こっそり長期熟成の悲喜劇2022年06月06日 14時39分

 先日の新聞に、ある酒販店が15年も寝かしておいた瓶詰の日本酒を売り出す記事が出ていた。今朝はNHKのニュースで、長い間、海中にぶら下げられていた日本酒が紹介された。
 いろんなことをやるものだ。焼酎のトンネル内貯蔵とか、ベートーベンの交響楽を聴かせるとか、そんなことを売り物にしている酒造メーカーもある。
 冒頭の例のように、メディアから取り上げられたことはないが、本格焼酎の長期保存のことならもっとおもしろい話がある。いくつか書いておこう。
 首都圏のある工業都市の郊外にある酒販店のSさんは、全国の地酒や焼酎の蔵元を訪問して、直接取引をしている。ずいぶん前に訪ねたとき、倉庫には入手困難な芋焼酎や知る人ぞ知る地酒が、それこそ山のように積まれていた。
 ところが、「ここだけじゃありません。ほかのところにも保管しています」という。
 車で連れて行ってくれたのは、うっそうと樹木が繁る山のふもと。木々に隠れてわからないが、近づいてみると、そこは戦時中につくられた防空壕だった。薄暗い奥の方に、ぎっしりと「宝の山」が眠っていた。
 驚くのはまだ序の口で、次に向かったのは芋畑。ざっと三反ほどもあっただろうか。
「芋焼酎を寝かしてから、もう5年になります」とSさん。
 目の前はただの芋畑である。そのまわりは野菜を栽培している畑が広がっている。ほかになにもない。
「この芋畑の下に、プレミアのついた芋焼酎の1升瓶の6本入りケースを埋めています。土のなかに何十箱もありますよ。これ、絶対に内証ですよ」
 埋蔵金じゃあるまいし、まさかこんなところに。それにしても、どうして芋畑の土の中なのか、その理由がふるっていた。
「だって、芋焼酎じゃないですか。長期保存するのなら、やっぱり芋畑でしょ。芋と芋の仲ですから。ほかのところで寝かせたものとは、当然、味も香りも違ってくるとおもいませんか」
 別に科学的な根拠があるわけではない。だが、そうかもしれんなぁ、とおもわせる奇妙な説得力があの芋畑にはあった。
 こんな場所に酒類を置くのは、法律に触れるのではとおもったが、しばらくして、ぜんぶ掘り起こしたという。芋泥棒にやられることなどが頭をよぎって、たぶん気が気ではなかったのだろう。
 ちなみに焼酎は何年間でも保存できる。そして、熟成がすすむにつれて、味も香りも変化していく。Sさんは「自分は蔵元じゃないので、焼酎は造れません。でも、ビンテージすることで、いろんな焼酎を自分なりの方法で熟成することはできます」と言っていた。
 さて、場所も、登場人物もかわって、次は南九州のとある焼酎の蔵元の話。
 この人、山奥の小さな滝壺に、焼酎の原酒を隠していた。アルミ製の20リットルの容器がふたつ。大水に流されないように、その上にでっかい石を置いていた。
「もう3年ほど寝かせています。滝から水が落ちてくる自然のリズミカルな振動を浴びながら熟成していますから、きっといい効果があるはずです。いまは、ぐっと我慢して、今年の秋には友人たちと一緒に飲むことになっています」
「いいなぁ。ひと口でもいいから、飲んでみたいなぁ」
「もちろん、声をかけますよ。もうしばらくですから、待っててください」
 それから数か月たった、ちょうどいまごろのある日、彼から電話がかかってきた。開口一番、あの滝壺の焼酎の話が出た。
「昨日はものすごい集中豪雨で、今朝方、あわてて山へ行ってみたら、焼酎を入れていたアルミの容器がどこかへ流されてました。ずっと下の方まで木々のなかを歩きまわって、やっと見つけたんですが、ふたつとも栓が外れていて、なかはからっぽでした。こんなことになるのなら、飲んでおけばよかった。悔しくて、悔しくて。たのしみにされていたのに、申しわけありません」
 あーあ、覆水盆に返らず。
 梅雨が近づくたびに、谷底まで転がって行って、あえなく消えてしまったあの貴重な焼酎のことをおもいだす。
 ところで、先のSさんとこの蔵元の主人は大の仲良しでもある。これだから探求心や好奇心が旺盛の人は、付き合っていて、おもしろい。

■きょうは半袖では肌寒い日。散歩に出た室見川には大きな鯉が泳いでいる。写真の男性も探求心が旺盛な人とみた。だが、準備万端に用意して、じっと釣り糸を垂れていても、実際に釣り上げた人を目にすることはほとんどない。

狂愚庵の青春2022年06月12日 11時48分

 井伏鱒二の『荻窪風土記』を読み返していたら、これまで気に留めていなかった文章にひっかかった。大正十二年、九月一日の関東大震災直後を回想した部分である。
 その日、下宿屋を飛び出した井伏が避難した場所は、早稲田大学の下戸塚球場(※原文のままの表記。一般的には戸塚球場)の三塁側スタンド。そこで井伏は下町方面が火の海になっている情景を見ながら一夜を明かした。二日目も、三日目の夜も、友人と一緒にここにいた。四日目には燃えるものは燃えてしまったという。
 ぼくが学生のころ、戸塚球場は安部球場と呼ばれていた。1949年、野球部の生みの親・安部磯雄が亡くなったのを機にこの名称に変わったいきさつがある。
 安部球場はとても馴染みの深いところだった。上京して、初めてお世話になった下宿の部屋のすぐ目の前に、ライト側のネットがあった。ほんの2メールほどしかはなれていない。
 その西側の窓からは野球部の練習がよく見えた。白いユニフォームを土だらけにして、選手たちが大声をあげたり、打ったり、投げたり、走ったりしていた。カキーン!という金属音の直後に、緑色の金網に勢いよくボールがぶつかってきたこともある。小さな机に向かって本を読みながら、おぅ、ホームランを打ったか、と球場の方に目をやったものだ。
 井伏が座っていた三塁側のスタンドから、野球部の練習試合をのんびり見物したことも多々あった。その場所から、井伏は関東大震災の火の海を眺めていた。
 同じ場所にいても、ぼくとは目に入る光景はずいぶんちがっていたなぁ。『荻窪物語』を再読しながら、そうおもった。気に留めていなかった文章にひっかかった、とはそういう意味である。
 2階建ての木造住宅の下宿には、1階にひとり、2階に5人、合計6人の学生がいた。早大が4人、あとは明大と東京理科大の学生で、詳しい描写は省くが、みなちょっと変わった連中だった。
 2年生の夏休みが始まるころ、ぼくは水道もガスもない3畳の部屋に名前をつけた。そうでもしなければ、あまりにも狭くて殺風景で、どこか満ち足りないものがあった。部屋の名を『狂愚庵』、という。
 司馬遼太郎の『世に棲む日々』に引用されていた吉田松陰の漢詩『狂愚』から名付けたものだ。非才な田舎者で、毎日のんべんだらりと過ごしていたぼくは、狂愚の生き方を肯定する革命家・松陰の覚悟にふれて、雷を受けたようにしびれてしまったのだ。

 狂愚まことに愛すべし。才良まことに虞(おそ)るべし。
 狂は常に進取に鋭く、愚は常に避趨(ひすう)に疎(うと)し。
   ……(略)……
 才良は才良に非ず、狂愚あに狂愚ならんや。

 黒い墨をたっぷりつけた筆で、白い画用紙に大きく、狂愚庵と書いた。それを茶色のベニヤ板のドアに押しピンで留めた。
 ほどなくして、この行為がほかの下宿人に伝播した。2階の沼津市出身のクラシックギターが得意な後輩は、『怒濤庵』だったか、いやもっとスケールの大きな名前を付けて、これもベニヤ板のドアに貼り出した。
 同じく2階の秋田出身で、ズーズー弁に悩んでいた明大生も、1階にいた北海道出身で、高校時代は重量挙げの地方チャンピオンだった先輩も、稀有壮大なややこしい漢字の名前をつけた。あのころはなぜだか簡単に意気軒高になれた。若いころは、安酒にも、憂国を感じさせる言葉にも、わけなく酔ってしまうのである。
 われ関せずは、あの三島由紀夫の『盾の会』のメンバーだった先輩と東京理科大の学生のふたりだけだった。彼らの目に、ぼくらは変人に映っていたかもしれない。
 井伏鱒二の自伝風の作品、『荻窪風土記』は、彼独特の筆の力がみなぎっていて、当時の情景も登場する人物像も、いまでも色あせない。だが、同じ野球場の間近にいたぼくたちの青春も、きっとあのころだけの時代のニオイがしていたとおもう。
 ところで、下宿の大家さんの名前は、住××さんといった。おばあちゃんとオールドミスの娘のふたり暮らし。おばあちゃんの自慢は、母校の応援歌『紺碧の空』を作詞した住治男の親戚ということだった。
 目の前には安部球場、そして肩を組んで、大声で歌いまくった『紺碧の空』。いまおもえば、いい下宿だった。
 あの安部球場はすでにない。跡地には総合学術センターと中央図書館が建っている。グーグルで調べたところ、住さんの家があったところは、そこだけすっぽり空地になっていた。

■自宅のすぐ近くを流れている川べりの斜面にイヌビワの低木がある。枝先にいっぱい実をつけている。ヤマイチジクとも呼ばれて、暗紫色に熟したものは食べられる。子どもころ、野山を走りまわってはよく食べた。気をつけないと、なかに白っぽい虫がいる。野イチゴも同じだ。

カミさんの探索能力2022年06月18日 17時43分

「あったよ、こんなところに。よかったね」
 朝の7時すぎ。布団に寝ころがっていたところを、カミさんの声で起こされた。
 なんのことか、すぐわかった。昨夜、ぼくの名義のクレジットカードが行方不明になっていることに気がついて、ひと騒ぎあった。そのカードをみつけてくれたのだ。
 でかした! 朝いちばんの朗報である。
「ほら、ね」
 そういって、カミさんが差し出したのは、ぼくの免許証入れ。
「どうして、こんなところに(カードを)入れたの?」
 そういわれて、ああ、そうだったと一部始終をおもいだした。
 3日前のこと、車で買い物に出かけたとき、カードだけあればいいやと思い、財布から抜きとって、免許証入れに移したのだった。その記憶がすっぽりなくなっていた。
 ああ、ボケてきたなぁ。
 こんなことがやたら多くなってきた。人の顔も、名前も、ついさっきメガネを置いた場所も、あれっ、だれだっけ? どこだっけ? 毎日そんなことばかりだ。
 それにしても、カミさんの探索力はすごい。どうして免許証が怪しいと目をつけたのか、不思議で仕方がない。その理由を本人に聞いてみた。
「まず、机のまわりを調べたの。それから机の上に置いてある収納ケースの引き出しを開けて、一つひとつをみたの。財布のなかもね」
 ふんふん、そこまでは、ぼくも何度もやった。
「そしたら免許証入れがあったの。黒い皮製でしょ、あれっ、これって財布に似ているよね。もしかしたらとおもって開いてみたら、やっぱり、あったのよね」
 免許証入れをみたとたん、ピンときたという。このへんはぼくの想像力を超えている。カミさんの眼力、オソルベシ。
 これまでも、何度もこんなことがあった。
「免許証がなくなったとか、通帳が消えたとか、部屋のカギがどこかへ行ったとか、自転車のカギとか。わたしが探しだしたのは、数知れずだからね」
 聞けば、このクレジットカードのことが気になって、昨夜はろくに眠っていないという。そんなに気にしていたのか。絶対にみつけなければという危機感も、集中力も、ぼくより何枚も上手なのだ。
 マコトニ、ゴメイワクヲ、オカケシマシタ。スミマセン。
 それとこれとは直接、結びつかないが、カミさんはパトカーがサイレンを鳴らしながら近づいて来ると、すぐに窓ぎわに走り寄って、どうした、何が起きたんだと外をみる癖がある。夜中でも起き上がって、カーテンを少し開けて、しばらく暗い外の様子をうかがう。パトカーが停車して、赤いランプがクルクルまわっていると、ベランダに出て、くぎづけになる。
 彼女は洗濯物を鼻に当てて、クンクン匂いを嗅ぐ癖もある。「このタオル、いくら洗っても、臭いが消えなくなったから、もう廃止しようかな」などと言っているが、待てよ、あの行動は警察犬と同じではないか。
 うーん、どうやら事件が好きらしい。カミさんの並みはずれた探索能力は、行方不明事件をなんとか解決したい、嗅覚でも見逃さないぞという執念のなせる技なのかもしれない。
 所帯をもって40年あまり。家のなかに隠れポリスがいた。いまごろになって、ようやく気がついた。

■今年も、北の国へ帰りそびれたコガモたちがいる。これから暑くて、ながい夏がくる。おい、死ぬなよ。仲間たちが帰って来るまで、元気でいろよ。

『池波正太郎の銀座日記(全)』をおくる2022年06月20日 15時16分

 鹿児島県、大隅半島の東海岸の端っこにいる年下の友人に、アマゾンのネットショッピングから文庫本を送る手配をした。
 いつも手元に置いて、何度も読み返している『池波正太郎の銀座日記(全)』。古本だが、本の状態の判定は「非常によい」だった。価格は、1円。送料は350円。
 これまでも1円の本を買ったことがある。なかには単行本の新品もあった。そのたびに儲けたような、でも、作者の苦労を想像すると、これでいいのかなぁ、といくぶん申しわけないような気持ちになる。いったいぜんたい、いまの世の中で、1円玉ひとつで買えるものがほかにあるだろうか。
 これも市場の原理というやつで、需要と供給のバランスがそうさせたのだろう。つまり、アマゾンの出店者は、この本には市場価値(需要)がない、と判断したことになる。その「価値がない」という意外な評価こそが、棒を飲んだような気分にさせるのだ。
 だが、平常心でみれば、こんなありがたいことはない。これからも読みたい本を、できるだけ安く手に入れることにしよう。
 さて、日本の南のさいはての地で、夫婦ふたりきりで暮らしている友人に、『池波正太郎の銀座日記(全)』を選んだのにはわけがある。
 彼の生国は、池波とおなじく東京・浅草。だから浅草あたりはまるで自分の庭のようなものだ。なおかつ地元の商店主たちから、「××のぼっちゃん、どうぞ、どうぞ」と言われて育ったらしい。
 人生は紆余曲折のドラマだ。いまその彼の目の前には太平洋の大海原が広がり、まわりにはわずか20軒ほどの民家しかないという。
 こんな僻地に、みずから望んで移り住んだのではない。海外の仕事で、無理に無理を重ねて、からだをこわしてしまった。そして、帰国してからも安堵できなかった環境からはなれて、たどりついたのが寂しい一本道の尽きたところだった。
 上海で、クアラルンプールで、彼がこのまま直(じき)に死んでしまうかもしれないという極度に切迫した瞬間を、ぼくは知っている。あのときの恐ろしさといったらなかった。生きているのが不思議なくらいである。
 歩くことも困難なからだになってしまったが、それでも彼は持ち前の明るさを失わずに、インドネシアやマレーシアで一緒に取り組んだ事業をまだまだあきらめていない。
 昨日の電話では、ついに関連技術の特許を申請したとか。この粘り腰の強さ、たいしたものだとおもう。
 だが、からだに重いハンディを抱えたまま、あんな人里はなれた場所で、いつまでも海外の仕事をやれるものではない。さすがに「いま進めている計画がラストになります」といっていた。
 そうか、でも、よくやってきたよ。クアラルンプールの部屋で、一日にタマネギ1個、たまご1個で、1週間あまりも耐えてきた生活を、俺は知ってるからね。命づなの薬が切れて、床を這うことすらできなくなったこともあったよな。
 戦友のひとりとして、いまはただ最後のひと花が咲くことを切に願うばかりである。
 『銀座日記』は肩がこらずに読める本で、浅草や映画やうまそうな食べ物の話がいっぱい出てくる。また「昨夜、気力をふるい起し、何日ぶりかで机の前に座り、ペンをとった。二枚、書き出せた」とか、「四、五枚書くと、ぐったり疲れる。リハビリをやっているつもりで、七枚まで書いてやめる」といった文章も散らばっている。
 根無し草のぼくには実感できないが、「ふるさとは遠くにありて思ふもの」という。夜は真っ暗闇で、波の音しか聞こえない鹿児島の端っこと、おろしろい店が所狭しと立ち並んでいる東京の浅草はじゅうぶんに遠い。故郷の浅草の話はもとより、『銀座日記』にある池波の奮戦記も励みになるといいな。
 たった1円ぽっちの本だが、その価値はカネの多寡では定まらず。人の値打ちもまたおなじであろう。

■いつも手元に置いてある『銀座日記』のページは、鉛筆の線が増えて、だいぶボロボロになってきた。となりの本は、先日のブログ「空白のままの原稿用紙」で触れた小島直記さんの処女作『福沢山脈』。高校時代の恩師から薦められて、ぼくの目を大きく開かせてくれた、わが青春の一冊である。

神田神保町のあの店は2022年06月21日 14時30分

 今朝、東京に行く息子を地下鉄の駅まで送った。神田神保町で仕事の打ち合わせがあるという。
 彼にとっての東京は妻の実家がある新潟への通過点に過ぎず、それも幼いころのおぼろげな記憶しかないとか。30代の半ばを過ぎて、ほとんど初めて東京の土を踏むことになったわけだ。
 ぼくたち夫婦からすれば、「お前、遅れているんじゃないの」。どこかやるせない気分である。
「あのな、神保町はな、日本一の古本屋街でな、明治大学や日大、専修大などが集まっていてな、出版社も多いんだ」
 こちらはいろいろ案内をしたくなって、昨日も勝手に東京のガイドをやりはじめる始末。
「昼飯は、いもやのトンカツがいいぞ。あれっ、何年か前に行ったときには、もう閉店になってたかな。じゃあ、生ビールと洋食のL。そう、Lだ。ぜひ、行ったらいいよ」
 自分が行くわけでもないのに、なんとなく旅ごころがときめいて、いまのLはどうなっているのか、インターネットで調べた。すると、あの有名なエピソードは店のホームページのどこにも載ってなかった。
 うーん。そうか、いまごろこんな話をしても、通用しないか。でも、書き残しておいてもいいのになぁ。そうおもうので、そのことを書く。
 ぼくが学生だった1970年代、ビアホールのLはすでに名が売れていた。なぜ、そうなったのかといえば、メディアにとり上げられることがたびたびあったからだ。その話題を提供していたのが、英文学者の吉田健一である(故人)。
 父親はあの吉田茂、母親は牧野伸顕の娘で、大久保利通のひ孫にあたる。子どものころからパリやロンドンで暮らし、ケンブリッジ大学にも在籍した。食通のエッセイでも知られていて、ユーモアがあって、ちょっと毛色の変わった高名な学者だった。
 その吉田健一には、ある習慣があった。当時、務めていた中央大学の講義がある日、吉田がよく通っていたのがLだった。そして、座る席はいつも決まっていた。
 これが評判を呼んだのだ。いつの間にか、Lはあの吉田健一がひいきにする「日本一、生ビールがうまい店」になっていた。当時は、料理よりも生ビールがこの店の売りだった。
 吉田が座る席に、自分も座りたい。そこで日本一といわれる生ビールを飲みたい。そういう人が訪れるようになったのである。いまなら、SNSを使った情報発信というところだろうか。
 かくいうぼくもそのひとり。記者になって、日本一うまいという生ビールを、吉田の指定席で飲んで、そのうまさの秘密を探るべく、Lに取材に行った。
 当時の店主の名前は(記者時代の取材メモをぜんぶ捨てたので)覚えていないが、小柄で背筋がしゃんとした初老の男性だった。吉田は、この店主だけしか、ビア樽から自分のビールを注ぐことを許さなかった。
 やはり、現場に行って、取材をして、はじめてわかることがある。
 この店主は生ビールに人生を賭けていたと言ってもいい。彼は生ビールの鮮度も、うまさも、それを貯蔵する樽(タンク)の管理が非常に大事です、といっていた。
 樽のなかはどうなっているのか、外からは見ることができない。だが、必ず滓(おり)のようなものが付着してくるという。そこで、この店主は定期的に、完全に身を浄(きよ)めたうえに、さらに清潔(無菌)なビニールで手足をおおい、大きな樽の中に入って、すみからすみまで洗って、洗って、洗いあげていたのだ。客に出すビアグラスだけでなく、樽のなかまで磨き上げていた。まさにプロ、である。
 もちろん、そのとき樽の底にはまだいくらかビールが残っている。それは惜しげもなく、廃棄していた。
 自宅に遊びに来るように誘われて、後日、またいろんな話をうかがった。そこで話題にのぼったのは、自分の次を担う後継者のこと。バトンタッチするのに、自信が持てないようだった。
「跡を継がせる息子には、まだ吉田先生からビールを注いでいいよ、というお許しが出ないんです。ビールの泡が(わたしが注いだものとは)ちがう、とおっしゃるんですよ」
 名店とは、そこに舌の肥えた客がいて、その人との真剣勝負をたのしむ店主との緊張感のなかから生まれるのだろう。
 いまさらとり立てて持ち出すほどの話ではないが、こんなこともありました、という一幕でした。

■昨夜の雨でできた水たまり。息子が幼いころ、水たまりをみつけるとそのなかに入って、小さな長靴をはいた足で、バシャ、バシャ、と踏みつけて遊んでいた。
 水しぶきが四方八方に跳ね散る。それをみながら、「ワーイ、水の花火、水の花火」とよろこんでいた。子どもは詩人である。あのころの面影は泡と消えてしまったが……。

参院選にみる政党のネーミング2022年06月26日 09時41分

 選挙戦たけなわの参議院選挙。ここ福岡選挙区は改選3に対して、過去最多の16人が立候補している。16人も立候補したのだから、朝から騒がしくなるだろうとおもっていたが、さにあらず。このあたりはいたって静かなものだ。
 今回の選挙戦の争点も、ここ数年の国政選挙と同じようにはっきりしない。政権与党の優位性を生かして、野党の目玉政策を次から次へと横取りする争点隠しは、安倍政権が味をしめた常套手段だった。対立するものをなくしてしまう。これが投票率の上がらない、仕組まれた原因だった。
 結果、自民党への批判票は伸びずに、安倍は勝ち続けた。今度も投票率は低いだろうな。
 さて、衆議院と参議院では選挙区の広さがちがうので、選挙の戦い方も異なる。参院選は候補者の個人戦というよりも、政党の戦いの色合いが濃い。そのあたりに眼をこらしてみると、いまの政界の絵模様が浮かび上がってくる。
 このところ、政党の数は細胞分裂のように増えた。指を折りながら、政党名を一つひとつ数えていくと途中でこんがらがって、頭がくらくらするほどだ。
 たとえば、民主党の文字がつくものだけでも、自由民主党、立憲民主党、国民民主党、社会民主党(社民党)と4つもある。まるで同じ一族のようではないか。せめて名前だけでも、もっと差別化をはかれないものだろうか。
 日本の議会政治の歴史で、野党は常に分裂を繰り返してきた。自民党内の争いは派閥の形でおさまるが、野党は、党そのものが木っ端みじんに空中分解する。そして、自分たちこそが本流だというプライドは高いから(だから同じような政党名になる)、たちまち骨肉の争いに転落して、無益なしこりが残る。こうやって野党は分裂するたびに弱体化してきた。
 固い話はぬきにして、ほかの政党の名前をみていくと、これがなかなかおもしろい。
 その代表格が「日本維新の会」と「れいわ新選組」。
 パッと浮かぶのは、かたや明治維新の志士、こなた池田屋事件の新選組。さながら幕末の様相である。いや、両者とも、いまは幕末同様の大転換期だから、こうして立ち上がったのだと言いたいのかもしれない。
 それにしても新選組とは。はなはだ失礼ながら、はじめて聞いたときには、創設者が元俳優なので、チャンバラを売り物にする劇団のことかとおもった。
 きちんと党の綱領を読めば、その政治使命はなるほどと頷けるのだが、新選組という言葉が発散するイメージは、この政党にとって、はたしてプラスなのだろうか。ま、余計なことだけど。
 一方の日本維新の会の前身は、大阪維新の会。その大阪維新の会が発足当時に発表したのが「維新八策」だった。
 さすがは大阪人、でんな。それって、坂本龍馬はんの「船中八策」のパクリやおまへんか。ホンマ、おもろいなぁ、大阪ちゅうところは。政治のはなしまで、笑わせてくれるわ。
 維新(-世の中のすべてが改まって、新しくなること-)という言葉には、ある種の魔力を感じる。劇薬といってもいいかもしれない。
 なぜかといえば、維新が使われた言葉には、明治維新だけでなく、昭和維新があった。
 昭和維新で連想するのは、西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬などではない。思想家の北一輝や二・二六事件、そして、そこから先につながって行った日本国破滅の道だ。あの三島由紀夫も「昭和維新」の到来を熱望していたことを思い出す。だから、あえて「劇薬」と書いた。
 もちろん、日本維新の会と昭和維新とはなんのつながりもない。先の衆議院選挙では既成の野党勢力とは距離を置いて躍進した。今度も台風の目になるかもしれない。
 言葉のイメージは勝手に増殖するものだ。れいわ新選組も、日本維新の会も、前時代的なイメージではなく、いまの時代にふさわしい、新しいブランドイメージをつくりあげることができるだろうか。
 かつて、サラリーマン新党、スポーツ平和党、福祉党、年金党、ちきゅうクラブ、日本女性党などの政治団体があった。好き嫌いは別にして、ユニークな政党の名前があれこれ出てくるのも、その時代を物語るひとつの現象だろう。選挙にはそういった一面もある。

■自宅近くの参議院選挙ポスターの掲示板。まだ、ポスターを貼っていない候補者がいる。不可解なのはNHK党だ。ここ福岡選挙区には、男性1人、女性2人の計3人も大量に立候補したのに、その選挙ポスターはいまだにゼロ。資金力も、組織力も脆弱な戦法として、その作戦の狙いはおおよその見当がつく。それにしても、どんな選挙運動をしているのだろう。