「山ほたる」の季節がやってきた ― 2021年06月01日 09時42分

6月になった。いまごろ高田酒造場(熊本県球磨郡あさぎり町)のまわりでは、たんぼの脇の小川や山あいの渓流にたくさんのホタルが飛んでいることだろう。
ホタルが舞う季節に、高田酒造場から出荷されるのが、手造り球磨焼酎の「山ほたる」である。花酵母を使用した希少な米焼酎で、ロックで飲むといい香りがする。
実は、この「山ほたる」という名前は、ぼくが名づけた。高田酒造場のまわりの自然環境にぴったりとおもった。吟醸酒のような香りとやさしい味わいが特徴で、女性にも飲んでほしかった。だから、すぐに「山ほたる」の名前が浮かんだ。
もう20年ほども前のこと、高田酒造場を応援するために「高田酒造場ファンクラブ」をつくって、何も宣伝していなかった「小さな蔵」の広報活動を買ってでた。それから10年間、パンフレット等の商品説明書づくり、顧客への「蔵元だより」の制作と発送、メディアへ情報発信、ホームページの制作運営から商品開発、仕込み蔵の設計支援まで、いろいろやった。
そのなかの商品のひとつが「山ほたる」である。ネーミングだけではなく、デザインの原案、ラベルの商品説明書きもやらせてもらった。
初めて「山ほたる」を商品化した日の夕刻、蔵元の高田さんとぼくはホタルの名所の「天使の水公園」に行った。そこでは無数のゲンジボタルが黄色い光を点滅しながら、ゆっくりと舞い上がったり、突然、急降下したりして、大きな光の粒子の群れが暗い谷間ではげしく乱舞していた。
そのホタルの光の競演を胸に焼きつけたまま、人吉市内の小料理屋に、蔵から持ってきた花酵母の焼酎を持ち込んで、「これで行こう」と決めたのが「山ほたる」だった。
その花酵母の焼酎をつくるのに、高田さんは4年の歳月がかかった。原酒を割る「割り水」には海抜1,000メートルの山頂近くに湧く石清水を使っている。これも楽な仕事ではない。軽トラックにタンクを積んで、とんでもない山奥の荒れた道をバックで進んで、水を汲むだけでもゆうに1時間半はかかる。
仕込み蔵はこのブログ(1月16日)でも紹介した河上さんが設計してくれた。そこには伝統のカメが埋められていて、その下を地下水が流れている。麹室はこのあたりでとれる特産の石造り。こういう環境も高田酒造場だけの焼酎を育んでいるのだ。
瓶詰めも、ラベルを貼るのも、すべて手作業である。米も上質なものしか使わない。自分のたんぼでは山田錦を栽培しているという徹底ぶりだ。
こういう並外れたこだわりの小さな蔵があるのに、一部の勉強熱心な酒販店を除くと、当時はまったく無名だった。どこの会社でもそうだが、地方には広報のプロがいない。足元にとっておきのニュースがころがっていても、その価値に気がつかないし、どうしていいのか方法もわからない。そもそも宣伝と広報の違いをわかっている人が少ない。
コツコツと広報活動を続けているうちに、広告宣伝嫌いだった高田さんもだんだんその気になったようで、それまで手をつけてこなかった東京の大手百貨店に商品を出した途端、高田酒造場のこだわりの手造り焼酎は評判になった。
高田さんは十二代目。いまは十三代目の娘さんが立派に跡を継いでいる。彼女が小学生のころから、その日がくるのをぼくたちは心待ちに待ちにしていた。そして、役目を終えたファンクラブは数年前に解散した。当時のホームページも閉じた。次は若い世代の出番である。
この季節になると、高田さんのところに、毎月1回、福岡から車で通っていたころが懐かしい。珍しい雉(キジ)や鹿の料理、球磨川の天然アユ、老舗のウナギ屋やそば屋、高級旅館から地元料理の店など、いろんな味をご馳走になった。一緒に高田さんの手造り焼酎を飲みながら、夢を語り合うがたのしかった。商品化する前の長期貯蔵していた原酒も、門外不出のハナタレも飲ませてもらった。本当にお世話になった。
ぼくが名づけた銘柄は「山ほたる」のほかにも、樫樽貯蔵の「遊木(ゆき)」、同じく樫樽貯蔵の「深田蒸留所」、花酵母シリーズの「天の刻(とき)」、「野の刻」、「風の刻」。モチ米焼酎の「もちきり」、そして「逸蔵逸品」、「蔵初音」。ほかにもあったっけ。みんな高田さんと蔵で働く人たち、そしてファンクラブの仲間たちとの共同作品である。
高田酒造場は昨年、人吉球磨地方を襲った水害被害に遭った。いまはコロナ禍の下にある。遠慮して、しばらく声を聞いていないが、新開発した和製ジンも好評という。
彼とは、日本一の蔵になろうと約束した。高田さんのことも、高田酒造場のことも、書き始めるときりがない。ぼくの初恋の人も、学生時代の友や先輩、後輩たち、仕事関係の人も、たくさんの人たちが「小さな蔵」の商品を買ってくれた。
カミさんには、俺が死んだら、棺桶に「山ほたる」と「遊木」を入れてくれと頼んでいる。
ホタルが舞う季節に、高田酒造場から出荷されるのが、手造り球磨焼酎の「山ほたる」である。花酵母を使用した希少な米焼酎で、ロックで飲むといい香りがする。
実は、この「山ほたる」という名前は、ぼくが名づけた。高田酒造場のまわりの自然環境にぴったりとおもった。吟醸酒のような香りとやさしい味わいが特徴で、女性にも飲んでほしかった。だから、すぐに「山ほたる」の名前が浮かんだ。
もう20年ほども前のこと、高田酒造場を応援するために「高田酒造場ファンクラブ」をつくって、何も宣伝していなかった「小さな蔵」の広報活動を買ってでた。それから10年間、パンフレット等の商品説明書づくり、顧客への「蔵元だより」の制作と発送、メディアへ情報発信、ホームページの制作運営から商品開発、仕込み蔵の設計支援まで、いろいろやった。
そのなかの商品のひとつが「山ほたる」である。ネーミングだけではなく、デザインの原案、ラベルの商品説明書きもやらせてもらった。
初めて「山ほたる」を商品化した日の夕刻、蔵元の高田さんとぼくはホタルの名所の「天使の水公園」に行った。そこでは無数のゲンジボタルが黄色い光を点滅しながら、ゆっくりと舞い上がったり、突然、急降下したりして、大きな光の粒子の群れが暗い谷間ではげしく乱舞していた。
そのホタルの光の競演を胸に焼きつけたまま、人吉市内の小料理屋に、蔵から持ってきた花酵母の焼酎を持ち込んで、「これで行こう」と決めたのが「山ほたる」だった。
その花酵母の焼酎をつくるのに、高田さんは4年の歳月がかかった。原酒を割る「割り水」には海抜1,000メートルの山頂近くに湧く石清水を使っている。これも楽な仕事ではない。軽トラックにタンクを積んで、とんでもない山奥の荒れた道をバックで進んで、水を汲むだけでもゆうに1時間半はかかる。
仕込み蔵はこのブログ(1月16日)でも紹介した河上さんが設計してくれた。そこには伝統のカメが埋められていて、その下を地下水が流れている。麹室はこのあたりでとれる特産の石造り。こういう環境も高田酒造場だけの焼酎を育んでいるのだ。
瓶詰めも、ラベルを貼るのも、すべて手作業である。米も上質なものしか使わない。自分のたんぼでは山田錦を栽培しているという徹底ぶりだ。
こういう並外れたこだわりの小さな蔵があるのに、一部の勉強熱心な酒販店を除くと、当時はまったく無名だった。どこの会社でもそうだが、地方には広報のプロがいない。足元にとっておきのニュースがころがっていても、その価値に気がつかないし、どうしていいのか方法もわからない。そもそも宣伝と広報の違いをわかっている人が少ない。
コツコツと広報活動を続けているうちに、広告宣伝嫌いだった高田さんもだんだんその気になったようで、それまで手をつけてこなかった東京の大手百貨店に商品を出した途端、高田酒造場のこだわりの手造り焼酎は評判になった。
高田さんは十二代目。いまは十三代目の娘さんが立派に跡を継いでいる。彼女が小学生のころから、その日がくるのをぼくたちは心待ちに待ちにしていた。そして、役目を終えたファンクラブは数年前に解散した。当時のホームページも閉じた。次は若い世代の出番である。
この季節になると、高田さんのところに、毎月1回、福岡から車で通っていたころが懐かしい。珍しい雉(キジ)や鹿の料理、球磨川の天然アユ、老舗のウナギ屋やそば屋、高級旅館から地元料理の店など、いろんな味をご馳走になった。一緒に高田さんの手造り焼酎を飲みながら、夢を語り合うがたのしかった。商品化する前の長期貯蔵していた原酒も、門外不出のハナタレも飲ませてもらった。本当にお世話になった。
ぼくが名づけた銘柄は「山ほたる」のほかにも、樫樽貯蔵の「遊木(ゆき)」、同じく樫樽貯蔵の「深田蒸留所」、花酵母シリーズの「天の刻(とき)」、「野の刻」、「風の刻」。モチ米焼酎の「もちきり」、そして「逸蔵逸品」、「蔵初音」。ほかにもあったっけ。みんな高田さんと蔵で働く人たち、そしてファンクラブの仲間たちとの共同作品である。
高田酒造場は昨年、人吉球磨地方を襲った水害被害に遭った。いまはコロナ禍の下にある。遠慮して、しばらく声を聞いていないが、新開発した和製ジンも好評という。
彼とは、日本一の蔵になろうと約束した。高田さんのことも、高田酒造場のことも、書き始めるときりがない。ぼくの初恋の人も、学生時代の友や先輩、後輩たち、仕事関係の人も、たくさんの人たちが「小さな蔵」の商品を買ってくれた。
カミさんには、俺が死んだら、棺桶に「山ほたる」と「遊木」を入れてくれと頼んでいる。
危機一髪だった ― 2021年06月02日 15時46分

紙一重、危機一髪。だれだって、そんなことのひとつやふたつは体験するものだ。
鏡に顔を近づけないとわからないが、ぼくの右側のほほには、右目のすぐ下から上唇にかけて、うすい線がある。これは小学3年生のときにできた傷跡である。
鹿児島の錦江湾にのぞむF町にいたとき、旧国鉄マンだった父はそこから桜島へと向かう新しい線路をつくる仕事をしていた。F駅はその起点だった。
駅の構内には、何本かの引き込み線があり、工事に必要な機材や枕木、バラスなどを積んだ貨車をひく蒸気機関車も停まっていた。ここで石炭と水を補給し、新しく敷設された線路を走って、工事現場の最前線までを往復するのである。
駅舎のすぐ近くには同級生の親が経営している製材所があった。ぼくたちはそこに捨ててあったら板をもらって、港の船着き場に行き、小さな伝馬船のもやいを解いて、オール代わりに使ったものだ。港の中をワイワイ騒ぎながら漕いでまわっても、怒る人はだれもいなかった。
ある日、ひとりで駅の構内をぶらぶらしていたら、あれは何だったのか、おもい出せないが、突然、頭のなかで「早く行かなくっちゃ」という信号が光った。すぐに全力で走り出し、線路を飛び越えて、道路に出ようとした。
そのとき、ガツーンと顔面に何かがぶつかった。からだごと壁に衝突したようにはね返された。声も出せずに、ぼくはその場にひっくり返ってしまった。
顔がカッカッと燃えるように熱い。両手で顔をおおったまま、しばらく動けなかった。ひと息ついて、こわごわと手の平を見ると、真っ赤になっていた。
ナンデ? ナニに当たった?
血が目に入って、かすんで見える目の前にあったのは有刺鉄線の網だった。黒い枕木を建てた柱の列に、針金の先を鋭く断ち切った有刺鉄線が張られていたのである。駅構内への進入を禁止するためのものだった。
その尖った鉄線の束がぼくにはまったく見えていなかった。そこへ顔から先に勢いよく飛び込んでしまったのだ。
突然、鉄砲玉のように走り出すのは、小さな子どもがよくする行動である。あのときのぼくがそうだった。そういうときがアブナイ。危機一髪のシーンに遭遇するときの子どもたちの目は開いていても、その実、何も見えていないのだ。まだ危険を予測して、落ち着いて対応するという能力が身についていないのである。
血まみれになった顔を手で押さえながら、家に戻ると母の顔色がさっと変わった。後から聞いたところでは「もしや、目が見えなくなったのでは」と肝を潰したそうだ。
町に一軒しかない医者は治療しながら、何度もこう言った。
「あぶなかったねぇ。目に当たらなくてよかった。ほんの1ミリ違っていたら、右の目に入っていたところだった」
あのころは気がつかなかったが、たぶん小学生の顔に大きな傷跡が残ることがわかっていたので、医者は最悪の結果でなくてよかったと強調することで、ぼくの心のケアをしてくれたのだろう。
傷口に当てた白いガーゼがはずれたあとも、ぼくの右のほほにはザックリと切られた太い線がはっきり残った。小倉に転校した後も、友だちからときどき「泣いているの?」と言われた。右目の下に涙の流れた跡がある、とおもわれたのだ。
子どものころ顔にできた深い傷が、その後の自分にどんな影響を与えたのか、よくわからない。だが、あのときの紙一重の差が、逆の結果に転んでいたら、その後の人生は天と地ほどの違いがあったかもしれない。
ときとして人の運命を決めるのは、まさに予期せぬ一瞬である。そして、それはどこで起きるのか、予測もつかない。
いまでも自分の顔の傷跡を見るたびに、オレハ、ナント、ウンガツヨイノダロウ、とおもうことにしている。またカミさんから「そうやって、いつも自分の都合のいいように解釈するんだから」と言われそうだが。
■有刺鉄線も、それを網状にして張った鉄条網もほとんど見かけなくなった。危険防止、進入禁止のために使われる材料そのものが危険物なのだから、そういうモノを作り出す人間とは不思議な動物である。きっとケガをした人はたくさんいるに違いない。
鏡に顔を近づけないとわからないが、ぼくの右側のほほには、右目のすぐ下から上唇にかけて、うすい線がある。これは小学3年生のときにできた傷跡である。
鹿児島の錦江湾にのぞむF町にいたとき、旧国鉄マンだった父はそこから桜島へと向かう新しい線路をつくる仕事をしていた。F駅はその起点だった。
駅の構内には、何本かの引き込み線があり、工事に必要な機材や枕木、バラスなどを積んだ貨車をひく蒸気機関車も停まっていた。ここで石炭と水を補給し、新しく敷設された線路を走って、工事現場の最前線までを往復するのである。
駅舎のすぐ近くには同級生の親が経営している製材所があった。ぼくたちはそこに捨ててあったら板をもらって、港の船着き場に行き、小さな伝馬船のもやいを解いて、オール代わりに使ったものだ。港の中をワイワイ騒ぎながら漕いでまわっても、怒る人はだれもいなかった。
ある日、ひとりで駅の構内をぶらぶらしていたら、あれは何だったのか、おもい出せないが、突然、頭のなかで「早く行かなくっちゃ」という信号が光った。すぐに全力で走り出し、線路を飛び越えて、道路に出ようとした。
そのとき、ガツーンと顔面に何かがぶつかった。からだごと壁に衝突したようにはね返された。声も出せずに、ぼくはその場にひっくり返ってしまった。
顔がカッカッと燃えるように熱い。両手で顔をおおったまま、しばらく動けなかった。ひと息ついて、こわごわと手の平を見ると、真っ赤になっていた。
ナンデ? ナニに当たった?
血が目に入って、かすんで見える目の前にあったのは有刺鉄線の網だった。黒い枕木を建てた柱の列に、針金の先を鋭く断ち切った有刺鉄線が張られていたのである。駅構内への進入を禁止するためのものだった。
その尖った鉄線の束がぼくにはまったく見えていなかった。そこへ顔から先に勢いよく飛び込んでしまったのだ。
突然、鉄砲玉のように走り出すのは、小さな子どもがよくする行動である。あのときのぼくがそうだった。そういうときがアブナイ。危機一髪のシーンに遭遇するときの子どもたちの目は開いていても、その実、何も見えていないのだ。まだ危険を予測して、落ち着いて対応するという能力が身についていないのである。
血まみれになった顔を手で押さえながら、家に戻ると母の顔色がさっと変わった。後から聞いたところでは「もしや、目が見えなくなったのでは」と肝を潰したそうだ。
町に一軒しかない医者は治療しながら、何度もこう言った。
「あぶなかったねぇ。目に当たらなくてよかった。ほんの1ミリ違っていたら、右の目に入っていたところだった」
あのころは気がつかなかったが、たぶん小学生の顔に大きな傷跡が残ることがわかっていたので、医者は最悪の結果でなくてよかったと強調することで、ぼくの心のケアをしてくれたのだろう。
傷口に当てた白いガーゼがはずれたあとも、ぼくの右のほほにはザックリと切られた太い線がはっきり残った。小倉に転校した後も、友だちからときどき「泣いているの?」と言われた。右目の下に涙の流れた跡がある、とおもわれたのだ。
子どものころ顔にできた深い傷が、その後の自分にどんな影響を与えたのか、よくわからない。だが、あのときの紙一重の差が、逆の結果に転んでいたら、その後の人生は天と地ほどの違いがあったかもしれない。
ときとして人の運命を決めるのは、まさに予期せぬ一瞬である。そして、それはどこで起きるのか、予測もつかない。
いまでも自分の顔の傷跡を見るたびに、オレハ、ナント、ウンガツヨイノダロウ、とおもうことにしている。またカミさんから「そうやって、いつも自分の都合のいいように解釈するんだから」と言われそうだが。
■有刺鉄線も、それを網状にして張った鉄条網もほとんど見かけなくなった。危険防止、進入禁止のために使われる材料そのものが危険物なのだから、そういうモノを作り出す人間とは不思議な動物である。きっとケガをした人はたくさんいるに違いない。
ハエトリグモちゃん、こんにちは ― 2021年06月03日 17時51分
現在の職業は無職。よって稼ぎはゼロ。カミさんはまだ働いているから、言ってみれば、ぼくは女性から食べさせてもらっている「ヒモ」のようなものである。
若いころ何かの小説を読んでいて、「ヒモなるのも悪くはないな」とぼんやり想像したことがある。「髪結いの亭主」なんて言葉もあったなぁ。それが潜在願望として消えずにいたのだろうか、実現したとは言い難いが、いまの身分はそんなようなものだ。
今日も留守番でひとりの時間を過ごしていたら、足音も立てずに、黒い豆粒のようなお客さんがやってきた。
おやおや、よく、いらっしゃいました。壁に張りつくようにして、数本のかぼそい脚を繰り出しては、上に登ったり、降りたり、まわれ右をしたり、ぼくとちがって忙しそうだ。指先で、お尻の近くの壁をポン! とたたいたら、ピョン! と飛んで、落っこちた。
お客様はハエトリグモちゃんである。灰黒色の豆のようなからだ、顔の前で2本の短い脚をチョコンとそろえ、黒くてパッチリした目玉がふたつ。ぞっとするような人相、カタチが多いクモのなかでは、やんちゃ娘というか、まぁ、かわいい方だろう。
子どものころ、ハエトリグモを見つけると、その後を追っていくのがおもしろかった。いつハエをつかまえるか、それをどうやって食べるのか。子ども心にも興味津々で、ぜひとも、決定的な瞬間を見たかった。
ぼくは、ハエトリグモが小さいハエを捕捉する瞬間を見たことがある。
ああ、あそこにハエがいる。おお、近づいたぞ。あ、飛びついた。
それで終わり、だった。戦いのシーンなんてなかった。かわいいフリをしているが、ハエトリグモは足音もなく近づく、一撃必殺の小さな忍者である。
野外での遊びを覚えたころから、クモは役に立つ動物だった。ぼくたち男の子は針金で直径10センチほどの丸い円形をつくり、それを細長い竹の棒の先にとりつけた「ムシ採り棒」をみんな持っていた。
これでどうやって遊ぶのかというと、まず、黒地と金色のストライプが目立つコガネグモの巣を見つける。巣はできるだけ大きいやつがいい。次に、そのクモの巣の糸を針金の円でからめとる。すると、ベタベタにくっつく丸い面ができる。
そいつを木に止まっているセミの背中にペタンと押しつけるのである。ちょうどトリモチのようなもので、セミの羽はベタベタのクモの糸にくっついて、逃げられないのだ。
接着力が強いのは新品のクモの糸で、雨や風にさらされた古いクモの巣は接着能力が落ちる。だから、ぼくはわざとクモの巣を壊して、コガネグモがまた新しく、あの幾何学的な模様の巣をつくる様子をじっと観察しながら、出来上がるのを待っていた。芸術作品の創作過程を見ているようで、ぜんぜん退屈しなかった。
クモの巣にチョウやトンボなどの虫がかかると、虫は必死になって逃げようと暴れるから、その場所を起点にしてクモが張った網は大きく揺れる。コガネグモはその揺れの波動をキャッチした瞬間、波動が広がる中心点に素早く走っていく。獲物をつかまえると尻から大量の白い糸を吐き出しながら、数本の脚を回転させて、あっという間に獲物をグルグル巻きにしてしまう。そして、まるでミイラのように白い包帯で巻かれた袋がクモの巣にぶら下がる。
ぼくは虫をつかまえては、クモの巣に投げて、コガネグモが狩りをする技を食い入るように見ていたものだ。残酷といえばそれまでだが、あのころはエサをやって、大きくさせて、ケンカに強いコガネグモを大事に育てている友だちもいた。
このハエトリグモは自然界のルールの中で生きている。だれもたすけてくれない。自分の力で生きたエサをつかまえるしかない。小さいのに、えらいなぁ、こいつは。
ハエトリグモちゃん、君はいいメッセージを持ってきてくれた。
ぼくは、ひとりの時間を持て余しながら、オレも何かしなくっちゃ、とおもうのである。
■そうだ、写真を撮らなくちゃ、とスマホを手に、さっきまでいたところに行ったら、ハエトリグモはいなくなっていた。探しても見つからない。やっぱり、忍者だ。
若いころ何かの小説を読んでいて、「ヒモなるのも悪くはないな」とぼんやり想像したことがある。「髪結いの亭主」なんて言葉もあったなぁ。それが潜在願望として消えずにいたのだろうか、実現したとは言い難いが、いまの身分はそんなようなものだ。
今日も留守番でひとりの時間を過ごしていたら、足音も立てずに、黒い豆粒のようなお客さんがやってきた。
おやおや、よく、いらっしゃいました。壁に張りつくようにして、数本のかぼそい脚を繰り出しては、上に登ったり、降りたり、まわれ右をしたり、ぼくとちがって忙しそうだ。指先で、お尻の近くの壁をポン! とたたいたら、ピョン! と飛んで、落っこちた。
お客様はハエトリグモちゃんである。灰黒色の豆のようなからだ、顔の前で2本の短い脚をチョコンとそろえ、黒くてパッチリした目玉がふたつ。ぞっとするような人相、カタチが多いクモのなかでは、やんちゃ娘というか、まぁ、かわいい方だろう。
子どものころ、ハエトリグモを見つけると、その後を追っていくのがおもしろかった。いつハエをつかまえるか、それをどうやって食べるのか。子ども心にも興味津々で、ぜひとも、決定的な瞬間を見たかった。
ぼくは、ハエトリグモが小さいハエを捕捉する瞬間を見たことがある。
ああ、あそこにハエがいる。おお、近づいたぞ。あ、飛びついた。
それで終わり、だった。戦いのシーンなんてなかった。かわいいフリをしているが、ハエトリグモは足音もなく近づく、一撃必殺の小さな忍者である。
野外での遊びを覚えたころから、クモは役に立つ動物だった。ぼくたち男の子は針金で直径10センチほどの丸い円形をつくり、それを細長い竹の棒の先にとりつけた「ムシ採り棒」をみんな持っていた。
これでどうやって遊ぶのかというと、まず、黒地と金色のストライプが目立つコガネグモの巣を見つける。巣はできるだけ大きいやつがいい。次に、そのクモの巣の糸を針金の円でからめとる。すると、ベタベタにくっつく丸い面ができる。
そいつを木に止まっているセミの背中にペタンと押しつけるのである。ちょうどトリモチのようなもので、セミの羽はベタベタのクモの糸にくっついて、逃げられないのだ。
接着力が強いのは新品のクモの糸で、雨や風にさらされた古いクモの巣は接着能力が落ちる。だから、ぼくはわざとクモの巣を壊して、コガネグモがまた新しく、あの幾何学的な模様の巣をつくる様子をじっと観察しながら、出来上がるのを待っていた。芸術作品の創作過程を見ているようで、ぜんぜん退屈しなかった。
クモの巣にチョウやトンボなどの虫がかかると、虫は必死になって逃げようと暴れるから、その場所を起点にしてクモが張った網は大きく揺れる。コガネグモはその揺れの波動をキャッチした瞬間、波動が広がる中心点に素早く走っていく。獲物をつかまえると尻から大量の白い糸を吐き出しながら、数本の脚を回転させて、あっという間に獲物をグルグル巻きにしてしまう。そして、まるでミイラのように白い包帯で巻かれた袋がクモの巣にぶら下がる。
ぼくは虫をつかまえては、クモの巣に投げて、コガネグモが狩りをする技を食い入るように見ていたものだ。残酷といえばそれまでだが、あのころはエサをやって、大きくさせて、ケンカに強いコガネグモを大事に育てている友だちもいた。
このハエトリグモは自然界のルールの中で生きている。だれもたすけてくれない。自分の力で生きたエサをつかまえるしかない。小さいのに、えらいなぁ、こいつは。
ハエトリグモちゃん、君はいいメッセージを持ってきてくれた。
ぼくは、ひとりの時間を持て余しながら、オレも何かしなくっちゃ、とおもうのである。
■そうだ、写真を撮らなくちゃ、とスマホを手に、さっきまでいたところに行ったら、ハエトリグモはいなくなっていた。探しても見つからない。やっぱり、忍者だ。
銭湯が恋しい ― 2021年06月04日 15時02分

夜来の雨が降っている。机の横の窓をあけると半袖では少し肌寒い。こうして独りでいると、長いあいだ新型コロナで人に会っていないせいか、裸のつきあいができる銭湯に行きたくなった。よく見かける大型のスーパー銭湯ではなく、学生時代にお世話なった、あの富士山の絵が描いてある町なかの銭湯である。
東京に出て、最初の下宿は大学の北門から歩いて数分のところにあった戸建て住宅の2階の3畳ひと間。洗面所とトイレは1階で、あのころはキッチン、バス付きの部屋なんて、夢のまた夢だった。
隣の部屋との仕切りは茶色のべニア板が1枚。ときどき、ブゥーッと屁のもれる音が聞こえてきた。
なんだ、なんだ、いまの音は。こいつは屁も放(ひ)れないぞ。
ぼくはベニヤ板にそっと触って、よくもまぁ、東京人はこんなに狭い部屋をつくって、田舎の人間から大枚のカネをとって平気なものだと呆れた。
夕方になると洗面器にタオル、石鹸を入れて、下駄を鳴らしながら、近くの銭湯に行くのが日課になった。
なぜだかわからないが、銭湯では知らない人から、よく声をかけられた。そのとき、たいてい「君は九州男児だろ」と言われるのだ。それから「一緒に、メシを食おう」と誘われて、一度も食べたこともない鳥レバーの鍋やビールにありついたことも珍しくなかった。
ある日の夕暮れ、髪の毛を短く刈り込んだ50歳ほどの小柄な人から、同じように声をかけられた。
「×××の学生さんでしょ。もう、食事はすんだの? だったら、わたしのうちにおいでなさい」
家に誘われたのは初めてだった。都電の終点から神田川の横の路地に入り、焼き鳥、ホッピー、おでんなどと書かれた赤ちょうちんの前を通り過ぎて、貸家とおもわれる小体な家に上がった。
道々、話をしながらわかったのは、この人はぼくが通っていた大学の学生食堂の料理長だったのである。
あのころの学生食堂は、たしかカレーが30円か、35円だったとおもう。薄い豚の油肉と玉ねぎが数切れ入っているだけで、ほとんどはカレーの黄色い汁だった。正直言って、学食のメニューの味は上京したばかりのぼくの舌には合わず、どれもあまりおいしくなかった。
そのおいしくない料理をつくっている親分の家に誘われたのだ。
そこで出された料理は覚えていない。だが、小さな食卓に並んだ小鉢や皿はごくふつうの家庭料理で、うす味でおいしかった。すすめられて飲んだ日本酒も旨かった。
もうお名前も忘れてしまったが、その料理長は空手をやっていて、5段とか、6段の腕前ということだった。
「前から歩いてくる人に殺気を感じて、すれ違った後で、失礼ですが、武道をおやりじゃないですか、と尋ねたら、剣道をやっています。あなたも何か武道をやっていらっしゃるでしょ、と言われたことがあってね。わかるんだよね、上段者になると、そういう気配が」
そういう自慢話を聞きながら、食卓からほんの少し離れたところに座って、黙っておとなしく編み物をしていた娘さんが、下を向いたままクスリとわらった。色白で、ふっくら丸い顔だちのかわいい人だった。
実は部屋に入ったときから、彼女のことが気になって仕方なかった。ぼくとほとんど歳が変わらない20歳前後だったろう。服装も若い女性にしては質素で、控え目なたたずまいは、とても東京の人とはおもえなかった。どこかなつかしい親しみを感じた。
見たところ、父と娘のふたり暮らし。そして、ぼくが食べたのは料理長が用意したものではなく、ぜんぶ彼女の手料理だった。
年ごろのかわいい娘がひとりでいるのに、自分の勤め先に入学してきた田舎出のぼくを、自分の家まで誘ってくれた。酒まで飲ませてくれた。
そんなに親切にしてもらったのに、ぼくは最後まで彼女の顔をまともに見ることもなく、名前も聞かず、口もきかず、食べて、飲んで、そのまま辞去した。
あのときのぼくは自分で仕立てた九州男児のイメージを、肩に力を入れて貫き通そうとしていたのだろうか。
■写真は、梅雨の室見川にポツンとひとりでいるオスのコガモ。
東京に出て、最初の下宿は大学の北門から歩いて数分のところにあった戸建て住宅の2階の3畳ひと間。洗面所とトイレは1階で、あのころはキッチン、バス付きの部屋なんて、夢のまた夢だった。
隣の部屋との仕切りは茶色のべニア板が1枚。ときどき、ブゥーッと屁のもれる音が聞こえてきた。
なんだ、なんだ、いまの音は。こいつは屁も放(ひ)れないぞ。
ぼくはベニヤ板にそっと触って、よくもまぁ、東京人はこんなに狭い部屋をつくって、田舎の人間から大枚のカネをとって平気なものだと呆れた。
夕方になると洗面器にタオル、石鹸を入れて、下駄を鳴らしながら、近くの銭湯に行くのが日課になった。
なぜだかわからないが、銭湯では知らない人から、よく声をかけられた。そのとき、たいてい「君は九州男児だろ」と言われるのだ。それから「一緒に、メシを食おう」と誘われて、一度も食べたこともない鳥レバーの鍋やビールにありついたことも珍しくなかった。
ある日の夕暮れ、髪の毛を短く刈り込んだ50歳ほどの小柄な人から、同じように声をかけられた。
「×××の学生さんでしょ。もう、食事はすんだの? だったら、わたしのうちにおいでなさい」
家に誘われたのは初めてだった。都電の終点から神田川の横の路地に入り、焼き鳥、ホッピー、おでんなどと書かれた赤ちょうちんの前を通り過ぎて、貸家とおもわれる小体な家に上がった。
道々、話をしながらわかったのは、この人はぼくが通っていた大学の学生食堂の料理長だったのである。
あのころの学生食堂は、たしかカレーが30円か、35円だったとおもう。薄い豚の油肉と玉ねぎが数切れ入っているだけで、ほとんどはカレーの黄色い汁だった。正直言って、学食のメニューの味は上京したばかりのぼくの舌には合わず、どれもあまりおいしくなかった。
そのおいしくない料理をつくっている親分の家に誘われたのだ。
そこで出された料理は覚えていない。だが、小さな食卓に並んだ小鉢や皿はごくふつうの家庭料理で、うす味でおいしかった。すすめられて飲んだ日本酒も旨かった。
もうお名前も忘れてしまったが、その料理長は空手をやっていて、5段とか、6段の腕前ということだった。
「前から歩いてくる人に殺気を感じて、すれ違った後で、失礼ですが、武道をおやりじゃないですか、と尋ねたら、剣道をやっています。あなたも何か武道をやっていらっしゃるでしょ、と言われたことがあってね。わかるんだよね、上段者になると、そういう気配が」
そういう自慢話を聞きながら、食卓からほんの少し離れたところに座って、黙っておとなしく編み物をしていた娘さんが、下を向いたままクスリとわらった。色白で、ふっくら丸い顔だちのかわいい人だった。
実は部屋に入ったときから、彼女のことが気になって仕方なかった。ぼくとほとんど歳が変わらない20歳前後だったろう。服装も若い女性にしては質素で、控え目なたたずまいは、とても東京の人とはおもえなかった。どこかなつかしい親しみを感じた。
見たところ、父と娘のふたり暮らし。そして、ぼくが食べたのは料理長が用意したものではなく、ぜんぶ彼女の手料理だった。
年ごろのかわいい娘がひとりでいるのに、自分の勤め先に入学してきた田舎出のぼくを、自分の家まで誘ってくれた。酒まで飲ませてくれた。
そんなに親切にしてもらったのに、ぼくは最後まで彼女の顔をまともに見ることもなく、名前も聞かず、口もきかず、食べて、飲んで、そのまま辞去した。
あのときのぼくは自分で仕立てた九州男児のイメージを、肩に力を入れて貫き通そうとしていたのだろうか。
■写真は、梅雨の室見川にポツンとひとりでいるオスのコガモ。
コインランドリーの男たち ― 2021年06月11日 19時22分

朝の天気予報どおり、昼前から雨が落ちてきた。やっぱり、昨日おもいきってカーペットのクリーニングをやってよかった。約5畳分の広さだから自宅では手におえず、毎年、専門業者に頼んでいたのだが、金額がけっこうバカにならない。そこで幾重にも折りたたんで、車で3、4分のコインランドリーまで持って行った。
朝10時ごろの駐車場には、すでに車が4台停まっていた。うち1台の運転席では60歳過ぎぐらいの男性が本を広げていた。ああやって、じっと車の中でクリーニングが終わるまで待機しているのだろう。窓を開けていても、暑かろうに。ご苦労なことだ。
ここのコインランドリーはテレビCMでもお馴染みで、カーペットや布団などの大きくてかさばるものも丸洗いできるのが売りである。
店内にはぼくと同じか、もっと年上の男性が3人、壁際と窓際のベンチに離れて腰掛けていた。全員が白髪まじりの高齢者である。こんなところに年寄りの男たちがかたまっていた。
所在なさそうにボーッとしている人も、本を読んでいる人も、押し黙ったまま洗濯、乾燥が終わるのを待っている。やれやれ、ぼくもそのなかのひとりに加わるのだ。
使いたい大型の洗濯機はあいにく塞がっていて、タイマーには黄色の「4」の数字が出ていた。あと4分で終るというサインである。ここは待つしかない。
時間が来て、洗濯機は静かになった。だが、だれも近づかない。いるべき人は店から出て行ったのだろうか、3分経っても帰ってこない。5分が過ぎて、とうとうこちらのシビレが切れた。
洗濯機には、使用上の注意とか、いろいろ書かれたパネルがにぎやかに張ってある。なかに「洗濯が終了しても、洗濯物をとりだしに来ない場合、次の人がとりだすことがあります」といった意味の告知があった。
ちょうど係の女の人がいたので、了解をとって、ぼくは他人が使っていた大型洗濯機の投入口を開けた。なかは下着やシャツ、靴下などが色とりどりに、ぐちゃぐちゃに入れ混じって、濡れてもつれた布のゴミの山のようである。
その洗濯物の塊りなかに右腕を差し伸べて、ヨイショとつかんだ指先を見たら、薄いブルーのブラジャーが引っかかっていた。その下には桃色のパンティも見えた。
さては、ぼくの前に使っていた客は女性だったのか。
いかん! だが、もはやこの状況は、いかんともしようがない。
ここは顔色を変えずに、あくまでも機械的にやるしかない。男モノのパンツも靴下も、もつれまくったシャツも右から左へと、備えつけの大きな洗濯籠にほうりこんだ。その量たるや半端ではない。想像するに4人家族の1週間分の汚れ物をまとめて洗ったのだろう。
洗濯槽の中を全部とりだして、ぼくはカーペットを押し込んだ。半額セール中で、料金は400円。たった400円で、大きなカーペットがザブザブ丸洗いできる。なんだか、うんと得をした気分である。自動投入された洗剤が泡立って、勢いよくカーペットを洗い始めた様子を見て、ぼくも待ちの体勢に入った。
それから3、4分後。髪の毛がすっかり後退した、これまたぼくと同世代の男性が現れた。そして、たぶん店の女の人から言われたのだろう、ぼくに向かって「すみません、ご迷惑をおかけしました。ちょっと戻ってくるのが遅くなりまして」と頭を下げた。
ぼくがとりだした洗濯物の主は、女性ではなかった。またしても男の年寄りだった。言葉遣いから服装まできちんとしていて、現役時代はそれなりの地位の人だったに違いない。恰幅がよくて、落ち着いた物腰には、まだ現役のシャープさを感じさせた。きっと最近まで勤めに出ていたのだろう。
やむを得ない事情があったとはいえ、70歳のぼくは、目の前にいるご本人に断りもなく、あの薄いブルーのブラジャーにさわってしまったのだ。ぼくが洗濯籠に積みあげた衣類の状態を一瞥(いちべつ)すれば、そのことはたちどころにわかる。
だが、それをやられた相手も、男としてのメンツがあるだろう。こういうときは、お互いに知らぬふりをするのがいちばんいい。
ぼくは軽く会釈して、用意してきた本を読んでいた。そして、その男性は大量の洗濯物を手際よく大型の乾燥器にほうり込むと、またふらりと出て行った。そう、それがいいよね。
ウィークデーのコインランドリーは、リタイアして時間を持て余している高齢男性の溜り場だった。ぼくも手にあまるカーペットを抱きかかえて、案内板を見ながらセットして、片隅にひっそりと控え、声もなく皆さんの仲間入りをしたのである。
朝10時ごろの駐車場には、すでに車が4台停まっていた。うち1台の運転席では60歳過ぎぐらいの男性が本を広げていた。ああやって、じっと車の中でクリーニングが終わるまで待機しているのだろう。窓を開けていても、暑かろうに。ご苦労なことだ。
ここのコインランドリーはテレビCMでもお馴染みで、カーペットや布団などの大きくてかさばるものも丸洗いできるのが売りである。
店内にはぼくと同じか、もっと年上の男性が3人、壁際と窓際のベンチに離れて腰掛けていた。全員が白髪まじりの高齢者である。こんなところに年寄りの男たちがかたまっていた。
所在なさそうにボーッとしている人も、本を読んでいる人も、押し黙ったまま洗濯、乾燥が終わるのを待っている。やれやれ、ぼくもそのなかのひとりに加わるのだ。
使いたい大型の洗濯機はあいにく塞がっていて、タイマーには黄色の「4」の数字が出ていた。あと4分で終るというサインである。ここは待つしかない。
時間が来て、洗濯機は静かになった。だが、だれも近づかない。いるべき人は店から出て行ったのだろうか、3分経っても帰ってこない。5分が過ぎて、とうとうこちらのシビレが切れた。
洗濯機には、使用上の注意とか、いろいろ書かれたパネルがにぎやかに張ってある。なかに「洗濯が終了しても、洗濯物をとりだしに来ない場合、次の人がとりだすことがあります」といった意味の告知があった。
ちょうど係の女の人がいたので、了解をとって、ぼくは他人が使っていた大型洗濯機の投入口を開けた。なかは下着やシャツ、靴下などが色とりどりに、ぐちゃぐちゃに入れ混じって、濡れてもつれた布のゴミの山のようである。
その洗濯物の塊りなかに右腕を差し伸べて、ヨイショとつかんだ指先を見たら、薄いブルーのブラジャーが引っかかっていた。その下には桃色のパンティも見えた。
さては、ぼくの前に使っていた客は女性だったのか。
いかん! だが、もはやこの状況は、いかんともしようがない。
ここは顔色を変えずに、あくまでも機械的にやるしかない。男モノのパンツも靴下も、もつれまくったシャツも右から左へと、備えつけの大きな洗濯籠にほうりこんだ。その量たるや半端ではない。想像するに4人家族の1週間分の汚れ物をまとめて洗ったのだろう。
洗濯槽の中を全部とりだして、ぼくはカーペットを押し込んだ。半額セール中で、料金は400円。たった400円で、大きなカーペットがザブザブ丸洗いできる。なんだか、うんと得をした気分である。自動投入された洗剤が泡立って、勢いよくカーペットを洗い始めた様子を見て、ぼくも待ちの体勢に入った。
それから3、4分後。髪の毛がすっかり後退した、これまたぼくと同世代の男性が現れた。そして、たぶん店の女の人から言われたのだろう、ぼくに向かって「すみません、ご迷惑をおかけしました。ちょっと戻ってくるのが遅くなりまして」と頭を下げた。
ぼくがとりだした洗濯物の主は、女性ではなかった。またしても男の年寄りだった。言葉遣いから服装まできちんとしていて、現役時代はそれなりの地位の人だったに違いない。恰幅がよくて、落ち着いた物腰には、まだ現役のシャープさを感じさせた。きっと最近まで勤めに出ていたのだろう。
やむを得ない事情があったとはいえ、70歳のぼくは、目の前にいるご本人に断りもなく、あの薄いブルーのブラジャーにさわってしまったのだ。ぼくが洗濯籠に積みあげた衣類の状態を一瞥(いちべつ)すれば、そのことはたちどころにわかる。
だが、それをやられた相手も、男としてのメンツがあるだろう。こういうときは、お互いに知らぬふりをするのがいちばんいい。
ぼくは軽く会釈して、用意してきた本を読んでいた。そして、その男性は大量の洗濯物を手際よく大型の乾燥器にほうり込むと、またふらりと出て行った。そう、それがいいよね。
ウィークデーのコインランドリーは、リタイアして時間を持て余している高齢男性の溜り場だった。ぼくも手にあまるカーペットを抱きかかえて、案内板を見ながらセットして、片隅にひっそりと控え、声もなく皆さんの仲間入りをしたのである。
マテ貝をいただく ― 2021年06月12日 10時28分

昨日の昼過ぎ、息子が「パートのおばちゃんがくれた」とマテ貝を持って帰った。
おばちゃんはマテ貝がたくさんいる浜を知っている。そして、海を見ながら、この鞘(さや)のような貝をとるのが大好きという。
鍬を片手に潮が引いた砂浜の表面を削り取って、マテ貝のいる小さな穴を見つける。そこにひとつまみの塩を落とす。すると、穴の中からピョコンとかわいい頭が出てくる。それがおもしろくて、次から次に穴を探して、とても食べきれない量をとる。そこで、息子が働いている和食の店に持ち込んで、「はい。おすそわけよ。好きなだけとって」となるのだ。
夜、大量のマテ貝をフライパンに並べて、たっぷりのバターで焼いた。貝殻の形とおなじように細長い身がふっくらとして、弾力もあって、ビールのつまみに最高である。ムシャムシャ食べながら、ふと、こんなシーンがあったなと、おもった。
このマテ貝は海から拾ってきたので、タダである。出かけて行くガソリン代などは別にして、そのもの自体のお代は無料だ。そこから昔はタダの食べ物があふれていたことをおもいだした。
ぼくが生まれた宮崎県延岡市から五ヶ瀬川を遡った山あいの小さな町にはダムがあった。星山ダムという。町の名前は八戸。「星山」と「八戸」。このふたつの名称から、どんなところだったのか、おおよその見当がつくだろう。
ここには小学校にあがる前まで住んでいたが、とんでもない田舎だった。その代わり、五ヶ瀬川には大きなアユやウナギがいっぱいいた。父は漁の名人で、わが家ではアユとウナギはいつもタダだった。それこそ、いやになるぐらい食べて育った。山に行けば、いたるところにクリの木があって、クリの実もタダだった。
鹿児島でも、アユとウナギはタダだった。家の下を流れている幅4、5メートルほどの川には、体長3センチから10センチぐらいのウナギの子どもがウジャウジャいた。木の葉や草がちぎれて、川辺にチリのように積もったのを、手ですくって砂地に移すと、ウナギのあかちゃんが何匹もチョロチョロと動いて、早く大きくなれよと手の平に乗せたものである。ぼくらはそうやって育ったのだ。
イセエビもタダだった。朝から味噌汁にして食べていた。夜、釣り好きの父がどういう技を使ったのか、聞きそびれてしまったが、防波堤からつかまえてくるのだ。
水イカも、クロダイ(メジナ)、チヌ(クロダイ)もそうだった。アサリなんて、子どもがそのへんの木の棒を使って掘ってくるもので、お金を出して買う商品ではなかった。
浜辺であそぶときは、そこらに干してあるイリコの生干しがおやつだった。山に行けばタケノコ、ツワ、フキ、アケビ、山芋(自然薯)もみんなタダ。人サマの畑の柿、ミカン、桃、ビワも、ぼくたちのものだった。カミさんの郷里のアユも、イワナも、ヤマメも、いろんな山菜も……。
あれは30代のころだったか、世界中の海産物を主力商品としている某大手食品会社の販促企画部と1年半にわたって、種々の販売データに基づく販路開拓のマーケティングを勉強して、それを社内研修用のハンドブックとビデオにまとめたことがある。
そのとき同社の社員がおもしろい話をしてくれた。
ある日、彼はふだんから気になっていることを先輩社員に聞いたという。
「うちの会社は、どうして儲かっているのですか」
先輩の答えは単純明快だった。
「そりゃあ、魚はみんなタダだからだよ。海で勝手に育ったものをとってきて、値段をつけて売るのが、うちの会社の商売だ。魚は自然のモノだろ。元手がかかっていない。マグロもカツオもサンマも、みんタダだからな」
獲る漁業から育てる漁業へと大転換した今日では、こんな会話は成り立たなくなってしまった。でも、たまには、こんなことを考えてもいいような気がする。
ぼくは「自然が育ててくれたから、こいつはタダだ」という食事が大好きである。その方がはるかにおいしいとおもうのは、やっぱり育ちのせいだろうか。
おばちゃんはマテ貝がたくさんいる浜を知っている。そして、海を見ながら、この鞘(さや)のような貝をとるのが大好きという。
鍬を片手に潮が引いた砂浜の表面を削り取って、マテ貝のいる小さな穴を見つける。そこにひとつまみの塩を落とす。すると、穴の中からピョコンとかわいい頭が出てくる。それがおもしろくて、次から次に穴を探して、とても食べきれない量をとる。そこで、息子が働いている和食の店に持ち込んで、「はい。おすそわけよ。好きなだけとって」となるのだ。
夜、大量のマテ貝をフライパンに並べて、たっぷりのバターで焼いた。貝殻の形とおなじように細長い身がふっくらとして、弾力もあって、ビールのつまみに最高である。ムシャムシャ食べながら、ふと、こんなシーンがあったなと、おもった。
このマテ貝は海から拾ってきたので、タダである。出かけて行くガソリン代などは別にして、そのもの自体のお代は無料だ。そこから昔はタダの食べ物があふれていたことをおもいだした。
ぼくが生まれた宮崎県延岡市から五ヶ瀬川を遡った山あいの小さな町にはダムがあった。星山ダムという。町の名前は八戸。「星山」と「八戸」。このふたつの名称から、どんなところだったのか、おおよその見当がつくだろう。
ここには小学校にあがる前まで住んでいたが、とんでもない田舎だった。その代わり、五ヶ瀬川には大きなアユやウナギがいっぱいいた。父は漁の名人で、わが家ではアユとウナギはいつもタダだった。それこそ、いやになるぐらい食べて育った。山に行けば、いたるところにクリの木があって、クリの実もタダだった。
鹿児島でも、アユとウナギはタダだった。家の下を流れている幅4、5メートルほどの川には、体長3センチから10センチぐらいのウナギの子どもがウジャウジャいた。木の葉や草がちぎれて、川辺にチリのように積もったのを、手ですくって砂地に移すと、ウナギのあかちゃんが何匹もチョロチョロと動いて、早く大きくなれよと手の平に乗せたものである。ぼくらはそうやって育ったのだ。
イセエビもタダだった。朝から味噌汁にして食べていた。夜、釣り好きの父がどういう技を使ったのか、聞きそびれてしまったが、防波堤からつかまえてくるのだ。
水イカも、クロダイ(メジナ)、チヌ(クロダイ)もそうだった。アサリなんて、子どもがそのへんの木の棒を使って掘ってくるもので、お金を出して買う商品ではなかった。
浜辺であそぶときは、そこらに干してあるイリコの生干しがおやつだった。山に行けばタケノコ、ツワ、フキ、アケビ、山芋(自然薯)もみんなタダ。人サマの畑の柿、ミカン、桃、ビワも、ぼくたちのものだった。カミさんの郷里のアユも、イワナも、ヤマメも、いろんな山菜も……。
あれは30代のころだったか、世界中の海産物を主力商品としている某大手食品会社の販促企画部と1年半にわたって、種々の販売データに基づく販路開拓のマーケティングを勉強して、それを社内研修用のハンドブックとビデオにまとめたことがある。
そのとき同社の社員がおもしろい話をしてくれた。
ある日、彼はふだんから気になっていることを先輩社員に聞いたという。
「うちの会社は、どうして儲かっているのですか」
先輩の答えは単純明快だった。
「そりゃあ、魚はみんなタダだからだよ。海で勝手に育ったものをとってきて、値段をつけて売るのが、うちの会社の商売だ。魚は自然のモノだろ。元手がかかっていない。マグロもカツオもサンマも、みんタダだからな」
獲る漁業から育てる漁業へと大転換した今日では、こんな会話は成り立たなくなってしまった。でも、たまには、こんなことを考えてもいいような気がする。
ぼくは「自然が育ててくれたから、こいつはタダだ」という食事が大好きである。その方がはるかにおいしいとおもうのは、やっぱり育ちのせいだろうか。
橋の下のダンボールの家 ― 2021年06月15日 10時21分

梅雨どきにしては雨の日が少ない。室見川も浅い流れが続いている。
だが、この川はひとたび大雨が降ると、とたんに水かさが増して、川沿いの遊歩道を軽々とのみ込んでしまう。
あのときもそうだった。写真の橋の下で悲劇があってから、10年近くになるだろうか。
当時、「失われた20年」といわれた長期不況のあおりで、博多駅構内の片隅や地下街の階段の踊り場などにホームレスの人がいた。コンクリートの床にダンボールや新聞紙を広げている場所が、帰る家のない彼らの現住所だった。
この室見川の橋の下にも、そういう男性がいた。雨に濡れる心配はないし、歩いてすぐのところには公衆トイレと野外調理場が完備されて、いつでも水道が使える環境が好まれたのだろう。
その人は40代か、50歳ぐらい。遊歩道から堤防の土手を子どもの背丈ほど登った橋台と橋桁(はしげた)の間の狭い空間を住まいにしていた。そこならウォーキングやジョギングをしている人から覗かれることもなく、自分だけの空間を確保できる。周囲には目に見えないバリアが張りめぐらされているようで、だれも近づく人はいなかった。
異変の始まりは、ホームレスの男性がひとりから2人になり、3人になって、そのあたりがだんだん活気づいてきたころからだった。夕方になると男たちの笑い声が聞こえ、ビール缶や焼酎の1升ビンも目につくようになった。
それからが早かった。お前も来いよと知り合いに声でもかけたのだろうか。アッという間に3人が4人になり、最後は6、7人の集団に膨れ上がった。
そして、ついに遊歩道の脇に自分たちの家をつくり始めたのだ。
ぼくが見たときには、もう6割方、完成していた。ブルーシートの床の上に、支柱となる角材が四隅から等間隔に立てられ、強風がきても倒れないように筋交いも組まれていた。だれか住居の設計図でも書いたのだろうか。
4つの壁面はすべて分厚いダンボールが釘で留められ、ちゃんと出入り口のドアも、窓のスペースも確保してあった。ダンボールの板がないのは天井だけで、そこはわざわざ手を加えなくても、頑丈な橋の床板が屋根の代わり、という寸法である。床の広さはゆうに12、3畳ほどもあったろうか。照明は、街路灯の光が頼りのようだった。
屋外には調理場のスペースもあって、七輪、炭、卓上コンロ、大小の鍋、フライパン、やかん、まな板、包丁といった調理用具から、茶わん、皿なども置かれていた。たぶん、一人ひとりが持ち寄ったのであろう。晴れた日にはくたびれた布団や毛布なども干されて、その一画は集団生活の匂いが日増しに充満していた。
室見川は二級河川で、国土交通省の管轄下にある。もちろん、遊歩道に建造物を建てるのは違法だ。だが、ダンボールの家はお構いなしに造られていった。彼らにとって、この長方形の建屋は安心して過ごせる家でもあり、また世間の目から身を守ってくれる城でもあったろう。
夕方、室見川の川べりを散歩していると、毎晩のようにそこだけにぎやかな宴会場になっていた。煮炊きの煙が上がり、皆さん、赤い顔をして、ワイワイやっていらっしゃる。酒の肴に、活きのいい川魚でも食べたくなったのだろうか、目の前の流れに釣り糸を下げている人もいた。
すぐ横を人が歩こうが、走ろうが、まるで眼中にないようだった。その背中は、何をして食べているのか、家族はいるのか、出身はどこなのか、そんなことはお前たちの知ったことではないと言っているようにも見えた。
ここに至るまでには、それぞれ人に言いたくない事情もあるだろう。そのことを口には出さなくても、ひとつ屋根の下で寝起きを共にしている彼らは、どこかで響き合うものを感じていたのかもしれない。傍から見た感じでは、どなたも橋の下の共同生活をそれなりに受け入れているようだった。
この異様な光景がぼくの目にもすっかり馴染みになったころ、長い梅雨に入った。そして、ある晩、雷がひっきりなしに落ちる音と共に、大粒の雨が凄まじい勢いで落ちてきた。
梅雨の豪雨は短時間でも雨量が尋常ではない。水に濡れたらヘナヘナになって、簡単に破れてしまうダンボールの家の住人たちが、夜中にどんな状況に直面することになるか、容易に想像できた。
荷物を持って、無事に避難できるだろうか。どこへ逃げるつもりだろうか。みんな一緒に行くのだろうか。
ぼくは目が冴えて、濁流が遊歩道まで上がらなければいいが、と案じることしかできなかった。
それから2、3日経った梅雨の晴れ間、どうにも気になって室見川に行った。
遠くから見ても、橋の下には何にもなかった。現場に行くと、わずかな痕跡も残っていなかった。ホームレスの人もいない。人も、家も、すべて消えてしまった。
室見川は川底の石がきれいに洗われて、何事もなかったかのように、透き通った水がゆったりと流れていた。
あれは夢だったのだろうか……
川の流れを見ているうちに、遠い記憶の底から、ふと、方丈記の一節が浮かんだ。
-行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし-
天気予報によれば、今日は昼過ぎから雨という。万物流転の法則をおもう梅雨の空である。
だが、この川はひとたび大雨が降ると、とたんに水かさが増して、川沿いの遊歩道を軽々とのみ込んでしまう。
あのときもそうだった。写真の橋の下で悲劇があってから、10年近くになるだろうか。
当時、「失われた20年」といわれた長期不況のあおりで、博多駅構内の片隅や地下街の階段の踊り場などにホームレスの人がいた。コンクリートの床にダンボールや新聞紙を広げている場所が、帰る家のない彼らの現住所だった。
この室見川の橋の下にも、そういう男性がいた。雨に濡れる心配はないし、歩いてすぐのところには公衆トイレと野外調理場が完備されて、いつでも水道が使える環境が好まれたのだろう。
その人は40代か、50歳ぐらい。遊歩道から堤防の土手を子どもの背丈ほど登った橋台と橋桁(はしげた)の間の狭い空間を住まいにしていた。そこならウォーキングやジョギングをしている人から覗かれることもなく、自分だけの空間を確保できる。周囲には目に見えないバリアが張りめぐらされているようで、だれも近づく人はいなかった。
異変の始まりは、ホームレスの男性がひとりから2人になり、3人になって、そのあたりがだんだん活気づいてきたころからだった。夕方になると男たちの笑い声が聞こえ、ビール缶や焼酎の1升ビンも目につくようになった。
それからが早かった。お前も来いよと知り合いに声でもかけたのだろうか。アッという間に3人が4人になり、最後は6、7人の集団に膨れ上がった。
そして、ついに遊歩道の脇に自分たちの家をつくり始めたのだ。
ぼくが見たときには、もう6割方、完成していた。ブルーシートの床の上に、支柱となる角材が四隅から等間隔に立てられ、強風がきても倒れないように筋交いも組まれていた。だれか住居の設計図でも書いたのだろうか。
4つの壁面はすべて分厚いダンボールが釘で留められ、ちゃんと出入り口のドアも、窓のスペースも確保してあった。ダンボールの板がないのは天井だけで、そこはわざわざ手を加えなくても、頑丈な橋の床板が屋根の代わり、という寸法である。床の広さはゆうに12、3畳ほどもあったろうか。照明は、街路灯の光が頼りのようだった。
屋外には調理場のスペースもあって、七輪、炭、卓上コンロ、大小の鍋、フライパン、やかん、まな板、包丁といった調理用具から、茶わん、皿なども置かれていた。たぶん、一人ひとりが持ち寄ったのであろう。晴れた日にはくたびれた布団や毛布なども干されて、その一画は集団生活の匂いが日増しに充満していた。
室見川は二級河川で、国土交通省の管轄下にある。もちろん、遊歩道に建造物を建てるのは違法だ。だが、ダンボールの家はお構いなしに造られていった。彼らにとって、この長方形の建屋は安心して過ごせる家でもあり、また世間の目から身を守ってくれる城でもあったろう。
夕方、室見川の川べりを散歩していると、毎晩のようにそこだけにぎやかな宴会場になっていた。煮炊きの煙が上がり、皆さん、赤い顔をして、ワイワイやっていらっしゃる。酒の肴に、活きのいい川魚でも食べたくなったのだろうか、目の前の流れに釣り糸を下げている人もいた。
すぐ横を人が歩こうが、走ろうが、まるで眼中にないようだった。その背中は、何をして食べているのか、家族はいるのか、出身はどこなのか、そんなことはお前たちの知ったことではないと言っているようにも見えた。
ここに至るまでには、それぞれ人に言いたくない事情もあるだろう。そのことを口には出さなくても、ひとつ屋根の下で寝起きを共にしている彼らは、どこかで響き合うものを感じていたのかもしれない。傍から見た感じでは、どなたも橋の下の共同生活をそれなりに受け入れているようだった。
この異様な光景がぼくの目にもすっかり馴染みになったころ、長い梅雨に入った。そして、ある晩、雷がひっきりなしに落ちる音と共に、大粒の雨が凄まじい勢いで落ちてきた。
梅雨の豪雨は短時間でも雨量が尋常ではない。水に濡れたらヘナヘナになって、簡単に破れてしまうダンボールの家の住人たちが、夜中にどんな状況に直面することになるか、容易に想像できた。
荷物を持って、無事に避難できるだろうか。どこへ逃げるつもりだろうか。みんな一緒に行くのだろうか。
ぼくは目が冴えて、濁流が遊歩道まで上がらなければいいが、と案じることしかできなかった。
それから2、3日経った梅雨の晴れ間、どうにも気になって室見川に行った。
遠くから見ても、橋の下には何にもなかった。現場に行くと、わずかな痕跡も残っていなかった。ホームレスの人もいない。人も、家も、すべて消えてしまった。
室見川は川底の石がきれいに洗われて、何事もなかったかのように、透き通った水がゆったりと流れていた。
あれは夢だったのだろうか……
川の流れを見ているうちに、遠い記憶の底から、ふと、方丈記の一節が浮かんだ。
-行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし-
天気予報によれば、今日は昼過ぎから雨という。万物流転の法則をおもう梅雨の空である。
「極めて純粋な散文」を読む ― 2021年06月23日 15時12分

買おうか、買うまいか。悩みながらアマゾンのネット販売に注文した本が届いた。『昭和文学全集36 井伏鱒二 太宰治集』(角川書店)、発行は昭和29年5月15日。ぼくが満4歳のときに出た本である。
1ページ3段組み、400ページのこの本の中で、読みたいのは井伏の『貸間あり』の一篇。理由は、先ごろ手にした小林秀雄の『考えるヒント』の中に、「井伏君の『貸間あり』」の一篇を発見したからである。
『考えるヒント』はすいぶん前にも読んだが、井伏鱒二の稿はまったく記憶になかった。
小林は井伏の友人で、彼が弥生書房から『小林秀雄集』を発行するときに、井伏に向かって「解説を書いてくれ。3行でいいよ。お前さんを信用しているから」と言った仲である。
その小林が『貸間あり』を「極めて純粋な散文なのだ」と評している。そこから彼独特の思索へと発展するのだが、ぼくの技量でその内容を紹介する作業は原本をそのまま書き写すしかないので、ここでは触れない。
井伏の作品は何篇か読んでいるが、とにもかくにも、「きわめて純粋な散文」とはどういうものなのか、知りたくなったのだ。それは、あの名高い井伏の文体がどうやって生まれたかを考えるヒントにもなるだろうとおもった。
福岡市図書館の図書リストをネットで検索すると、28年に鎌倉書房から出版された『貸間あり』を読めるのは2冊だけだった。そのうちの1冊が冒頭の本。もう一冊は井伏鱒二選集で、単行本はなかった。
そこでアマゾンに出ている1冊99円、プラス送料350円の合計499円で、約70年も前の古本を買い求めた次第である。
よし、いいものが手に入ったぞと、小口に茶色のシミがついたページを勢いよくめくった。昔風に活字が小さくて、旧字体の漢字もなつかしい。紙面全体が薄茶色に紙焼けしているので、全部の文字がかすれている。
昼食をはさんで、一気に読み終えた。
はて、この書き下ろしのどこが「極めて純粋な散文」なのか、正直なところ、よくわからない。しかし、本当に、ぼくは真から、純粋な散文の核心をわかりたい、できれることなら、会得したいとおもう。
もともと井伏鱒二の文体には、あこがれにも似た敬意を感じている。だから、この小説も何度も読み返すだろう。たぶん読むよりも、彼の文章をそのまま筆写する方がいいだろうとはわかっているのだが……。(いまはそういう面倒なことをする根気がなくなった)
本を読んでいると、ごくささいなことに興味をひかれることがある。
『貸間あり』では、オヤッ、という文章に当たった。この小説の主人公が同じ貸間の住人から「珍しい本を読んでるね」と声をかけられるところがそれで、その本とは德田秋聲訳のプーシキン作『大尉の娘』の翻訳本だった。むろん、原文はこんな味もそっけもない表現ではないが。
『大尉の娘』は、若いころの井伏が図書館で読んで、感激したという特別な本である。彼はある対談の席で、「感激して、こんなものがあるのかと驚いてね。こんないいものがあるとはね。あれが文学をぼくに勧めたようなものです」とまで言っている。
その『大尉の娘』を、井伏自身が創りだした小説のなかで、主人公が読んでいた、とさらりと書いてしまう。こういう個人的な体験をユーモラスに差しはさむセンスが、いかにも井伏らしい。
井伏が目をかけた三浦哲郎もいちばん好きな小説に『大尉の娘』をあげている。三浦のその言葉を知ったとき、ぼくは「いくら尊敬する大先輩とはいえ、そこまで追随して恥ずかしくはないのか」といささか興ざめした。
だが、あの人のようになりたいという人の後ろを追いかけているうちに、目標とする人物のふるまいや発想などに少しずつ似てくるのは、自然の道理なのかもしれない。ぼく自身もおもいあたる節がいくつもある。
そういえば昔の作家たちの人間関係の妙はどうだろう。
漱石は志賀直哉をほめて、志賀は小林秀雄をかわいがり、小林は井伏を信頼し、その井伏には太宰治が甘えて、まだ下手だったころの原稿を何度も持ち込んでいる。また小林秀雄を先生と畏敬していた隆慶一郎は、小林が亡くなった後、「やっと怖い人がいなくなった」と小説のデビュー作『吉原御免状』を書いた。
本を読んでいると、いつもこんなふうに想像のリレーが始まって、とめどもなく脱線してしまう。
ひとつわかったことは、ぼくが気ままに書く散文は、文字通り、散り散りの思い事の、寄せ集めでしかない、ということだった。
1ページ3段組み、400ページのこの本の中で、読みたいのは井伏の『貸間あり』の一篇。理由は、先ごろ手にした小林秀雄の『考えるヒント』の中に、「井伏君の『貸間あり』」の一篇を発見したからである。
『考えるヒント』はすいぶん前にも読んだが、井伏鱒二の稿はまったく記憶になかった。
小林は井伏の友人で、彼が弥生書房から『小林秀雄集』を発行するときに、井伏に向かって「解説を書いてくれ。3行でいいよ。お前さんを信用しているから」と言った仲である。
その小林が『貸間あり』を「極めて純粋な散文なのだ」と評している。そこから彼独特の思索へと発展するのだが、ぼくの技量でその内容を紹介する作業は原本をそのまま書き写すしかないので、ここでは触れない。
井伏の作品は何篇か読んでいるが、とにもかくにも、「きわめて純粋な散文」とはどういうものなのか、知りたくなったのだ。それは、あの名高い井伏の文体がどうやって生まれたかを考えるヒントにもなるだろうとおもった。
福岡市図書館の図書リストをネットで検索すると、28年に鎌倉書房から出版された『貸間あり』を読めるのは2冊だけだった。そのうちの1冊が冒頭の本。もう一冊は井伏鱒二選集で、単行本はなかった。
そこでアマゾンに出ている1冊99円、プラス送料350円の合計499円で、約70年も前の古本を買い求めた次第である。
よし、いいものが手に入ったぞと、小口に茶色のシミがついたページを勢いよくめくった。昔風に活字が小さくて、旧字体の漢字もなつかしい。紙面全体が薄茶色に紙焼けしているので、全部の文字がかすれている。
昼食をはさんで、一気に読み終えた。
はて、この書き下ろしのどこが「極めて純粋な散文」なのか、正直なところ、よくわからない。しかし、本当に、ぼくは真から、純粋な散文の核心をわかりたい、できれることなら、会得したいとおもう。
もともと井伏鱒二の文体には、あこがれにも似た敬意を感じている。だから、この小説も何度も読み返すだろう。たぶん読むよりも、彼の文章をそのまま筆写する方がいいだろうとはわかっているのだが……。(いまはそういう面倒なことをする根気がなくなった)
本を読んでいると、ごくささいなことに興味をひかれることがある。
『貸間あり』では、オヤッ、という文章に当たった。この小説の主人公が同じ貸間の住人から「珍しい本を読んでるね」と声をかけられるところがそれで、その本とは德田秋聲訳のプーシキン作『大尉の娘』の翻訳本だった。むろん、原文はこんな味もそっけもない表現ではないが。
『大尉の娘』は、若いころの井伏が図書館で読んで、感激したという特別な本である。彼はある対談の席で、「感激して、こんなものがあるのかと驚いてね。こんないいものがあるとはね。あれが文学をぼくに勧めたようなものです」とまで言っている。
その『大尉の娘』を、井伏自身が創りだした小説のなかで、主人公が読んでいた、とさらりと書いてしまう。こういう個人的な体験をユーモラスに差しはさむセンスが、いかにも井伏らしい。
井伏が目をかけた三浦哲郎もいちばん好きな小説に『大尉の娘』をあげている。三浦のその言葉を知ったとき、ぼくは「いくら尊敬する大先輩とはいえ、そこまで追随して恥ずかしくはないのか」といささか興ざめした。
だが、あの人のようになりたいという人の後ろを追いかけているうちに、目標とする人物のふるまいや発想などに少しずつ似てくるのは、自然の道理なのかもしれない。ぼく自身もおもいあたる節がいくつもある。
そういえば昔の作家たちの人間関係の妙はどうだろう。
漱石は志賀直哉をほめて、志賀は小林秀雄をかわいがり、小林は井伏を信頼し、その井伏には太宰治が甘えて、まだ下手だったころの原稿を何度も持ち込んでいる。また小林秀雄を先生と畏敬していた隆慶一郎は、小林が亡くなった後、「やっと怖い人がいなくなった」と小説のデビュー作『吉原御免状』を書いた。
本を読んでいると、いつもこんなふうに想像のリレーが始まって、とめどもなく脱線してしまう。
ひとつわかったことは、ぼくが気ままに書く散文は、文字通り、散り散りの思い事の、寄せ集めでしかない、ということだった。
暑気払いに、冷や汁をつくる ― 2021年06月29日 14時11分

よし、材料はみんなあるな、やるか。
思いたって、冷や汁をつくった。
蒸し暑くて、気力が続かない。こんなときは、食う、寝る、からだを動かす、の三つが気力回復の手段になる。側に話し相手がいれば、気分転換になるのだが、ぼくのようにひとりで留守番生活をしていると、自分で何かしらの変化をつくっていくしかない。手っ取り早いのは料理である。
冷や汁の作り方は簡単だ。
ぼく流のやり方を乱暴にいうと、ピーナッツ、白ごま、焼いたアジの開きの身、それに味噌をすり鉢ですりつぶして、すり鉢の内側に均等にこすりつける。これをガスコンロの上に逆さまに置いて、火であぶる。
味噌に焼き色がついたら、昆布の出汁で溶いて、刻んだキューリ、シソ、ミョウガを入れて、冷蔵庫で冷やすだけ。ご飯にぶっかければ、うまくて、栄養もたっぷりで、おかわりしたくなる。
一般的には、手でつぶした豆腐も入れるのだが、わが家では入れない。ちなみに、ぼくはピーナッツと白ゴマの下処理にはミキサーを使っている。
ぼくが初めて冷や汁を食べたのは、中学にあがったとき。母の郷里の波当津で、祖母が昼飯につくってくれた。
その日の朝方、いちばん年上の叔父や従兄たちと一緒に、海辺まで散歩に行った。防波堤に着くと、叔父はポケットから釣り針と糸をとりだして、そのへんにあった細い竹に結んで、簡便な釣り竿をつくった。小遣いを持たない子どもころ、ぼくたちもそうやってつくっていた。オモリは古クギや小石で代用し、ウキは木っ端をくくりつけていたものだ。
「○○兄ちゃん、いまから魚釣りをするの?」
「ああ、婆さんに、冷や汁をつくってもらおう」
潮がひいた防波堤の下のコンクリートの床には、あちこちで巻貝がゴソゴソと動きまわっていた。ヤドカリである。いろんな形や大きさの巻貝を仮の家にしたものがいっぱいいた。
叔父はそのひとつをつまむと小石で貝の殻を割った。そして、裸になったヤドカリの固い頭をむしり捨てて、やわらかい下半身を針につけると、海に向かって軽く竿をふった。たちまち10センチ前後の薄いピンク色やクリーム色、青っぽい雑魚がぽんぽん釣れた。魚たちはまったくスレていなくて、百発百中の入れ食いである。
「こんな小さな魚で、冷や汁をつくるの?」
「おう。白身の魚だから、冷や汁にするとうまいんじゃ」
このとき、ぼくはヤドカリが魚釣りのエサになることを覚えた。魚たちは海の生き物を食べている。だから海に行けば、そこには魚たちの好物のエサがいる。そんな生き物たちの関係も、そうやって体験で学んだものだ。実際に子どもころ、釣りのエサなんて、買ったことがなかった。
波当津の防波堤は、いちばん年の若い叔父の身近な漁場だった。そのころの防波堤は先端の下が波の力でえぐれていて、ちいさな洞穴のようになっていた。叔父はパンツ一枚になると、水中メガネをつけて、右手には手製の銛を持って、堤防からザブーンと飛び込むのである。
細かな白い泡が浮き上がってくるなかを、叔父は両脚の裏で水を蹴りながら、ぐんぐん防波堤の下に潜っていく。その様子は透き通った水の中ではっきり見えた。そして、上がってくるときは、30センチオーバーのイガメ(ブダイ)を仕留めているのだった。
叔父たちは「波当津の海は、俺の生け簀だ」と言っていた。沖の磯であろうが、海底の岩場の構造と魚の習性を知り尽くしていて、どこに魚がいるか、手に取るように知っていた。
その息子たちを育てた祖父は、「じいちゃんはな、海に潜って、長く息をつぐために、子どもころから道を歩くときには電信柱と電信柱の間はずっと息を止めて、どこまで我慢できるかやっていたんだぞ」と幼かったころのぼくに教えてくれた。
若いころは軽く15尋(ひろ)も潜って、イガメをいっぺんに3匹、獲ったこともあったという。2匹は並んでいるところを銛で一刺にし、驚いて逃げた一匹は自分をめがけてきたので、わきの下でつかまえたと言っていた。
ゲームよりも数倍も、数十倍もおもしろい贈り物をたくさんくれて、みんないなくなってしまった。
ぼくがつくる冷や汁には、いろんな味がこもっている。
思いたって、冷や汁をつくった。
蒸し暑くて、気力が続かない。こんなときは、食う、寝る、からだを動かす、の三つが気力回復の手段になる。側に話し相手がいれば、気分転換になるのだが、ぼくのようにひとりで留守番生活をしていると、自分で何かしらの変化をつくっていくしかない。手っ取り早いのは料理である。
冷や汁の作り方は簡単だ。
ぼく流のやり方を乱暴にいうと、ピーナッツ、白ごま、焼いたアジの開きの身、それに味噌をすり鉢ですりつぶして、すり鉢の内側に均等にこすりつける。これをガスコンロの上に逆さまに置いて、火であぶる。
味噌に焼き色がついたら、昆布の出汁で溶いて、刻んだキューリ、シソ、ミョウガを入れて、冷蔵庫で冷やすだけ。ご飯にぶっかければ、うまくて、栄養もたっぷりで、おかわりしたくなる。
一般的には、手でつぶした豆腐も入れるのだが、わが家では入れない。ちなみに、ぼくはピーナッツと白ゴマの下処理にはミキサーを使っている。
ぼくが初めて冷や汁を食べたのは、中学にあがったとき。母の郷里の波当津で、祖母が昼飯につくってくれた。
その日の朝方、いちばん年上の叔父や従兄たちと一緒に、海辺まで散歩に行った。防波堤に着くと、叔父はポケットから釣り針と糸をとりだして、そのへんにあった細い竹に結んで、簡便な釣り竿をつくった。小遣いを持たない子どもころ、ぼくたちもそうやってつくっていた。オモリは古クギや小石で代用し、ウキは木っ端をくくりつけていたものだ。
「○○兄ちゃん、いまから魚釣りをするの?」
「ああ、婆さんに、冷や汁をつくってもらおう」
潮がひいた防波堤の下のコンクリートの床には、あちこちで巻貝がゴソゴソと動きまわっていた。ヤドカリである。いろんな形や大きさの巻貝を仮の家にしたものがいっぱいいた。
叔父はそのひとつをつまむと小石で貝の殻を割った。そして、裸になったヤドカリの固い頭をむしり捨てて、やわらかい下半身を針につけると、海に向かって軽く竿をふった。たちまち10センチ前後の薄いピンク色やクリーム色、青っぽい雑魚がぽんぽん釣れた。魚たちはまったくスレていなくて、百発百中の入れ食いである。
「こんな小さな魚で、冷や汁をつくるの?」
「おう。白身の魚だから、冷や汁にするとうまいんじゃ」
このとき、ぼくはヤドカリが魚釣りのエサになることを覚えた。魚たちは海の生き物を食べている。だから海に行けば、そこには魚たちの好物のエサがいる。そんな生き物たちの関係も、そうやって体験で学んだものだ。実際に子どもころ、釣りのエサなんて、買ったことがなかった。
波当津の防波堤は、いちばん年の若い叔父の身近な漁場だった。そのころの防波堤は先端の下が波の力でえぐれていて、ちいさな洞穴のようになっていた。叔父はパンツ一枚になると、水中メガネをつけて、右手には手製の銛を持って、堤防からザブーンと飛び込むのである。
細かな白い泡が浮き上がってくるなかを、叔父は両脚の裏で水を蹴りながら、ぐんぐん防波堤の下に潜っていく。その様子は透き通った水の中ではっきり見えた。そして、上がってくるときは、30センチオーバーのイガメ(ブダイ)を仕留めているのだった。
叔父たちは「波当津の海は、俺の生け簀だ」と言っていた。沖の磯であろうが、海底の岩場の構造と魚の習性を知り尽くしていて、どこに魚がいるか、手に取るように知っていた。
その息子たちを育てた祖父は、「じいちゃんはな、海に潜って、長く息をつぐために、子どもころから道を歩くときには電信柱と電信柱の間はずっと息を止めて、どこまで我慢できるかやっていたんだぞ」と幼かったころのぼくに教えてくれた。
若いころは軽く15尋(ひろ)も潜って、イガメをいっぺんに3匹、獲ったこともあったという。2匹は並んでいるところを銛で一刺にし、驚いて逃げた一匹は自分をめがけてきたので、わきの下でつかまえたと言っていた。
ゲームよりも数倍も、数十倍もおもしろい贈り物をたくさんくれて、みんないなくなってしまった。
ぼくがつくる冷や汁には、いろんな味がこもっている。
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