『夢』の書を取り出す ― 2023年01月05日 09時50分

2023年、幕開けの日のことを書いておく。
これが楽しみなんだよね。おおぶりのお椀に、小山のように盛られた雑煮。カミさんの故郷の味である。
ザクザクザクザク。
元日の朝、包丁の刃がまな板をリズムよくたたく音で目が覚めた。
「大根を切っているの?」
「うん。ちょっと待っててね」
「うれしいなぁ。ありがと」
白くて太い大根、赤いニンジンを千切りにして、茶色のゴボウはささがきに、シイタケ、コンニャク、里芋も薄めに切って、いりこで出汁をとった大鍋に入れる。
海の幸も加える。甘塩のサケの切り身3、4枚をさっと湯でてほうり込み、最後にしょうゆで味をととのえる。雪の深い地元ではイクラも入れるのだが、新潟のようにどこにでもあるわけではないので、そこは我慢する。
餅は別に準備する。お湯をはった鉢に四角い餅を並べて、レンジでチン! ふんわりした真っ白な熱々を食べたい分だけ、お椀に入れる。その上にいろんな冬の根野菜とサケの旨みが染み出た汁を豪勢に盛りかける。おいしそうなしょう油の匂いのする湯気がゆらゆらと立ちのぼる。
野菜と魚、餅、出汁のバランスが絶妙の、この越後地方の雑煮が大好きである。毎朝食べても飽きない。
正月三が日も終わり、大量につくった雑煮の鍋も空っぽになった。取り立ててのお節料理は用意しなかったが、これで充分に満足のスタートだった。
さて、元日に届いた年賀状のなかに、元東京新聞経済部の大先輩から届いた一葉があって、そこには次の手書きの文章が添えてあった。
-新作はでき上がりましたか。次々に新しい分野に進出。若さがうらやましい限り。ご活躍を。-
新作とは、ぼくのつたない散文のこと。昨年、先輩へ出した年賀状に、下手な小説に挑戦中と添え書きしたので、どうやら楽しみにしているらしい。
意外だったのは、その後に続く「若さがうらやましい限り。ご活躍を」の一文である。72歳になっても、まだまだ若いんだから、と声をかけてくださる人がいる。(先輩はぼくの病気のことは何もご存じない)
それで思い出したことがあって、歩いて4、5分の貸倉庫にしまってある「あるモノ」を取り出しに行った。
大きく伸びやかな『夢』のひと文字。
ぼくから志願して、ただひとりだけの「門下生」にしていただいた故田原隆法務大臣の達筆の書である。会社勤めを辞めて、独立したときに書いてくださった。
長い間、福岡市内のマンションの事務所に飾っていたのだが、18年前に起きた福岡西方沖地震(2005年3月20日)で額縁ごと落下して、はめていたガラス板が粉々に割れてしまい、『夢』と書かれた半紙はずっと小箱にしまっておいた。
その『夢』の書をみたくなったのだ。
一気に田原先生の笑顔と出会ったときからの思い出がよみがえってきた。
(先生、ありがとうございます。ああ、やらなくては。)
正月を迎えるたびに歳をとっていくが、60歳を過ぎたころから、年齢なんて二つや三つ違おうが、そんなことはどうだっていいようになった。
気持ちが若いか、老け込んでいるか。年齢によって出てくる差はそれに尽きる。その違いは隠しようもなく、見た目にも、話す言葉にもはっきり表れる。やる気の熱量だってそうである。
力勁(づよ)く、生き生きとした『夢』の書も、万年筆で「若さがうらやましい限り」と書かれた年賀状もいただいてうれしかった。新潟のめでたい雑煮でパワーもついて、ほしかった体重もほんの少し増えた。
新年早々、ぼくはスイシュに立ち向かう新しい勇気をもらっている。
■昨日は抗がん剤治療の第2クールの初日で、点滴の日だった。
ところが詳しい経緯は省くが、抗がん剤の点滴は1クール2回が基本なのに、本来やるはずの第1クールの2回目は、医者の判断で取り止めになった。そして今回もまた延期になった。データに基づく中止と順延の理由は、ぼく自身も納得している。
若い担当の医師は「最初の薬がよく効いている証拠です。焦らずに、いい方向で考えましょう」という。
ま、それならいいか。
心臓にペースメーカーをつけている友人からは、「若い医者がとっても優秀。とにかく信じて受け入れることが一番のようです」という新年挨拶のメールも届いた。
これが楽しみなんだよね。おおぶりのお椀に、小山のように盛られた雑煮。カミさんの故郷の味である。
ザクザクザクザク。
元日の朝、包丁の刃がまな板をリズムよくたたく音で目が覚めた。
「大根を切っているの?」
「うん。ちょっと待っててね」
「うれしいなぁ。ありがと」
白くて太い大根、赤いニンジンを千切りにして、茶色のゴボウはささがきに、シイタケ、コンニャク、里芋も薄めに切って、いりこで出汁をとった大鍋に入れる。
海の幸も加える。甘塩のサケの切り身3、4枚をさっと湯でてほうり込み、最後にしょうゆで味をととのえる。雪の深い地元ではイクラも入れるのだが、新潟のようにどこにでもあるわけではないので、そこは我慢する。
餅は別に準備する。お湯をはった鉢に四角い餅を並べて、レンジでチン! ふんわりした真っ白な熱々を食べたい分だけ、お椀に入れる。その上にいろんな冬の根野菜とサケの旨みが染み出た汁を豪勢に盛りかける。おいしそうなしょう油の匂いのする湯気がゆらゆらと立ちのぼる。
野菜と魚、餅、出汁のバランスが絶妙の、この越後地方の雑煮が大好きである。毎朝食べても飽きない。
正月三が日も終わり、大量につくった雑煮の鍋も空っぽになった。取り立ててのお節料理は用意しなかったが、これで充分に満足のスタートだった。
さて、元日に届いた年賀状のなかに、元東京新聞経済部の大先輩から届いた一葉があって、そこには次の手書きの文章が添えてあった。
-新作はでき上がりましたか。次々に新しい分野に進出。若さがうらやましい限り。ご活躍を。-
新作とは、ぼくのつたない散文のこと。昨年、先輩へ出した年賀状に、下手な小説に挑戦中と添え書きしたので、どうやら楽しみにしているらしい。
意外だったのは、その後に続く「若さがうらやましい限り。ご活躍を」の一文である。72歳になっても、まだまだ若いんだから、と声をかけてくださる人がいる。(先輩はぼくの病気のことは何もご存じない)
それで思い出したことがあって、歩いて4、5分の貸倉庫にしまってある「あるモノ」を取り出しに行った。
大きく伸びやかな『夢』のひと文字。
ぼくから志願して、ただひとりだけの「門下生」にしていただいた故田原隆法務大臣の達筆の書である。会社勤めを辞めて、独立したときに書いてくださった。
長い間、福岡市内のマンションの事務所に飾っていたのだが、18年前に起きた福岡西方沖地震(2005年3月20日)で額縁ごと落下して、はめていたガラス板が粉々に割れてしまい、『夢』と書かれた半紙はずっと小箱にしまっておいた。
その『夢』の書をみたくなったのだ。
一気に田原先生の笑顔と出会ったときからの思い出がよみがえってきた。
(先生、ありがとうございます。ああ、やらなくては。)
正月を迎えるたびに歳をとっていくが、60歳を過ぎたころから、年齢なんて二つや三つ違おうが、そんなことはどうだっていいようになった。
気持ちが若いか、老け込んでいるか。年齢によって出てくる差はそれに尽きる。その違いは隠しようもなく、見た目にも、話す言葉にもはっきり表れる。やる気の熱量だってそうである。
力勁(づよ)く、生き生きとした『夢』の書も、万年筆で「若さがうらやましい限り」と書かれた年賀状もいただいてうれしかった。新潟のめでたい雑煮でパワーもついて、ほしかった体重もほんの少し増えた。
新年早々、ぼくはスイシュに立ち向かう新しい勇気をもらっている。
■昨日は抗がん剤治療の第2クールの初日で、点滴の日だった。
ところが詳しい経緯は省くが、抗がん剤の点滴は1クール2回が基本なのに、本来やるはずの第1クールの2回目は、医者の判断で取り止めになった。そして今回もまた延期になった。データに基づく中止と順延の理由は、ぼく自身も納得している。
若い担当の医師は「最初の薬がよく効いている証拠です。焦らずに、いい方向で考えましょう」という。
ま、それならいいか。
心臓にペースメーカーをつけている友人からは、「若い医者がとっても優秀。とにかく信じて受け入れることが一番のようです」という新年挨拶のメールも届いた。
買い取り業者の査定の衝撃 ― 2023年01月13日 14時05分

よろこんだり、切なくなったり、世の中の冷厳な現実に割り切れなさが残る体験だった。
「ほら、お父さん、みてよ。33,500円ももらえるんだって」
机に向かっていたら、カミさんがにじり寄ってきて、スマホの画面を突き出した。当たり籤(くじ)でも引いたような、うれしくてたまらない顔をしている。
「あのネックレスと指輪に、こんな値段がついたよ」
零コンマ数秒後、今度は悲鳴が飛び出した。
「えーっ、たったの200円!? うそでしょ!」
「着物のことか?」
「そう。200円だって。あんまりだとおもわない」
「まるでゴミだな」
ここまでのぼくたち夫婦の会話を聞いて、何の話かおわかりになった人はきっと同じ経験者に違いあるまい。話をわかりやすくするために、時計の針を3日前に戻す。
兼ねてから、カミさんは押し入れにしまい込んでいた着物と帯の処分に困っていた。
このまま持っていても、もう着ることはない。できればだれかにもらってほしいのだが、ふたりの息子に嫁のくる見込みはどこにもない。かわいい孫娘の成長なんて、夢のまた夢である。
大切にしまっていた着物は成人前に母親から買ってもらった羽織、訪問着と帯。それに東京で働きはじめて、自分で買いそろえた訪問着と帯のセット。
気に入って買ったという訪問着は絹の白地にきれいな花々の刺繍が咲いている。帯は古典的な模様が華やかなで、男のぼくの目からみても、手放すのが惜しいほどだ。箱から出してひろげたとき、日本の伝統美が息を吹き返したようだった。
この着物をカミさんがまとった姿をみたことがない。せめて一度でも、日本女性らしい、あでやかな立ち姿をこの目に焼きつけておきたかった。
女ごころと着物には男どもには無縁の物語があるようで、若い日のカミさんはコツコツ貯金をして、精いっぱい背伸びをして、当時のお金で10数万円もしたという。
余裕のある家庭なら、ごくふつうの両親からのお祝い品だろうが、自分の細腕で安い給料のなかから訪問着と帯をそろえた彼女の計画性と根性に、プロポーズしたときの通帳の残高は3百数十円しかなかったぼくは、ただただ尊敬するしかないのだ。
聞けば、どちらも一度も袖を通したことがないという。つまり、新品のまま40年以上も箪笥の奥で眠っていたのである。
「ちょっと若向きの柄のようだけど、訪問着なら流行りすたりはそんなにないだろうから、このままとっておけば」
「でも、着ることはないしね。それに少し染みもついているの」
「そうか。でも、こんなきれいな着物を手放すのは、なんだか切ないな」
「こっちのネックネスも処分しようかな。これ18金よね」
「どれどれ、みせてごらん」
金色に輝く細いネックレスは2本あって、虫眼鏡で目を凝らしてみると確かに18金である。一本は昔つきあっていた彼氏から「お金に困ったときは売ったらいいよ」といわれてプレゼントされたという。
「元カレからの贈り物か。大事な思い出のものだろ。処分していいのかよ」
「いいわよ」
好きな男ができたら、昔のことは早く忘れて、新しい恋に生きるのよ、とだれかさんから聞いたことがある。あっさりしているというか、実にあっけらかん、としたものだ。
「母親からもらった指輪も出そうかな。これ、18金だけど、金メッキだって」
と、まぁ、こんな会話があったのである。
それから3日が過ぎて、買い取り業者から買い取り価格の通知のメールが来たのが、つい先刻、というわけだ。
それにしても、あの着物と帯がたったの200円とは。
まさかそのままゴミに出すわけではあるまい。買い取りを商売にしている業者にも言い分はあるのだろうが、百円玉ふたつぽっちで買いたたいて、なんともないのだろうか。外国に出せば、日本の着物や帯の美しさに感動して、きっと何百倍の値段で買う人はいくらでもいるだろうに。そうじゃないのかなぁ。
こんな捨て値をつけられるぐらいなら、人が通る道端に茣蓙(ござ)でも敷いて、一点1,000円にして、「現品限り、大処分超特価。純和風のインテリアにもどうぞ」とやった方がよほど身銭になりそうだ。
などなど、いろんなことが頭のなかを駆けめぐる。
手間をかけて丹念に着物や帯をつくった人。その着物に出会って、あこがれを持って、がんばって買った人。娘のために無理をして買い求めた人。日本の伝統を大切に受け継いでいる、そんなこんなの人々の熱い思いのこもった着物と帯がたったの200円。
ぼくたちは、日本文化の伝統や人のまごころをおもうよりも、カネ、カネ、カネの即物的で、味気ない時代に生きている、ということか。
■写真はせめてもの思い出にと、カミさんが撮影した。
「ほら、お父さん、みてよ。33,500円ももらえるんだって」
机に向かっていたら、カミさんがにじり寄ってきて、スマホの画面を突き出した。当たり籤(くじ)でも引いたような、うれしくてたまらない顔をしている。
「あのネックレスと指輪に、こんな値段がついたよ」
零コンマ数秒後、今度は悲鳴が飛び出した。
「えーっ、たったの200円!? うそでしょ!」
「着物のことか?」
「そう。200円だって。あんまりだとおもわない」
「まるでゴミだな」
ここまでのぼくたち夫婦の会話を聞いて、何の話かおわかりになった人はきっと同じ経験者に違いあるまい。話をわかりやすくするために、時計の針を3日前に戻す。
兼ねてから、カミさんは押し入れにしまい込んでいた着物と帯の処分に困っていた。
このまま持っていても、もう着ることはない。できればだれかにもらってほしいのだが、ふたりの息子に嫁のくる見込みはどこにもない。かわいい孫娘の成長なんて、夢のまた夢である。
大切にしまっていた着物は成人前に母親から買ってもらった羽織、訪問着と帯。それに東京で働きはじめて、自分で買いそろえた訪問着と帯のセット。
気に入って買ったという訪問着は絹の白地にきれいな花々の刺繍が咲いている。帯は古典的な模様が華やかなで、男のぼくの目からみても、手放すのが惜しいほどだ。箱から出してひろげたとき、日本の伝統美が息を吹き返したようだった。
この着物をカミさんがまとった姿をみたことがない。せめて一度でも、日本女性らしい、あでやかな立ち姿をこの目に焼きつけておきたかった。
女ごころと着物には男どもには無縁の物語があるようで、若い日のカミさんはコツコツ貯金をして、精いっぱい背伸びをして、当時のお金で10数万円もしたという。
余裕のある家庭なら、ごくふつうの両親からのお祝い品だろうが、自分の細腕で安い給料のなかから訪問着と帯をそろえた彼女の計画性と根性に、プロポーズしたときの通帳の残高は3百数十円しかなかったぼくは、ただただ尊敬するしかないのだ。
聞けば、どちらも一度も袖を通したことがないという。つまり、新品のまま40年以上も箪笥の奥で眠っていたのである。
「ちょっと若向きの柄のようだけど、訪問着なら流行りすたりはそんなにないだろうから、このままとっておけば」
「でも、着ることはないしね。それに少し染みもついているの」
「そうか。でも、こんなきれいな着物を手放すのは、なんだか切ないな」
「こっちのネックネスも処分しようかな。これ18金よね」
「どれどれ、みせてごらん」
金色に輝く細いネックレスは2本あって、虫眼鏡で目を凝らしてみると確かに18金である。一本は昔つきあっていた彼氏から「お金に困ったときは売ったらいいよ」といわれてプレゼントされたという。
「元カレからの贈り物か。大事な思い出のものだろ。処分していいのかよ」
「いいわよ」
好きな男ができたら、昔のことは早く忘れて、新しい恋に生きるのよ、とだれかさんから聞いたことがある。あっさりしているというか、実にあっけらかん、としたものだ。
「母親からもらった指輪も出そうかな。これ、18金だけど、金メッキだって」
と、まぁ、こんな会話があったのである。
それから3日が過ぎて、買い取り業者から買い取り価格の通知のメールが来たのが、つい先刻、というわけだ。
それにしても、あの着物と帯がたったの200円とは。
まさかそのままゴミに出すわけではあるまい。買い取りを商売にしている業者にも言い分はあるのだろうが、百円玉ふたつぽっちで買いたたいて、なんともないのだろうか。外国に出せば、日本の着物や帯の美しさに感動して、きっと何百倍の値段で買う人はいくらでもいるだろうに。そうじゃないのかなぁ。
こんな捨て値をつけられるぐらいなら、人が通る道端に茣蓙(ござ)でも敷いて、一点1,000円にして、「現品限り、大処分超特価。純和風のインテリアにもどうぞ」とやった方がよほど身銭になりそうだ。
などなど、いろんなことが頭のなかを駆けめぐる。
手間をかけて丹念に着物や帯をつくった人。その着物に出会って、あこがれを持って、がんばって買った人。娘のために無理をして買い求めた人。日本の伝統を大切に受け継いでいる、そんなこんなの人々の熱い思いのこもった着物と帯がたったの200円。
ぼくたちは、日本文化の伝統や人のまごころをおもうよりも、カネ、カネ、カネの即物的で、味気ない時代に生きている、ということか。
■写真はせめてもの思い出にと、カミさんが撮影した。
ネットから仕事が入ってきた ― 2023年01月20日 12時39分

本当に久しぶりに仕事をしている。いまは「Web系ライター」と呼ぶらしいが、インターネット上にライター募集の仕事があふれている。そこで、ずいぶん以前にぼくも大手の2社に登録しておいた。
登録はしたものの、そこにもやっぱり人をだまして、ひと儲けする手口が横行していることがわかった。一度も会わずにインターネットの情報だけで、仕事の契約をするのだから、それには性善説が大前提になる。
だが、インターネットの空間には詐欺のメールがごまんと国境を越えて、休みなしに飛び交っている。SNSでだました女性への暴行事件も大繁殖中である。
顔をみながら、話ができるのならまだしも、本名すらわからない人を相手に、こちらのペースで安心して仕事がやれるのだろうか。そうこうしているうちに、ぼくの体に異変が生じてしまい、Webライターへの関心はますます二の次になっていた。
ところが、つい先日、登録先の会社を通じて、1本の見積もり依頼のメールが届いたのである。ぼくのプロフィールをみた人からの連絡だった。よくもまぁ、探し当てたものだ。こうなると無視するわけにはいかない。そこで見積もり額の返信をだした。
たぶん、向こうさんはあちこちに問い合わせて、見積もりの金額を比較する段階なのだろう、駄目でもいいや。そう考えていた。
返信を出したら、またメールがきた。何度かやりとりをしているうちに、だんだん鍋が煮つまってきて、とうとう、「よろこんでお引き受けします」に。
へぇー、こうやって、見も知らない人から仕事がもらえるのか。インターネットの時代だな、在宅でやれるんだな、なんだかうれしいな。
顧客との間には個人情報の守秘義務や機密契約保持があるので、全貌は明かせないが、お相手は関東地方に住む40代はじめの女性である。
仕事の依頼の内容は、4月の統一地方選に市議候補として立候補するので、街頭演説と個人集会のスピーチ原稿を書いてほしい、というもの。選挙パンフやポスターの制作依頼もあったが、それは地元の後援者と知恵を出し合ってつくる共同作業が組織づくりの一歩になるので、やんわりお断りした。
彼女は無名の新人候補で、組織も所属団体もない。選挙のことはまるで素人という。無謀というか、怖いもの知らずというか、それでも立候補を決断した度胸に感心させられた。
ぼくは選挙屋でも、選挙のプロでもないが、記者時代に「選挙の神様」といわれたDさんの薫陶を受けている。
選挙や政治に関する仕事では、いつも「こういうときはDさんならどう判断するか」。そういうふうに考える。ぼくの最高の秘密の教本なのだ。すると、きっとこうするに違いないという道がみえてくる。それでまず間違ったことはない。ありがたいことである。
選挙のパートナーに選んでもらった彼女に対して何ができるか。こんなことを自由に考えるのがたのしい。直接、本人に電話をして詳しい話を聞く前に、事前取材としてやっておくことがある。
まずは彼女の地元の基礎知識から。地図を広げて、交通インフラや産業構造、人口、地形、風土を調べる。次に選挙区の分析。現職市長の情報を集め、市が直面している課題と政策の重点項目を把握する。
それから過去3回の市議選の結果と推移、そして各候補者の過去の選挙広報にも目を通して、候補者の入れ替わり等の基礎的なデータを分析する。地元での女性の活躍度も男女共同参画などの公的データのモノサシで測っておく。出身者にどんな有名人がいるかも押さえる。
これだけでも相当なことが読める。また依頼人との共通の話題で親しくなれる材料にもなる。まったくインターネットは便利なものだ。
たとえば、市長が多選批判を浴びている高齢者なら、次の市議選は「ポスト現職市長」の戦いが水面下で火花を散らすはず。その場合、ベテラン議員の中から身を引く人も出てくる。世代交代を前面に打ち出す候補者も現れる。新人もチャンスとばかりに立ちあがるだろう。時代は変わって行くのだ。そこには必ず伏線としての大きな流れがある。
ふつうの生活者として、市政のおかしいところを肌身で感じて、勇気をだして立ち上がったひとりの女性がそのときの風をどうつかむか。いや、どうつかまえてもらうか。こちらはそのお手伝いをするわけだ。
昨日、彼女と初めて2時間近く電話で話をした。そこで本人の口から、すごい体験談を聞いた。
ここまでさんざん家庭問題や男の関係に苦しみ、何度も泥沼に落ちて、精神的にも、経済面でも破綻寸前にまで追い込まれて、自分が生きることに精いっぱいだったらしい。そのときどきに救いの手を差し伸べてくれた恩人がいるという。
そんな苦労話をあけっぴろげに話す彼女の声は、どこか吹っ切れていて明るかった。いまは自営業で独立している。市議選への立候補は、世の中に対して、ようやく自分の役割を見つけだした、ということだろうか。
ぼくは彼女との交流がはじまったお陰で、また多くのことを学ばせてもらっている。
■先日、夕暮れ迫る室見川の遊歩道を散歩していたら、青い光沢が美しいカワセミがいた。このあたりでときどき見かける。
鹿児島にいた子どもころのある夜、父がカワセミをつかまえてきたことがあった。宮崎の山奥に住んでいたもっと幼いころは、ムササビをつかまえてきて、しばらく金網の籠(かご)のなかで飼っていた。
あんなもの、どうやって、とっつかまえたのだろうか。
登録はしたものの、そこにもやっぱり人をだまして、ひと儲けする手口が横行していることがわかった。一度も会わずにインターネットの情報だけで、仕事の契約をするのだから、それには性善説が大前提になる。
だが、インターネットの空間には詐欺のメールがごまんと国境を越えて、休みなしに飛び交っている。SNSでだました女性への暴行事件も大繁殖中である。
顔をみながら、話ができるのならまだしも、本名すらわからない人を相手に、こちらのペースで安心して仕事がやれるのだろうか。そうこうしているうちに、ぼくの体に異変が生じてしまい、Webライターへの関心はますます二の次になっていた。
ところが、つい先日、登録先の会社を通じて、1本の見積もり依頼のメールが届いたのである。ぼくのプロフィールをみた人からの連絡だった。よくもまぁ、探し当てたものだ。こうなると無視するわけにはいかない。そこで見積もり額の返信をだした。
たぶん、向こうさんはあちこちに問い合わせて、見積もりの金額を比較する段階なのだろう、駄目でもいいや。そう考えていた。
返信を出したら、またメールがきた。何度かやりとりをしているうちに、だんだん鍋が煮つまってきて、とうとう、「よろこんでお引き受けします」に。
へぇー、こうやって、見も知らない人から仕事がもらえるのか。インターネットの時代だな、在宅でやれるんだな、なんだかうれしいな。
顧客との間には個人情報の守秘義務や機密契約保持があるので、全貌は明かせないが、お相手は関東地方に住む40代はじめの女性である。
仕事の依頼の内容は、4月の統一地方選に市議候補として立候補するので、街頭演説と個人集会のスピーチ原稿を書いてほしい、というもの。選挙パンフやポスターの制作依頼もあったが、それは地元の後援者と知恵を出し合ってつくる共同作業が組織づくりの一歩になるので、やんわりお断りした。
彼女は無名の新人候補で、組織も所属団体もない。選挙のことはまるで素人という。無謀というか、怖いもの知らずというか、それでも立候補を決断した度胸に感心させられた。
ぼくは選挙屋でも、選挙のプロでもないが、記者時代に「選挙の神様」といわれたDさんの薫陶を受けている。
選挙や政治に関する仕事では、いつも「こういうときはDさんならどう判断するか」。そういうふうに考える。ぼくの最高の秘密の教本なのだ。すると、きっとこうするに違いないという道がみえてくる。それでまず間違ったことはない。ありがたいことである。
選挙のパートナーに選んでもらった彼女に対して何ができるか。こんなことを自由に考えるのがたのしい。直接、本人に電話をして詳しい話を聞く前に、事前取材としてやっておくことがある。
まずは彼女の地元の基礎知識から。地図を広げて、交通インフラや産業構造、人口、地形、風土を調べる。次に選挙区の分析。現職市長の情報を集め、市が直面している課題と政策の重点項目を把握する。
それから過去3回の市議選の結果と推移、そして各候補者の過去の選挙広報にも目を通して、候補者の入れ替わり等の基礎的なデータを分析する。地元での女性の活躍度も男女共同参画などの公的データのモノサシで測っておく。出身者にどんな有名人がいるかも押さえる。
これだけでも相当なことが読める。また依頼人との共通の話題で親しくなれる材料にもなる。まったくインターネットは便利なものだ。
たとえば、市長が多選批判を浴びている高齢者なら、次の市議選は「ポスト現職市長」の戦いが水面下で火花を散らすはず。その場合、ベテラン議員の中から身を引く人も出てくる。世代交代を前面に打ち出す候補者も現れる。新人もチャンスとばかりに立ちあがるだろう。時代は変わって行くのだ。そこには必ず伏線としての大きな流れがある。
ふつうの生活者として、市政のおかしいところを肌身で感じて、勇気をだして立ち上がったひとりの女性がそのときの風をどうつかむか。いや、どうつかまえてもらうか。こちらはそのお手伝いをするわけだ。
昨日、彼女と初めて2時間近く電話で話をした。そこで本人の口から、すごい体験談を聞いた。
ここまでさんざん家庭問題や男の関係に苦しみ、何度も泥沼に落ちて、精神的にも、経済面でも破綻寸前にまで追い込まれて、自分が生きることに精いっぱいだったらしい。そのときどきに救いの手を差し伸べてくれた恩人がいるという。
そんな苦労話をあけっぴろげに話す彼女の声は、どこか吹っ切れていて明るかった。いまは自営業で独立している。市議選への立候補は、世の中に対して、ようやく自分の役割を見つけだした、ということだろうか。
ぼくは彼女との交流がはじまったお陰で、また多くのことを学ばせてもらっている。
■先日、夕暮れ迫る室見川の遊歩道を散歩していたら、青い光沢が美しいカワセミがいた。このあたりでときどき見かける。
鹿児島にいた子どもころのある夜、父がカワセミをつかまえてきたことがあった。宮崎の山奥に住んでいたもっと幼いころは、ムササビをつかまえてきて、しばらく金網の籠(かご)のなかで飼っていた。
あんなもの、どうやって、とっつかまえたのだろうか。
「分身の術」を使うぞ ― 2023年01月22日 16時28分

午前中に頃合いを見計らって、選挙支援の依頼者に取材の電話を入れた。質問項目は事前にメールで渡してある。取材予告の時間も了解をとっている。ところが、相手さんの事情で今日の取材は延期になった。
だからといって、どうということはない。いまのぼくは、それならそれでいいさ、と逆に心がはずんでいる。じゃあ、あれにするかなというプランがある。
昨夜寝る前に、ふとあるアイデアが浮かんだ。さっそく名刺大の白紙のカードを3枚取り出して、それぞれに筆ペンで3つの名前を書いた。
ひとつは「△△△△」。これはぼくの本名である。
2枚目は、このブログの筆者名の「風のひょう吉」。
そして、もうひとつ。3枚目にはまだ未デビューのペンネームの「藤村遼」と書いた。(島崎藤村と司馬遼太郎のパクリ。ほかに思いつかないから、これでいこうかなぁ、と考えている)
つまり、親からもらった名前のほかに、自分で2つの新しい名前を付けたわけだ。これで名前の違う3人のぼくがいる、ということになった。すなわち、「分身の術」である。
これからは毎日の時間の過ごし方の場面に応じて、この3人がそれぞれの役割を担当することにしよう、そう決めた。
いつものぼくは本名の△△△△。ブログを書いているときは「風のひょう吉」になりきるのだ。ちょっと格好をつけて、小説や随筆を書く作家の気分になりたいときは、「ぼくの名前は藤村遼です」。
想像するだけでもおもしろくなってきた。だらだらとした日々にアクセントとメリハリがつきそうなところも気に入っている。
どなたもそうだろうが、自分のなかにはいろんな人間が棲(す)んでいる。これがぼくだとおもっている自分がいる。他人の目に映るぼくという人間がいる。そして、自分も他人も気がついていない、もうひとりの自分もどこかに潜んでいるような気もする。
自分とはなんと不思議な生き物だろう。「名は体を表す」というが、そんな言葉が当てはまらない例は、新聞の社会面を開いてみればいっぱい出てくる。
視点を変えて、一畳一夢の小部屋から世の中をみていると、「分身の術」は新しい生き方になろうとしているようにも感じる。
たとえば、コロナ禍の影響で、インタネットを利用した在宅ワークが定着しはじめた。政府も一部の企業も、社員たちに副業や異業種への出向を奨励するようになってきた。
これって、まさに「分身の術」の応用ではないか。そして、ここがいちばん大事なところだが、分身した自分こそ、本当の自分だったと気づくことだってあるのではあるまいか。
ま、これ以上、書くのは止めておこう。
さて、今日の「風のひょう吉」の仕事はこれで終わり。さぁ、これからどの名前の人間になろうかな。
■貸倉庫のダンボール箱を開けたら、こんなペーパーの束が出てきた。マス目のない、ぼくの名前と年月日が入ったオリジナルの原稿用紙。
かれこれ30年も前に、知り合いのデザイナーの先輩から、「あなたの原稿用紙をつくったから、好きなようにどんどん書いてよ」と言われてもらったもの。お礼を言っただけで、ほとんど使わないまま、ここまで時間が経ってしまった。
ここにきて、ありがたい、使い切ってやろうと、おもっている。
だからといって、どうということはない。いまのぼくは、それならそれでいいさ、と逆に心がはずんでいる。じゃあ、あれにするかなというプランがある。
昨夜寝る前に、ふとあるアイデアが浮かんだ。さっそく名刺大の白紙のカードを3枚取り出して、それぞれに筆ペンで3つの名前を書いた。
ひとつは「△△△△」。これはぼくの本名である。
2枚目は、このブログの筆者名の「風のひょう吉」。
そして、もうひとつ。3枚目にはまだ未デビューのペンネームの「藤村遼」と書いた。(島崎藤村と司馬遼太郎のパクリ。ほかに思いつかないから、これでいこうかなぁ、と考えている)
つまり、親からもらった名前のほかに、自分で2つの新しい名前を付けたわけだ。これで名前の違う3人のぼくがいる、ということになった。すなわち、「分身の術」である。
これからは毎日の時間の過ごし方の場面に応じて、この3人がそれぞれの役割を担当することにしよう、そう決めた。
いつものぼくは本名の△△△△。ブログを書いているときは「風のひょう吉」になりきるのだ。ちょっと格好をつけて、小説や随筆を書く作家の気分になりたいときは、「ぼくの名前は藤村遼です」。
想像するだけでもおもしろくなってきた。だらだらとした日々にアクセントとメリハリがつきそうなところも気に入っている。
どなたもそうだろうが、自分のなかにはいろんな人間が棲(す)んでいる。これがぼくだとおもっている自分がいる。他人の目に映るぼくという人間がいる。そして、自分も他人も気がついていない、もうひとりの自分もどこかに潜んでいるような気もする。
自分とはなんと不思議な生き物だろう。「名は体を表す」というが、そんな言葉が当てはまらない例は、新聞の社会面を開いてみればいっぱい出てくる。
視点を変えて、一畳一夢の小部屋から世の中をみていると、「分身の術」は新しい生き方になろうとしているようにも感じる。
たとえば、コロナ禍の影響で、インタネットを利用した在宅ワークが定着しはじめた。政府も一部の企業も、社員たちに副業や異業種への出向を奨励するようになってきた。
これって、まさに「分身の術」の応用ではないか。そして、ここがいちばん大事なところだが、分身した自分こそ、本当の自分だったと気づくことだってあるのではあるまいか。
ま、これ以上、書くのは止めておこう。
さて、今日の「風のひょう吉」の仕事はこれで終わり。さぁ、これからどの名前の人間になろうかな。
■貸倉庫のダンボール箱を開けたら、こんなペーパーの束が出てきた。マス目のない、ぼくの名前と年月日が入ったオリジナルの原稿用紙。
かれこれ30年も前に、知り合いのデザイナーの先輩から、「あなたの原稿用紙をつくったから、好きなようにどんどん書いてよ」と言われてもらったもの。お礼を言っただけで、ほとんど使わないまま、ここまで時間が経ってしまった。
ここにきて、ありがたい、使い切ってやろうと、おもっている。
朝から暴風雪警報の一日 ― 2023年01月24日 21時30分

1週間ほど前から、テレビの気象情報やニュース番組で、「来週の火曜日から水曜日にかけて最強の寒気が日本列島にやってくる。九州でも大雪の恐れがある」とさんざん報じられていた。
今日がその日である。
今朝の地元放送局のニュースでもトップはこの話題で、アナウンサーはこれまでに輪をかけたように切迫した口ぶりだった。何度も繰り返して大雪と暴風への警戒を呼びかけていた。
水道管の破裂の恐れがあります、車はノーマルタイヤで運転しないでください、灯油や水、食料品の確保も、といった調子で、矢継ぎ早にこれして、あれしての注意事項が飛んでくる。
まるで非常事態の最中(さなか)にいるようである。朝っぱらからこんなにやられては、帰りはいったいどうなることやらと不安な気持ちで出勤した人たちも大勢いたことだろう。
言っていることはわかる。けれども、ぼくの生活感覚では大変だ、大変だ、は何かヘンである。
ここは福岡市内の街だよ。山間部ならともかく、屋根に上っての雪下ろしもないし、大雪で家のなかに閉じ込められることもないんだよ。
そういえば、福岡に移転して来た当初、5センチほどの積雪で市内のあちこちの道路が大渋滞したとき、豪雪地帯で生まれ育ったカミさんは、「たった5センチぐらいの雪で、大騒ぎするんじゃないよ」とあきれていたっけ。
午前中は陽が射して、南向きのこの部屋は暖房なしでも平気だった。それでも外の気温はどんどん下がっていた。午後にはマイナス3度になると言っていた気象予報の通りになった。
昼過ぎ、気がついたときには、外はいちめん白くなっていた。雨と違って、雪は音がまったくしないまま降り積もる。朝、カーテンを開けたら、地面も屋根も白くかがやく世界に一変していたということがよくある。雪にはそんなたのしい意外性もある。
窓の外で風に吹き飛ばされているのは、形の不ぞろいな雪の子どもたちだった。ほらほら、雪だよ、雪だよ、来たよ、来たよ、とでも言いたげに、空中をはしゃぎまわっている。たちまち車の上も、芝生も白くなっていった。
こどものころなら、よろこんで外へ飛び出したものだが、雪がはげしく舞っている様子をみながら、ぼくの頭に浮かんだのは「やっぱり、今夜は温かい鍋にしようかな」。
「雪」にちなんで、「鱈(たら)」の鍋で一杯やりたかったのだが、スーパーに並んでいるのは、鮮度がイマイチだった。それなら「春」にしようと「鰆(さわら)」の切り身を買ってきた。
写真は、昨日の買い物の帰り道にみつけた梅の花の紅いつぼみ。今日は雪にふるえて寒そうだった。
移りゆく季節を感じた一日だった。これから夜中過ぎにはまた雪が降って、明日も同じように冷え込みが厳しいという。午前中には今年4回目の病院通いが待っている。
あの寒梅のように、この冬を乗り切らなければ。
■なかなか散文を書きだすまでには至らない。そこで、書くのは短篇に決めた。井伏鱒二によれば、昔は原稿の注文は20枚程度だったという。梶井基次郎の『檸檬』は原稿用紙で14枚ほどしかない。
そこで、久々に阿部昭の『短篇小説礼賛』のページを開いて、そのなかで彼が取り上げているマンスフィールドの短編集(文庫本)をブックオフで買ってきた。
こんなことばかりやっていてもなぁ、と思いつつ、日が暮れていく。
今日がその日である。
今朝の地元放送局のニュースでもトップはこの話題で、アナウンサーはこれまでに輪をかけたように切迫した口ぶりだった。何度も繰り返して大雪と暴風への警戒を呼びかけていた。
水道管の破裂の恐れがあります、車はノーマルタイヤで運転しないでください、灯油や水、食料品の確保も、といった調子で、矢継ぎ早にこれして、あれしての注意事項が飛んでくる。
まるで非常事態の最中(さなか)にいるようである。朝っぱらからこんなにやられては、帰りはいったいどうなることやらと不安な気持ちで出勤した人たちも大勢いたことだろう。
言っていることはわかる。けれども、ぼくの生活感覚では大変だ、大変だ、は何かヘンである。
ここは福岡市内の街だよ。山間部ならともかく、屋根に上っての雪下ろしもないし、大雪で家のなかに閉じ込められることもないんだよ。
そういえば、福岡に移転して来た当初、5センチほどの積雪で市内のあちこちの道路が大渋滞したとき、豪雪地帯で生まれ育ったカミさんは、「たった5センチぐらいの雪で、大騒ぎするんじゃないよ」とあきれていたっけ。
午前中は陽が射して、南向きのこの部屋は暖房なしでも平気だった。それでも外の気温はどんどん下がっていた。午後にはマイナス3度になると言っていた気象予報の通りになった。
昼過ぎ、気がついたときには、外はいちめん白くなっていた。雨と違って、雪は音がまったくしないまま降り積もる。朝、カーテンを開けたら、地面も屋根も白くかがやく世界に一変していたということがよくある。雪にはそんなたのしい意外性もある。
窓の外で風に吹き飛ばされているのは、形の不ぞろいな雪の子どもたちだった。ほらほら、雪だよ、雪だよ、来たよ、来たよ、とでも言いたげに、空中をはしゃぎまわっている。たちまち車の上も、芝生も白くなっていった。
こどものころなら、よろこんで外へ飛び出したものだが、雪がはげしく舞っている様子をみながら、ぼくの頭に浮かんだのは「やっぱり、今夜は温かい鍋にしようかな」。
「雪」にちなんで、「鱈(たら)」の鍋で一杯やりたかったのだが、スーパーに並んでいるのは、鮮度がイマイチだった。それなら「春」にしようと「鰆(さわら)」の切り身を買ってきた。
写真は、昨日の買い物の帰り道にみつけた梅の花の紅いつぼみ。今日は雪にふるえて寒そうだった。
移りゆく季節を感じた一日だった。これから夜中過ぎにはまた雪が降って、明日も同じように冷え込みが厳しいという。午前中には今年4回目の病院通いが待っている。
あの寒梅のように、この冬を乗り切らなければ。
■なかなか散文を書きだすまでには至らない。そこで、書くのは短篇に決めた。井伏鱒二によれば、昔は原稿の注文は20枚程度だったという。梶井基次郎の『檸檬』は原稿用紙で14枚ほどしかない。
そこで、久々に阿部昭の『短篇小説礼賛』のページを開いて、そのなかで彼が取り上げているマンスフィールドの短編集(文庫本)をブックオフで買ってきた。
こんなことばかりやっていてもなぁ、と思いつつ、日が暮れていく。
待望の言葉がポン! と出た ― 2023年01月28日 16時04分

昨日の午前中、関東地方の市議選に初出馬する女性に電話を入れた。ネット上で仕事のご縁ができて、3回目の取材である。高級料亭ではいちげん客が裏を返して、3度目から馴染みとして扱われるというが、電話の取材でもそんな空気感が生まれてくる。こちらは仕事をもらっている立場でも、気になることはいまのうちに言っておいた方がいい。
今回の電話の目的は取材というよりも、作戦会議をやりたかった。
選挙戦では主役の候補者を敵も味方もじっとみている。当の本人はどんな戦略で戦うつもりなのか。戦場で掲げる幟旗(のぼりはた)には、どんなスローガンを打ち出すのか。これによって戦い方も決まる。そこのところを知りたがっているのだ。
ぼくもそのあたりのことが気になっていた。だが、本人に質問しても、シンプルでわかりやすい答えが出てこない。このままでは自軍の意思統一もとりにくくなってしまう。選挙で負ける陣営に共通しているのは、選対事務所のなかが一致団結せずに、運動員たちの向いている方向もバラバラというのがお決まりの姿である。
早くこのもやもやした気分を払拭したい。余計なことかもしれないが、そこをクリアする手伝いをするのも、演説原稿を任せられたぼくの役割かなとおもった。
とにかく選挙戦略、もっとシンプルな言葉に置き換えれば、選挙のコンセプトをはっきりさせる必要がある。そして、全軍が同じ方向を向いて躍動するためには、そのコンセプトを全体で共有しておくことが絶対に欠かせない。
これまでの2回の取材で、出馬の動機や市政への不満とか、市議としてやりたいことなど、ひと通りの彼女の気持ちや考えは聞いた。だが、将来の具体的なビジョンについて質問しても、話のほとんどは同じところをぐるぐるまわるだけだった。
無理もない。だれもが通る関門なのだ。
行政と法律の専門家である官僚出身の議員を除けば、初当選した国会議員たちは官庁の細かい組織や仕組みの知識もあやふやで、ほとんど新入生みたいなものである。一人前になるにはそれなりの経験と年数がかかるのだ。
当選した暁にはいまの気持ちを切らさずに、必要な政策の猛勉強をすればいい。大事なことは、どんな議員になるか、ということなのだ。
ただ、そうなる前に、選挙の経験がまったくない素人を待ち受けている壁に、彼女もぶち当たっている様子はよくわかった。
こういう場合のやり方を知っている人は、すぐにピンとくるものがあるだろう。
もったいぶった言い方は嫌いだが、それは「弱者の戦略」と呼ばれるものである。弱い者には、弱い者なりの戦い方がある。そして、こんなときの知恵はちゃんと先人たちがいくつも残してくれている。いずれにしても、戦いの場を自分の得意とする分野に絞り込むのが鉄則である。
ぼくは作戦会議をしましょうと断った上で、こういう内容の話をした。
「あなたのいちばんやりたいことは××でしょ。だったら、わたしは市会議員として、その分野でダントツのナンバーワンになります、と宣言すればいいんじゃない。それがあなたの選挙戦のコンセプトになる。その一点に絞って、自信を持って、あなたの体験から得た行政への疑問やほかの候補者にはない特色を強調したらいい。
ほかの候補者たちは変わり映えのしない、似たような公約ばかりを小さな花のように並べ立てるはずだから、あなたは新人らしく、大輪の花一本で勝負すればいいとおもうな」
そんなことを話していたら、彼女の口から、だれもがおもいつかないような、それもいまのニーズにぴったりの短い言葉がポン!と出てきた。(機密事項だから、黙っておく)
きっと、ずっとひとりで悩み苦しんいたのだろう。胸のなかでふくらんでいる思いのたけを、うまく表現できる言葉を探し求めていたに違いない。
よかった、よかった。本人もこれで心の重荷がひとつ、吹っ切れたことだろう。久しぶりに、こんなやりとりをできることがうれしくなった。
コロナでずっと家のなかに閉じこもっていて、めったに人と話すことはないけれど、やっぱり、こうやって人と話をするのはいいものだ。
そうだな、あいつに電話しようかな。しばらく会っていない友の元気な声を聞きたくなった。
さて、そろそろ選挙演説の原稿について、書く内容の整理でもはじめようかな。
■たくさんの小さな青い花で、長い間たのしませてくれたトレニアの後に、パンジーとノースポールの株を植えて約1か月。寒くて、雪も降ったし、なかなか次の新しい花が開いてくれない。ま、そのうち咲くさ。見守りながら、気長に待つことにしよう。
今回の電話の目的は取材というよりも、作戦会議をやりたかった。
選挙戦では主役の候補者を敵も味方もじっとみている。当の本人はどんな戦略で戦うつもりなのか。戦場で掲げる幟旗(のぼりはた)には、どんなスローガンを打ち出すのか。これによって戦い方も決まる。そこのところを知りたがっているのだ。
ぼくもそのあたりのことが気になっていた。だが、本人に質問しても、シンプルでわかりやすい答えが出てこない。このままでは自軍の意思統一もとりにくくなってしまう。選挙で負ける陣営に共通しているのは、選対事務所のなかが一致団結せずに、運動員たちの向いている方向もバラバラというのがお決まりの姿である。
早くこのもやもやした気分を払拭したい。余計なことかもしれないが、そこをクリアする手伝いをするのも、演説原稿を任せられたぼくの役割かなとおもった。
とにかく選挙戦略、もっとシンプルな言葉に置き換えれば、選挙のコンセプトをはっきりさせる必要がある。そして、全軍が同じ方向を向いて躍動するためには、そのコンセプトを全体で共有しておくことが絶対に欠かせない。
これまでの2回の取材で、出馬の動機や市政への不満とか、市議としてやりたいことなど、ひと通りの彼女の気持ちや考えは聞いた。だが、将来の具体的なビジョンについて質問しても、話のほとんどは同じところをぐるぐるまわるだけだった。
無理もない。だれもが通る関門なのだ。
行政と法律の専門家である官僚出身の議員を除けば、初当選した国会議員たちは官庁の細かい組織や仕組みの知識もあやふやで、ほとんど新入生みたいなものである。一人前になるにはそれなりの経験と年数がかかるのだ。
当選した暁にはいまの気持ちを切らさずに、必要な政策の猛勉強をすればいい。大事なことは、どんな議員になるか、ということなのだ。
ただ、そうなる前に、選挙の経験がまったくない素人を待ち受けている壁に、彼女もぶち当たっている様子はよくわかった。
こういう場合のやり方を知っている人は、すぐにピンとくるものがあるだろう。
もったいぶった言い方は嫌いだが、それは「弱者の戦略」と呼ばれるものである。弱い者には、弱い者なりの戦い方がある。そして、こんなときの知恵はちゃんと先人たちがいくつも残してくれている。いずれにしても、戦いの場を自分の得意とする分野に絞り込むのが鉄則である。
ぼくは作戦会議をしましょうと断った上で、こういう内容の話をした。
「あなたのいちばんやりたいことは××でしょ。だったら、わたしは市会議員として、その分野でダントツのナンバーワンになります、と宣言すればいいんじゃない。それがあなたの選挙戦のコンセプトになる。その一点に絞って、自信を持って、あなたの体験から得た行政への疑問やほかの候補者にはない特色を強調したらいい。
ほかの候補者たちは変わり映えのしない、似たような公約ばかりを小さな花のように並べ立てるはずだから、あなたは新人らしく、大輪の花一本で勝負すればいいとおもうな」
そんなことを話していたら、彼女の口から、だれもがおもいつかないような、それもいまのニーズにぴったりの短い言葉がポン!と出てきた。(機密事項だから、黙っておく)
きっと、ずっとひとりで悩み苦しんいたのだろう。胸のなかでふくらんでいる思いのたけを、うまく表現できる言葉を探し求めていたに違いない。
よかった、よかった。本人もこれで心の重荷がひとつ、吹っ切れたことだろう。久しぶりに、こんなやりとりをできることがうれしくなった。
コロナでずっと家のなかに閉じこもっていて、めったに人と話すことはないけれど、やっぱり、こうやって人と話をするのはいいものだ。
そうだな、あいつに電話しようかな。しばらく会っていない友の元気な声を聞きたくなった。
さて、そろそろ選挙演説の原稿について、書く内容の整理でもはじめようかな。
■たくさんの小さな青い花で、長い間たのしませてくれたトレニアの後に、パンジーとノースポールの株を植えて約1か月。寒くて、雪も降ったし、なかなか次の新しい花が開いてくれない。ま、そのうち咲くさ。見守りながら、気長に待つことにしよう。
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