散文を書き終えた2022年03月12日 10時28分

 ようやく散文(小説)を書き終えた。400字詰めの原稿用紙に換算して120枚。少し寝かして置いて、再度推敲するが、微調整ですましたい。触り出したら切りがない。
 気分は次の散文に向かっていて、また新しい登場人物を産み出して、どこを舞台にして、物語がどう展開していくのか、そちらの楽しみを味わいたい。個人的な生きがいなので、高望みをせずに、好きなようにやれるのがおもしろいところだ。
 そろそろ写本も再開しなくては。ノートに人の書いた文章を写すだけだが、あの『暮らしの手帳』の初代編集長・花森安治は亡くなる直前まで、名文家といわれる作家の原稿をノートに書き写していた。上手な原稿を書くには、これがいちばんの練習になる。
 数か月前から、ぼくが鉛筆でノートに書き写した作家は、井伏鱒二、森鴎外、夏目漱石、志賀直哉、梶井基次郎、石牟礼道子といった「定番」ばかり。みな故人である。どういうわけか、いま活躍している人の文章を写す気にはなれない。
 週刊誌の編集部にいたころ、エース記者のTさんが「東海林さだおは(文章が)うまいなぁ」と話してくれた。君も東海林さだおでも読んで、原稿書きの勉強したらどうだね、と暗に教えてくれたのだ。四苦八苦して、やっと書き上げた短い原稿がデスクの手で赤字だらけになっていたころのことである。
 すぐ数冊を買って読んだ。『ショージ君のごきげん日記』、『ショージ君の日本拝見』、『ショージ君のぐうたら旅行』など。
 どうでもいいようなことを、ああでもない、こうでもないとおもしろおかしく書いてある。例えば、タクアン一切れでも、読者の心理をくすぐりながら、微に入り、細にわたりで、読んでいるうちに、タクアンの匂いがしてきて、噛む音まで聞こえてきて、いますぐにでもタクアンを齧(かじ)りたくなるのだ。これは達人だ、と感心した。軽妙な文章の力にはまってしまい、十冊以上は読んだろうか。
 だが、本当の衝撃は数年後にやってきた。
 新聞だったか、雑誌だったかに、東海林さだおの文章(筆力)が取り上げられていたのだ。そこで目にしたのは、「彼は簡潔な文章を書くために、中島敦の文章を勉強している」という一文だった。「勉強している」とは、「書き写している」ということである。
 あんなにひとつのことをだらだらと、よくもまぁ、ひねくりまわして書くものだと感心していたら、本人はまったく逆のお手本を使って鍛錬していたのだ。舞台裏のもうひとつの顔を見たようだった。本当に、人は上っ面(つら)だけではわからないものだ。
 そこで、また発見した。
 そうか、東海林さだおは、毎日新聞の四コマまんが『アサッテ君』を連載している(すでに休止)。そこに載せるまんがは物語の枝葉を極限まで削っている。だから簡潔な文章の中島敦なのだ、と。ぼくがさっそく手元にあった中島敦の短編集を取り出して、『李陵』、『山月記』などを読み直したのは言うまでもない。
 梶井基次郎は31歳、中島敦は33歳で亡くなった(共に東大卒)。そして、ふたりの作品は、ふたりの死後に高く評されて、今日に至っている。その波瀾の人生の中身はともかく、生きている時間も簡潔だった。だが、亡くなった後のふたりの余韻の大きさは計り知れないものがある。
 久しぶりにブログを書いた。ウクライナのこと、プーチンのこと、いろんな思いがかけめぐる。それは張作霖爆死事件や満州国建国などの過去の日本軍の行為と重なって映る。散文を書きながら、こんなことをしていていいのかと、ふと立ち止まることがある。

■散文のなかに、鹿児島の港町にいた小学生時代のことを書いた。よく遊んだ。写真はマツの木。茶色の棒状はめしべ。これをへし折ると松脂(マツヤニ)が出てくる。二本の針のような葉を採って、その根元に粘り気のある松脂を塗り付ける。そして、池に浮かべると松脂が溶け出して、虹色の糸を引きながら木の葉はすーっと滑って行く。
 よくやった遊びである。いまの子どもたちは知っているだろうか。

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