狂愚庵の青春2022年06月12日 11時48分

 井伏鱒二の『荻窪風土記』を読み返していたら、これまで気に留めていなかった文章にひっかかった。大正十二年、九月一日の関東大震災直後を回想した部分である。
 その日、下宿屋を飛び出した井伏が避難した場所は、早稲田大学の下戸塚球場(※原文のままの表記。一般的には戸塚球場)の三塁側スタンド。そこで井伏は下町方面が火の海になっている情景を見ながら一夜を明かした。二日目も、三日目の夜も、友人と一緒にここにいた。四日目には燃えるものは燃えてしまったという。
 ぼくが学生のころ、戸塚球場は安部球場と呼ばれていた。1949年、野球部の生みの親・安部磯雄が亡くなったのを機にこの名称に変わったいきさつがある。
 安部球場はとても馴染みの深いところだった。上京して、初めてお世話になった下宿の部屋のすぐ目の前に、ライト側のネットがあった。ほんの2メールほどしかはなれていない。
 その西側の窓からは野球部の練習がよく見えた。白いユニフォームを土だらけにして、選手たちが大声をあげたり、打ったり、投げたり、走ったりしていた。カキーン!という金属音の直後に、緑色の金網に勢いよくボールがぶつかってきたこともある。小さな机に向かって本を読みながら、おぅ、ホームランを打ったか、と球場の方に目をやったものだ。
 井伏が座っていた三塁側のスタンドから、野球部の練習試合をのんびり見物したことも多々あった。その場所から、井伏は関東大震災の火の海を眺めていた。
 同じ場所にいても、ぼくとは目に入る光景はずいぶんちがっていたなぁ。『荻窪物語』を再読しながら、そうおもった。気に留めていなかった文章にひっかかった、とはそういう意味である。
 2階建ての木造住宅の下宿には、1階にひとり、2階に5人、合計6人の学生がいた。早大が4人、あとは明大と東京理科大の学生で、詳しい描写は省くが、みなちょっと変わった連中だった。
 2年生の夏休みが始まるころ、ぼくは水道もガスもない3畳の部屋に名前をつけた。そうでもしなければ、あまりにも狭くて殺風景で、どこか満ち足りないものがあった。部屋の名を『狂愚庵』、という。
 司馬遼太郎の『世に棲む日々』に引用されていた吉田松陰の漢詩『狂愚』から名付けたものだ。非才な田舎者で、毎日のんべんだらりと過ごしていたぼくは、狂愚の生き方を肯定する革命家・松陰の覚悟にふれて、雷を受けたようにしびれてしまったのだ。

 狂愚まことに愛すべし。才良まことに虞(おそ)るべし。
 狂は常に進取に鋭く、愚は常に避趨(ひすう)に疎(うと)し。
   ……(略)……
 才良は才良に非ず、狂愚あに狂愚ならんや。

 黒い墨をたっぷりつけた筆で、白い画用紙に大きく、狂愚庵と書いた。それを茶色のベニヤ板のドアに押しピンで留めた。
 ほどなくして、この行為がほかの下宿人に伝播した。2階の沼津市出身のクラシックギターが得意な後輩は、『怒濤庵』だったか、いやもっとスケールの大きな名前を付けて、これもベニヤ板のドアに貼り出した。
 同じく2階の秋田出身で、ズーズー弁に悩んでいた明大生も、1階にいた北海道出身で、高校時代は重量挙げの地方チャンピオンだった先輩も、稀有壮大なややこしい漢字の名前をつけた。あのころはなぜだか簡単に意気軒高になれた。若いころは、安酒にも、憂国を感じさせる言葉にも、わけなく酔ってしまうのである。
 われ関せずは、あの三島由紀夫の『盾の会』のメンバーだった先輩と東京理科大の学生のふたりだけだった。彼らの目に、ぼくらは変人に映っていたかもしれない。
 井伏鱒二の自伝風の作品、『荻窪風土記』は、彼独特の筆の力がみなぎっていて、当時の情景も登場する人物像も、いまでも色あせない。だが、同じ野球場の間近にいたぼくたちの青春も、きっとあのころだけの時代のニオイがしていたとおもう。
 ところで、下宿の大家さんの名前は、住××さんといった。おばあちゃんとオールドミスの娘のふたり暮らし。おばあちゃんの自慢は、母校の応援歌『紺碧の空』を作詞した住治男の親戚ということだった。
 目の前には安部球場、そして肩を組んで、大声で歌いまくった『紺碧の空』。いまおもえば、いい下宿だった。
 あの安部球場はすでにない。跡地には総合学術センターと中央図書館が建っている。グーグルで調べたところ、住さんの家があったところは、そこだけすっぽり空地になっていた。

■自宅のすぐ近くを流れている川べりの斜面にイヌビワの低木がある。枝先にいっぱい実をつけている。ヤマイチジクとも呼ばれて、暗紫色に熟したものは食べられる。子どもころ、野山を走りまわってはよく食べた。気をつけないと、なかに白っぽい虫がいる。野イチゴも同じだ。

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