「原稿は送り返されてきたよ。K教授とは別名の人の短い感想の手紙も入っていたけど、俺の論点にちゃんと答えていない。ぜんぜん納得できん」
 これが待ち焦がれていた回答だった。高く聳える壁にはね返されたわけだ。友の悔しさが晴れることはなかった。ぼくの手元にあるのが、まさしくその原稿のコピーである。
 城処君のルーツは四国の松山で、生まれ育ちは大阪と言っていた。そのことは彼の自慢だった。
 「おれには子規や漱石がいた四国の松山と、西鶴や近松が活躍した大阪の血が流れている。日本文学の王道の土地で育ったからな」
 大学では日本文学研究の道に進んだが、「教授の話を聞いてもつまらん」と言って、一年で中退。なにしろ彼は読書の領域と量がケタ違いだった。中学生のときには毎月、中央公論を読んでいて、古典から名だたる作家の作品はたいてい読破していた。たとえば、ぼくが新潟県塩沢の鈴木牧之の名前を出すと、即座に「彼の書いた北越雪譜はいいよな」と言うのである。
 そのうち彼は、もう漢文は卒業したと言って、今度はシェークスピアを〈原語〉で読み直していた。歌舞伎座で聴き覚えた人気役者の声色を使うのも得意だった。あれは活字中毒なんてものじゃない。からだじゅうに文学が詰まっているような男だった。
 古本屋で本を買い込んで、読みだしたら二晩続けて徹夜して、一日に一度の飯は缶詰一個をおかずにして、鍋いっぱいに炊いた三合の米をあらたか食ってしまう。間借りしていた三畳の部屋はきちんと整理されていたが、「明るいと気が散るから」といつも暗くしていた。ぼくは「本の虫」という人間に初めて出会ったのだ。
 よく徹夜して怒鳴り合うように議論した。野菜不足を解消するために、生の大根やキャベツをかじりながら、ふたりで大学の構内を歩いたこともある。
 最後に会ったのは、ぼくが13年ぶりに九州で暮らすときだった。身長160数センチの細身のからだに、どこか太宰治をおもわせる顔立ち。別れ際に見せた城処君のいまにも泣き出しそうな顔が忘れられない。
 友よ、元気でいるか。いつか君は世に出てくる人物だと、ぼくはいまでもおもっているよ。

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