四つ葉のクローバーがいっぱい2021年05月25日 19時09分

 何かいいことがあるかもしれない。
 団地の中のあちこちに緑色のクローバーがじゅうたんのように広がって、白い花の帽子をつけている。ふと、四つ葉のクローバーって、あったよな、と子どものころをおもいだした。二つ違いの姉と何本見つけるか、競争したっけ。
 しゃがみこんで、目を凝らす。ひとつ、見つけた。ふたつがならんでいるのも見つかった。四つ葉のクローバーはめったにないというけれど、探せばわりとあるものだ。
 そのうち写真の場所に行きあたった。四つ葉のクローバーが左、真ん中、その右下にも、そして右側にもある。ところが、よく見たら、右側のクローバーは五つ葉だった。10センチ四方ほどのところに、四つ葉が三つ、五つ葉がひとつ。これってかなり珍しいことではないだろうか。まるで幸運が肩を寄せ合っているみたいではないか。
 さて、ぼくの希少な目撃体験といえば、最たるものは鹿児島の田舎町にいたときのこと。小学3、4年生のころだった。
 鉄道官舎の裏の原っぱで、ひとりで赤とんぼの群れと遊んでいたとき、かすかに赤ん坊が泣いているような音が聞こえた。赤ちゃんなんて、どこの家にもいないのに、何だろうと泣き声のする方向へ歩いて行った。ネコもニワトリもいない。でも、たしかに聞いたことのない、喉を締めつけられたような泣き声がする。それも地面の草むらの方から。
 何か動いているような気配を感じて、足元の土で汚れたズックを見た。そのすぐ先で灰色の細いヒモがクネクネと左右に振れている。瞬間、身体じゅうに鳥肌が立ち、おもわず立ちすくんでしまった。
 小さなヘビのしっぽだった。しっぽの根元は緑と茶色が混じった、これも小さなカエルの口の中に消えていた。
 カエルはじっとしていて、どうしていいのかわからないようだった。とても全部を呑み込める相手ではない。かといって、吐き出すこともできないようだった。ぼくはじっと二匹の様子を眺めていた。どちらが殺すか、殺されるか。
 きっと最後はヘビが勝つだろうとおもった。アマガエルのようなカエルはもうそれ以上、口をあけることもできず、息遣いをするたびに赤ちゃんのような悲鳴を上げていた。ああ、殺(や)られるのは、お前のほうだなとおもった。そして、その最後の結末は見たくなかった。
 夕食の席で、小さなカエルがヘビの子どもの頭を呑み込んでいたと父に話した。父はさほど驚きもせず、「ヘビに睨まれたカエルというけれど、カエルも必死だからね。そういうことがあるんだよ」という返事だった。
 父は山でマムシをつかまえて、家の近くの川でその頭を切りおとして、サーッとウロコのついた皮をはぐのもへっちゃらだった。秋の山では桜の木に近づくなと教えられた。そこには桜の木肌の模様に似た冬眠前のマムシがよく隠れているのだ。実際に葉を落としたヤマザクラの木の根元で大きなマムシに出くわしたこともある。
 そういう父が言うのだから、カエルがヘビの頭を咥え込んでいたことも、ふーんと納得したのである。
 あのころは「窮鼠(きゅうそ)、猫を噛む」というむずかしい格言を知らなかった。でも、そういう大人の社会の言葉は知らなくても、あんな小さな生き物にも、絶体絶命に追い詰められたら、命懸けで反撃してやる、という生存本能があることは、実際にその現場を見たので、よくわかった。
 ふだん意識することはないが、きっとぼくにも、あのカエルとヘビの死闘から感じとった同じ動物の本能がどこかにくっついているのだろう。いままで何度も、もうどうしようもないという窮地に立たされてきたが、そのたびに「これぐらいのことで」と乗り越えてきたような気がする。
 幸運をもたらすという四つ葉のクローバーをいくつも見つけたことが、きっと草むらの中の事件という連想につながって、あのカエルとヘビの格闘シーンをおもいだしたのだろう。話してもなかなか信じてもらえない、ふつうは一生見ることもないであろう、あの珍しいシーンにたまたま出会えたことも、考えようによっては「運がよかった」と言えるのかもしれない。

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