冬眠カエル、新幹線に乗る ― 2022年03月02日 11時54分

春、三月。今日は朝から快晴。こたつ布団を片づけたら部屋がすっきりして広くなった。ついでに敷き布団も干す。
いまごろ団地のあちこちのベランダには布団や毛布が垂れ下がっていることだろう。高級マンションではご法度だが、ここは庶民たちの生活の場。ときどき風で飛ばされた女もののパンツが道の脇に落ちている。見てはいけないものを、見てしまったような気がして、ドキリ!とする。まぁ、たいがいはオバンパンツではあるが。
ぼくはこのブログを書いた後、散文の続きにとりかかる。何としても今月半ばまでには書き上げて、どこかの懸賞に応募するつもりだ。書いたからには外へ出さねば。それが記者時代からの習性である。懸賞狙いなどという身の丈知らずの行為ではなく、自分に課すケジメといったところか。
さて、先日テレビを見ていたらカエルが出てきた。交尾のシーンがあって、オタマジャクシの群れになるまで映していた。
カエルにはいろんな思い出がある。
正月休みが終わり、小倉駅から新幹線で東京に戻る車中でのことだった。通路側の席の足もとに置いていた荷物のまわりに、いつの間にか水溜りができていた。小さな池はだんだん大きくなって、ついに形が崩れた。流れはじめた水の舌先は車体の振動に合わせるように床をはって後ろの方へと伸びて行く。通路にできた細い川の流れは止まらない。
具合の悪いことに乗車率は100%強である。立っている人もいる。不思議な水の流れをたどって、乗客たちの目がぼくに届く。こうなると対案はひとつしかない。首をがくんと折って、タヌキ寝入りを決め込んだ。
車掌さんも、乗り合わせた皆さんも、まさに知らぬが仏で、この水、食用カエルの小便だった。九州出身の編集部の大先輩から頼まれて大量のカエルたちを運んでいたのだ。いきさつはこうである。
「おい、正月休みに九州へ帰るんだろ。あのな、冬はな、カエルがうまいんだ。お前、食ったことがあるか」
「いいえ、食べられるのは知っていますが、まだ食ったことはありません」
「うまいぞ。俺はトリよりもカエルの方が好きだな。そこでだ、お前に頼みがある。実はな、田舎の兄貴に冬眠中のカエルを獲ってくれと頼んでいる。そいつを小倉駅で受け取って、新幹線で持って来てくれないか」
ぼくは二つ返事で了解した。小倉駅の改札口で受け取った荷物はずっしり重かった。ビニール袋で厳重に包装されているので中身は見えないが、とても五匹や六匹ではない。10リットルのバケツいっぱいに、生きたカエルたちが詰め込まれている、そんな感じだった。
暗い穴倉の中でじっと冬眠しているところを、突然手づかみで御用となった気の毒な奴らである。カエルたちには降って湧いたような災難だが、この獲り立てほやほやの自然の味を待ち構えている先輩がいる。ぼくは珍しい土産を手にしている気分で車中の人になっていたのである。
埼玉の浦和駅からタクシーを飛ばして、先輩の自宅まで荷物を届けに行った。何重にも包まれたビニール袋を開けると、茶色と緑が混じったグロテスクなカエルたちが眠たそうな目をしていた。その姿を見て、まぁ、先輩のよろこんだこと。
「よし、いまからさばいて鍋にするから、お前も食って行け」
食用カエルを食べたことのある人はご存じのように、カエルの肉はくせがなく、淡泊な中に甘みがある。骨は細いので、からだの大きさの割には肉の量がある。あの鍋は本当にうまかった。
この先輩は経済部の名物記者で、ぼくたち夫婦が結婚したとき、旅行会社に手をまわして新婚旅行を手厚く応援してくれた。週刊誌の記者を辞めて、東京をはなれるときには、銀座にも連れて行ってもらった。そのとき福岡でゼロからスタートする心構えとして、こんな言葉をいただいた。
「東京風を吹かすな。これだけは気をつけろ。嫌われないようにな」
その忠告を守って、ぼくは政治も、事件も、スポーツも、新しい職場で東京時代の話はほとんどしなかった。いまでもそうしてよかったとおもっている。
■室見川の沿いの公園にツグミがいた。以前は団地のなかにもよく飛んで来たが、この冬は一羽も見かけなかった。昔の本にはツグミを獲って食べる話が出ていた。これもカエルと同じように、田舎の暮らしに根づいた食文化のひとつだとおもうのだが、野鳥たちは法律で守られ、いまはそんな文章を書く作家もいなくなってしまった。
いまごろ団地のあちこちのベランダには布団や毛布が垂れ下がっていることだろう。高級マンションではご法度だが、ここは庶民たちの生活の場。ときどき風で飛ばされた女もののパンツが道の脇に落ちている。見てはいけないものを、見てしまったような気がして、ドキリ!とする。まぁ、たいがいはオバンパンツではあるが。
ぼくはこのブログを書いた後、散文の続きにとりかかる。何としても今月半ばまでには書き上げて、どこかの懸賞に応募するつもりだ。書いたからには外へ出さねば。それが記者時代からの習性である。懸賞狙いなどという身の丈知らずの行為ではなく、自分に課すケジメといったところか。
さて、先日テレビを見ていたらカエルが出てきた。交尾のシーンがあって、オタマジャクシの群れになるまで映していた。
カエルにはいろんな思い出がある。
正月休みが終わり、小倉駅から新幹線で東京に戻る車中でのことだった。通路側の席の足もとに置いていた荷物のまわりに、いつの間にか水溜りができていた。小さな池はだんだん大きくなって、ついに形が崩れた。流れはじめた水の舌先は車体の振動に合わせるように床をはって後ろの方へと伸びて行く。通路にできた細い川の流れは止まらない。
具合の悪いことに乗車率は100%強である。立っている人もいる。不思議な水の流れをたどって、乗客たちの目がぼくに届く。こうなると対案はひとつしかない。首をがくんと折って、タヌキ寝入りを決め込んだ。
車掌さんも、乗り合わせた皆さんも、まさに知らぬが仏で、この水、食用カエルの小便だった。九州出身の編集部の大先輩から頼まれて大量のカエルたちを運んでいたのだ。いきさつはこうである。
「おい、正月休みに九州へ帰るんだろ。あのな、冬はな、カエルがうまいんだ。お前、食ったことがあるか」
「いいえ、食べられるのは知っていますが、まだ食ったことはありません」
「うまいぞ。俺はトリよりもカエルの方が好きだな。そこでだ、お前に頼みがある。実はな、田舎の兄貴に冬眠中のカエルを獲ってくれと頼んでいる。そいつを小倉駅で受け取って、新幹線で持って来てくれないか」
ぼくは二つ返事で了解した。小倉駅の改札口で受け取った荷物はずっしり重かった。ビニール袋で厳重に包装されているので中身は見えないが、とても五匹や六匹ではない。10リットルのバケツいっぱいに、生きたカエルたちが詰め込まれている、そんな感じだった。
暗い穴倉の中でじっと冬眠しているところを、突然手づかみで御用となった気の毒な奴らである。カエルたちには降って湧いたような災難だが、この獲り立てほやほやの自然の味を待ち構えている先輩がいる。ぼくは珍しい土産を手にしている気分で車中の人になっていたのである。
埼玉の浦和駅からタクシーを飛ばして、先輩の自宅まで荷物を届けに行った。何重にも包まれたビニール袋を開けると、茶色と緑が混じったグロテスクなカエルたちが眠たそうな目をしていた。その姿を見て、まぁ、先輩のよろこんだこと。
「よし、いまからさばいて鍋にするから、お前も食って行け」
食用カエルを食べたことのある人はご存じのように、カエルの肉はくせがなく、淡泊な中に甘みがある。骨は細いので、からだの大きさの割には肉の量がある。あの鍋は本当にうまかった。
この先輩は経済部の名物記者で、ぼくたち夫婦が結婚したとき、旅行会社に手をまわして新婚旅行を手厚く応援してくれた。週刊誌の記者を辞めて、東京をはなれるときには、銀座にも連れて行ってもらった。そのとき福岡でゼロからスタートする心構えとして、こんな言葉をいただいた。
「東京風を吹かすな。これだけは気をつけろ。嫌われないようにな」
その忠告を守って、ぼくは政治も、事件も、スポーツも、新しい職場で東京時代の話はほとんどしなかった。いまでもそうしてよかったとおもっている。
■室見川の沿いの公園にツグミがいた。以前は団地のなかにもよく飛んで来たが、この冬は一羽も見かけなかった。昔の本にはツグミを獲って食べる話が出ていた。これもカエルと同じように、田舎の暮らしに根づいた食文化のひとつだとおもうのだが、野鳥たちは法律で守られ、いまはそんな文章を書く作家もいなくなってしまった。
散文を書き終えた ― 2022年03月12日 10時28分

ようやく散文(小説)を書き終えた。400字詰めの原稿用紙に換算して120枚。少し寝かして置いて、再度推敲するが、微調整ですましたい。触り出したら切りがない。
気分は次の散文に向かっていて、また新しい登場人物を産み出して、どこを舞台にして、物語がどう展開していくのか、そちらの楽しみを味わいたい。個人的な生きがいなので、高望みをせずに、好きなようにやれるのがおもしろいところだ。
そろそろ写本も再開しなくては。ノートに人の書いた文章を写すだけだが、あの『暮らしの手帳』の初代編集長・花森安治は亡くなる直前まで、名文家といわれる作家の原稿をノートに書き写していた。上手な原稿を書くには、これがいちばんの練習になる。
数か月前から、ぼくが鉛筆でノートに書き写した作家は、井伏鱒二、森鴎外、夏目漱石、志賀直哉、梶井基次郎、石牟礼道子といった「定番」ばかり。みな故人である。どういうわけか、いま活躍している人の文章を写す気にはなれない。
週刊誌の編集部にいたころ、エース記者のTさんが「東海林さだおは(文章が)うまいなぁ」と話してくれた。君も東海林さだおでも読んで、原稿書きの勉強したらどうだね、と暗に教えてくれたのだ。四苦八苦して、やっと書き上げた短い原稿がデスクの手で赤字だらけになっていたころのことである。
すぐ数冊を買って読んだ。『ショージ君のごきげん日記』、『ショージ君の日本拝見』、『ショージ君のぐうたら旅行』など。
どうでもいいようなことを、ああでもない、こうでもないとおもしろおかしく書いてある。例えば、タクアン一切れでも、読者の心理をくすぐりながら、微に入り、細にわたりで、読んでいるうちに、タクアンの匂いがしてきて、噛む音まで聞こえてきて、いますぐにでもタクアンを齧(かじ)りたくなるのだ。これは達人だ、と感心した。軽妙な文章の力にはまってしまい、十冊以上は読んだろうか。
だが、本当の衝撃は数年後にやってきた。
新聞だったか、雑誌だったかに、東海林さだおの文章(筆力)が取り上げられていたのだ。そこで目にしたのは、「彼は簡潔な文章を書くために、中島敦の文章を勉強している」という一文だった。「勉強している」とは、「書き写している」ということである。
あんなにひとつのことをだらだらと、よくもまぁ、ひねくりまわして書くものだと感心していたら、本人はまったく逆のお手本を使って鍛錬していたのだ。舞台裏のもうひとつの顔を見たようだった。本当に、人は上っ面(つら)だけではわからないものだ。
そこで、また発見した。
そうか、東海林さだおは、毎日新聞の四コマまんが『アサッテ君』を連載している(すでに休止)。そこに載せるまんがは物語の枝葉を極限まで削っている。だから簡潔な文章の中島敦なのだ、と。ぼくがさっそく手元にあった中島敦の短編集を取り出して、『李陵』、『山月記』などを読み直したのは言うまでもない。
梶井基次郎は31歳、中島敦は33歳で亡くなった(共に東大卒)。そして、ふたりの作品は、ふたりの死後に高く評されて、今日に至っている。その波瀾の人生の中身はともかく、生きている時間も簡潔だった。だが、亡くなった後のふたりの余韻の大きさは計り知れないものがある。
久しぶりにブログを書いた。ウクライナのこと、プーチンのこと、いろんな思いがかけめぐる。それは張作霖爆死事件や満州国建国などの過去の日本軍の行為と重なって映る。散文を書きながら、こんなことをしていていいのかと、ふと立ち止まることがある。
■散文のなかに、鹿児島の港町にいた小学生時代のことを書いた。よく遊んだ。写真はマツの木。茶色の棒状はめしべ。これをへし折ると松脂(マツヤニ)が出てくる。二本の針のような葉を採って、その根元に粘り気のある松脂を塗り付ける。そして、池に浮かべると松脂が溶け出して、虹色の糸を引きながら木の葉はすーっと滑って行く。
よくやった遊びである。いまの子どもたちは知っているだろうか。
気分は次の散文に向かっていて、また新しい登場人物を産み出して、どこを舞台にして、物語がどう展開していくのか、そちらの楽しみを味わいたい。個人的な生きがいなので、高望みをせずに、好きなようにやれるのがおもしろいところだ。
そろそろ写本も再開しなくては。ノートに人の書いた文章を写すだけだが、あの『暮らしの手帳』の初代編集長・花森安治は亡くなる直前まで、名文家といわれる作家の原稿をノートに書き写していた。上手な原稿を書くには、これがいちばんの練習になる。
数か月前から、ぼくが鉛筆でノートに書き写した作家は、井伏鱒二、森鴎外、夏目漱石、志賀直哉、梶井基次郎、石牟礼道子といった「定番」ばかり。みな故人である。どういうわけか、いま活躍している人の文章を写す気にはなれない。
週刊誌の編集部にいたころ、エース記者のTさんが「東海林さだおは(文章が)うまいなぁ」と話してくれた。君も東海林さだおでも読んで、原稿書きの勉強したらどうだね、と暗に教えてくれたのだ。四苦八苦して、やっと書き上げた短い原稿がデスクの手で赤字だらけになっていたころのことである。
すぐ数冊を買って読んだ。『ショージ君のごきげん日記』、『ショージ君の日本拝見』、『ショージ君のぐうたら旅行』など。
どうでもいいようなことを、ああでもない、こうでもないとおもしろおかしく書いてある。例えば、タクアン一切れでも、読者の心理をくすぐりながら、微に入り、細にわたりで、読んでいるうちに、タクアンの匂いがしてきて、噛む音まで聞こえてきて、いますぐにでもタクアンを齧(かじ)りたくなるのだ。これは達人だ、と感心した。軽妙な文章の力にはまってしまい、十冊以上は読んだろうか。
だが、本当の衝撃は数年後にやってきた。
新聞だったか、雑誌だったかに、東海林さだおの文章(筆力)が取り上げられていたのだ。そこで目にしたのは、「彼は簡潔な文章を書くために、中島敦の文章を勉強している」という一文だった。「勉強している」とは、「書き写している」ということである。
あんなにひとつのことをだらだらと、よくもまぁ、ひねくりまわして書くものだと感心していたら、本人はまったく逆のお手本を使って鍛錬していたのだ。舞台裏のもうひとつの顔を見たようだった。本当に、人は上っ面(つら)だけではわからないものだ。
そこで、また発見した。
そうか、東海林さだおは、毎日新聞の四コマまんが『アサッテ君』を連載している(すでに休止)。そこに載せるまんがは物語の枝葉を極限まで削っている。だから簡潔な文章の中島敦なのだ、と。ぼくがさっそく手元にあった中島敦の短編集を取り出して、『李陵』、『山月記』などを読み直したのは言うまでもない。
梶井基次郎は31歳、中島敦は33歳で亡くなった(共に東大卒)。そして、ふたりの作品は、ふたりの死後に高く評されて、今日に至っている。その波瀾の人生の中身はともかく、生きている時間も簡潔だった。だが、亡くなった後のふたりの余韻の大きさは計り知れないものがある。
久しぶりにブログを書いた。ウクライナのこと、プーチンのこと、いろんな思いがかけめぐる。それは張作霖爆死事件や満州国建国などの過去の日本軍の行為と重なって映る。散文を書きながら、こんなことをしていていいのかと、ふと立ち止まることがある。
■散文のなかに、鹿児島の港町にいた小学生時代のことを書いた。よく遊んだ。写真はマツの木。茶色の棒状はめしべ。これをへし折ると松脂(マツヤニ)が出てくる。二本の針のような葉を採って、その根元に粘り気のある松脂を塗り付ける。そして、池に浮かべると松脂が溶け出して、虹色の糸を引きながら木の葉はすーっと滑って行く。
よくやった遊びである。いまの子どもたちは知っているだろうか。
息子、30代の旅立ち ― 2022年03月13日 18時19分

長男がほぼ10年間勤めていた魚料理のチェーン店を辞めた。もうひとりの先輩も同じ理由で辞めるという。
息子は有給休暇が最高の40日近くもあるとか。相場よりもかなり安い給料だったが、まじめに働いていればいつかはきっといいときがくる。彼はそうおもっていたらしく、じっと我慢していた。
30代に、人生の岐路が待っている。自分もそうだったし、同じような人を何人も見てきた。先のことはだれにもわからない。辞めるか、辞めないか、信じる道を行くしかないとおもう。
昨日の朝、長い休みを利用して、息子は独りで九州自動車道を南下。熊本、鹿児島、宮崎の店や本社をまわって、いままでお世話になった人たちへの挨拶まわりに出発した。彼なりのひとつの区切りなのだろう。
出かける前に、「だったら、途中の人吉インターで降りて、高田酒造場に寄って、焼酎を買って来てくれないかな」と軽い気持ちで声をかけた。
そう言ったあとで、まぁ、そこまで頼むこともないかと気が引けて、「いまの話はいいよ。まわり道になるもんな。高田さんのところは行かなくていいからな」と訂正した。
数時間後、ぼくの携帯が鳴った。
「いま高田さんのところにいる。何を買えばいいと?」
やっぱり、行ったんだ。そういう性格なのだ。
「おう、行ってくれたのか、悪いな。じゃあ、いちばん安い普通酒で、常圧蒸留の『秋穂』と減圧蒸留の『五十四萬石』の一升瓶を1本ずつたのむ。ほかは買わなくていいよ。それで、いまそこにはだれがいる?」
「メガネをかけた若い女の人。たったいま商品を持って来ますと出て行った。じゃあ、それだけ買うね」
それから1時間後、また携帯が鳴った。
「高田さんの紙袋のなかを確認したら、注文していないのが1本入ってた。焼酎じゃなくて、ジンかな。きっとサービスしてくれたんだとおもう。気がつかなかったら、お礼も言わんかった。お父さんの方から高田さんによろしく連絡しておいてくれる」
これではっきりした。応対したメガネの女性は、高田さんのひとり娘のYちゃんに違いない。
彼女のことは、本人が小学生のころから知っている。結婚披露宴で幸せそうな花嫁姿も見た。いまでは高田家の「第十三代又助」として、立派に跡目を継いでいる。
21年前の2003年、創業100周年を迎えた高田酒造場は、記念事業として新しい仕込み蔵を建設した。その少し前に、ぼくは高田酒造場ファンクラブをつくって、この小さな蔵を側面から応援した。商品開発から情報発信、ブランディング、仕込み蔵の設計支援、銀行融資の援護射撃など何でもやった。そのすべてがたのしかった。
全国でもいち早く取り入れたアイガモ農法の無農薬米、自家栽培の山田錦、花酵母、5種類の樫樽を使用した長期熟成貯蔵、海抜1,000メートルの山頂付近に湧き出る石清水を使うなど、伝統の中に革新を取り入れて、量は追わず、質を求める高田さんの人柄と焼酎造りに共鳴して、よろこんでやったことだ。
最終的な目的は、かわいいひとり娘に、この小さな蔵を継いでほしいという高田さんの願いを実現することだった。ぼくたちのほかにも、もっと大勢の人たちが支援していた。
彼女が東京の大学で醸造学を学び、蔵に戻ってきたのを機に、ファンクラブの活動は次第に抑え気味にして行った。ずっと待っていた世代交代のときが来たのだ。ぼくらの役目が終わってから、もうずいぶんになる。
昨日、息子が蔵を訪ねたとき、メガネの女性は自分のことをほとんどしゃべらなかったという。でも、黙ったまま、そっと紙袋に和製のジンを忍ばせてくれたのだ。そんなことをやってくれる人は、高田さんのほかに、Yちゃん以外にはいない。
息子が帰ってきたら、氷をたっぷり入れたグラスを用意して、ふたりで高田酒造場自慢のジンをゆっくりとやりたい。そして、息子の次のステージへの出発を静かに祝ってやろう。
きっと口には出さないだろうけど、言ってやりたいことがある。Yちゃんは家業を継いだ。でもな、お前はいつでも自由なんだよと。
■団地のなかにカササギのカップルがいた。いつも旧型のiPhoneで撮影するので、大きな写真を撮るためにじわじわと近づくのだが、野鳥たちはすぐ飛んで逃げてしまう。
息子は有給休暇が最高の40日近くもあるとか。相場よりもかなり安い給料だったが、まじめに働いていればいつかはきっといいときがくる。彼はそうおもっていたらしく、じっと我慢していた。
30代に、人生の岐路が待っている。自分もそうだったし、同じような人を何人も見てきた。先のことはだれにもわからない。辞めるか、辞めないか、信じる道を行くしかないとおもう。
昨日の朝、長い休みを利用して、息子は独りで九州自動車道を南下。熊本、鹿児島、宮崎の店や本社をまわって、いままでお世話になった人たちへの挨拶まわりに出発した。彼なりのひとつの区切りなのだろう。
出かける前に、「だったら、途中の人吉インターで降りて、高田酒造場に寄って、焼酎を買って来てくれないかな」と軽い気持ちで声をかけた。
そう言ったあとで、まぁ、そこまで頼むこともないかと気が引けて、「いまの話はいいよ。まわり道になるもんな。高田さんのところは行かなくていいからな」と訂正した。
数時間後、ぼくの携帯が鳴った。
「いま高田さんのところにいる。何を買えばいいと?」
やっぱり、行ったんだ。そういう性格なのだ。
「おう、行ってくれたのか、悪いな。じゃあ、いちばん安い普通酒で、常圧蒸留の『秋穂』と減圧蒸留の『五十四萬石』の一升瓶を1本ずつたのむ。ほかは買わなくていいよ。それで、いまそこにはだれがいる?」
「メガネをかけた若い女の人。たったいま商品を持って来ますと出て行った。じゃあ、それだけ買うね」
それから1時間後、また携帯が鳴った。
「高田さんの紙袋のなかを確認したら、注文していないのが1本入ってた。焼酎じゃなくて、ジンかな。きっとサービスしてくれたんだとおもう。気がつかなかったら、お礼も言わんかった。お父さんの方から高田さんによろしく連絡しておいてくれる」
これではっきりした。応対したメガネの女性は、高田さんのひとり娘のYちゃんに違いない。
彼女のことは、本人が小学生のころから知っている。結婚披露宴で幸せそうな花嫁姿も見た。いまでは高田家の「第十三代又助」として、立派に跡目を継いでいる。
21年前の2003年、創業100周年を迎えた高田酒造場は、記念事業として新しい仕込み蔵を建設した。その少し前に、ぼくは高田酒造場ファンクラブをつくって、この小さな蔵を側面から応援した。商品開発から情報発信、ブランディング、仕込み蔵の設計支援、銀行融資の援護射撃など何でもやった。そのすべてがたのしかった。
全国でもいち早く取り入れたアイガモ農法の無農薬米、自家栽培の山田錦、花酵母、5種類の樫樽を使用した長期熟成貯蔵、海抜1,000メートルの山頂付近に湧き出る石清水を使うなど、伝統の中に革新を取り入れて、量は追わず、質を求める高田さんの人柄と焼酎造りに共鳴して、よろこんでやったことだ。
最終的な目的は、かわいいひとり娘に、この小さな蔵を継いでほしいという高田さんの願いを実現することだった。ぼくたちのほかにも、もっと大勢の人たちが支援していた。
彼女が東京の大学で醸造学を学び、蔵に戻ってきたのを機に、ファンクラブの活動は次第に抑え気味にして行った。ずっと待っていた世代交代のときが来たのだ。ぼくらの役目が終わってから、もうずいぶんになる。
昨日、息子が蔵を訪ねたとき、メガネの女性は自分のことをほとんどしゃべらなかったという。でも、黙ったまま、そっと紙袋に和製のジンを忍ばせてくれたのだ。そんなことをやってくれる人は、高田さんのほかに、Yちゃん以外にはいない。
息子が帰ってきたら、氷をたっぷり入れたグラスを用意して、ふたりで高田酒造場自慢のジンをゆっくりとやりたい。そして、息子の次のステージへの出発を静かに祝ってやろう。
きっと口には出さないだろうけど、言ってやりたいことがある。Yちゃんは家業を継いだ。でもな、お前はいつでも自由なんだよと。
■団地のなかにカササギのカップルがいた。いつも旧型のiPhoneで撮影するので、大きな写真を撮るためにじわじわと近づくのだが、野鳥たちはすぐ飛んで逃げてしまう。
フェイクニュースと誤報の決定的な違い ― 2022年03月14日 19時22分

フェイクニュースが世の中をかく乱している。平和を脅かしている。ウクライナを侵略中のロシアは自作自演の偽装攻撃をでっち上げて、相手が仕掛けてきたからだという口実にしている。いつもの手口である。
ヨーロッパの指導者たちは、想像を絶するロシアの狡猾さを知りぬいている。だからロシアを信用しないし、その手には乗らない。アメリカ人がヒラリークリントンとトランプの大統領選挙で、ロシアの仕掛けたヒラリー追い落としのフェイクニュースにまんまとひっかかったのに比べると、さすがに戦争と外交の歴史を積み重ねて来たヨーロッパ人は違う。
フェイクニュースはつくづく厄介なものだ。そんな作り話を平気で巻き散らす人には責任感も恥もないのだろうか。報道の社会では、どんなに取材をしても、それが「誤報」だったら言い訳のできない恥である。
このことを考えると、ぼくはあの有名な三億円事件(東京・府中。1968年12月10日)にからむ大誤報を思い出す。
三億円事件は白バイに乗ったニセの警察官がやった完全犯罪だ。当時は警察の白いヘルメットをかぶったモンタージュ写真も公開されて、いったい犯人はだれなのか、日本中の関心を集めていた。そういうなか、「犯人はこの男だ」のビッグニュースが毎日新聞朝刊の第1面をでかでかと飾ったのである。
ところが、このニュースは間違いだった。世間を大騒ぎにさせた大スクープは、その興奮もつかの間、一転して大誤報になった。
この新聞記事を書いたのは、記者時代にたいへんお世話になったMさん(故人)。以下は、すべて直接聞いた話である。
やっぱりアイツが犯人に違いない。
Mさんがそう確信したのは、「ミスター警視庁」と呼ばれていた当時の刑事部長・土田國保氏(故人。後の警視総監、防衛大学校長)の自宅まで夜討ちの取材に行ったときだった。
取材合戦ははげしさを増し、どこの社が容疑者をすっぱ抜くかの競争で、社会部の記者たちは目の色を変えて取材に走りまわっていた。その渦中で、Mさんは捜査線上に浮かんでいる、ある人物こそが犯人ではないかと当たりをつけていたという。
しかし、確証はない。自分の推理が正しいか、間違っているか、その裏を取るのが、土屋氏に会う目的だった。
もちろん、捜査の最高指揮官である土屋氏はどう揺さぶっても、頑として答えない。しばらく問答を続けているうちに、玄関のベルが鳴った。だれかまた訪ねて来たのだ。奥さんが出て行くとMさんには聞き覚えのある男の声がした。
「こんばんは。S新聞の社会部のFです。夜遅くすみません」
S社の社会部のエース、Fさんだった。(数々のスクープをものにする敏腕記者として有名で、ぼくもその名は知っていた。)
Mさんはさっと席を立って、隣の部屋に身を潜(ひそ)めた。今度はFさんが土屋氏に迫る番だった。そのやりとりの一部始終を、Fさんは暗がりのなかで音も立てずに聞いていたのである。
「犯人は××でしょ。もう、わかってるんですよ」
Fさんが口にした名前は、つい先刻、まさにMさんが挙げた名前と同じだった。
「あのFも三億円事件の容疑者は、俺と同じ人物だとにらんでいる。これで決まりだなとおもったね」。Mさんはそう言っていた。
相変わらず、土田氏は否定も、肯定もしない。とぼけるばかりだった。そして、ついにFさんはしびれを切らすように、こう言ったという。
「明日、書きますよ」
そのときMさんは、このままではS紙に抜かれるとおもった。彼は決断した。社に戻るとすぐ原稿に向かった。
翌日のM紙の一面トップには、あのモンタージュ写真も載っていた。だが、その顔はMさんとFさんが容疑者として挙げていた人物に変わっていた。ここまでやったMさんの自信のほどが伝わってくる。
だが、結果は誤報だった。一方のS紙は「容疑者、逮捕か」の記事は一行もなかった。
三億円事件の裏には、社会部のエース記者たちが火花を散らす、こんなドラマがあったのだ。ぼくが東京をはなれて数年後、Mさんは逝ってしまった。芝増上寺の葬儀には大勢の人が別れに集まったと聞いた。本当に目をかけていただいた。Mさんについても、もっともっと書きたいことがある。
記者時代は徹夜が当たり前で、コンクリートの廊下に寝たり、朝から晩まで飲まず食わずに歩きまわって、血の小便を流したこともある。ぼくのまわりだけでも無理を重ねて、40代で亡くなった先輩記者は二人や三人ではない。あの人たちがこうしている間にも氾濫しているフェイクニュースを見たら、どんな顔をするだろうか。
■息子が高田酒造場から買ってきた焼酎とYちゃんがくれたジン。これだけ手元にあると、とてもシアワセである。このジンは2021年の「東京ウィスキー&スピリッツコンペンション」で最高金賞に輝いている。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kumamoto/news/20210922-OYTNT50097/
ヨーロッパの指導者たちは、想像を絶するロシアの狡猾さを知りぬいている。だからロシアを信用しないし、その手には乗らない。アメリカ人がヒラリークリントンとトランプの大統領選挙で、ロシアの仕掛けたヒラリー追い落としのフェイクニュースにまんまとひっかかったのに比べると、さすがに戦争と外交の歴史を積み重ねて来たヨーロッパ人は違う。
フェイクニュースはつくづく厄介なものだ。そんな作り話を平気で巻き散らす人には責任感も恥もないのだろうか。報道の社会では、どんなに取材をしても、それが「誤報」だったら言い訳のできない恥である。
このことを考えると、ぼくはあの有名な三億円事件(東京・府中。1968年12月10日)にからむ大誤報を思い出す。
三億円事件は白バイに乗ったニセの警察官がやった完全犯罪だ。当時は警察の白いヘルメットをかぶったモンタージュ写真も公開されて、いったい犯人はだれなのか、日本中の関心を集めていた。そういうなか、「犯人はこの男だ」のビッグニュースが毎日新聞朝刊の第1面をでかでかと飾ったのである。
ところが、このニュースは間違いだった。世間を大騒ぎにさせた大スクープは、その興奮もつかの間、一転して大誤報になった。
この新聞記事を書いたのは、記者時代にたいへんお世話になったMさん(故人)。以下は、すべて直接聞いた話である。
やっぱりアイツが犯人に違いない。
Mさんがそう確信したのは、「ミスター警視庁」と呼ばれていた当時の刑事部長・土田國保氏(故人。後の警視総監、防衛大学校長)の自宅まで夜討ちの取材に行ったときだった。
取材合戦ははげしさを増し、どこの社が容疑者をすっぱ抜くかの競争で、社会部の記者たちは目の色を変えて取材に走りまわっていた。その渦中で、Mさんは捜査線上に浮かんでいる、ある人物こそが犯人ではないかと当たりをつけていたという。
しかし、確証はない。自分の推理が正しいか、間違っているか、その裏を取るのが、土屋氏に会う目的だった。
もちろん、捜査の最高指揮官である土屋氏はどう揺さぶっても、頑として答えない。しばらく問答を続けているうちに、玄関のベルが鳴った。だれかまた訪ねて来たのだ。奥さんが出て行くとMさんには聞き覚えのある男の声がした。
「こんばんは。S新聞の社会部のFです。夜遅くすみません」
S社の社会部のエース、Fさんだった。(数々のスクープをものにする敏腕記者として有名で、ぼくもその名は知っていた。)
Mさんはさっと席を立って、隣の部屋に身を潜(ひそ)めた。今度はFさんが土屋氏に迫る番だった。そのやりとりの一部始終を、Fさんは暗がりのなかで音も立てずに聞いていたのである。
「犯人は××でしょ。もう、わかってるんですよ」
Fさんが口にした名前は、つい先刻、まさにMさんが挙げた名前と同じだった。
「あのFも三億円事件の容疑者は、俺と同じ人物だとにらんでいる。これで決まりだなとおもったね」。Mさんはそう言っていた。
相変わらず、土田氏は否定も、肯定もしない。とぼけるばかりだった。そして、ついにFさんはしびれを切らすように、こう言ったという。
「明日、書きますよ」
そのときMさんは、このままではS紙に抜かれるとおもった。彼は決断した。社に戻るとすぐ原稿に向かった。
翌日のM紙の一面トップには、あのモンタージュ写真も載っていた。だが、その顔はMさんとFさんが容疑者として挙げていた人物に変わっていた。ここまでやったMさんの自信のほどが伝わってくる。
だが、結果は誤報だった。一方のS紙は「容疑者、逮捕か」の記事は一行もなかった。
三億円事件の裏には、社会部のエース記者たちが火花を散らす、こんなドラマがあったのだ。ぼくが東京をはなれて数年後、Mさんは逝ってしまった。芝増上寺の葬儀には大勢の人が別れに集まったと聞いた。本当に目をかけていただいた。Mさんについても、もっともっと書きたいことがある。
記者時代は徹夜が当たり前で、コンクリートの廊下に寝たり、朝から晩まで飲まず食わずに歩きまわって、血の小便を流したこともある。ぼくのまわりだけでも無理を重ねて、40代で亡くなった先輩記者は二人や三人ではない。あの人たちがこうしている間にも氾濫しているフェイクニュースを見たら、どんな顔をするだろうか。
■息子が高田酒造場から買ってきた焼酎とYちゃんがくれたジン。これだけ手元にあると、とてもシアワセである。このジンは2021年の「東京ウィスキー&スピリッツコンペンション」で最高金賞に輝いている。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kumamoto/news/20210922-OYTNT50097/
気になるクラウドファンディング ― 2022年03月17日 12時12分

一緒にインドネシアやマレーシアのパームオイル製造工場の排水処理事業にチャレンジした仲間が苦戦している。ぼくもスマトラ島やクアラルンプール周辺のパーム油製造工場を訪ねて、現地の展示会にブースを設置し、彼が設計した画期的な排水処理システムを公開したこともあった。
詳しく書き始めたら、海外事業のドキュメントになる。あと一歩のところで、事業は予期せぬトラブルに見舞われて、やむなく途中停止したが、まだ完全にあきらめたわけではない。そのときのリーダーがへこたれずに奮闘している。
最大の悩みは資金の手当て。先般、これまでにも何度も俎上に上っていたクラウドファンディングを活用したいとの連絡があった。そこで、それ用の原稿書きを手伝った。
https://readyfor.jp/projects/84257 (最後の方の一部の文章は別)
だが、現時点で集まった金額は目標に遠く及ばない。友人は「駄目なら、駄目でいいので、とにかくやってみますよ」とふだんの軽い調子で言っていたが、今日はどうだろうかと気にしている様子は容易に想像できる。
この調子で書いて行くと重苦しい読み物になりそうなので、ここから先はぼくの領域の話に変える。
送った原稿のメインタイトルが変わっていた。ほかの文中の中見出しは、ぼくがつけたまま。正直、もやもやした気分である。そこで、これからは一般論として、タイトルや見出しについて書く。
では、どんなタイトルがいいのだろうか。有名な事例がある。
1941年、春の甲子園大会に旧制滝川中学の投手として出場した別所毅彦(1999年6月没。元南海ホークス、巨人)は、準々決勝の9回表にホームに突入して、左ひじを骨折した。その腕を三角巾で吊ったまま、彼は上手投げからアンダースローに投法を変えて、痛みに耐えながら12回裏のツーアウトまで投げた。それが限界だった。結局、チームは敗れた。別所はベンチで号泣した。ぼくが生まれる前の実話である。
別所が投げたこの試合は、翌日の大阪毎日新聞神戸版にも載った。その伝説の見出しはいまもって鮮烈だ。
『泣くな別所、センバツの花』
これぞ、見出し、である。
だれだって目を引きつけられて、その記事を読みたくなるだろう。ひと目でこころを揺さぶられて、お前、あの記事を読んだかと、まわりにも話すにちがいない。そして、別所のファンになるだろう。たったひとつの見出しの爆発力を感じてしまう。
テレビのない時代だったが、たとえ試合の実況を見ていたとしても、あの感動的な見出しは、いささかも色あせないとおもう。
クラウドファンディングの原稿に、ぼくがつけたタイトルは、まぁ、平均点といったところだった。できれば、もっと読む人のこころを動かすものにしたかった。
一緒に戦った大事な仲間の声が大勢の人々に届いていないとしたら、広報担当として肩身が狭い。『泣くな別所 センバツの花』のように、「これしかない!」というタイトルをつけていたら、たぶん、そのまま採用されていたとおもう。
書き手と編集人とは、ときとして対立するものだ。反省しつつ、微力ながらも友の奮闘を伝えたく、今日はとりとめもないことを書いた。
■書き手と編集者のエピソードをひとつ。ある月刊誌の高名な編集長だったK氏(故人)はイタリアに行ったとき、売り出し中の日本人の女性作家に会った。そのとき彼女は自分よりも年上のK氏に向かって、夜の相手に売春婦を世話しましょうかと言った。
K氏はあきれ返り、失望して、怒鳴りつけた。その後、K氏はこのことを別の月刊誌に書いている。よほど腹に据えかねたのだろう。
彼は売れている作家や学者でも、誌面に掲載するレベルではないと判断したら、原稿を突き返して、書き直しをさせていた。そういう名物編集者がいた。
■写真は、室見川河畔の桜。蕾はだいぶふくらんできた。
詳しく書き始めたら、海外事業のドキュメントになる。あと一歩のところで、事業は予期せぬトラブルに見舞われて、やむなく途中停止したが、まだ完全にあきらめたわけではない。そのときのリーダーがへこたれずに奮闘している。
最大の悩みは資金の手当て。先般、これまでにも何度も俎上に上っていたクラウドファンディングを活用したいとの連絡があった。そこで、それ用の原稿書きを手伝った。
https://readyfor.jp/projects/84257 (最後の方の一部の文章は別)
だが、現時点で集まった金額は目標に遠く及ばない。友人は「駄目なら、駄目でいいので、とにかくやってみますよ」とふだんの軽い調子で言っていたが、今日はどうだろうかと気にしている様子は容易に想像できる。
この調子で書いて行くと重苦しい読み物になりそうなので、ここから先はぼくの領域の話に変える。
送った原稿のメインタイトルが変わっていた。ほかの文中の中見出しは、ぼくがつけたまま。正直、もやもやした気分である。そこで、これからは一般論として、タイトルや見出しについて書く。
では、どんなタイトルがいいのだろうか。有名な事例がある。
1941年、春の甲子園大会に旧制滝川中学の投手として出場した別所毅彦(1999年6月没。元南海ホークス、巨人)は、準々決勝の9回表にホームに突入して、左ひじを骨折した。その腕を三角巾で吊ったまま、彼は上手投げからアンダースローに投法を変えて、痛みに耐えながら12回裏のツーアウトまで投げた。それが限界だった。結局、チームは敗れた。別所はベンチで号泣した。ぼくが生まれる前の実話である。
別所が投げたこの試合は、翌日の大阪毎日新聞神戸版にも載った。その伝説の見出しはいまもって鮮烈だ。
『泣くな別所、センバツの花』
これぞ、見出し、である。
だれだって目を引きつけられて、その記事を読みたくなるだろう。ひと目でこころを揺さぶられて、お前、あの記事を読んだかと、まわりにも話すにちがいない。そして、別所のファンになるだろう。たったひとつの見出しの爆発力を感じてしまう。
テレビのない時代だったが、たとえ試合の実況を見ていたとしても、あの感動的な見出しは、いささかも色あせないとおもう。
クラウドファンディングの原稿に、ぼくがつけたタイトルは、まぁ、平均点といったところだった。できれば、もっと読む人のこころを動かすものにしたかった。
一緒に戦った大事な仲間の声が大勢の人々に届いていないとしたら、広報担当として肩身が狭い。『泣くな別所 センバツの花』のように、「これしかない!」というタイトルをつけていたら、たぶん、そのまま採用されていたとおもう。
書き手と編集人とは、ときとして対立するものだ。反省しつつ、微力ながらも友の奮闘を伝えたく、今日はとりとめもないことを書いた。
■書き手と編集者のエピソードをひとつ。ある月刊誌の高名な編集長だったK氏(故人)はイタリアに行ったとき、売り出し中の日本人の女性作家に会った。そのとき彼女は自分よりも年上のK氏に向かって、夜の相手に売春婦を世話しましょうかと言った。
K氏はあきれ返り、失望して、怒鳴りつけた。その後、K氏はこのことを別の月刊誌に書いている。よほど腹に据えかねたのだろう。
彼は売れている作家や学者でも、誌面に掲載するレベルではないと判断したら、原稿を突き返して、書き直しをさせていた。そういう名物編集者がいた。
■写真は、室見川河畔の桜。蕾はだいぶふくらんできた。
プーチンが墜ちる日 ― 2022年03月24日 14時41分

ウクライナで起きている非道、悲惨な報道に接するたびに、プーチンよ、いい加減にしろ! とはげしい怒りがこみあげてくる。ロシアの指導者たちのなかに、あの男を殴りつけて、罪のない人々を大量殺戮している侵略戦争をいますぐ止めろ、という人物はいないのか。
日本の歴史にも同じような時代があった。あんなことは二度とごめんである。
ひところ流行った地政学という言葉を思い出す。昔からロシアは海洋に進出できる不凍港の確保が悲願だった。クリミアを武力で併合し、いまも黒海沿岸を力づくで自国の支配下に組み入れようとしているのは、まさに地政学の考え方そのものだ。
これらの状況を見れば、北方領土の返還なんて、ロシアの指導者たちは爪の垢(あか)ほども考えていないことがよくわかる。スターリン時代の旧ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、日本の婦女子を凌辱し、日本が降伏した翌日には千島列島を攻撃して、北海道まで占領しようとした。
終戦後にはあの酷寒の地の果てのシベリア抑留だ。日本軍の捕虜だけではなく、民間人まで、なんと約60万人もの人たちが「東京へ帰してやる」とウソを言われて連れ去られ、ろくな食事も与えられない強制労働の日々で、5万5千人を越える尊い命が無念の死に追い込まれた。
国際法を紙切れのように破る大国が、国連の安全保障理事会の常任理事国におさまって、絶対不可侵の拒否権を持っていて、しかも、その当事国が真っ先に戦争をやるのだから、まことに世の中は不条理だらけである。まぁ、少数民族の弾圧や力まかせの領土拡張をやっている大国は、ロシアだけに限ったことではないが。
ヨーロッパの政治家たちはこれまでの歴史の教訓から、ロシアに対して絶対に弱みを見せてはいけないことを知っている。自分よりも弱いと思った相手には嵩(かさ)にかかって攻めこんでくるのがロシアのやり方だ。そして、そのために陰謀を張りめぐらせるロシアの狡猾さも、ヨーロッパの指導者たちはよくわかっている。
ずいぶん前に、ロシアやヨーロッパの対ロシア(ソ連)外交に関するいろんな本やレポートを読んで、そうなんだと勉強になったが、ウクライナを見ていると、やっぱりそのとおりだった。
こんなことを書くと反発する人がいるかもしれない。断っておくが、ぼくが非難する対象は、自分の主張を権力で押しつけて、人々を不幸のどん底に突き落としても、顔色ひとつ変えない一部の特権的な指導者である。
ロシアの人々を十把一絡げに否定する気持ちはさらさらない。そもそも彼らはこの侵略戦争の実態を知らされていないという。プーチンの方が正しいと信じ込んでいる人が大勢いる。独裁政権下の庶民はいつもそういう位置へとコントロールされる。かつての日本もそうだった。間違いを、間違いだと言ったら、抹殺が待っている社会ほど恐ろしいものはない。
ロシア研究の第一人者・木村汎北海道大学名誉教授が亡くなったとき、ああ、これでロシアのことを教えてくれる人がいなくなった、まずいなぁ、とおもったものだ。彼はプーチンにすり寄っていた安倍晋三の対露外交にも、しっかりクギを刺していた。
多くの国家で、先の凄惨な大戦を体験していない人が一国のリーダーになっていることを、ぼくはずっと前から憂えている。
プーチンが生まれたのは1952年10月7日、習近平は1953年6月15日。ちなみに安倍は1954年9月21日。みんな戦後生まれで、一歳ずつ離れている。これも何かの符合だろうか。
プーチンはソ連時代の共産党を支配していたノーメンクラトゥーラの特権階級上がりで、習近平の権力を支えている中国共産党の権力構造も同じようなものだ。どちらも民主主義の国家ではない。
破壊されても、殺されても、ウクライナの人々はギブアップしない。プーチンに対して、弱みは絶対に見せない。でも、テレビで見ていて、気の毒でならない。
プーチンは冷静さを失い、もはや狂っているとしか思えない。似たようなことは歴史上にいっぱいある。プーチンにも自滅のはじまりの匂いがする。ロシア国民の目にも、プーチンが国内向け流してきたニュースがとんでもない大ウソだったとわかる日がやって来る。そして、あの男がこれから先、国際舞台で尊敬されることはない。
プーチンの存在が自国の歴史の汚点となって、いまは大人しくしているプーチンの取り巻きからも、彼が邪魔者になる日が刻々と近づいているようにおもうのだが、歴史の審判ははたしてどうなるだろうか。
■室見川河畔で芽吹いたばかりの青い草を食べているコガモたち。季節はめぐる。このブログの初回にも、同じような写真を載せた。
日本の歴史にも同じような時代があった。あんなことは二度とごめんである。
ひところ流行った地政学という言葉を思い出す。昔からロシアは海洋に進出できる不凍港の確保が悲願だった。クリミアを武力で併合し、いまも黒海沿岸を力づくで自国の支配下に組み入れようとしているのは、まさに地政学の考え方そのものだ。
これらの状況を見れば、北方領土の返還なんて、ロシアの指導者たちは爪の垢(あか)ほども考えていないことがよくわかる。スターリン時代の旧ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、日本の婦女子を凌辱し、日本が降伏した翌日には千島列島を攻撃して、北海道まで占領しようとした。
終戦後にはあの酷寒の地の果てのシベリア抑留だ。日本軍の捕虜だけではなく、民間人まで、なんと約60万人もの人たちが「東京へ帰してやる」とウソを言われて連れ去られ、ろくな食事も与えられない強制労働の日々で、5万5千人を越える尊い命が無念の死に追い込まれた。
国際法を紙切れのように破る大国が、国連の安全保障理事会の常任理事国におさまって、絶対不可侵の拒否権を持っていて、しかも、その当事国が真っ先に戦争をやるのだから、まことに世の中は不条理だらけである。まぁ、少数民族の弾圧や力まかせの領土拡張をやっている大国は、ロシアだけに限ったことではないが。
ヨーロッパの政治家たちはこれまでの歴史の教訓から、ロシアに対して絶対に弱みを見せてはいけないことを知っている。自分よりも弱いと思った相手には嵩(かさ)にかかって攻めこんでくるのがロシアのやり方だ。そして、そのために陰謀を張りめぐらせるロシアの狡猾さも、ヨーロッパの指導者たちはよくわかっている。
ずいぶん前に、ロシアやヨーロッパの対ロシア(ソ連)外交に関するいろんな本やレポートを読んで、そうなんだと勉強になったが、ウクライナを見ていると、やっぱりそのとおりだった。
こんなことを書くと反発する人がいるかもしれない。断っておくが、ぼくが非難する対象は、自分の主張を権力で押しつけて、人々を不幸のどん底に突き落としても、顔色ひとつ変えない一部の特権的な指導者である。
ロシアの人々を十把一絡げに否定する気持ちはさらさらない。そもそも彼らはこの侵略戦争の実態を知らされていないという。プーチンの方が正しいと信じ込んでいる人が大勢いる。独裁政権下の庶民はいつもそういう位置へとコントロールされる。かつての日本もそうだった。間違いを、間違いだと言ったら、抹殺が待っている社会ほど恐ろしいものはない。
ロシア研究の第一人者・木村汎北海道大学名誉教授が亡くなったとき、ああ、これでロシアのことを教えてくれる人がいなくなった、まずいなぁ、とおもったものだ。彼はプーチンにすり寄っていた安倍晋三の対露外交にも、しっかりクギを刺していた。
多くの国家で、先の凄惨な大戦を体験していない人が一国のリーダーになっていることを、ぼくはずっと前から憂えている。
プーチンが生まれたのは1952年10月7日、習近平は1953年6月15日。ちなみに安倍は1954年9月21日。みんな戦後生まれで、一歳ずつ離れている。これも何かの符合だろうか。
プーチンはソ連時代の共産党を支配していたノーメンクラトゥーラの特権階級上がりで、習近平の権力を支えている中国共産党の権力構造も同じようなものだ。どちらも民主主義の国家ではない。
破壊されても、殺されても、ウクライナの人々はギブアップしない。プーチンに対して、弱みは絶対に見せない。でも、テレビで見ていて、気の毒でならない。
プーチンは冷静さを失い、もはや狂っているとしか思えない。似たようなことは歴史上にいっぱいある。プーチンにも自滅のはじまりの匂いがする。ロシア国民の目にも、プーチンが国内向け流してきたニュースがとんでもない大ウソだったとわかる日がやって来る。そして、あの男がこれから先、国際舞台で尊敬されることはない。
プーチンの存在が自国の歴史の汚点となって、いまは大人しくしているプーチンの取り巻きからも、彼が邪魔者になる日が刻々と近づいているようにおもうのだが、歴史の審判ははたしてどうなるだろうか。
■室見川河畔で芽吹いたばかりの青い草を食べているコガモたち。季節はめぐる。このブログの初回にも、同じような写真を載せた。
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