タラの芽が歌ってる ― 2021年03月19日 17時19分

春の陽気に誘われて、久しぶりに車で近くの山に向かった。道路の舗装が切れたところで車を停めて、白っぽく渇いた土の山道を歩く。
背の高い木はない。ということは、このへんは玄界灘から吹きつける風が強いのであろう。靴底からゴツゴツと石ころを踏みつける感触が伝わってくる。上へ、上へと登って、気がついたら、初めて入る山であった。
ウグイスが鳴いている。車も来ない。人もいない。でも、ぼくには探しモノがある。
やがて道端にちいさな荒れ地があらわれた。ひょろひょろと棒のような木が群生している。こういうところに探しに来た春の贈り物はある。
ホラね、タラの芽がありました。芽吹いたばかりで、若草色の小さなロケットのような形をしている。
あまりにもかわいらしいので、今日は見るだけで終わり。2、3日もすれば若葉が出てくるだろう。
きっと、だれか採りに来るはず。天ぷらによし、さっと湯でて、酢味噌をつけるもよし。タラの芽ほど狙われやすい山菜はない。そろそろ芽が出そろったかなと楽しみにして、採りに行ったら、もうすでに採られた後だったことはザラにある。
タラの木は年数が経つと消えてなくなってしまう。いい穴場を見つけたとよろこんで、数年後に行ってみたら、植林された杉の勢いに負けて、陰も形もなくなっていたこともあった。
タラの木は陽当たりのいい荒れ地に生える。それからサクラ、クヌギ、ハンノキなどの陽樹が育ち、やがてクスノキ、シイ、カシなどの陰樹が成長する。いわゆる植生の遷移で、タラの木は陽があたらなくなると消えてしまうのだ。
陰樹の高木林が安定した状態を極相林、別称でクライマックスという。「極相林をクライマックスと言う」の一文を眼にしたとき、ぼくは、なんて素敵な自然界の物語を表す言葉だろうとおもった。
裸地にコケ植物や地衣類が進入し、そこに草が生えて、陽樹、陰樹と移り変わって、最後には極相林、すなわちクライマックスになる。まるでフルオーケストラの奏でる森の交響曲のようではないか。
このタラの芽たちも、よろこびの春を歌っているのだろう。ぼくは幸せな気分になって、ゆっくりと山道をくだった。
背の高い木はない。ということは、このへんは玄界灘から吹きつける風が強いのであろう。靴底からゴツゴツと石ころを踏みつける感触が伝わってくる。上へ、上へと登って、気がついたら、初めて入る山であった。
ウグイスが鳴いている。車も来ない。人もいない。でも、ぼくには探しモノがある。
やがて道端にちいさな荒れ地があらわれた。ひょろひょろと棒のような木が群生している。こういうところに探しに来た春の贈り物はある。
ホラね、タラの芽がありました。芽吹いたばかりで、若草色の小さなロケットのような形をしている。
あまりにもかわいらしいので、今日は見るだけで終わり。2、3日もすれば若葉が出てくるだろう。
きっと、だれか採りに来るはず。天ぷらによし、さっと湯でて、酢味噌をつけるもよし。タラの芽ほど狙われやすい山菜はない。そろそろ芽が出そろったかなと楽しみにして、採りに行ったら、もうすでに採られた後だったことはザラにある。
タラの木は年数が経つと消えてなくなってしまう。いい穴場を見つけたとよろこんで、数年後に行ってみたら、植林された杉の勢いに負けて、陰も形もなくなっていたこともあった。
タラの木は陽当たりのいい荒れ地に生える。それからサクラ、クヌギ、ハンノキなどの陽樹が育ち、やがてクスノキ、シイ、カシなどの陰樹が成長する。いわゆる植生の遷移で、タラの木は陽があたらなくなると消えてしまうのだ。
陰樹の高木林が安定した状態を極相林、別称でクライマックスという。「極相林をクライマックスと言う」の一文を眼にしたとき、ぼくは、なんて素敵な自然界の物語を表す言葉だろうとおもった。
裸地にコケ植物や地衣類が進入し、そこに草が生えて、陽樹、陰樹と移り変わって、最後には極相林、すなわちクライマックスになる。まるでフルオーケストラの奏でる森の交響曲のようではないか。
このタラの芽たちも、よろこびの春を歌っているのだろう。ぼくは幸せな気分になって、ゆっくりと山道をくだった。
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