里山-多技能の世界がおもしろい ― 2021年08月05日 09時42分

猛々(たけだけ)しい勢いで、葛(くず)のつるが伸びている。ほうっておくと2、30メートルも先まで伸びて行く。ものすごい生命力である。
少し家並の途切れたあたりの道路の脇が密生した葛のマントでおおわれているところがある。その奥はひっそりとした暗い闇のようで、立ち入る人はいない。
竹林に春がきて、タケノコが生えてきても、壁のようにおおいかぶさっているマントの向こう側は暗い竹やぶだから、タケノコを採る人もいない。なかに踏み込むと立ち枯れした茶色い竹が斜めになったままだったり、転がっていたりする。それは管理の行き届いていない杉林と同じようなものだ。人の手が入らないと、こうやって山は見る間に荒れていくのである。
こういう光景を目にするたびに、里山文化の荒廃を身近に感じてしまう。
子どもころは山すその雑木林も、竹林も、ぼくたちの格好の遊び場だった。木立ちの中は明るくて、風が吹くといっせいに木々は白い葉うらを見せて、風と一緒にさざ波のように走っていく。まるで風の動きが目に見えるようだった。そのときぼくらは風の子どもの、風小僧になるのだ。
みんなポケットに肥後守を持っていた。小さくとも刃先は日本刀と同じく鋼(はがね)で、錆びないように砥石でせっせと研いだものだ。肥後守で竹を切り、チャンバラごっこの刀を作った。笛を作って吹いた。釣り竿を作って、港の岸でアジを釣った。
そうやってぼくらは里山文化の一端にふれていた。
里山文化は多技能の世界である。人々は山からとってきた腐葉土や草や木を、畑やたんぼの肥料にした。牛や馬を飼い、それらの小屋や小川に掛ける橋も自力でつくった。麦や稲の藁(わら)で縄や籠もつくった。山ではウサギやイノシシ、ヤマドリ、キジを、川ではアユやモヅクガニ、ウナギを獲った。
農家、大工、猟師などの技術をあわせ持った万能型の人たちによって支えられていたのが里山文化である。多技能を身につけている点では、海の民も同じだろう。
いまでは多くのところで、里山文化は崩壊してしまった。
数年前、ぼくは東京の知人からイノシシやシカを追い払う製品の普及を依頼されて、甘木市郊外の農家を訪れたことがある。
その自宅のすぐ裏山はすでにシカたちに占領されていた。10年前までの裏山は、春になると桃の花のピンク一色に染まっていたという。だが、何十年も育ててきた自慢の桃の木はシカの食害で、ほぼ全滅していた。
農家のお婆さんによると「シカは目の前まで平気でやってくる。大きくて、怖い。ひとりではとても山に入れない」という。ご主人は足腰がおもうように動かず、「シカのどこが怖いんだ」と老妻を笑って叱るだけだった。
別の農家の高齢者の男性は「シカを追い払うために、花火のロケット弾を撃っている。でも、数メートル先まで逃げるのはそのときだけ。仕方がないから、ほかの麦畑を守るために、山ぎわの麦畑の一反はシカ用にして、好きなだけ食べさせている」と言っていた。
シカやイノシシの食害は深刻だと言っても、都会の人にはピンと来ないだろう。だが、現場に行ってみると、宮崎県の山奥の五ヶ瀬町では「ヘリコプターで山の上を飛んだら、シカが何百頭も走って、山が揺れるようだった」という声を聞いた。
筑豊のある町では、サルが家の中まで侵入して、冷蔵庫まで開ける被害にたまらず、猟師が鉄砲で駆除したことがあった。すると、たちまち動物保護団体から避難の嵐。猟師だって、「サルを撃つと、苦しむ姿が人間そっくりだから、本当は撃ちたくない」のだ。このような苦悩する声がどこまで届いているだろうか。
町の担当者は頭を下げて、サルの駆除を中止せざるを得なかった。北の国ではクマが街中に出没し、福岡市でもサルの大捕物があった。今度は何が出てくるのやら。いずれも原因の行きつくところは、里山文化が消えたからだ。
コロナ禍の下、いまキャンプが流行っていると聞く。ぼくたち家族もいろんなところでキャンプをしたから、その楽しさはわかる。何でも自分で工夫してみる多技能のおもしろさを、子どもたちに実践で伝えるチャンスだった。
目の前にある葛のつるだって、ロープ代わりに使えるし、縄跳びの縄にもなる。里山文化の多技能の世界への小さな入り口はいたるところにある。
■写真は自宅のすぐ近くで撮影したもの。もうすぐ金網は葛の葉で見えなくなる。
少し家並の途切れたあたりの道路の脇が密生した葛のマントでおおわれているところがある。その奥はひっそりとした暗い闇のようで、立ち入る人はいない。
竹林に春がきて、タケノコが生えてきても、壁のようにおおいかぶさっているマントの向こう側は暗い竹やぶだから、タケノコを採る人もいない。なかに踏み込むと立ち枯れした茶色い竹が斜めになったままだったり、転がっていたりする。それは管理の行き届いていない杉林と同じようなものだ。人の手が入らないと、こうやって山は見る間に荒れていくのである。
こういう光景を目にするたびに、里山文化の荒廃を身近に感じてしまう。
子どもころは山すその雑木林も、竹林も、ぼくたちの格好の遊び場だった。木立ちの中は明るくて、風が吹くといっせいに木々は白い葉うらを見せて、風と一緒にさざ波のように走っていく。まるで風の動きが目に見えるようだった。そのときぼくらは風の子どもの、風小僧になるのだ。
みんなポケットに肥後守を持っていた。小さくとも刃先は日本刀と同じく鋼(はがね)で、錆びないように砥石でせっせと研いだものだ。肥後守で竹を切り、チャンバラごっこの刀を作った。笛を作って吹いた。釣り竿を作って、港の岸でアジを釣った。
そうやってぼくらは里山文化の一端にふれていた。
里山文化は多技能の世界である。人々は山からとってきた腐葉土や草や木を、畑やたんぼの肥料にした。牛や馬を飼い、それらの小屋や小川に掛ける橋も自力でつくった。麦や稲の藁(わら)で縄や籠もつくった。山ではウサギやイノシシ、ヤマドリ、キジを、川ではアユやモヅクガニ、ウナギを獲った。
農家、大工、猟師などの技術をあわせ持った万能型の人たちによって支えられていたのが里山文化である。多技能を身につけている点では、海の民も同じだろう。
いまでは多くのところで、里山文化は崩壊してしまった。
数年前、ぼくは東京の知人からイノシシやシカを追い払う製品の普及を依頼されて、甘木市郊外の農家を訪れたことがある。
その自宅のすぐ裏山はすでにシカたちに占領されていた。10年前までの裏山は、春になると桃の花のピンク一色に染まっていたという。だが、何十年も育ててきた自慢の桃の木はシカの食害で、ほぼ全滅していた。
農家のお婆さんによると「シカは目の前まで平気でやってくる。大きくて、怖い。ひとりではとても山に入れない」という。ご主人は足腰がおもうように動かず、「シカのどこが怖いんだ」と老妻を笑って叱るだけだった。
別の農家の高齢者の男性は「シカを追い払うために、花火のロケット弾を撃っている。でも、数メートル先まで逃げるのはそのときだけ。仕方がないから、ほかの麦畑を守るために、山ぎわの麦畑の一反はシカ用にして、好きなだけ食べさせている」と言っていた。
シカやイノシシの食害は深刻だと言っても、都会の人にはピンと来ないだろう。だが、現場に行ってみると、宮崎県の山奥の五ヶ瀬町では「ヘリコプターで山の上を飛んだら、シカが何百頭も走って、山が揺れるようだった」という声を聞いた。
筑豊のある町では、サルが家の中まで侵入して、冷蔵庫まで開ける被害にたまらず、猟師が鉄砲で駆除したことがあった。すると、たちまち動物保護団体から避難の嵐。猟師だって、「サルを撃つと、苦しむ姿が人間そっくりだから、本当は撃ちたくない」のだ。このような苦悩する声がどこまで届いているだろうか。
町の担当者は頭を下げて、サルの駆除を中止せざるを得なかった。北の国ではクマが街中に出没し、福岡市でもサルの大捕物があった。今度は何が出てくるのやら。いずれも原因の行きつくところは、里山文化が消えたからだ。
コロナ禍の下、いまキャンプが流行っていると聞く。ぼくたち家族もいろんなところでキャンプをしたから、その楽しさはわかる。何でも自分で工夫してみる多技能のおもしろさを、子どもたちに実践で伝えるチャンスだった。
目の前にある葛のつるだって、ロープ代わりに使えるし、縄跳びの縄にもなる。里山文化の多技能の世界への小さな入り口はいたるところにある。
■写真は自宅のすぐ近くで撮影したもの。もうすぐ金網は葛の葉で見えなくなる。
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