カミさんのホクロ ― 2021年02月04日 11時41分

「お父さん、ほら、見て。わからないでしょ」
カミさんが近所の皮膚科クリニックから帰って来るなり、うれしそうに顔を近づけてきた。こんなに間近に見ることは久しくなかった。
恋人のころ、こんなシーンがあったなぁ。うーん、変わったなぁ。
「ほら、ね」
ちょこんとした鼻の穴のあたりを指先で撫でながら、息がかかるところまで急接近してくる。
「おう、ほんとだ。ほとんど消えたね」
「そうでしょ! わからないよね!」
先日まで、そこには黒ゴマみたいなホクロがあった。本人は「あーあ、これがなければなぁ。まるで鼻クソがついているみたいだもん」と、ずっと気にしていたのである。そして、鼻クソという、およそ女性が口にするようなものではない言葉がひょっこり出てしまうと、また落ち込むのであった。
その長年の悩みのタネが跡形もなく、きれいさっぱり消えてなくなった、いとも簡単に。
どうやら、この歓喜の成功体験はカミさんの脳裏に深く刻まれて、尾を引きそうな予感がした。
自宅から歩いて七、八分のところに、このあたりでは数少ない美容皮膚科と一般皮膚科のあるクリニックができたのは一年ほど前のこと。先日、カミさんは近くのスーパーで友だちの主婦Mさんと出会い、そのクリニックの話を聞き込んできた。
「あそこは女医さんだって。Mさんは顔のホクロを二つ、取ってもらったって。跡を見せてもらったけど、ぜんぜんわからないの。それでね、料金は一万円しなかったって」
そのことで頭がいっぱいになったカミさんは、翌朝いちばんで、その皮膚科へ駆けつけた。それから二週間が過ぎ、術後のわずかな傷跡に貼っていた肌色の薄いバンソウコをはがしに行ったのが、つい先刻だったのである。
「次は、まぶたの下の、このホクロだね。それが終わったら、眉毛のところの、これかな」
いいね、楽しみがいっぱいあって。
カミさんが近所の皮膚科クリニックから帰って来るなり、うれしそうに顔を近づけてきた。こんなに間近に見ることは久しくなかった。
恋人のころ、こんなシーンがあったなぁ。うーん、変わったなぁ。
「ほら、ね」
ちょこんとした鼻の穴のあたりを指先で撫でながら、息がかかるところまで急接近してくる。
「おう、ほんとだ。ほとんど消えたね」
「そうでしょ! わからないよね!」
先日まで、そこには黒ゴマみたいなホクロがあった。本人は「あーあ、これがなければなぁ。まるで鼻クソがついているみたいだもん」と、ずっと気にしていたのである。そして、鼻クソという、およそ女性が口にするようなものではない言葉がひょっこり出てしまうと、また落ち込むのであった。
その長年の悩みのタネが跡形もなく、きれいさっぱり消えてなくなった、いとも簡単に。
どうやら、この歓喜の成功体験はカミさんの脳裏に深く刻まれて、尾を引きそうな予感がした。
自宅から歩いて七、八分のところに、このあたりでは数少ない美容皮膚科と一般皮膚科のあるクリニックができたのは一年ほど前のこと。先日、カミさんは近くのスーパーで友だちの主婦Mさんと出会い、そのクリニックの話を聞き込んできた。
「あそこは女医さんだって。Mさんは顔のホクロを二つ、取ってもらったって。跡を見せてもらったけど、ぜんぜんわからないの。それでね、料金は一万円しなかったって」
そのことで頭がいっぱいになったカミさんは、翌朝いちばんで、その皮膚科へ駆けつけた。それから二週間が過ぎ、術後のわずかな傷跡に貼っていた肌色の薄いバンソウコをはがしに行ったのが、つい先刻だったのである。
「次は、まぶたの下の、このホクロだね。それが終わったら、眉毛のところの、これかな」
いいね、楽しみがいっぱいあって。
トウジンボシの復権を ― 2021年02月09日 11時32分

カミさんの誕生日。ぼくの前に置かれた小皿の一品に、自分の歳をおもい知らされることになった。その皿にはウルメイワシの干物が10匹乗っていた。頭としっぽは黒焦げで、青魚の干物特有の匂いがショートケーキや鯛の薄造りの刺身のまわりを漂っている。
「食べるか」と30半ばの二人の息子に言う。
「いいや。食べん」。予想通りの反応。
「お腹(の内臓)が苦くて。お父さん、全部食べれば」。これはカミさんのいつもの返事。
新潟の豪雪地帯の生まれで、子どものころは、魚といえば塩ザケや塩マスといった切り身しか食べたことがなかったという。サンマの塩焼きは好物だが、腸(はらわた)は苦手な方なのだ。
「見た目はよくないけど、うまいのになぁ。子どもころ、この干物のことをトウジンボシと言ってた。朝からおふくろが焼いてくれて、よく食べたもんだ」
というわけで、ひとりでムシャムシャ食って、酒をのんでいると、カミさんから「時代劇みたいだね」と言われたのである。
「ほら、箱膳の上に、ご飯と汁物、漬物、そしてメザシが2匹ぐらいのっかっているシーンがあるじゃないの」
ついでに言えば、カミさんの家は大家族で、ひとつの食卓では席数が足りないので、食事は箱膳だったとか。ぼくからすれば、そっちの方がよっぽど時代劇だと思うのだが。
イワシの干物をうまい、うまいと食べている恰好を見られて、時代劇みたいと言われて、じゃあ、いったいオレはなんなんだ、かわいいイワシにも失礼ではないか、とおもった。
ここは一発、「海の米」とも言われるイワシの名誉挽回をしておかなくては。
「メザシはね、あの土光さんの大好物だったんだぞ」
「土光さんって、だれよ」と次男。
「知らないのか、土光敏夫さん。財界トップの経団連の会長もした清廉な、立派な方だよ。臨時行政調査会の会長もやったんだ」
「知らんね」と長男。
メザシの復権を目指すには、土光さんを持ちだすのが最高の切り札である。メザシと言えば、土光さん。有名な話なのだ。だが、息子たちは土光さんの名前すら知らない。ふと気がつくと、彼らが生まれる前の話であった。
全国各地で講演している某実業家は、こう嘆いていた。
彼のいちばんの持ちネタは、「経営の神様」と言われた松下幸之助だが、50代以下の人たちは松下幸之助も、松下電器も知らないというのだ。
「松下電器じゃないんですよ、パナソニックなんですね。話が通じないんですよ。やりにくくてしようがない」と言うのである。
冷めたトウジンボシに目で話しかけた。
オイ、俺たち、どうやら時代劇の役者になったみたいだぜ。
「食べるか」と30半ばの二人の息子に言う。
「いいや。食べん」。予想通りの反応。
「お腹(の内臓)が苦くて。お父さん、全部食べれば」。これはカミさんのいつもの返事。
新潟の豪雪地帯の生まれで、子どものころは、魚といえば塩ザケや塩マスといった切り身しか食べたことがなかったという。サンマの塩焼きは好物だが、腸(はらわた)は苦手な方なのだ。
「見た目はよくないけど、うまいのになぁ。子どもころ、この干物のことをトウジンボシと言ってた。朝からおふくろが焼いてくれて、よく食べたもんだ」
というわけで、ひとりでムシャムシャ食って、酒をのんでいると、カミさんから「時代劇みたいだね」と言われたのである。
「ほら、箱膳の上に、ご飯と汁物、漬物、そしてメザシが2匹ぐらいのっかっているシーンがあるじゃないの」
ついでに言えば、カミさんの家は大家族で、ひとつの食卓では席数が足りないので、食事は箱膳だったとか。ぼくからすれば、そっちの方がよっぽど時代劇だと思うのだが。
イワシの干物をうまい、うまいと食べている恰好を見られて、時代劇みたいと言われて、じゃあ、いったいオレはなんなんだ、かわいいイワシにも失礼ではないか、とおもった。
ここは一発、「海の米」とも言われるイワシの名誉挽回をしておかなくては。
「メザシはね、あの土光さんの大好物だったんだぞ」
「土光さんって、だれよ」と次男。
「知らないのか、土光敏夫さん。財界トップの経団連の会長もした清廉な、立派な方だよ。臨時行政調査会の会長もやったんだ」
「知らんね」と長男。
メザシの復権を目指すには、土光さんを持ちだすのが最高の切り札である。メザシと言えば、土光さん。有名な話なのだ。だが、息子たちは土光さんの名前すら知らない。ふと気がつくと、彼らが生まれる前の話であった。
全国各地で講演している某実業家は、こう嘆いていた。
彼のいちばんの持ちネタは、「経営の神様」と言われた松下幸之助だが、50代以下の人たちは松下幸之助も、松下電器も知らないというのだ。
「松下電器じゃないんですよ、パナソニックなんですね。話が通じないんですよ。やりにくくてしようがない」と言うのである。
冷めたトウジンボシに目で話しかけた。
オイ、俺たち、どうやら時代劇の役者になったみたいだぜ。
足立山が育ててくれた ― 2021年02月10日 09時36分

標高597.8メートル、北九州市の小倉の東南にある足立山は鹿児島の桜島と共に、ぼくを育ててくれた山である。
小学5年生に上がるとき、ぼくは鹿児島の桜島の南方の小さな港町から当時の小倉市に引っ越してきた。海、川、山が身近にあった鹿児島と違って、そこには山しかなかった。当時の家の目の前に聳える足立山である。
照葉樹と広葉樹が混在する山腹の雑木林は、ぼくひとりの運動場だった。細い登山道からケモノ道へと分け入り、柴犬のオスの雑種犬・ジョンと一緒にシイやカシ、クスノキなどの鬱蒼とした木陰、クヌギやナラ、ハギ、ヤマザクラ等の明るい木立ちの中を走りまわったものだ。子どものころから父にくっついて、もっと深い山の中を歩いていたから、この程度の山は怖くもなんともなかった。
いい枝ぶりを見つけると鉈(なた)で切り落として木刀をつくった。まるで忍者ごっこに熱中していたようで、高校生にしてその幼稚なこと、とても人前でしゃべれるようなものではないが、それだけ都会(当時のぼくには小倉は大きな都市であった)の生活になじめなかったのである。
鹿児島の小学校は生徒30人ほどの2クラス、それが小倉では50人で6クラスもあった。
初めて小倉の小学校に登校した日に、クラスの生徒たちから鹿児島弁を笑われた。転校生の宿命か、みんなの様子をうかがうようにして、桜島が爆発する話も、蒸気機関車に乗っていたことも、友だちと船をこいで遊びまわったことも、ウナギの手づかみも、イルカが泳いでいたことも、トンビのタローのことも、潜水艦が来たことも、防空壕の探検のことも、彼らの知らない体験を自分の方から話しかけることはしなかった。それよりも新しい同級生たちの話題の中に入っていく方がよさそうだと思ったのである。
夫婦ゲンカが絶えない家も、漫然と入学した高校もおもしろくなかった。家で教科書を開くこともなかった。試験の前夜に取り出した数学の教科書には、一緒にカバンに入れていた弁当の茶色の汁が接着剤のようにこびりついていた。
そんなある日、ぼくはひとりで足立山に登った。そして、その山頂近くに自生している樹木の枝先が水平にならされていて、ちょうどベッドのようになっていることを発見したのだ。吹きつける強風のせいで、全部の細い枝が横向きにそろって、一枚板のように倒れていた。
ぼくはよろこんで木によじ登り、畳二枚分ほどの天然のベッドに寝転がった。ちょうどいい具合の弾力で、麓から吹き上げて、ほほをなでる風がここちよい。
からだを横にすると、眼下に芥子粒ほどのわが家が見える。小倉の街並みも、もっと先には薄い灰色の靄(もや)に包まれている戸畑の工場群も見えた。寝ながらにして、遠くまで下界を見下ろす気分は、どこかでぼくの狭い世界観を一変させた。
こんなミニチュアのような町に、大勢の人たちが暮らしている。あの一軒一軒の中で家族が暮らしている。バスに乗っている人もいる。でも、世界はもっと広い。こんな狭い町には居られない、そうおもった。
そのとき、ぼくは覚醒したのである。
そうだ、この木のように、もっと大きな、この木のようになろうと。枝打ちをされて、成績を競い合うように高く伸びるだけの杉の木にはなりたくない。強い風が来たら、一発で倒れてしまう。それよりも、この名もない、ごつごつした木のように、背丈は低くても、横にも、斜めにも自由に枝を伸ばして、激しい雨や風にも負けない木になろうと。
嵐が来たら、鳥たちが身を守るために集まってくる木になろう。枝先をあちこちに伸ばして、もし、悪いものぶつかって、枝先の葉が枯れるようなことがあっても、それはそれでいい。本体の幹はびくともしない、そしてまた新しい枝や葉をつける木になろうと。
どこに行っても、何をやっても、怖いものなんてない。そのためにはもっと自分の世界をひろげて、もっ栄養を吸収して、がっちり根を張らねば……。
ぼくはあやふやだった自分の生き方に一本の道筋が見えたような気持ちになった。そんな考えをまとめて、自分なりに「ブランコ哲学」と名づけたことが昨日のようである。
この通りに生きて来たとは言い難いが、ずいぶんあちこちで道草を食ってきたのも、苦い思いをいっぱいしてきたのも、根底にそういう考え方があったから、という気がする。
20数年前、ぼくたちの世代が幹事を務めた高校の同窓会に参加したとき、ほとんど口を聞いたことのない1年、3年のときの同級生から声をかけられた。卒業以来の再会だった。
「高校の3年間、俺はお前のことをずっと見ていた。お前は2年生のときから急に学問を始めたよな。学校の勉強じゃなくて、学問をやりだしただろ。お前が変わったことを、俺はわかっていた。今日はこのことを言いたくて来たんだ」
突然、そう言われて、びっくりした。
彼もまた同じ教室で、同じように悩む日々を過ごしていたのだろう。そのときぼくの胸の中に、あの足立山の木の枝のベッドで感じた風が笑いながら吹きわたったことを思い出す。
小学5年生に上がるとき、ぼくは鹿児島の桜島の南方の小さな港町から当時の小倉市に引っ越してきた。海、川、山が身近にあった鹿児島と違って、そこには山しかなかった。当時の家の目の前に聳える足立山である。
照葉樹と広葉樹が混在する山腹の雑木林は、ぼくひとりの運動場だった。細い登山道からケモノ道へと分け入り、柴犬のオスの雑種犬・ジョンと一緒にシイやカシ、クスノキなどの鬱蒼とした木陰、クヌギやナラ、ハギ、ヤマザクラ等の明るい木立ちの中を走りまわったものだ。子どものころから父にくっついて、もっと深い山の中を歩いていたから、この程度の山は怖くもなんともなかった。
いい枝ぶりを見つけると鉈(なた)で切り落として木刀をつくった。まるで忍者ごっこに熱中していたようで、高校生にしてその幼稚なこと、とても人前でしゃべれるようなものではないが、それだけ都会(当時のぼくには小倉は大きな都市であった)の生活になじめなかったのである。
鹿児島の小学校は生徒30人ほどの2クラス、それが小倉では50人で6クラスもあった。
初めて小倉の小学校に登校した日に、クラスの生徒たちから鹿児島弁を笑われた。転校生の宿命か、みんなの様子をうかがうようにして、桜島が爆発する話も、蒸気機関車に乗っていたことも、友だちと船をこいで遊びまわったことも、ウナギの手づかみも、イルカが泳いでいたことも、トンビのタローのことも、潜水艦が来たことも、防空壕の探検のことも、彼らの知らない体験を自分の方から話しかけることはしなかった。それよりも新しい同級生たちの話題の中に入っていく方がよさそうだと思ったのである。
夫婦ゲンカが絶えない家も、漫然と入学した高校もおもしろくなかった。家で教科書を開くこともなかった。試験の前夜に取り出した数学の教科書には、一緒にカバンに入れていた弁当の茶色の汁が接着剤のようにこびりついていた。
そんなある日、ぼくはひとりで足立山に登った。そして、その山頂近くに自生している樹木の枝先が水平にならされていて、ちょうどベッドのようになっていることを発見したのだ。吹きつける強風のせいで、全部の細い枝が横向きにそろって、一枚板のように倒れていた。
ぼくはよろこんで木によじ登り、畳二枚分ほどの天然のベッドに寝転がった。ちょうどいい具合の弾力で、麓から吹き上げて、ほほをなでる風がここちよい。
からだを横にすると、眼下に芥子粒ほどのわが家が見える。小倉の街並みも、もっと先には薄い灰色の靄(もや)に包まれている戸畑の工場群も見えた。寝ながらにして、遠くまで下界を見下ろす気分は、どこかでぼくの狭い世界観を一変させた。
こんなミニチュアのような町に、大勢の人たちが暮らしている。あの一軒一軒の中で家族が暮らしている。バスに乗っている人もいる。でも、世界はもっと広い。こんな狭い町には居られない、そうおもった。
そのとき、ぼくは覚醒したのである。
そうだ、この木のように、もっと大きな、この木のようになろうと。枝打ちをされて、成績を競い合うように高く伸びるだけの杉の木にはなりたくない。強い風が来たら、一発で倒れてしまう。それよりも、この名もない、ごつごつした木のように、背丈は低くても、横にも、斜めにも自由に枝を伸ばして、激しい雨や風にも負けない木になろうと。
嵐が来たら、鳥たちが身を守るために集まってくる木になろう。枝先をあちこちに伸ばして、もし、悪いものぶつかって、枝先の葉が枯れるようなことがあっても、それはそれでいい。本体の幹はびくともしない、そしてまた新しい枝や葉をつける木になろうと。
どこに行っても、何をやっても、怖いものなんてない。そのためにはもっと自分の世界をひろげて、もっ栄養を吸収して、がっちり根を張らねば……。
ぼくはあやふやだった自分の生き方に一本の道筋が見えたような気持ちになった。そんな考えをまとめて、自分なりに「ブランコ哲学」と名づけたことが昨日のようである。
この通りに生きて来たとは言い難いが、ずいぶんあちこちで道草を食ってきたのも、苦い思いをいっぱいしてきたのも、根底にそういう考え方があったから、という気がする。
20数年前、ぼくたちの世代が幹事を務めた高校の同窓会に参加したとき、ほとんど口を聞いたことのない1年、3年のときの同級生から声をかけられた。卒業以来の再会だった。
「高校の3年間、俺はお前のことをずっと見ていた。お前は2年生のときから急に学問を始めたよな。学校の勉強じゃなくて、学問をやりだしただろ。お前が変わったことを、俺はわかっていた。今日はこのことを言いたくて来たんだ」
突然、そう言われて、びっくりした。
彼もまた同じ教室で、同じように悩む日々を過ごしていたのだろう。そのときぼくの胸の中に、あの足立山の木の枝のベッドで感じた風が笑いながら吹きわたったことを思い出す。
ヒヨドリよ、打ち明けたいことがある ― 2021年02月11日 16時20分

室見川沿いの道を歩いていると、桜の枝先にヒヨドリが6、7羽ほど止まっていた。
彼らが大好きな満開の桜まで、あとひと月半ほど。冬場だから、エサに困っているのかもしれないとまわりを見たら、すぐ近くの畑に白菜が列になって植えられていた。
そうか、ヒヨドリは白菜も食べるのだった。半分に切ったスイカの赤い果肉をスプーンですくい取るように、ヒヨドリは白菜の芯のところをきれいにえぐり取って食べる。残された外側の葉っぱはインスタントラーメンのカップのようになる。少なくとも、このあたりでは食べものには困っていないようである。
小学生のころ、ヒヨドリを獲ってみたくて、家の近くの雑木林の中にワナを仕掛けたことがある。
動機は、母方の叔父が「ヒヨドリは頭が悪くて、簡単にワナにかかる。子どものころ、よくつかまえて、焼いて食ったものだ。あれはうまい鳥だ」と話しているのを聞いたから。ぼくもやってみようとおもったのだ。
ワナの作り方は父から教えてもらっていた。まずバネとなる背丈の低い竹や木の枝があって、野鳥が来そうな場所を選ぶ。そして、その竹や木の枝にタコ糸を結びつけて、左右に伸ばした2本の糸の先のそれぞれに、10センチほどの細い棒きれの両端を結ぶ。
次に地面に太い棒を軽く固定して、先ほどの細い棒をその下にくぐらせて上に持ってくる。太い棒はガッチリ動かないように固定する。
それからもう1本の糸を同じ竹か枝の、同じところに結んで、地面から4~6センチほど上まで垂らして、その先にカギ形になっている細く短い枝を……、
ああ、こうして書くよりも、作るところを見てもらう方がわかりやすい。
ぼくらの世代は野鳥を獲るワナの作り方も、エサとなる木の実のことも、カニや魚を突く銛(もり)の作り方も、そして自転車のパンク修理まで、大人や近所のお兄さんがやっているところを見ながら覚えたものだ。
初めて自分ひとりの力で、ここぞという場所にワナを仕掛けたときは、胸がどきどきした。ヒヨドリがかかっていたら、糸を結んだ枝のバネの力で、上と下の棒の間に挟まれているはずである。
翌日も、その翌日も、何度も仕掛けた場所に行ってみた。
しかし、ヒヨドリがやってきた形跡はどこにもなかった。かかってくれと期待する一方で、かからないでくれ、という気持ちも強かった。
そこで、さらなる研究と技術開発をしなかったから、ぼくは焼いたヒヨドリの姿も、おいしさも知らない。いまでもじっと見るだけである。
彼らが大好きな満開の桜まで、あとひと月半ほど。冬場だから、エサに困っているのかもしれないとまわりを見たら、すぐ近くの畑に白菜が列になって植えられていた。
そうか、ヒヨドリは白菜も食べるのだった。半分に切ったスイカの赤い果肉をスプーンですくい取るように、ヒヨドリは白菜の芯のところをきれいにえぐり取って食べる。残された外側の葉っぱはインスタントラーメンのカップのようになる。少なくとも、このあたりでは食べものには困っていないようである。
小学生のころ、ヒヨドリを獲ってみたくて、家の近くの雑木林の中にワナを仕掛けたことがある。
動機は、母方の叔父が「ヒヨドリは頭が悪くて、簡単にワナにかかる。子どものころ、よくつかまえて、焼いて食ったものだ。あれはうまい鳥だ」と話しているのを聞いたから。ぼくもやってみようとおもったのだ。
ワナの作り方は父から教えてもらっていた。まずバネとなる背丈の低い竹や木の枝があって、野鳥が来そうな場所を選ぶ。そして、その竹や木の枝にタコ糸を結びつけて、左右に伸ばした2本の糸の先のそれぞれに、10センチほどの細い棒きれの両端を結ぶ。
次に地面に太い棒を軽く固定して、先ほどの細い棒をその下にくぐらせて上に持ってくる。太い棒はガッチリ動かないように固定する。
それからもう1本の糸を同じ竹か枝の、同じところに結んで、地面から4~6センチほど上まで垂らして、その先にカギ形になっている細く短い枝を……、
ああ、こうして書くよりも、作るところを見てもらう方がわかりやすい。
ぼくらの世代は野鳥を獲るワナの作り方も、エサとなる木の実のことも、カニや魚を突く銛(もり)の作り方も、そして自転車のパンク修理まで、大人や近所のお兄さんがやっているところを見ながら覚えたものだ。
初めて自分ひとりの力で、ここぞという場所にワナを仕掛けたときは、胸がどきどきした。ヒヨドリがかかっていたら、糸を結んだ枝のバネの力で、上と下の棒の間に挟まれているはずである。
翌日も、その翌日も、何度も仕掛けた場所に行ってみた。
しかし、ヒヨドリがやってきた形跡はどこにもなかった。かかってくれと期待する一方で、かからないでくれ、という気持ちも強かった。
そこで、さらなる研究と技術開発をしなかったから、ぼくは焼いたヒヨドリの姿も、おいしさも知らない。いまでもじっと見るだけである。
なかにし礼さんの作詞修行 ― 2021年02月12日 16時31分
ここ数日の新聞のテレビ番組欄に、作詞家のなかにし礼さんの特集番組をよく見かける。彼が昨年暮れに病気で亡くなってから、同じような番組が何回も放送されている。たぶん彼がつくった詞には、時代を共にした中高年の人たちの胸に響くものがあるのだろう。
今日はなかにしさんの若いころの苦闘をしっかり記憶しておくために書いておく。
その話は、2003年10月5日の日本経済新聞の連載記事「半歩遅れの読書術」に久世光彦さんが寄せたエッセイの中にある。タイトルは「言葉になじむ」。
ぼくはあるところで講師をしたとき、受講生のみなさんにその紙面をコピーして配ったことがある。ぜひ、読んでもらいたかったのだ。
久世さんは15年前に亡くなったが、彼もまた名うての名文家だった。
以下、該当の文章をそのまま書き写す。
――なかにし礼さんは、シャンソンの訳詞をしながら、歌謡曲の作詞家を志していた。ある日思い立って、明治末から現代までのヒット曲の歌詞を、片っ端から原稿用紙に筆写しはじめた。〈裏町人生〉や〈明治一代女〉など、何百回写したかしれない。そして、〈悲しみの眼の中を/あの人が逃げる〉や〈私の胸にぽっかりあいた/小さな穴から青空が見える〉といった、なかにし礼の名文句は生まれた――
これを読むと、無名だったころのなかにしさんが部屋に閉じこもって、毎日、毎日、ただひたすらにヒットした歌謡曲の歌詞を書き写している姿が目に浮かぶ。それも同じ歌詞を何十回も、何百回も。
きっと声をだして、何度も、何度も、読み返していたに違いない。とっくに暗記しているはずだが、ご本人にはそれでもまだ足りない、書き写している歌詞の一つひとつの言葉やリズムと自分の感覚にはまだ距離がある、そう感じていたのではあるまいか。
一心不乱にひとつのことを究めようとする真摯な迫力が伝わって来るようである。そして、久世さん本人も似たようなことをやっていた。
こうした実話は、次の世代にも伝えた方がよいとおもっている。ちなみに、ぼくは作家・なかにし礼の壮絶な自伝『兄弟』を読んで、作詞家としての代表作のひとつである『石狩挽歌』がますます好きになった。
■『兄弟』(文庫本)が見当たらないので、見つかったら、その写真を載せます。
■追記 『兄弟』はどうやら処分したらしい。作中、ニシン漁をめぐる実話が印象的だった。本の写真の代わりに、北原ミレイもいいけど、八代亜紀の『石狩挽歌』の歌声を。
https://www.youtube.com/watch?v=vlSYxEr8OiY&list=PLQh_yjSFsDFn80L0FPNi8wSyfqrRjZ5pb
今日はなかにしさんの若いころの苦闘をしっかり記憶しておくために書いておく。
その話は、2003年10月5日の日本経済新聞の連載記事「半歩遅れの読書術」に久世光彦さんが寄せたエッセイの中にある。タイトルは「言葉になじむ」。
ぼくはあるところで講師をしたとき、受講生のみなさんにその紙面をコピーして配ったことがある。ぜひ、読んでもらいたかったのだ。
久世さんは15年前に亡くなったが、彼もまた名うての名文家だった。
以下、該当の文章をそのまま書き写す。
――なかにし礼さんは、シャンソンの訳詞をしながら、歌謡曲の作詞家を志していた。ある日思い立って、明治末から現代までのヒット曲の歌詞を、片っ端から原稿用紙に筆写しはじめた。〈裏町人生〉や〈明治一代女〉など、何百回写したかしれない。そして、〈悲しみの眼の中を/あの人が逃げる〉や〈私の胸にぽっかりあいた/小さな穴から青空が見える〉といった、なかにし礼の名文句は生まれた――
これを読むと、無名だったころのなかにしさんが部屋に閉じこもって、毎日、毎日、ただひたすらにヒットした歌謡曲の歌詞を書き写している姿が目に浮かぶ。それも同じ歌詞を何十回も、何百回も。
きっと声をだして、何度も、何度も、読み返していたに違いない。とっくに暗記しているはずだが、ご本人にはそれでもまだ足りない、書き写している歌詞の一つひとつの言葉やリズムと自分の感覚にはまだ距離がある、そう感じていたのではあるまいか。
一心不乱にひとつのことを究めようとする真摯な迫力が伝わって来るようである。そして、久世さん本人も似たようなことをやっていた。
こうした実話は、次の世代にも伝えた方がよいとおもっている。ちなみに、ぼくは作家・なかにし礼の壮絶な自伝『兄弟』を読んで、作詞家としての代表作のひとつである『石狩挽歌』がますます好きになった。
■『兄弟』(文庫本)が見当たらないので、見つかったら、その写真を載せます。
■追記 『兄弟』はどうやら処分したらしい。作中、ニシン漁をめぐる実話が印象的だった。本の写真の代わりに、北原ミレイもいいけど、八代亜紀の『石狩挽歌』の歌声を。
https://www.youtube.com/watch?v=vlSYxEr8OiY&list=PLQh_yjSFsDFn80L0FPNi8wSyfqrRjZ5pb
カササギに出会う ― 2021年02月13日 10時56分

室見川の近くを歩いていると空地にカササギがいた。カラスよりもひとまわり小さくて、白と黒のシャープなツートンカラーだから、すぐわかった。
カシャッ、カシャッと鳴きながら、長い尾を伸ばして、ゆっくりはばたく姿は、舞いを演じる役者のようで、そんじょそこらの小さな鳥とは格が違うという感じである。あまり人を恐れないのは雑食性のカラス科の仲間という性質の成すところかもしれない。
このあたりの室見川の土手には桜並木があって、花見のシーズンには大勢の人がやって来る。
約50年前、川沿いの畑に住宅公団の団地ができたとき、入居した住民たちの間から「室見川の堤防に桜を植えよう」という声があがった。
室見川は二級河川だから、建設省(当時)の管轄で勝手に木を植えることは禁じられている。ところが、時代の先端を行く真新しい団地に入居した人たちは、いまから自分たちの町をつくるんだという意識と行動力があった。彼らの粘り強い働きかけで、いまの桜並木ができたという歴史がある。
以上は、団地開設のときからの住民の方に聞いた話である。
だが、そんな歴史の証人はほとんどいなくなってしまった。桜の木も年老いて、桜並木のあちこちが歯抜けのようになっている。
その残った桜の木のてっぺんあたりにカササギは巣をつくる。そこで産卵して、子孫を残す。いまは撤去されているが、昨年の秋にはその巣跡が三つ、四つあった。もしかしたら、このカササギも室見川の桜並木で生まれたのかもしれない。
ここ数年、いやもっと前から、冬に訪れるツグミも、もうすぐやってくるツバメも、あんなに群れて飛んでいたカワラヒワも、目に見えて少なくなった。スズメも数がぐんと減っている。
いま時分はカササギの巣づくりのシーズンである。桜並木があって、カササギがいてくれてよかった。若葉のころにはかわいい子どもを見守りながら、ゆっくり飛びまわる姿が見られることだろう。
■カササギは佐賀平野に多く、生息地を定めた国の天然記念物になっている。室見川に隣接した住宅公団の敷地の中に、カササギが飛んで来るようになったのは、ここ数年のこと。これもまた環境の変化によるものだろうか。
カシャッ、カシャッと鳴きながら、長い尾を伸ばして、ゆっくりはばたく姿は、舞いを演じる役者のようで、そんじょそこらの小さな鳥とは格が違うという感じである。あまり人を恐れないのは雑食性のカラス科の仲間という性質の成すところかもしれない。
このあたりの室見川の土手には桜並木があって、花見のシーズンには大勢の人がやって来る。
約50年前、川沿いの畑に住宅公団の団地ができたとき、入居した住民たちの間から「室見川の堤防に桜を植えよう」という声があがった。
室見川は二級河川だから、建設省(当時)の管轄で勝手に木を植えることは禁じられている。ところが、時代の先端を行く真新しい団地に入居した人たちは、いまから自分たちの町をつくるんだという意識と行動力があった。彼らの粘り強い働きかけで、いまの桜並木ができたという歴史がある。
以上は、団地開設のときからの住民の方に聞いた話である。
だが、そんな歴史の証人はほとんどいなくなってしまった。桜の木も年老いて、桜並木のあちこちが歯抜けのようになっている。
その残った桜の木のてっぺんあたりにカササギは巣をつくる。そこで産卵して、子孫を残す。いまは撤去されているが、昨年の秋にはその巣跡が三つ、四つあった。もしかしたら、このカササギも室見川の桜並木で生まれたのかもしれない。
ここ数年、いやもっと前から、冬に訪れるツグミも、もうすぐやってくるツバメも、あんなに群れて飛んでいたカワラヒワも、目に見えて少なくなった。スズメも数がぐんと減っている。
いま時分はカササギの巣づくりのシーズンである。桜並木があって、カササギがいてくれてよかった。若葉のころにはかわいい子どもを見守りながら、ゆっくり飛びまわる姿が見られることだろう。
■カササギは佐賀平野に多く、生息地を定めた国の天然記念物になっている。室見川に隣接した住宅公団の敷地の中に、カササギが飛んで来るようになったのは、ここ数年のこと。これもまた環境の変化によるものだろうか。
室見川にサクラ咲く ― 2021年02月15日 11時34分

雨上がりの朝方、室見川の河畔に出た。人の姿がないので、うっとうしいマスクを外す。川は風の通り道になっていて、ふつうに息をするだけで生き返ったような心もちになる。
少し下流に行けば福重橋。長さ40メートルほどの橋をわたると早良区から西区になる。
川ひとつ越えたこの周辺には、のんびりとした田園の情景が残っている。黄色に染まった菜の花やエンドウの白い花が咲いている畑がそこらにあって、広い庭に純日本風の大きな建屋が目立つ農家も点在している。
近在の農家がつくる農作物を扱う直売所もあって、先日、買い物に行ったら、いちばん安い大根が70円、葉っぱのついた小ぶりの白いカブは5個で90円、キャベツも、ななばの束も100円だった。いずれも採りたてで、パリッと新鮮である。
川筋を上流に800メートルほど進むと小さな橋がある。橋本橋という。上から読んでも、下から読んでも橋本橋。
このあたりの町名は橋本だから、橋本橋なのか。それとも、まず名前のない橋があって、そこから橋本という土地の名前が生まれて、その後で昔からあったその橋を橋本橋と呼ぶようになったのか。ちょっと混乱しそうになるが、いずれにしても覚えやすい名前である。
その橋本橋をわたって、再び早良区に戻り、今度は下流へ歩く。こうやって室見川の河畔を一周して帰って来るまで約30分かかる。ぼくにとって、朝の散歩はこれぐらいがちょうどいい。
帰り道、堤防に立ち並ぶ桜の木の一本に、ちらほら白いモノが見えた。もしやと近づくと、やっぱり桜の花だった。
桜の花を見ると、理屈ぬきで幸せな気分になる。若いころよりもその気持ちは強くなった。今日、散歩に出てよかった。
昨日の福岡市の最高気温は20.8度。このところの陽気で一気に開花したのだろう。そういえば室見川のカモたちも少なくなった。ユリカモメも見なかった。
今年はコロナ禍のせいで、室見川の春の風物詩であるシロウオ漁も中止になり、遡上して来るシロウオを生け捕りする簗(やな)の仕掛けもない。だから室見川の春を告げる、定番のテレビニュースもない。
だが、人の手でつくる春の風景の演出はなくても、こうして外を歩けばよい。野菜も、鳥も、桜の木も、季節が刻々と変わっていく様子をきちんと教えてくれる。
少し下流に行けば福重橋。長さ40メートルほどの橋をわたると早良区から西区になる。
川ひとつ越えたこの周辺には、のんびりとした田園の情景が残っている。黄色に染まった菜の花やエンドウの白い花が咲いている畑がそこらにあって、広い庭に純日本風の大きな建屋が目立つ農家も点在している。
近在の農家がつくる農作物を扱う直売所もあって、先日、買い物に行ったら、いちばん安い大根が70円、葉っぱのついた小ぶりの白いカブは5個で90円、キャベツも、ななばの束も100円だった。いずれも採りたてで、パリッと新鮮である。
川筋を上流に800メートルほど進むと小さな橋がある。橋本橋という。上から読んでも、下から読んでも橋本橋。
このあたりの町名は橋本だから、橋本橋なのか。それとも、まず名前のない橋があって、そこから橋本という土地の名前が生まれて、その後で昔からあったその橋を橋本橋と呼ぶようになったのか。ちょっと混乱しそうになるが、いずれにしても覚えやすい名前である。
その橋本橋をわたって、再び早良区に戻り、今度は下流へ歩く。こうやって室見川の河畔を一周して帰って来るまで約30分かかる。ぼくにとって、朝の散歩はこれぐらいがちょうどいい。
帰り道、堤防に立ち並ぶ桜の木の一本に、ちらほら白いモノが見えた。もしやと近づくと、やっぱり桜の花だった。
桜の花を見ると、理屈ぬきで幸せな気分になる。若いころよりもその気持ちは強くなった。今日、散歩に出てよかった。
昨日の福岡市の最高気温は20.8度。このところの陽気で一気に開花したのだろう。そういえば室見川のカモたちも少なくなった。ユリカモメも見なかった。
今年はコロナ禍のせいで、室見川の春の風物詩であるシロウオ漁も中止になり、遡上して来るシロウオを生け捕りする簗(やな)の仕掛けもない。だから室見川の春を告げる、定番のテレビニュースもない。
だが、人の手でつくる春の風景の演出はなくても、こうして外を歩けばよい。野菜も、鳥も、桜の木も、季節が刻々と変わっていく様子をきちんと教えてくれる。
わからないのよ、女の歳は ― 2021年02月16日 15時21分

調子がいいよなぁ、と半ばあきれつつも、感心させられる人がいる。もう何年もお会いしていないSさんもそのひとり。お歳はぼくよりも少しだけ上だが、ずっと若々しく見える。
30代で夫に先立たれて、女の手ひとつで娘さんを育てあげたとか。しかし、その苦労話は一度も聞いたことがない。ときたま連絡があって、出かけて行くと、彼女の用件はいつもカネ儲けの話。それも会うたびに中身が違っていた。
「これを見て。ほら、こうして傾けると、光が反射して、描いてある絵がいろいろ変化するでしょ。船の絵とか、お花の絵とか、いろいろあるの。きれいでしょ。売れるのよ、これが」
「この端末を体に当てると、血液の流れを科学的に分析して、からだのどこが悪いのか、一発でわかるの。だから、こっそり使っている医者もいるのよね。ドイツ製の医療機械で、福岡市でこの機械を持っているのはわたしだけなの。奥さんの調子はどう? 特別に一回、2000円で診てあげようか」
「この前から健康食品の組織販売をやり始めたの。もう、わたしの下に会員が100人もいるのよ。この組織は立ち上がったばかりだから、わたしの階級は上の方で、もうすぐ毎月100万円入ってくるの。やっとわたしの夢がかなったのよ。早い者勝ちよ。だから、あなたに教えてあげるの」
まぁ、こういった話。眉につばを大量に塗りながら聞かないと、えらいことになりかねない。なかなかの行動派で、物怖じするところを見たことがない。そして、言い方は悪いが、ちょっと表街道では耳に入ってこないような情報を持っていらっしゃる。
こういう人は見かけによらず、顔が広いので、お付き合いは少々、慎重を要する。小柄で、かわいい顔だち、いつもこざっぱりした服装をしていて、声も若い。どことなく正体不明、実年齢もわかりにくい人なのだ。
ご本人もそのことを十分、計算に入れているようで、こんな話を打ち明けてくれた。カネ儲けの仕事で、東京まで出かけたときの「変身の術」について、である。
「電車に乗ったら、わざとよろよろ歩くの。そしたら、だれか声をかけてくれるでしょ。そこで、わたし、81歳のおばあさんだから、頭がぼけちゃって、と言うの。相手の人は、まぁ、お若く見えますね、とびっくりして、やさしくしてくれるでしょ。その方が女性だったら話も弾んで、すぐお友だちになれるじゃない」
なぜか、80歳ではなくて、81歳の方がいいのよと言う。芸が細かいのである。
「55歳、と言うときもあるのよ。そういうときはね、わたし、若いころから老けて見られる方ですから、と言うの。そうすると、相手は、あっ、そんなにお若いんですか、という顔をするの。おもしろいわよ。それならまだまだ仕事を任せても大丈夫だと思われるでしょ」
思わず、彼女の顔を見て、ちょっとやり過ぎじゃないの、と言ってみた。すると、
「男の人にはわからないのよ! 女の歳は!」
スマホに登録している連絡先を整理しようとして、リストを見ていたら、Sさんの名前が出て来た。彼女は福岡市内のマンションを処分して、「ひと旗上げてみせる」と東京へ行ったきり、音信がない。でも、彼女の連絡先は消さないでおこう。お会いするのが楽しい人である。いつかまた「いいお話があるのよ」と電話がかかってくるかもしれない。
■写真と本文は関係ありません。
30代で夫に先立たれて、女の手ひとつで娘さんを育てあげたとか。しかし、その苦労話は一度も聞いたことがない。ときたま連絡があって、出かけて行くと、彼女の用件はいつもカネ儲けの話。それも会うたびに中身が違っていた。
「これを見て。ほら、こうして傾けると、光が反射して、描いてある絵がいろいろ変化するでしょ。船の絵とか、お花の絵とか、いろいろあるの。きれいでしょ。売れるのよ、これが」
「この端末を体に当てると、血液の流れを科学的に分析して、からだのどこが悪いのか、一発でわかるの。だから、こっそり使っている医者もいるのよね。ドイツ製の医療機械で、福岡市でこの機械を持っているのはわたしだけなの。奥さんの調子はどう? 特別に一回、2000円で診てあげようか」
「この前から健康食品の組織販売をやり始めたの。もう、わたしの下に会員が100人もいるのよ。この組織は立ち上がったばかりだから、わたしの階級は上の方で、もうすぐ毎月100万円入ってくるの。やっとわたしの夢がかなったのよ。早い者勝ちよ。だから、あなたに教えてあげるの」
まぁ、こういった話。眉につばを大量に塗りながら聞かないと、えらいことになりかねない。なかなかの行動派で、物怖じするところを見たことがない。そして、言い方は悪いが、ちょっと表街道では耳に入ってこないような情報を持っていらっしゃる。
こういう人は見かけによらず、顔が広いので、お付き合いは少々、慎重を要する。小柄で、かわいい顔だち、いつもこざっぱりした服装をしていて、声も若い。どことなく正体不明、実年齢もわかりにくい人なのだ。
ご本人もそのことを十分、計算に入れているようで、こんな話を打ち明けてくれた。カネ儲けの仕事で、東京まで出かけたときの「変身の術」について、である。
「電車に乗ったら、わざとよろよろ歩くの。そしたら、だれか声をかけてくれるでしょ。そこで、わたし、81歳のおばあさんだから、頭がぼけちゃって、と言うの。相手の人は、まぁ、お若く見えますね、とびっくりして、やさしくしてくれるでしょ。その方が女性だったら話も弾んで、すぐお友だちになれるじゃない」
なぜか、80歳ではなくて、81歳の方がいいのよと言う。芸が細かいのである。
「55歳、と言うときもあるのよ。そういうときはね、わたし、若いころから老けて見られる方ですから、と言うの。そうすると、相手は、あっ、そんなにお若いんですか、という顔をするの。おもしろいわよ。それならまだまだ仕事を任せても大丈夫だと思われるでしょ」
思わず、彼女の顔を見て、ちょっとやり過ぎじゃないの、と言ってみた。すると、
「男の人にはわからないのよ! 女の歳は!」
スマホに登録している連絡先を整理しようとして、リストを見ていたら、Sさんの名前が出て来た。彼女は福岡市内のマンションを処分して、「ひと旗上げてみせる」と東京へ行ったきり、音信がない。でも、彼女の連絡先は消さないでおこう。お会いするのが楽しい人である。いつかまた「いいお話があるのよ」と電話がかかってくるかもしれない。
■写真と本文は関係ありません。
東大合格、胴上げ異聞 ― 2021年02月18日 11時24分

本当はそうだったのかと、後からわかることがある。
桜の花の下で、ヤッターとよろこぶ大きな声。笑顔いっぱいの受験生が友だちから胴上げされる…。親と一緒にいたころ、毎年のようにそんなニュースをテレビでよく見た。
それから数年後、週刊誌のフリー記者として、東大の合格発表を取材した。目の前でまったく同じことが起きた。
脚立の上で待ち構えていたテレビ局や新聞社のカメラマンがいっせいにレンズを向ける。カメラマンのリクエストに応えて、またにぎやかに胴上げが繰り返される。
本当のことがわかったのは、それから後のことだった。
締め切りが迫っているテレビや新聞の記者たちは「絵になるシーン」をおさえるのが勝負で、さっさと引き上げたが、雑誌の記者は違う。騒ぎが落ち着いたころを見計らって、本人直撃の取材をするのが仕事である。
氏名、出身校、志望目的、合格するまでの勉強のこと、家族構成などを聞いているうちに、東大の合格者が語る勉強法とか、実は甲子園に出たことがある、母子家庭だった、夜間高校に通っていたなど、いろんな切り口が出てくる。それらの情報をつかまえて記事にするために、聞きたいことは山のようにあった。
ところが、である。目の前で胴上げをしていた数人の若者たちは、その日発表された合格者ではなかったのだ。エーッ、ウッソー、ホントニー、であった。
彼らは確かに東大に合格していた。ただし、それは去年の話で、実際に通っている大学は慶応の医学部だった。つまり、東大にも合格した慶應の学生たちが、翌年の東大の合格発表の場に集まって、盛大に合格祝いの胴上げをやっていた、というわけである。
なんのことはない、報道関係者も含めて、まわりにいた人たちも、みな騙されていたことになる。
なぜ、そんなことをしたのか。本人たちに話を聞くと、こういうことだった。
彼らはみな医者になりたくて、東大の医学部を目指していた。しかし、直前のテストの成績がその合格ラインよりも下だったので、第二志望の慶應の医学部を受けて合格した。そして、腕試しに、東大は医学部以外を受験した。そういう仲間たちだったのである。
自分は東大生だという証拠も持っていて、こちらから何も注文していないのに、全員がうれしそうに東大の学生証をぼくに見せてくれた。たぶん、一生の宝モノなのだろう。
「わかるでしょ。ぼくたち東大生なんです。今日は合格発表を盛り上げようと集まりました」
そこまでやるか、とあきれ返ってはいけない。彼らの名誉のために断っておくが、ぜんぜんエリートぶったところのない、明るくて陽気な学生たちだった。
一流企業を退職して、何年も経った後でも、「いやぁ、ぼくはね」と現役時代の肩書きを振りまわす御仁もいらっしゃる。彼らがそういう人間になるかどうかは、また別の問題である。
合格発表の掲示板のまわりにでは、不合格で肩を落として立ち去る高校生や浪人らしき人たちの方が多かった。
地方のごくふつうの高校で劣等生だったぼくは、東大を受験するだけでもたいしたものだとおもう。そして、浪人生活を経験したから、受験に失敗した高校生たちの気持ちはよくわかる。
受験生の諸君には試練の春がもうすぐやってくる。今年もどこかで胴上げのシーンが見られるだろう。受験生の皆さんの健闘を祈る。
本日の昔話はこのへんで。
■写真は、今日の室見川で見かけたユリカモメ。俗に都鳥と言われる。
桜の花の下で、ヤッターとよろこぶ大きな声。笑顔いっぱいの受験生が友だちから胴上げされる…。親と一緒にいたころ、毎年のようにそんなニュースをテレビでよく見た。
それから数年後、週刊誌のフリー記者として、東大の合格発表を取材した。目の前でまったく同じことが起きた。
脚立の上で待ち構えていたテレビ局や新聞社のカメラマンがいっせいにレンズを向ける。カメラマンのリクエストに応えて、またにぎやかに胴上げが繰り返される。
本当のことがわかったのは、それから後のことだった。
締め切りが迫っているテレビや新聞の記者たちは「絵になるシーン」をおさえるのが勝負で、さっさと引き上げたが、雑誌の記者は違う。騒ぎが落ち着いたころを見計らって、本人直撃の取材をするのが仕事である。
氏名、出身校、志望目的、合格するまでの勉強のこと、家族構成などを聞いているうちに、東大の合格者が語る勉強法とか、実は甲子園に出たことがある、母子家庭だった、夜間高校に通っていたなど、いろんな切り口が出てくる。それらの情報をつかまえて記事にするために、聞きたいことは山のようにあった。
ところが、である。目の前で胴上げをしていた数人の若者たちは、その日発表された合格者ではなかったのだ。エーッ、ウッソー、ホントニー、であった。
彼らは確かに東大に合格していた。ただし、それは去年の話で、実際に通っている大学は慶応の医学部だった。つまり、東大にも合格した慶應の学生たちが、翌年の東大の合格発表の場に集まって、盛大に合格祝いの胴上げをやっていた、というわけである。
なんのことはない、報道関係者も含めて、まわりにいた人たちも、みな騙されていたことになる。
なぜ、そんなことをしたのか。本人たちに話を聞くと、こういうことだった。
彼らはみな医者になりたくて、東大の医学部を目指していた。しかし、直前のテストの成績がその合格ラインよりも下だったので、第二志望の慶應の医学部を受けて合格した。そして、腕試しに、東大は医学部以外を受験した。そういう仲間たちだったのである。
自分は東大生だという証拠も持っていて、こちらから何も注文していないのに、全員がうれしそうに東大の学生証をぼくに見せてくれた。たぶん、一生の宝モノなのだろう。
「わかるでしょ。ぼくたち東大生なんです。今日は合格発表を盛り上げようと集まりました」
そこまでやるか、とあきれ返ってはいけない。彼らの名誉のために断っておくが、ぜんぜんエリートぶったところのない、明るくて陽気な学生たちだった。
一流企業を退職して、何年も経った後でも、「いやぁ、ぼくはね」と現役時代の肩書きを振りまわす御仁もいらっしゃる。彼らがそういう人間になるかどうかは、また別の問題である。
合格発表の掲示板のまわりにでは、不合格で肩を落として立ち去る高校生や浪人らしき人たちの方が多かった。
地方のごくふつうの高校で劣等生だったぼくは、東大を受験するだけでもたいしたものだとおもう。そして、浪人生活を経験したから、受験に失敗した高校生たちの気持ちはよくわかる。
受験生の諸君には試練の春がもうすぐやってくる。今年もどこかで胴上げのシーンが見られるだろう。受験生の皆さんの健闘を祈る。
本日の昔話はこのへんで。
■写真は、今日の室見川で見かけたユリカモメ。俗に都鳥と言われる。
立志式に想う 金印倶楽部-2 ― 2021年02月26日 10時42分

梅の花、満開にして、春近し。コロナ禍のなか、例年通りであれば、2月の最終金曜日の今日、福岡市立中学校では立志式がピークを迎える。
立志式と言っても、一般には馴染みの薄い言葉かもしれない。文字通り「志を立てる式」で、その由来は越前の幕末の志士・橋本左内が数え15歳のときに書いた「啓発録」の中の一節、「立志」からとされる。
対象は、左内と同じく15歳を迎える中学2年生。将来に向かって大きな目標を立て、それを成し遂げようと誓い、宣言する式典である。イメージとしては、大人になる儀式だった元服に近い。それだけに生徒にも、教師にとっても、記念碑的な学校行事になっている。
ぼくは金印倶楽部の関係者として、いくつかの立志式に参列したことがある。
この日にそなえて、多くの学校で2年生たちは自分の夢や将来の進路、それを実現する決意などを作文に書く。そして、父兄が見守る教室で一人ひとり発表する。どんな職業を選ぼうとしているのか、何を考えているのか、クラスメイトの意外な側面もわかる特別な授業である。
親の職業を尊敬しています、同じ道に進みます、と力強く述べる生徒もいて、そうなると親御さんの涙腺は一気にゆるみ、あの子がいつの間にか、こんな大人びたことを言うなんて、の連発だった。人目もはばからず、涙をぬぐう姿があちこちに。
立志式では選ばれたクラス代表が2年生全員の前で作文を読み上げる。文章を全部、暗記している生徒もいて、来賓席にいたぼくは、同じ歳のころの自分とは雲泥の差だと、ひたすら感心するばかりであった。
立志をテーマにした作文は原稿用紙に2枚。NHKの「青年の主張」じゃあるまいし、そんな作文なんて、一度も書いたことがないという人も多いのではあるまいか。
担当教師の話によると、原稿用紙は広げたものの、何を書いていいのかわからずに、頭を抱え込む生徒は少なくないとか。そうして悩んで、悩んで、親や教師にも相談して、ひと月以上も時間をかけて、何度も書き直すうちに、生徒たちは目に見えて成長するという。
さて、2017年からスタートした金印倶楽部の立志支援活動にも少しふれておく。(小学校への金印レプリカ贈呈活動は1996年から)
内容は、展示用と教材用の国宝・金印のレプリカの贈呈。併せて、国会議員や知事職の経験者、地元有力企業の元トップなどによる「中学生の立志を励ます講演」の2本立てで、実施した学校からは、来年もお願いしますという声も挙がっていた。
その方面ではご意見番的な存在の講師の方々も、ビジネスマンが相手の講演よりもやりがいを感じたようで、「これからも、よろこんで協力します。いつでも遠慮せずに使ってください」と好評だった。
中学生の立志支援活動を通じて、ぼくは目を開かされたことがある。
それは、日常の景色の一部として、あまり関心もなく眺めていた中学生たちが、実はその若々しい胸の中に、立志の芽を育てていることだった。かれらはみな志を持っている、そのことに気づこうともしなかった。彼らのことをよく見ていなかった。
立志式は中学2年生だけの儀式ではなかった。逆に若い彼らから触発され、少年時代の記憶の箱の中から「志」という言葉を久々に取り出して、わが身の半生をもう一度なぞるようにして振り返らせてくれたのである。
昨年末に解散した金印倶楽部については、いいニュースもある。聞くところによると、共に活動してきた教職員OBの方々の手によって、まだ金印レプリカを寄贈できていない中学校のすべてに贈り届けるまで、贈呈活動を続ける計画だという。
■「啓発録」は講談社学術文庫で読むことができる。
■写真は2017年2月撮影
立志式と言っても、一般には馴染みの薄い言葉かもしれない。文字通り「志を立てる式」で、その由来は越前の幕末の志士・橋本左内が数え15歳のときに書いた「啓発録」の中の一節、「立志」からとされる。
対象は、左内と同じく15歳を迎える中学2年生。将来に向かって大きな目標を立て、それを成し遂げようと誓い、宣言する式典である。イメージとしては、大人になる儀式だった元服に近い。それだけに生徒にも、教師にとっても、記念碑的な学校行事になっている。
ぼくは金印倶楽部の関係者として、いくつかの立志式に参列したことがある。
この日にそなえて、多くの学校で2年生たちは自分の夢や将来の進路、それを実現する決意などを作文に書く。そして、父兄が見守る教室で一人ひとり発表する。どんな職業を選ぼうとしているのか、何を考えているのか、クラスメイトの意外な側面もわかる特別な授業である。
親の職業を尊敬しています、同じ道に進みます、と力強く述べる生徒もいて、そうなると親御さんの涙腺は一気にゆるみ、あの子がいつの間にか、こんな大人びたことを言うなんて、の連発だった。人目もはばからず、涙をぬぐう姿があちこちに。
立志式では選ばれたクラス代表が2年生全員の前で作文を読み上げる。文章を全部、暗記している生徒もいて、来賓席にいたぼくは、同じ歳のころの自分とは雲泥の差だと、ひたすら感心するばかりであった。
立志をテーマにした作文は原稿用紙に2枚。NHKの「青年の主張」じゃあるまいし、そんな作文なんて、一度も書いたことがないという人も多いのではあるまいか。
担当教師の話によると、原稿用紙は広げたものの、何を書いていいのかわからずに、頭を抱え込む生徒は少なくないとか。そうして悩んで、悩んで、親や教師にも相談して、ひと月以上も時間をかけて、何度も書き直すうちに、生徒たちは目に見えて成長するという。
さて、2017年からスタートした金印倶楽部の立志支援活動にも少しふれておく。(小学校への金印レプリカ贈呈活動は1996年から)
内容は、展示用と教材用の国宝・金印のレプリカの贈呈。併せて、国会議員や知事職の経験者、地元有力企業の元トップなどによる「中学生の立志を励ます講演」の2本立てで、実施した学校からは、来年もお願いしますという声も挙がっていた。
その方面ではご意見番的な存在の講師の方々も、ビジネスマンが相手の講演よりもやりがいを感じたようで、「これからも、よろこんで協力します。いつでも遠慮せずに使ってください」と好評だった。
中学生の立志支援活動を通じて、ぼくは目を開かされたことがある。
それは、日常の景色の一部として、あまり関心もなく眺めていた中学生たちが、実はその若々しい胸の中に、立志の芽を育てていることだった。かれらはみな志を持っている、そのことに気づこうともしなかった。彼らのことをよく見ていなかった。
立志式は中学2年生だけの儀式ではなかった。逆に若い彼らから触発され、少年時代の記憶の箱の中から「志」という言葉を久々に取り出して、わが身の半生をもう一度なぞるようにして振り返らせてくれたのである。
昨年末に解散した金印倶楽部については、いいニュースもある。聞くところによると、共に活動してきた教職員OBの方々の手によって、まだ金印レプリカを寄贈できていない中学校のすべてに贈り届けるまで、贈呈活動を続ける計画だという。
■「啓発録」は講談社学術文庫で読むことができる。
■写真は2017年2月撮影
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