生涯一捕手、背番号「19」の重さ ― 2021年10月02日 11時27分

昨日、新型コロナウィルスの緊急事態宣言が全面解除になった。待ってましたとばかりに浮き立つ人も大勢いるようだが、それらの様子を遠目に見ている人もたくさんいるだろう。
生活に余裕のある人、そうでない人との違いは、陽が強く当たるほど光と陰の明暗がくっきりと現れるものだ。
わが家は贅沢とは無縁の口である。カミさんと息子は勤めに出て行くが、ぼくはじっと巣ごもり生活を続けている。平日は朝から夕刻まで、いつも独りだ。
こうしているうちに、ふと小学6年生のときに腎臓病と診断されて、ひと月あまりも小倉の国立病院に入院していたころをおもいだした。病気の知識もなく、何もわからないまま、ひとりぽつんとベッドの上にいるしかなかった。
当時の小児科の病棟は古い木造建てで、歩くと床板がギシッ、ギシッ、と音を立てた。部屋の電灯も暗かった。食事はいっさい塩分抜き。茹でただけのモヤシや酸っぱいレンコンの薄切りを毎日のように食べていた。激しい運動も禁止。まるで社会から隔離されたような日々が続いた。
気持ちの救いになったのは、何かの雑誌に載っていたプロ野球・南海ホークスの野村克也の打撃写真をスケッチブックに描くことだった。
目をこらして背番号19の写真を見ては、黒い鉛筆で顔やからだの線を描き、バットを構えたポーズも、ユニフォームの小さな皺も、ボールを待ち構える目も、写真と同じになるように念じながら、何度も、何度も書き直した。自分でもホンモノそっくりだと納得できる絵を描き上げたとき、野村克也はぼくの側にいてくれるヒーローになっていた。
17年後、その野村に会うことなる。取材したのは、彼が南海の監督の座を追われ、ロッテオリオンズを経て、西武ライオンズにキャッチャーとして移籍したとき。すでに40歳を過ぎていて、さしもの強肩も、ホームラン王をとった打力も、往年の勢いはなかった。
そのとき野村が色紙に好んで書いていた言葉は「生涯一捕手」。
彼は打者として最高の名誉である戦後初の三冠王を獲得し、監督としても優勝したプロ球界屈指の名選手である。それなのに「自分は生涯、一兵卒の捕手です」と言う。
その言葉の裏には、テスト生上がりの野村が必死になって築いてきた抜群の実績は早々と昔話扱いにされてしまい、現実を受け入れざるを得なかった、やり場のない強烈な自負と悔しさが滲んでいたとおもう。
取材で会った彼の顔には、俺がいちばん野球を知っている、そう書いてあった。ちなみに「生涯一捕手」は作家の草柳大蔵から「生涯一書生」という禅の言葉を教えられて、野村が自分に当てはめたものである。
ぼくは若気の至りで、記者時代の取材メモはぜんぶ捨ててしまった。だから正確な記憶はないのだが、西武球場のグラウンドで、野村に次の質問をしたことは覚えている。
それは「捕手・野村が選ぶ投手のベストテンはだれか」という問いだった。彼はニヤリと笑うと、考え込むこともなく1位から10位までの投手の名前をスラスラと答えたのだ。
1位は金田正一、2位は稲尾和久、3位、杉浦忠。この順番は間違いない。後の名前と順位はあやふやだが、米田哲也、小山正明、鈴木啓示、江夏豊、山田久志も入っていた。この10人以外にも、主力投手の名前と特徴は捕手・野村の頭のなかで細かく採点されて、いいピッチャーの条件として、いつでも引き出せるように整理されていたのである。
野村が選んだ好投手の基準は、どんなに球が速くても、勝てない投手は圏外で、ピッチングのうまさを重視していた。それはボールの威力やそれを自在にあやつる技術だったり、打者との駆け引きや、エースとしての試合の組み立て方といったものである。
後に彼が監督に復帰したときの「シンキングベースボール」や「ID野球」の下敷きは、打者・野村ではなく、「生涯一捕手」のなかにびっしり詰まっていたのだ。
いま背番号「19」を背負っているのは、地元ソフトバンクホークスの正捕手・甲斐拓也。彼にふりかかっている重圧はいかばかりだろうか。
もしかしたら、あのころのぼくのように、この空の下のどこかで、甲斐のフォームを描き写している少年がいるかもしれない。そして、その少年が成長して、甲斐を取材する日がくるかもしれない。閉じこもり生活を続けていると、ついつい突拍子もないことを空想してしまう。
振り返って、わが身をおもう。自分ははたして「生涯○○」と言い切れるだけの信念を持って生きてきただろうか、と。
■えっ、今ごろ花見? 自宅の近くにヘンな桜の木が植えてある。季節を問わずに花が咲くのだ。このところの気温は30度ほどで、まだまだ残暑が厳しく、この桜は狂い咲きの度を過ぎている。それでも桜の花を見つけると近づきたくなってしまう。
生活に余裕のある人、そうでない人との違いは、陽が強く当たるほど光と陰の明暗がくっきりと現れるものだ。
わが家は贅沢とは無縁の口である。カミさんと息子は勤めに出て行くが、ぼくはじっと巣ごもり生活を続けている。平日は朝から夕刻まで、いつも独りだ。
こうしているうちに、ふと小学6年生のときに腎臓病と診断されて、ひと月あまりも小倉の国立病院に入院していたころをおもいだした。病気の知識もなく、何もわからないまま、ひとりぽつんとベッドの上にいるしかなかった。
当時の小児科の病棟は古い木造建てで、歩くと床板がギシッ、ギシッ、と音を立てた。部屋の電灯も暗かった。食事はいっさい塩分抜き。茹でただけのモヤシや酸っぱいレンコンの薄切りを毎日のように食べていた。激しい運動も禁止。まるで社会から隔離されたような日々が続いた。
気持ちの救いになったのは、何かの雑誌に載っていたプロ野球・南海ホークスの野村克也の打撃写真をスケッチブックに描くことだった。
目をこらして背番号19の写真を見ては、黒い鉛筆で顔やからだの線を描き、バットを構えたポーズも、ユニフォームの小さな皺も、ボールを待ち構える目も、写真と同じになるように念じながら、何度も、何度も書き直した。自分でもホンモノそっくりだと納得できる絵を描き上げたとき、野村克也はぼくの側にいてくれるヒーローになっていた。
17年後、その野村に会うことなる。取材したのは、彼が南海の監督の座を追われ、ロッテオリオンズを経て、西武ライオンズにキャッチャーとして移籍したとき。すでに40歳を過ぎていて、さしもの強肩も、ホームラン王をとった打力も、往年の勢いはなかった。
そのとき野村が色紙に好んで書いていた言葉は「生涯一捕手」。
彼は打者として最高の名誉である戦後初の三冠王を獲得し、監督としても優勝したプロ球界屈指の名選手である。それなのに「自分は生涯、一兵卒の捕手です」と言う。
その言葉の裏には、テスト生上がりの野村が必死になって築いてきた抜群の実績は早々と昔話扱いにされてしまい、現実を受け入れざるを得なかった、やり場のない強烈な自負と悔しさが滲んでいたとおもう。
取材で会った彼の顔には、俺がいちばん野球を知っている、そう書いてあった。ちなみに「生涯一捕手」は作家の草柳大蔵から「生涯一書生」という禅の言葉を教えられて、野村が自分に当てはめたものである。
ぼくは若気の至りで、記者時代の取材メモはぜんぶ捨ててしまった。だから正確な記憶はないのだが、西武球場のグラウンドで、野村に次の質問をしたことは覚えている。
それは「捕手・野村が選ぶ投手のベストテンはだれか」という問いだった。彼はニヤリと笑うと、考え込むこともなく1位から10位までの投手の名前をスラスラと答えたのだ。
1位は金田正一、2位は稲尾和久、3位、杉浦忠。この順番は間違いない。後の名前と順位はあやふやだが、米田哲也、小山正明、鈴木啓示、江夏豊、山田久志も入っていた。この10人以外にも、主力投手の名前と特徴は捕手・野村の頭のなかで細かく採点されて、いいピッチャーの条件として、いつでも引き出せるように整理されていたのである。
野村が選んだ好投手の基準は、どんなに球が速くても、勝てない投手は圏外で、ピッチングのうまさを重視していた。それはボールの威力やそれを自在にあやつる技術だったり、打者との駆け引きや、エースとしての試合の組み立て方といったものである。
後に彼が監督に復帰したときの「シンキングベースボール」や「ID野球」の下敷きは、打者・野村ではなく、「生涯一捕手」のなかにびっしり詰まっていたのだ。
いま背番号「19」を背負っているのは、地元ソフトバンクホークスの正捕手・甲斐拓也。彼にふりかかっている重圧はいかばかりだろうか。
もしかしたら、あのころのぼくのように、この空の下のどこかで、甲斐のフォームを描き写している少年がいるかもしれない。そして、その少年が成長して、甲斐を取材する日がくるかもしれない。閉じこもり生活を続けていると、ついつい突拍子もないことを空想してしまう。
振り返って、わが身をおもう。自分ははたして「生涯○○」と言い切れるだけの信念を持って生きてきただろうか、と。
■えっ、今ごろ花見? 自宅の近くにヘンな桜の木が植えてある。季節を問わずに花が咲くのだ。このところの気温は30度ほどで、まだまだ残暑が厳しく、この桜は狂い咲きの度を過ぎている。それでも桜の花を見つけると近づきたくなってしまう。
廃品回収車がやってきた ― 2021年10月10日 10時02分

グォーン! ガシャン! バリバリバリッ!
朝っぱらから派手にモノをこわす音が聞こえてきた。窓からのぞくと道路の脇に廃品回収車と小型トラックが尻を向けあって停まっていた。ヘルメットをかぶった4人の男たちがトラックの荷台からタンスやテーブルを下ろして、廃品回収車の後部に押し込んでいる。
投入口では鋼鉄の板がうなり声をあげながら、ひと抱えもあるタンスを力まかせに押しつぶしていく。木の板が悲鳴をあげる。まるで奥歯であめ玉をガリガリガリと噛み砕いているようだ。布団や毛布はひと口で丸呑みである。
トラックの荷台には自転車が折り重なって積まれている。なかにはまだまだ使えるものだってあるだろうに。
あの木材や金属類はリサイクルされることもなく、このまま焼却されたり、埋め立て処分されるのだろうか。そうおもったら、廃品回収車が棺桶のように見えてきた。となると、いまでも十分に乗れそうな自転車は生き埋めにされるということか。
10年ほど前、福岡市大名の賃貸マンションの事務所を閉めたとき、2LDKの部屋に置いてあったものをごっそり捨てた。
ひとり親方の個人事務所だったが、会議や飲み会でにぎわうことも多かった。大きめのデスクだけでも4つ、椅子は7つ、スチール製の大型の本棚が5つ。洋服ダンス、テーブル、ガスストーブ……。どれもこれも少ない稼ぎのなかで、20数年かけてそろえた財産だった。
とりわけ3つおそろいで購入した白い樹脂製のデスクには、独立したときの夢がこもっていたから、はなれがたい愛着があった。大手メーカーの定番商品で、安いものではない。目立つような傷もなく、きれいなままだった。できればだれかに使ってほしかった。
だが、買い取りを当てにしていた事務器専門のリサイクルショップは、電話口であっさり引き取りを断ってきた。どの店も返事は同じだった。市場の商品価値はゼロだったのである。
福岡市が運営している郊外のゴミ焼却場は、ありとあらゆる品々の墓場だった。大きな口を開けた投入口は、鋼鉄製の滑り台のようになっていて、苦楽を共にしたデスクも、本棚も、ザァーと泣き声をあげて、一直線に滑り落ちて行った。
助っ人に来てくれた友人とレンタカーの小型トラックを運転して、事務所とゴミ焼却場を往復すること3回。自分が歩いてきた歴史まで捨ててしまったような喪失感は大きかったが、どこかでようやく身軽になったことを歓迎している自分がいた。ゴミ捨て場で手元をはなれた瞬間から、あのデスクは過去のものになったのだ。
人の心は不思議なものだ。もっと早くそうすればよかった、事務所を維持するカネのやりくりの苦労から、やっと解放されたとおもったのだから。
「要らないものは捨てようね。ねぇ、これ、捨ててもいい?」
「うん、いいよ。とっておいても、この先、使うことはないからな」
このところ、ぼくたち夫婦はこんな会話が増えてきた。
そういえば、井伏鱒二の中国・唐代の漢詩の訳文に「ハナニアラシノタトヘモアルゾ、『サヨナラ』ダケガ人生ダ」という一節があった。
他人ごとではない、せいぜい粗大ゴミ扱いされないよう、今さら手を握り合う仲でもない連れ合いに、「愛しているよ」とでも言ってみるか。
■室見川にかかる橋から下をのぞいたら、落ちアユの群れの近くに3匹の鯉が仲良く泳いでいた。
朝っぱらから派手にモノをこわす音が聞こえてきた。窓からのぞくと道路の脇に廃品回収車と小型トラックが尻を向けあって停まっていた。ヘルメットをかぶった4人の男たちがトラックの荷台からタンスやテーブルを下ろして、廃品回収車の後部に押し込んでいる。
投入口では鋼鉄の板がうなり声をあげながら、ひと抱えもあるタンスを力まかせに押しつぶしていく。木の板が悲鳴をあげる。まるで奥歯であめ玉をガリガリガリと噛み砕いているようだ。布団や毛布はひと口で丸呑みである。
トラックの荷台には自転車が折り重なって積まれている。なかにはまだまだ使えるものだってあるだろうに。
あの木材や金属類はリサイクルされることもなく、このまま焼却されたり、埋め立て処分されるのだろうか。そうおもったら、廃品回収車が棺桶のように見えてきた。となると、いまでも十分に乗れそうな自転車は生き埋めにされるということか。
10年ほど前、福岡市大名の賃貸マンションの事務所を閉めたとき、2LDKの部屋に置いてあったものをごっそり捨てた。
ひとり親方の個人事務所だったが、会議や飲み会でにぎわうことも多かった。大きめのデスクだけでも4つ、椅子は7つ、スチール製の大型の本棚が5つ。洋服ダンス、テーブル、ガスストーブ……。どれもこれも少ない稼ぎのなかで、20数年かけてそろえた財産だった。
とりわけ3つおそろいで購入した白い樹脂製のデスクには、独立したときの夢がこもっていたから、はなれがたい愛着があった。大手メーカーの定番商品で、安いものではない。目立つような傷もなく、きれいなままだった。できればだれかに使ってほしかった。
だが、買い取りを当てにしていた事務器専門のリサイクルショップは、電話口であっさり引き取りを断ってきた。どの店も返事は同じだった。市場の商品価値はゼロだったのである。
福岡市が運営している郊外のゴミ焼却場は、ありとあらゆる品々の墓場だった。大きな口を開けた投入口は、鋼鉄製の滑り台のようになっていて、苦楽を共にしたデスクも、本棚も、ザァーと泣き声をあげて、一直線に滑り落ちて行った。
助っ人に来てくれた友人とレンタカーの小型トラックを運転して、事務所とゴミ焼却場を往復すること3回。自分が歩いてきた歴史まで捨ててしまったような喪失感は大きかったが、どこかでようやく身軽になったことを歓迎している自分がいた。ゴミ捨て場で手元をはなれた瞬間から、あのデスクは過去のものになったのだ。
人の心は不思議なものだ。もっと早くそうすればよかった、事務所を維持するカネのやりくりの苦労から、やっと解放されたとおもったのだから。
「要らないものは捨てようね。ねぇ、これ、捨ててもいい?」
「うん、いいよ。とっておいても、この先、使うことはないからな」
このところ、ぼくたち夫婦はこんな会話が増えてきた。
そういえば、井伏鱒二の中国・唐代の漢詩の訳文に「ハナニアラシノタトヘモアルゾ、『サヨナラ』ダケガ人生ダ」という一節があった。
他人ごとではない、せいぜい粗大ゴミ扱いされないよう、今さら手を握り合う仲でもない連れ合いに、「愛しているよ」とでも言ってみるか。
■室見川にかかる橋から下をのぞいたら、落ちアユの群れの近くに3匹の鯉が仲良く泳いでいた。
「ひこばえ」賛歌 ― 2021年10月12日 09時14分

先日稲刈りをしたばかりのたんぼが薄い緑色に染まっている。残された稲株から、ひこばえ(蘖)が伸びているのだ。やがて稲穂に育って、ちゃんとモミが実る。
「ひこばえ」とは木や草の切り株の根元から出てくる芽のこと。気をつけてまわりを見れば、そこらじゅうに「ひこばえ」から大きく育った樹木がある。
植物は生まれたところから1ミリたりとも動けない。その代わり、いったん根をはったら、そこがコンクリートの細い割れ目であろうとも、そう簡単には死なない。伸びたところをバッサリ切られても、残った体にしぶとく成長点の細胞をつくって、以前よりも、もっとたくましい茎や葉を茂らせる。その生命力たるや、到底、人間の及ぶところではない。
「ひこばえ」を目にすると、ぼくのからだにもそんな能力があったらなぁと、つかぬことを空想してしまうときがある。
たとえば、こんなふうに。ここから先は昔ばなし風に進めてみよう。
昔むかし、あるところに仲のいいおじいさんとおばあさんがいました。
おばあさんはとても歯が丈夫で、1本も抜けていません。笑うときれいな白い歯が光って、ずいぶん若く見えるのでした。
おじいさんは上の方の歯は3本、下の方は4本しかありません。笑うと暗い洞穴のところどころに黄ばんだ杭(くい)がニョキッと突っ立っているようです。
「ばあさんは、いいなぁ。イワシの……フニャフニャ……骨ごと食えて。もういっぺん、……モゴモゴ……おもいっきり……ハフハフ……」
歯のないおじいさんが、何をしゃべっているのか、おばあさんにはよく聞きとれません。それでも、おじいさんの言っている意味はちゃんとわかるのでした。
ある秋の夜。いつものように差し向かいで、夕食をとっていると、トントントンと家の戸をたたく音がしました。こんな時間に、人が訪ねて来ることなどありません。
「だれかいな。いまごろ」
おばあさんは立ち上がって行き、家の中から声をかけました。
「どなたですかいのう。なにか用件でもござっしゃいますかいな」
返事はありません。でも、その代わりというように、ゴトリ、と重たいものが戸に当たった音がしました。おばあさんはびっくりして、くぐり戸を開けました。てっきり行き倒れの病人かとおもったのです。
目の前には大きな木の株が切り口を上にして、どすんと据わっていました。ところどころから新しい芽が出ていて、かわいい葉っぱが月の光に照らされ、キラキラきらめいています。
その切り株は、おばあさんにこう話しかけてきました。
「わたしのからだは見知らぬ男たちに伐られて、薪(まき)にされてしまいました。それから男たちはわたしの根っ子まで掘り起こそうとしました。ぜんぶ燃やしてしまえとおもっていたのでしょう。もうダメかというところを通りかかって助けてくれたのが、この家のおいじさんです。本当にありがとうございました」
おばあさんは目をパチクリするばかり。そこへおじいさんがやってきました。
「おいやー。あんたか。あのときは……フハフハ……ここまで歩いてきなすったか」
「はい。おじいさんに、ぜひともお礼がしたくて。わたしがおじさんのなくなった歯をもう一度、生やしてあげますね。さぁ、大きく口を開けてください。はい、アーンして」
そう話すと、切り株は自分のからだから伸びている「ひこばえ」を折り取って、あふれ出てきた黄金色の液体を葉っぱですくい、おじいさんの上と下の歯ぐきにまんべんなく塗りつけました。
それから10日ばかり過ぎた、ある朝のこと。寝床から起きだしてきたおじいさんが残り少ない歯を磨こうと口を開けたら、アラ、不思議。そこには真新しい白い歯がきれいに並んで生えていました。
おじいさんはすっかり若返って、おばあさんとふたり、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
あーあ、こんなことがあればなぁ。
さぁてと、ありもしない空想はやめて、最悪の事態を覚悟して、そろそろ情け容赦もない歯医者に行かなくっちゃ。
「ひこばえ」とは木や草の切り株の根元から出てくる芽のこと。気をつけてまわりを見れば、そこらじゅうに「ひこばえ」から大きく育った樹木がある。
植物は生まれたところから1ミリたりとも動けない。その代わり、いったん根をはったら、そこがコンクリートの細い割れ目であろうとも、そう簡単には死なない。伸びたところをバッサリ切られても、残った体にしぶとく成長点の細胞をつくって、以前よりも、もっとたくましい茎や葉を茂らせる。その生命力たるや、到底、人間の及ぶところではない。
「ひこばえ」を目にすると、ぼくのからだにもそんな能力があったらなぁと、つかぬことを空想してしまうときがある。
たとえば、こんなふうに。ここから先は昔ばなし風に進めてみよう。
昔むかし、あるところに仲のいいおじいさんとおばあさんがいました。
おばあさんはとても歯が丈夫で、1本も抜けていません。笑うときれいな白い歯が光って、ずいぶん若く見えるのでした。
おじいさんは上の方の歯は3本、下の方は4本しかありません。笑うと暗い洞穴のところどころに黄ばんだ杭(くい)がニョキッと突っ立っているようです。
「ばあさんは、いいなぁ。イワシの……フニャフニャ……骨ごと食えて。もういっぺん、……モゴモゴ……おもいっきり……ハフハフ……」
歯のないおじいさんが、何をしゃべっているのか、おばあさんにはよく聞きとれません。それでも、おじいさんの言っている意味はちゃんとわかるのでした。
ある秋の夜。いつものように差し向かいで、夕食をとっていると、トントントンと家の戸をたたく音がしました。こんな時間に、人が訪ねて来ることなどありません。
「だれかいな。いまごろ」
おばあさんは立ち上がって行き、家の中から声をかけました。
「どなたですかいのう。なにか用件でもござっしゃいますかいな」
返事はありません。でも、その代わりというように、ゴトリ、と重たいものが戸に当たった音がしました。おばあさんはびっくりして、くぐり戸を開けました。てっきり行き倒れの病人かとおもったのです。
目の前には大きな木の株が切り口を上にして、どすんと据わっていました。ところどころから新しい芽が出ていて、かわいい葉っぱが月の光に照らされ、キラキラきらめいています。
その切り株は、おばあさんにこう話しかけてきました。
「わたしのからだは見知らぬ男たちに伐られて、薪(まき)にされてしまいました。それから男たちはわたしの根っ子まで掘り起こそうとしました。ぜんぶ燃やしてしまえとおもっていたのでしょう。もうダメかというところを通りかかって助けてくれたのが、この家のおいじさんです。本当にありがとうございました」
おばあさんは目をパチクリするばかり。そこへおじいさんがやってきました。
「おいやー。あんたか。あのときは……フハフハ……ここまで歩いてきなすったか」
「はい。おじいさんに、ぜひともお礼がしたくて。わたしがおじさんのなくなった歯をもう一度、生やしてあげますね。さぁ、大きく口を開けてください。はい、アーンして」
そう話すと、切り株は自分のからだから伸びている「ひこばえ」を折り取って、あふれ出てきた黄金色の液体を葉っぱですくい、おじいさんの上と下の歯ぐきにまんべんなく塗りつけました。
それから10日ばかり過ぎた、ある朝のこと。寝床から起きだしてきたおじいさんが残り少ない歯を磨こうと口を開けたら、アラ、不思議。そこには真新しい白い歯がきれいに並んで生えていました。
おじいさんはすっかり若返って、おばあさんとふたり、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
あーあ、こんなことがあればなぁ。
さぁてと、ありもしない空想はやめて、最悪の事態を覚悟して、そろそろ情け容赦もない歯医者に行かなくっちゃ。
日本とブラジルの9人姉弟 ― 2021年10月18日 22時38分

母方の家族の不思議なことがよくわからないまま、終わろうとしている。調べようにも、もう間に合いそうもない。
ぼくにはブラジルに遠い血縁がいる。母から聞いた話では、その親戚は母の郷里・波当津の人で、日本から出航した2番目の移民船に乗って、サンパウロへ渡ったという。(初回の移民船は1908年〈明治41年〉に出航)
その家族には9人の姉弟がいた。一方、ぼくの母も9人姉弟だった。
不思議なこととは、その9人の生まれた順の性別が同じで、しかも名前までまったく同じ、ということである。
どちらも年長の方から、女、女、女、男、女、男、女、男、女の順で、祖父と祖母は半農半漁の貧しい生活にも関わらず、よくもまぁ、これだけの数の子どもを産んで、育てたものだ。そして、繰り返しになるが、日本とブラジルの家族の姉弟は上から順々に名前まで一緒なのだ。
なんだか時空をはなれて、ぼくと血のつながった瓜二つの家族が存在していたようで、もしかすると、自分とそっくりの人間が地球の裏側にいたかもしれないとおもってしまう。
それにしても、どうして、こんなことになったのか。
母によれば、ブラジルに行ったのは、親戚のツル爺さんという人で、とても頭がよかったという。そこで、平々凡々の成績だった母方の祖父は、自分の子どもに頭のいいツル爺さんが子どもたちにつけた名前を、そっくりそのままいただいたらしいと言っていた。
日本昔話じゃあるまいし、それが本当なら、なんとも締まりのない話である。
しかし、もしも、そうだとしたら、ツル爺さんの家族の構成通りに、9人の子どもをピタリ、ピタリと順番通りに産んだ祖母はアッパレとしか言いようがない。競馬で言えば連勝の万馬券を当てたようなものだ。奇跡と言ってもいいのではあるまいか。(ここまで書いて、オレにもその血が流れている。よし、宝クジを買うぞ、と決めた)
中学生のとき、ブラジルから初めて帰国して、ぼくの小倉の家に泊まりにきたおばあさんがいた。茶の間に座るなり、母と意気投合してしゃべりまくっていた。初対面なのに、まるで歳のはなれた姉妹のようだった。正体がよくわからないおばあさんだったが、どうやらツル爺さんの子どもか、孫のうちのひとりだったらしい。
母は戦時中、看護婦として大陸にわたり、満州のチチハルで終戦を迎えた。九州の狭い片田舎を飛び出して行った同じ遺伝子が初めて出会い、お互いに共鳴し合ったのだろうか。
昨日、両親が眠る延岡市の父方の墓と大分県波当津にある母方の墓参りをしてきた。いまでは母の姉弟は5女と7女の2人だけになってしまった。
日本とブラジルの9人の姉弟の物語は、だれに知られることもなく、だんだん最終章が近づいている。だから、それがどうしたの、と言われそうだが、だれかがこうして少しぐらいは書き残しておいてもいいだろうとおもう秋の夜である。
■ベランダの花にチョウがやってきた。キタテハであろうか。このあたりをよく飛びまわっている。
ぼくにはブラジルに遠い血縁がいる。母から聞いた話では、その親戚は母の郷里・波当津の人で、日本から出航した2番目の移民船に乗って、サンパウロへ渡ったという。(初回の移民船は1908年〈明治41年〉に出航)
その家族には9人の姉弟がいた。一方、ぼくの母も9人姉弟だった。
不思議なこととは、その9人の生まれた順の性別が同じで、しかも名前までまったく同じ、ということである。
どちらも年長の方から、女、女、女、男、女、男、女、男、女の順で、祖父と祖母は半農半漁の貧しい生活にも関わらず、よくもまぁ、これだけの数の子どもを産んで、育てたものだ。そして、繰り返しになるが、日本とブラジルの家族の姉弟は上から順々に名前まで一緒なのだ。
なんだか時空をはなれて、ぼくと血のつながった瓜二つの家族が存在していたようで、もしかすると、自分とそっくりの人間が地球の裏側にいたかもしれないとおもってしまう。
それにしても、どうして、こんなことになったのか。
母によれば、ブラジルに行ったのは、親戚のツル爺さんという人で、とても頭がよかったという。そこで、平々凡々の成績だった母方の祖父は、自分の子どもに頭のいいツル爺さんが子どもたちにつけた名前を、そっくりそのままいただいたらしいと言っていた。
日本昔話じゃあるまいし、それが本当なら、なんとも締まりのない話である。
しかし、もしも、そうだとしたら、ツル爺さんの家族の構成通りに、9人の子どもをピタリ、ピタリと順番通りに産んだ祖母はアッパレとしか言いようがない。競馬で言えば連勝の万馬券を当てたようなものだ。奇跡と言ってもいいのではあるまいか。(ここまで書いて、オレにもその血が流れている。よし、宝クジを買うぞ、と決めた)
中学生のとき、ブラジルから初めて帰国して、ぼくの小倉の家に泊まりにきたおばあさんがいた。茶の間に座るなり、母と意気投合してしゃべりまくっていた。初対面なのに、まるで歳のはなれた姉妹のようだった。正体がよくわからないおばあさんだったが、どうやらツル爺さんの子どもか、孫のうちのひとりだったらしい。
母は戦時中、看護婦として大陸にわたり、満州のチチハルで終戦を迎えた。九州の狭い片田舎を飛び出して行った同じ遺伝子が初めて出会い、お互いに共鳴し合ったのだろうか。
昨日、両親が眠る延岡市の父方の墓と大分県波当津にある母方の墓参りをしてきた。いまでは母の姉弟は5女と7女の2人だけになってしまった。
日本とブラジルの9人の姉弟の物語は、だれに知られることもなく、だんだん最終章が近づいている。だから、それがどうしたの、と言われそうだが、だれかがこうして少しぐらいは書き残しておいてもいいだろうとおもう秋の夜である。
■ベランダの花にチョウがやってきた。キタテハであろうか。このあたりをよく飛びまわっている。
三面記事の背後に息づくもの ― 2021年10月19日 16時50分

首都圏の県警本部の機動捜査隊で初動捜査に当たっている知人は、「事件を捜査していると、小説になりそうなものだらけですよ。我々、警察官は口外できませんが」と言っていた。
作家のなかには、そんな事件をヒントに作品を書く人もいる。人間のいろんな顔が現れてくるところに、創作意欲をそそられるのだろうか。
駆け出しのころ、事件の新企画を担当したことがあった。追いかけたのは、主に新聞の三面記事の事件だった。小さな見出しに、わずか10行あまりの記事。取材源はほとんど警察発表だけで書かれている。
カメラを肩にぶらさげて、関係先を取材していると、発表にはない事実が見えてくる。以下は、かつて取材した事件のあらましである。
ある中年の主婦は昼ひなかに向かいの家に押し入って、若い主婦を包丁で刺殺した。
所轄署で被害者の全裸の写真を見せてくれた。顔、胸、腹部、腕、背中まで、刺し傷と切り傷だらけだった。
警察の調べによると、動機は新しいマイホームに引っ越してきたばかりの若い主婦への嫉妬だった。
はじめのうちはいい関係だった。そのうち、明るい声で夫や子どもを送り出す「いってらっしゃい」という声を聞くのも堪えられなくなったという。
おしゃれをして出かける様子も、夕食の料理の話も、「あてつけがましい女ね。ああやって、いつも幸せぶって、わたしをバカにしている」と一方的に思い込むようになった。そんなイライラした気持ちが自分の家庭に跳ね返って、夫婦仲までおかしくなっていた。
殺された若い主婦は、なぜ、仲がいいとおもっていた隣の先輩主婦から自分がこんな目に遭うのか、わけがわからなかったのではあるまいか。
ある30代の銀行マンは仕事を終えた帰り道、自宅まであと100メートルほどのところで、下校中の女子高生に襲いかかった。酒を飲んでいたわけではない。いつものように会社からまっすぐ帰る途中だった。
自供によれば、女子高生は顔見知りではない、発作的にやったという。幸い、通行人が駆けつけて、女子高生は無事だった。
中古の小さな貸家の自宅には、出身地が同じの年下のかわいい奥さんがひとりで待っていた。彼女は消え入りそうな声で、「なぜ、あんなことをしたのか、わかりません。すぐそこまで帰って来ていたのに」とつぶやいて、玄関先で顔を伏せた。
夫の職場での評判は「おとなしくて、目立たない」人物だった。勤続10年あまり、役職なし。あんなことをやったら、どうなるかぐらいのことは、わかっていたはずだ。
自宅までたったの1、2分。だが、取り戻しようもない「魔の1、2分」だった。
ある若い男は会社帰りに同僚と楽しく飲んだ後、新橋駅から電車に乗った。つり革につかまっていたが、酔いがまわって、からだがふらふらしていた。と、突然、横から突き飛ばされて、雨でよごれた電車の床の上を転がった。
次の駅で、隣にいた年配の男は電車を降りた。「待て」と追いかける若い男。「謝れ!」、「お前は、酔っているじゃないか!」。ホームで言い争いになった。
激怒した若い男は、手に持っていた傘で力いっぱい、頭を殴りつけた。年配の男はその場にうずくまって、動かなくなった。死因はくも膜下出血だった。
目撃者の話では、電車のなかで若い男はぐらり、ぐらりとからだを傾けて、すぐ横に立っていた年配の男に何度もぶつかっていた。そこで、ぶつけられた方が肩で押し返したら、ああなったということだった。
被疑者には、古いアパートで同居している年老いた両親がいた。
「高校を出て、まじめに働いている、やさしい息子です。交通事故に遭ったようなものです。亡くなった方にはお詫びにうかがいます」。老婆はそうつぶやいてうなだれた。
ある10代後半の女性は、母親の手ひとつで育てられたひとり娘だった。女優か、雑誌のモデルかと評判の美人だった。
その彼女が子殺しの疑いで逮捕された。熱湯の風呂のなかに、生後2か月のあかちゃんを何時間も放置したままだった。若い母親は別室で自殺をはかったが、命をとりとめた。
妊娠させた相手は同棲していた大学生。遊びでつきあっているうちに、子どもができて、未成年のとびっきりの美人の恋人と生まれたばかりの娘を捨てたのだ。まわりの主婦たちは、独り暮らしになった彼女に同情して、温かく励まし、見守っていたというのだが。
警察は男の情報を教えてくれなかったが、取材を続けているうちに、父親は関西の大学の教授だとわかった。頼りにしていた男から谷底へ突き落された彼女は、どんな家庭を夢見ていたのだろうか。
若いころ取材した三面記事の事件のほんの一部を駆け足でたどったが、どれも原稿を書いた後の苦い味が残っている。
最後に短篇小説の名手だったモーパッサンの言葉をひいておこう。
「人生は、この上もなく多種多様な、突発的な、相反した、ちぐはぐなものばかりで出来ている。残忍で、支離滅裂で、脈絡がない。説明不能の、非論理的な、矛盾だらけの、三面記事に組み込まれるべき異常事態に満ちている」
こんな事件のことを書くのは、いまも抵抗がある。しかし、また同じような悲劇が起きるかもしれない。
■室見川の堤防の桜並木に鳥の巣がかかっている。たぶんカササギの巣だろう。白と黒のツートンカラーのカササギの夫婦が近くを飛びまわっていた。
作家のなかには、そんな事件をヒントに作品を書く人もいる。人間のいろんな顔が現れてくるところに、創作意欲をそそられるのだろうか。
駆け出しのころ、事件の新企画を担当したことがあった。追いかけたのは、主に新聞の三面記事の事件だった。小さな見出しに、わずか10行あまりの記事。取材源はほとんど警察発表だけで書かれている。
カメラを肩にぶらさげて、関係先を取材していると、発表にはない事実が見えてくる。以下は、かつて取材した事件のあらましである。
ある中年の主婦は昼ひなかに向かいの家に押し入って、若い主婦を包丁で刺殺した。
所轄署で被害者の全裸の写真を見せてくれた。顔、胸、腹部、腕、背中まで、刺し傷と切り傷だらけだった。
警察の調べによると、動機は新しいマイホームに引っ越してきたばかりの若い主婦への嫉妬だった。
はじめのうちはいい関係だった。そのうち、明るい声で夫や子どもを送り出す「いってらっしゃい」という声を聞くのも堪えられなくなったという。
おしゃれをして出かける様子も、夕食の料理の話も、「あてつけがましい女ね。ああやって、いつも幸せぶって、わたしをバカにしている」と一方的に思い込むようになった。そんなイライラした気持ちが自分の家庭に跳ね返って、夫婦仲までおかしくなっていた。
殺された若い主婦は、なぜ、仲がいいとおもっていた隣の先輩主婦から自分がこんな目に遭うのか、わけがわからなかったのではあるまいか。
ある30代の銀行マンは仕事を終えた帰り道、自宅まであと100メートルほどのところで、下校中の女子高生に襲いかかった。酒を飲んでいたわけではない。いつものように会社からまっすぐ帰る途中だった。
自供によれば、女子高生は顔見知りではない、発作的にやったという。幸い、通行人が駆けつけて、女子高生は無事だった。
中古の小さな貸家の自宅には、出身地が同じの年下のかわいい奥さんがひとりで待っていた。彼女は消え入りそうな声で、「なぜ、あんなことをしたのか、わかりません。すぐそこまで帰って来ていたのに」とつぶやいて、玄関先で顔を伏せた。
夫の職場での評判は「おとなしくて、目立たない」人物だった。勤続10年あまり、役職なし。あんなことをやったら、どうなるかぐらいのことは、わかっていたはずだ。
自宅までたったの1、2分。だが、取り戻しようもない「魔の1、2分」だった。
ある若い男は会社帰りに同僚と楽しく飲んだ後、新橋駅から電車に乗った。つり革につかまっていたが、酔いがまわって、からだがふらふらしていた。と、突然、横から突き飛ばされて、雨でよごれた電車の床の上を転がった。
次の駅で、隣にいた年配の男は電車を降りた。「待て」と追いかける若い男。「謝れ!」、「お前は、酔っているじゃないか!」。ホームで言い争いになった。
激怒した若い男は、手に持っていた傘で力いっぱい、頭を殴りつけた。年配の男はその場にうずくまって、動かなくなった。死因はくも膜下出血だった。
目撃者の話では、電車のなかで若い男はぐらり、ぐらりとからだを傾けて、すぐ横に立っていた年配の男に何度もぶつかっていた。そこで、ぶつけられた方が肩で押し返したら、ああなったということだった。
被疑者には、古いアパートで同居している年老いた両親がいた。
「高校を出て、まじめに働いている、やさしい息子です。交通事故に遭ったようなものです。亡くなった方にはお詫びにうかがいます」。老婆はそうつぶやいてうなだれた。
ある10代後半の女性は、母親の手ひとつで育てられたひとり娘だった。女優か、雑誌のモデルかと評判の美人だった。
その彼女が子殺しの疑いで逮捕された。熱湯の風呂のなかに、生後2か月のあかちゃんを何時間も放置したままだった。若い母親は別室で自殺をはかったが、命をとりとめた。
妊娠させた相手は同棲していた大学生。遊びでつきあっているうちに、子どもができて、未成年のとびっきりの美人の恋人と生まれたばかりの娘を捨てたのだ。まわりの主婦たちは、独り暮らしになった彼女に同情して、温かく励まし、見守っていたというのだが。
警察は男の情報を教えてくれなかったが、取材を続けているうちに、父親は関西の大学の教授だとわかった。頼りにしていた男から谷底へ突き落された彼女は、どんな家庭を夢見ていたのだろうか。
若いころ取材した三面記事の事件のほんの一部を駆け足でたどったが、どれも原稿を書いた後の苦い味が残っている。
最後に短篇小説の名手だったモーパッサンの言葉をひいておこう。
「人生は、この上もなく多種多様な、突発的な、相反した、ちぐはぐなものばかりで出来ている。残忍で、支離滅裂で、脈絡がない。説明不能の、非論理的な、矛盾だらけの、三面記事に組み込まれるべき異常事態に満ちている」
こんな事件のことを書くのは、いまも抵抗がある。しかし、また同じような悲劇が起きるかもしれない。
■室見川の堤防の桜並木に鳥の巣がかかっている。たぶんカササギの巣だろう。白と黒のツートンカラーのカササギの夫婦が近くを飛びまわっていた。
平成の怪物・松坂の最後の一球 ― 2021年10月20日 16時23分

平成の怪物・松坂大輔がグラウンドを去った。いつも笑顔を絶やさず、礼儀正しく、スター性抜群のダイスケがいなくなって、プロ野球界は寂しくなった。
ぼくらの時代の投手の傑物は、古くは浪商の怪童・尾崎行雄、次は作新学院の怪物・江川卓である。
法政の江川のピッチングは、神宮球場で見たことがある。高校時代と違って、「手抜き」とわかるボールが多かった。だが、相手チームの4番打者には本気をだして、三球三振に切って捨てていた。あるチームの4番打者・S選手はプロ志望だったが、江川のボールにかすりもせず、とうとうドラフトにかからなかった。
一方、東大の選手にはほとんどが手抜き。だからというわけでもないだろうが、小柄なセンター・H選手は江川に強く、後に東大野球部の監督になった。こうして思い出していると、多摩川の上流の彼の実家まで取材に行ったことがなつかしい。
高校時代の江川はものすごかったらしい。某新聞社の先輩記者によると、練習試合だろうが、江川の登板の日になると、宇都宮支局の記者たちはそろってネット裏に集まったという。
今日こそ、江川は27人の打者に対して、27個の三振をとるぞ、あいつならオール三振の完全試合をやってくれるぞ。各社の記者たちはそんな話で盛り上がっていたとか。もちろん、その瞬間に立ち会って、歴史的な記事を書く気でいたのだ。
「江川の投げるボールは恐ろしかった。速いのなんの、あんなの見たことがない。まばたきする間もなく、ビュッときて、ネット裏にいても怖いんだから」
ぼくのなかで、投手ナンバーワンは怪物・江川という確信がくつがえったのは、1998年、夏の甲子園の松坂をテレビで観ていたとき。解説者が「江川君よりも、松坂君の方が上でしょう」と言ったのだ。甲子園、そしてプロ入り後の二人の記録を比べると、解説者の見立て通りだった。
ピッチングとは別に、ぼくは松坂の功績のひとつに、横浜高校のブランド価値を大きく向上させたことを上げておきたい。
1980年、同校の愛甲猛が夏の甲子園の決勝戦で、早実のエース・荒木大輔と投げ合って優勝したころ、横浜高校は不良が多い学校と言われていた。(ウソだとおもうなら、You Tubeにある愛甲のインタビューをご覧になるとよい)
愛甲が後輩に暴力をふるい、それが刺(密告)されて、横浜高校野球部が高野連から制裁処分を受けた騒ぎがあった。
その件の取材で、当時の渡辺元智(もとのり)監督に話を聞いたことがある。渡辺さんは「問題の生徒はいっぱいいます。わたしはそういう手に負えない生徒たちを、野球を通じて教育したい。野球にはそんな力があると信じています」と熱っぽく話してくれた。松坂はいい人に育てられた。
さて、横浜高校のいまはどうだろう。校内の状況は知らないが、横浜高校と言えば、松坂大輔である。彼ひとりだけの力ではないにしても、プロ野球界でも横浜高校はブランドになっている。同校の出身者たちも、生徒たちも、母校に誇りを持っているのではなかろうか。校内の雰囲気も、世間の好感度も上がっているとおもう。
ここで時計の針をぐるりと逆回転すると、この関係性はだれかに似ている。そう、甲子園の優勝投手にして、世界のホームラン王の王貞治と早稲田実業のことが思い浮かぶ。早実と言えば、荒木大輔や清宮幸太郎ではなく、いまも王貞治である。早実のブランド力は、王さんに負うところが大きいのではあるまいか。
ぼくは王さんがホームランの世界新を記録した時の臨時増刊号の取材をしたこともある。756号が出たときは、後楽園球場の記者席にいた。
王さんは、まさに「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」を地でいく人である。テレビで見るしか知らないが、松坂も威張る人ではない。そして、ふたりとも「手抜き」をしない。ぼくの目には、どことなく似ているように映る。
もうひとりの怪物・江川は、大学に進学した後、よく手抜き投法とか、省エネ投法と言われたものだ。逆に、松坂は練習でも投げまくるタイプだった。王さんも現役時代は夜遅くまで、猛烈に素振りを繰り返していた。
最後のマウンドで、松坂が同じ横浜高校の後輩である日本ハム・後藤健介に投じた、選手生活を締めくくるボールのスピードは渾身の116キロ。
からだはボロボロで、中学生のピッチャーよりも遅い116キロ。しかし、最後の一球も、平成の怪物は「手抜き」をしなかった。
■短い草むらに足を踏み込むと、足元からバッタが飛び立って行く。バッタには悪かったが、追いかけて、追いかけて、追いかけて、写真を撮らせてもらった。
ぼくらの時代の投手の傑物は、古くは浪商の怪童・尾崎行雄、次は作新学院の怪物・江川卓である。
法政の江川のピッチングは、神宮球場で見たことがある。高校時代と違って、「手抜き」とわかるボールが多かった。だが、相手チームの4番打者には本気をだして、三球三振に切って捨てていた。あるチームの4番打者・S選手はプロ志望だったが、江川のボールにかすりもせず、とうとうドラフトにかからなかった。
一方、東大の選手にはほとんどが手抜き。だからというわけでもないだろうが、小柄なセンター・H選手は江川に強く、後に東大野球部の監督になった。こうして思い出していると、多摩川の上流の彼の実家まで取材に行ったことがなつかしい。
高校時代の江川はものすごかったらしい。某新聞社の先輩記者によると、練習試合だろうが、江川の登板の日になると、宇都宮支局の記者たちはそろってネット裏に集まったという。
今日こそ、江川は27人の打者に対して、27個の三振をとるぞ、あいつならオール三振の完全試合をやってくれるぞ。各社の記者たちはそんな話で盛り上がっていたとか。もちろん、その瞬間に立ち会って、歴史的な記事を書く気でいたのだ。
「江川の投げるボールは恐ろしかった。速いのなんの、あんなの見たことがない。まばたきする間もなく、ビュッときて、ネット裏にいても怖いんだから」
ぼくのなかで、投手ナンバーワンは怪物・江川という確信がくつがえったのは、1998年、夏の甲子園の松坂をテレビで観ていたとき。解説者が「江川君よりも、松坂君の方が上でしょう」と言ったのだ。甲子園、そしてプロ入り後の二人の記録を比べると、解説者の見立て通りだった。
ピッチングとは別に、ぼくは松坂の功績のひとつに、横浜高校のブランド価値を大きく向上させたことを上げておきたい。
1980年、同校の愛甲猛が夏の甲子園の決勝戦で、早実のエース・荒木大輔と投げ合って優勝したころ、横浜高校は不良が多い学校と言われていた。(ウソだとおもうなら、You Tubeにある愛甲のインタビューをご覧になるとよい)
愛甲が後輩に暴力をふるい、それが刺(密告)されて、横浜高校野球部が高野連から制裁処分を受けた騒ぎがあった。
その件の取材で、当時の渡辺元智(もとのり)監督に話を聞いたことがある。渡辺さんは「問題の生徒はいっぱいいます。わたしはそういう手に負えない生徒たちを、野球を通じて教育したい。野球にはそんな力があると信じています」と熱っぽく話してくれた。松坂はいい人に育てられた。
さて、横浜高校のいまはどうだろう。校内の状況は知らないが、横浜高校と言えば、松坂大輔である。彼ひとりだけの力ではないにしても、プロ野球界でも横浜高校はブランドになっている。同校の出身者たちも、生徒たちも、母校に誇りを持っているのではなかろうか。校内の雰囲気も、世間の好感度も上がっているとおもう。
ここで時計の針をぐるりと逆回転すると、この関係性はだれかに似ている。そう、甲子園の優勝投手にして、世界のホームラン王の王貞治と早稲田実業のことが思い浮かぶ。早実と言えば、荒木大輔や清宮幸太郎ではなく、いまも王貞治である。早実のブランド力は、王さんに負うところが大きいのではあるまいか。
ぼくは王さんがホームランの世界新を記録した時の臨時増刊号の取材をしたこともある。756号が出たときは、後楽園球場の記者席にいた。
王さんは、まさに「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」を地でいく人である。テレビで見るしか知らないが、松坂も威張る人ではない。そして、ふたりとも「手抜き」をしない。ぼくの目には、どことなく似ているように映る。
もうひとりの怪物・江川は、大学に進学した後、よく手抜き投法とか、省エネ投法と言われたものだ。逆に、松坂は練習でも投げまくるタイプだった。王さんも現役時代は夜遅くまで、猛烈に素振りを繰り返していた。
最後のマウンドで、松坂が同じ横浜高校の後輩である日本ハム・後藤健介に投じた、選手生活を締めくくるボールのスピードは渾身の116キロ。
からだはボロボロで、中学生のピッチャーよりも遅い116キロ。しかし、最後の一球も、平成の怪物は「手抜き」をしなかった。
■短い草むらに足を踏み込むと、足元からバッタが飛び立って行く。バッタには悪かったが、追いかけて、追いかけて、追いかけて、写真を撮らせてもらった。
無投票は、賛成票である ― 2021年10月26日 09時48分

衆議院選挙は終盤に突入して、報道も熱を帯びてきた。しかし、どこかピンと来ない。
ぼくの場合、原因は近くにある選挙用の掲示板が如実に物語っている。貼られている候補者のポスターはたった2枚だけ。なんとも静かで、さびしい光景である。弁当のフタをあけたら、おかずは二品だけで、ほかは空っぽ、といった感じがする。こんな選挙は初めてだ。
安倍、菅の政権下では、政治家だけでなく、官僚も信用できない事例があまりにも多かった。なにしろ法の番人の最高権力者である法務大臣が、それも国会議員の嫁さんと一緒に逮捕されたのだから。前代未聞の事件で、常の世ならば政権が吹っ飛んでもおかしくなかった。
さて、各陣営の選挙事務所では、いまごろ最終の票読みに余念がないはず。そこで話題になるのが投票率である。これによって当落ラインのおおよその得票数が読めるからだ。
選挙になると、政治には興味がない。どうせ投票に行っても、何も変わらない。そういう声をよく聞く。
だが、かつて国政選挙の現場を何度も取材した経験から言えば、現実はそう単純な話ではない。投票日の天気予報に一喜一憂して、台風が来ないかなぁ、とか、いい天気になって、みんな朝から遠くに出かけてくれないかなぁ、とつぶやく選対幹部もいるのだ。もちろん、この逆の投票率アップを切望する陣営もある。
では、投票率が下がったら、どうなるか。それは全体の投票者数が下がることだから、当然、大雨が降っても、出かける用事があっても、必ず投票に行くという支持者を、それもまとまった数で持っているところが断然有利になる。
彼らにとって、「投票に行かない人」は大歓迎なのだ。無投票とは、間接的な賛成票というわけである。(対抗陣営からすれば、反対票になる)
「政治に関心が無い人」も、ちゃんとどこかの政党を援けているのだ。「そんなの嫌だよ」とふくれても始まらない、そういうことなのだから。
政治体制が動くのは、投票率が上がるときである。よくあるケースは政権への批判票が増えるとき。そうでない場合、もともと支持率の低い野党が政権与党の厚い壁を破るのは容易ではない。先の自民党のトップ交替も、この脈絡でとらえると、狙いがよくわかるだろう。
今回の選挙では、野党共闘によって自民党に対抗する候補者の一本化が進んだことが大きな変化だった。
しかしながら、どんな社会にしたいのかという点になると、どの政党も似たり寄ったり。選挙公約を実行する手段も、ほとんどの政党が財源問題には触れずに、巨額の国費のばら撒きである。
国民の将来に対して、あまりにも無責任ではないか、とあきれるが、本人たちは平然としている。そうなのだ、与野党とも、いまのほとんどの国会議員は議員バッジをつけたときから、赤字国債頼りの予算編成が当たり前の世代なのだ。そして、未来への責任をとる議員は、たぶんだれもいない。
莫大なツケを払うのは若い世代である。先に待ち構えているのは消費税の大幅な引き上げしか浮かんでこない。各候補者の「生活を守ります」という叫び声が、まわりまわって、「生活を破壊します」の準備工作になりかねない。願わくば、そんなことにならないように。
投票日は今度の日曜日、31日。福岡の天気予報は曇り。
さぁ、各選挙区の投票率はどうなることか。気になるので、一筆、書いておく。
高校、大学時代の友人から、政治を憂える声と共に、こんなメールが届いた。
「国のリーダーには、真面目に働いている国民が今日より明日はきっと良くなると思える国にしてください、ということに尽きる」(トヨタ自動車社長、自民党総裁選に注文)
ぼくの場合、原因は近くにある選挙用の掲示板が如実に物語っている。貼られている候補者のポスターはたった2枚だけ。なんとも静かで、さびしい光景である。弁当のフタをあけたら、おかずは二品だけで、ほかは空っぽ、といった感じがする。こんな選挙は初めてだ。
安倍、菅の政権下では、政治家だけでなく、官僚も信用できない事例があまりにも多かった。なにしろ法の番人の最高権力者である法務大臣が、それも国会議員の嫁さんと一緒に逮捕されたのだから。前代未聞の事件で、常の世ならば政権が吹っ飛んでもおかしくなかった。
さて、各陣営の選挙事務所では、いまごろ最終の票読みに余念がないはず。そこで話題になるのが投票率である。これによって当落ラインのおおよその得票数が読めるからだ。
選挙になると、政治には興味がない。どうせ投票に行っても、何も変わらない。そういう声をよく聞く。
だが、かつて国政選挙の現場を何度も取材した経験から言えば、現実はそう単純な話ではない。投票日の天気予報に一喜一憂して、台風が来ないかなぁ、とか、いい天気になって、みんな朝から遠くに出かけてくれないかなぁ、とつぶやく選対幹部もいるのだ。もちろん、この逆の投票率アップを切望する陣営もある。
では、投票率が下がったら、どうなるか。それは全体の投票者数が下がることだから、当然、大雨が降っても、出かける用事があっても、必ず投票に行くという支持者を、それもまとまった数で持っているところが断然有利になる。
彼らにとって、「投票に行かない人」は大歓迎なのだ。無投票とは、間接的な賛成票というわけである。(対抗陣営からすれば、反対票になる)
「政治に関心が無い人」も、ちゃんとどこかの政党を援けているのだ。「そんなの嫌だよ」とふくれても始まらない、そういうことなのだから。
政治体制が動くのは、投票率が上がるときである。よくあるケースは政権への批判票が増えるとき。そうでない場合、もともと支持率の低い野党が政権与党の厚い壁を破るのは容易ではない。先の自民党のトップ交替も、この脈絡でとらえると、狙いがよくわかるだろう。
今回の選挙では、野党共闘によって自民党に対抗する候補者の一本化が進んだことが大きな変化だった。
しかしながら、どんな社会にしたいのかという点になると、どの政党も似たり寄ったり。選挙公約を実行する手段も、ほとんどの政党が財源問題には触れずに、巨額の国費のばら撒きである。
国民の将来に対して、あまりにも無責任ではないか、とあきれるが、本人たちは平然としている。そうなのだ、与野党とも、いまのほとんどの国会議員は議員バッジをつけたときから、赤字国債頼りの予算編成が当たり前の世代なのだ。そして、未来への責任をとる議員は、たぶんだれもいない。
莫大なツケを払うのは若い世代である。先に待ち構えているのは消費税の大幅な引き上げしか浮かんでこない。各候補者の「生活を守ります」という叫び声が、まわりまわって、「生活を破壊します」の準備工作になりかねない。願わくば、そんなことにならないように。
投票日は今度の日曜日、31日。福岡の天気予報は曇り。
さぁ、各選挙区の投票率はどうなることか。気になるので、一筆、書いておく。
高校、大学時代の友人から、政治を憂える声と共に、こんなメールが届いた。
「国のリーダーには、真面目に働いている国民が今日より明日はきっと良くなると思える国にしてください、ということに尽きる」(トヨタ自動車社長、自民党総裁選に注文)
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