無言の賀状納め2024年12月18日 08時38分

 年賀状を出す数がほんの少しになった。ここ数年、目立って増えているのが、いわゆる「賀状納め」で、「年賀状のご挨拶も今回にて終了させていただきます」というもの。
 ぼくも少しずつそうしてきた。出す人と出さない人を決める線引きの基準はご想像にお任せするとして、あっさりいえば、「何事にも終わりがある」ということにしておこう。
 だが、たのしみにしていた年賀ハガキが来なくなるのは、それはそれで寂しいものだ。来年の元旦の朝、ぼくにもそのときが来る。
 写真はことしの正月早々に亡くなったO君からの年賀状である。
 まさかこんなことになろうとは露ほどにもおもわなかったので、古いものはまとめて処分してしまい、どこかに紛れ込んでいないかと探した挙句、見つけ出したのは10年以上も前のこの2枚だけ。
 中学生のころから絵を描くのが得意で、文章の一つひとつの言葉にも人を引きつける彼らしさがいかんなく発揮されている。筆づかいにも躍動感があって、手元に届く年賀ハガキの束の中から、ユニークなO君のそれはいつも一発でわかった。毎年、年賀状づくりをたのしんでいることが一目瞭然で、一つひとつが他にはない限定品であった。
 こう言っちゃ失礼だが、ハガキの表の宛名も印刷で、裏の文章もただ決まり文句を印刷しただけの年賀状は、いかにも「やっつけ仕事」みたいで、ありがたみが薄い。受け取る側からすれば、せめてひと言ぐらい手書きの一文があっていいとおもう。
 それに比べれば、ふだんの話し言葉でかまわないし、写真や動画も無料で送れて、いろんな絵文字も使えるLINEの方がはるかに親しみもあって、よっぽどマシかもしれない。年賀ハガキも値上げしたので、メールに乗り換える人の流れは止まらないだろう。
 さて、その場合、O君が生きていたら、どうするだろうか。
 彼のことだから、絵も文章も手書きでしか表現できないぬくもりを大切にするに違いない。彼の文章が筆で書いたものではなくて、印刷されたきれいな活字だったら、とてもあの独特の味わいは出て来ない。
 それこそがOで、ぼくはそういうアイツが好きだった。
 とうとう何十年も彼に出していた年賀状を出せなくなった。手書きで添えていた遠慮なしの「私情」も行き場を失って、どこか遠くの空を泳いでいるようである。

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