こっちの身にもなってみろ2021年05月31日 18時39分

 右奥下の親シラズがズギズキして、冷たい水が当たるとジーンとしみる。顔をしかめるほど痛い。2週間ほど我慢していたが、ようやく診察予約の日がきたので歯医者に行ってきた。
 ゆっくり歩いて10分ほど。そこに行き着くまでに同業者が3軒もある。このあたりは歯科医だらけだ。産婦人科や小児科はまったくない。
 ぼくが行く歯医者の近くにある広さ5反ほど畑は、例年ならまもなく水が引かれて田植えが始まるころだが、先日、建設計画の看板が立てられた。またもや有料老人ホームができるという。3階建てだから、このあたりの風景は一変するだろう。
 自宅から歩いて4、5分のところにあった、サッカーコートが何面もとれぐらいに広かった畑も老人施設に化けた。新しくできる建物は年寄り相手のものが多い。葬儀社の建物もずいぶん増えた。一方で息子たちが通っていた小学校は空き教室だらけになっている。まるで、いまの日本の縮図を見るようだ。
 若い人にはピンとこないだろうが、ぼくのなかでは歯医者と老人施設はひとつの線上にある。だって、今日も歯医者から、こう言われたのだ。
 「うーん、この親シラズは抜歯するしかないですね。仕方がないですよ、もう年だから。いまの若い人は、親シラズは抜くんですよ。まぁ、よく長持ちしたということですね。××さんは平均寿命まであと15年ぐらいですか。生きている間は入れ歯にならないようにしないとね。ま、もう少し、様子を見てみましょうか。できるだけ抜かないですむように、頑張りましょう」
 最後は「頑張りましょう」と励ましてくれたが、ぼくの経験則では、それは気やすめに過ぎず、本当のところは「覚悟してね」という意味である。
 すでにこの歯医者の手によって、ぼくの歯は4本も抜かれた。原因はすべて歯周病だから、ここまでほうっていた自分が悪い。たぶん、早ければ次回の診察日にも、医者はこう言うだろう。
 「あー、こりゃあ、もう駄目だわ。ほら、こんなにぐらぐらしている。抜きましょ、それしかないですよ。××さぁん、抜歯の用意をして」
 1本目を抜かれたときも、2本目、3本目、4本目のときも、そう言われたのだ。こちらの未練を断ち切るように、実にあっさりと宣告して、たちどころに行動に移すのだ、この人は。
 ぼくよりも若い50代前半だが、腕のよさが評判で、施術も説明も的確だし、話す内容にも説得力があるので、この人から言われたら覚悟を決めるしかない。カミさんも十数年来、この歯医者さんを信頼していて、いわば、ぼくたち夫婦の歯の主治医である。
 でも、本人の前でしゃべったことはないが、患者として、言っておきたいことがある。
 こちらは言われた通り、いつも素直に従っているけれど、仰向けに寝かされて、口のところだけ開いた布をかぶされて、すっぽり目隠しをされている上に、口は開けたままだから、何を言われても、無抵抗のまま返事の仕様がないのだ。
 聞きたいことや言いたいことはいっぱいあるのに、ただ「ふぁい(はい)」とか、「ううえ(いいえ)」としか言えない。しょぼんとして、何もできず、言われっぱなし、やられっぱなしなのがクヤシイ。一度、面と向かって、オイッ、コラッ、おとなしくやられているこっちの身にもなってみろ、と言ってやりたい。
 さて、いよいよ書きたくないことを書かねばならぬ。
 今日は、痛む親シラズの治療をしてくれなかった。何でも、施術の順番があるとかで、別の歯のところをきれいにして終わりだった。肝心の親シラズには痛み止めを塗られただけ。そして、最後にこう念を押されたのだ。
 「これで痛みはやわらぐでしょう。それでも痛くて、我慢できなくなったら、もう、抜くしかないですよ」
 かくして、その後のいまの症状は-、
 期待したほど痛みはひいていない。冷たい水を口に含むと、鋭い痛みがカチーンと頭に響く。ということは……。
 作家の三浦哲郎は随筆の中で、こんなことを書いていた。
 彼は郷里の味の身欠き鰊(ニシン)が大好物なのだが、歯がぐらぐらになって、明日、幼馴染みの歯科医から前歯を数本抜かれることになった。そこで、いまのうちに味の見納めをしようと、脂の乗った身欠き鰊を手に入れて、宿泊先のホテルに戻ると、明日はもう無くなってしまう前歯で、身欠き鰊の棒をやんわりと噛んだ、という話だった。
 ぼくの前歯は大丈夫である。でも、右下の奥歯は親シラズとブリッジしてあるから、支柱になっている親シラズがなくなると橋(ブリッジ)は崩壊して、奥歯一帯はがらんどうになってしまう。まるで口の中に小学校の空き教室ができるようなものだ。
 最後の奥歯で何を食べようかな。まったく年寄りじみた話になってしまったが、いまはそのことが切実なテーマになっている。

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