家族は真友ですよ2022年12月05日 16時38分

 家族がいてくれて、つくづくありがたいとおもっている。
 先日、カミさんが「おとうさん、寒いだろうからマフラーを買って来たよ」と会社帰りに無印良品からベージュのマフラーを買って来てくれた。昨日の日曜日は二人で出かけたショッピングモールの雑貨屋で、ぼくが手にして買おうかなと迷っていた万年筆とインクを買ってくれた。
 マフラーは血糖値を下げる運動療法として、このところ続けているウォーキングの寒さ対策にくれたもの。万年筆には「好きなだけ原稿を書いたらいいよ」という応援がこもっている。
 どちらもぼくたちの暮らしぶりの範囲内の出費で、高価なものではない。だが、素直にうれしかった。万年筆は還暦祝いに長男からプレゼントされた外国製の高級ブランド品を持っているが、18金のペン先を傷めてしまった。でも、ペン先を替えればずっと使えるから、そちらは手放せない別格の宝モノである。
 先日の診察で、すい臓ガンとはっきり診断されたとき、長男も、次男も「手術ができるだけ本当によかったよ。前向きにとらえよう。やれることはなんでもするから、遠慮なしになんでも言ってね」とメールをくれた。
 長男は仲のよかった友だちを手術もできないまま失っている。親しかったノンフィンション作家の黒岩比佐子さんもそうだった。
 次男がくれた漢方薬、また希少な漢方薬の原料を抽出して、飲みやすくした顆粒入りの小さなパックは手元にひと月分ほどもある。一つひとつを計算すると目の玉が飛び出るような価格になる。とても自腹では買えないものを、彼は今週また持って来ると言っている。
 入院していたとき、隣のベッドに74歳の男性がいた。親しく口をきくようになって、彼は問わず語りに、「親友は家族ですよ。家族だけが親友ですよ」とつぶやいた。
 その人のことをなにも知らなかったぼくは、ごくふつうに「そうですね。家族がいちばんですよね」と答えた。すると、彼はもう一度、繰り返した。
「真の友は、家族だけですよ。家族こそが本当の真友ですよ」
 それから語り始めたのである。
 彼は弟と妹ふたりがいる長男で、同居していた96歳の母親を2年前に亡くした。その2か月後に、6歳年下の奥さんも逝ってしまった。
 立て続けに家族を亡くして、家のなかは空っぽになった。そのとき直腸ガンの術後で入院中の彼は無理を押して一時退院し、母親と奥さんのふたりの初盆をたったひとりでぜんぶやったという。
「初盆は(だれにも)迷惑をかけられんから。家にいると、いまでも『おーい』と家内の名前を呼んでいるんですよ、そこにいるとおもって。もう居ないんですけどね。独り暮らしですから、ご飯は一合しか炊きません。医者からは酒を飲むなと言われているけど、かまうもんですか、これからも飲みますよ」
 反対に、同じ病室には96歳の認知症の母親と奥さんとの3人暮らしで、ぼくよりひとつ年下の71歳の人もいた。
 母親は夜昼かまわず、家じゅうに便を撒き散らすので、床にはシーツを敷き詰めているという。それでも最後まで自宅で面倒をみますと言っていた。
 2週間の入院生活で垣間見た、人それぞれの人生の終末期の一端である。
 今日は重苦しい話になってしまった。だれしもが、いつそうなってもおかしくない関門だが、こうして書きながら、あの人たちと比べればと、いまのわが身をおもう。

人を動かす言葉のオーラ2022年12月07日 15時47分

 サッカーの祭典・ワールドカップの日本選手たちの大活躍は爽快だった。
 何枚も格上の強豪に一歩もひるむことなく、敵陣のゴールに襲いかかる鋭いパス、そのパスを信じて駆け上がるスピード、足もとのボールコントロール、矢のようなシュート、からだを投げ出しての鉄壁のブロック。何度も何度も、やったぁ!! ナイス!! キーパー!! だった。
 ドイツ、スペインの厚い壁を逆転で打ち砕いた。あんなにワクワク、ドキドキ、ヒヤヒヤさせてくれた彼らの勇姿をもっともっと見たかった。
 長友佑都の歓喜の叫びの「ブラボー!!」は、瞬く間に全国津々浦々のサポーターたちの雄叫びになった。みんな一緒に戦っていた。クロアチアとも互角に渡り合い、最後はペナルティーキック戦で負けてしまったが、森保監督をはじめ日本代表たちの悔し涙に、こころをこめて、「ブラボー!!」の声をとどけたい。
 われらが日本代表はもっともっと強くなる。後に続く選手たちも、声援をおくった多くの人たちも、世界のサッカーファンもそう感じていることだろう。それこそ暗い話に満ちた日本の、いまのぼくたちが切実に求めているものである。
 長友の「ブラボー!!」を、いいぞ、いいぞ、と何回も聞いて、言葉は光源のようなオーラを放つことに改めて気がついた。
 リーダーと言われる人の言葉には人を奮い立たせるオーラがある。置かれている境遇や社会的な地位には関係なく、世の中で活躍している人はふだんからそういうふうになろうとして自分を磨いている。
 わずか7人で起業し、業界トップクラスまで会社を大きくしたある経営者は、若いころから宗教家や思想家の本を読み漁り、めぐり逢った警句や名言を小さなカードに書き写してきた。彼はそのカードの束をいつも鞄のなかに入れて持ち歩いている。
「出張の飛行機のなかでも、とりだして見るのです。この人、うまいことを言うなぁと感心した言葉もメモしています」
 実際にみせてもらったこともあるが、それらのカードは名刺大の情報カードとして市販されているもので、皮製のケースに、彼なりのテーマ別にきちんと輪ゴムで留めて納められていた。きっと書き出した言葉が自分の血や肉になるまで、繰り返し読み込んでいるにちがいあるまい。この創業者、ウィットの利いた講演の名手としても人気がある。
 スペインのバルセロナにあるアントニ・ガウディの未完の作品、サクラダファミリの日本人彫刻家・外尾悦郎さんは「こんなとき、ガウディならどうおもうかと一日中、考え続けています」と話していた。
 そこにある草木の1本、小さな虫、空を飛ぶ鳥。それらをいつもガウディの目で観るようにしているという。
 彼の言いまわしには独特の表現とリズム感がある。ガウディの設計図はなくても、彼は「そこに本来あるべきものを見つける」という言い方をする。それだけ歴史やキリスト教についても深く勉強している。
(ぼくは一時、福岡市出身の彼の後援会の会報を作っていた。外尾さんのこともまたどこかで書くことがあるかもしれない)
 言葉には人を動かすオーラがある。長々と書かないが、逆に嫌な気分にさせるオーラを発する言葉もある。
 たとえば「生活保護」。人の尊厳を傷つける酷い言葉だな、日本の福祉政策は北欧諸国に比べるとまるで周回遅れだなと腹立たしくおもってしまう。
 わが身で言えば「すい臓がん」。
 なんとも好きになれない言葉である。だから、ぼくはこう呼ぶことにした。
「スイシュ」。
 文字を当てると「膵臓」の「スイ」に「腫瘍」の「シュ」。
 これを風のひょう吉流に意訳すれば、「酔う」の「スイ」と「種」の「シュ」となる。つまり、ぼくの病気は「酒の種」。うん、これなら身に覚えがある。
 ネットで調べたら、手術ができる人はステージ1、2だとか。まだ正確なところはわからないが、息子たちも口をそろえているように、本当に運がよかったとおもうようにしている。

■「ひよ鳥と百舌鳥(もず)と、どちらがうまいと思いなさる。それは百舌鳥のほうがうまいですがな」(井伏鱒二『朽助のいる谷間』より)。
 ふーん、あそこにいるモズはうまいのか。食ったことがないなぁ。

タノムヨナ、オネガイダカラ2022年12月14日 14時39分

 クリーム色のカーテンで仕切られた4人部屋の病室のベッドに腰掛けている。朝6時に起きてしまうと夜10時の消灯まで、一度もベッドに横になることはない。
 先月2週間入院したときもそうだった。昨日も、その前も、その前の日も1万2千歩以上歩いている。家でのインスリン注射と運動することで、以前よりもずいぶん元気になってきたから、重病人みたいにじっと寝てばかりではいられないのだ。
 昨日の午後、リュックを背負い、片手に手提げ袋を持って、30分ほど歩いて、またこの総合病院に入院した。2晩泊まる今度の加療の目的はスイシュ(ぼくの造語)退治の前哨戦で、はじめて抗がん剤なるものをからだのなかに入れることである。
 医学の専門用語も使われる薬品も、いまではネットで検索できるから、あらかたことは知っている。待ち受けている手術までのプロセスはお決まりのメニューで、それだけ多くの実績があるそうな。
 もとよりニュースで取り上げられるような最先端の医療は望むべくもない。それでも昨日、ぼくの様子を診(み)に来た担当の外科医は意外にも明るい顔をしていた。案外、いい男なのかもしれない。
 というのも、これまで2回診察を受けたときの顔はうつむきがちで、説明も聞けば答える方式だった。そのもやもやした態度がこちらにも敏感に伝染して、こんな若い医者で大丈夫かなと心もとなく感じていたのだ。
 話し方にも句読点が大事である。ちゃんと句読点を打って話す人は自信がある証拠で、句読点がはっきりしない人は自信のない人だという。どこかでそんな文章を目にしたことがある。ぼくの経験からもまったくその通りだとおもう。
 たぶん病名を告げるときの彼は緊張していたのだろう。それについはお互いさまだが、ここまで来て、そんな関係のままでいるのはいいことではない。
「それで、切腹の予定日はいつごろですか」
 そうたずねたら、
「切腹ですか」と初めて顔をほころばせたのである。これでたちまちリラックスした雰囲気になった。横にはインターン生だろうか、もっと若い医者が突っ立っていた。「切腹」なんて使い古されたセリフだが、若い彼らには新鮮でおもしろかったのかもしれない。これでは歳を食っている患者の方が若手をリードする精神科医のようなものじゃなかろうか。
 タノムヨナ、オネガイダカラ。
 そろそろ外来の診察時間が近づいてきた。先ほどお隣の同年輩の男性は、「浣腸の時間ですよ」と呼ばれて行った。
 ああ、浣腸されなくてよかった。
 ここでは他人の不幸がわが身の幸運に転じる。
 昼食をはさんで、このブログの続きを書きながら、また小林秀雄の文章を思い出した。繰り返しになるかもしれないけれど、自分のために書き留めておく。

-作家は、観照の世界という全く自然な心的態度のうちに棲むのだ。この世界にいると、実生活は狂態で充満していると見えるのが当たり前なのである-
(※観照 : 主観を入れずに落ち着いて物事の本質を思索、認識すること。客観的に美なるのを味わうこと。)

 そういえば先ほど飲んだ薬の説明書の副作用のなかに、「気持ちが悪い」、「吐く」、「頭痛」などのほかに、「現実からかけ離れた幸福感」というひと言があった。
 なんたることか。医学の世界もまさしく狂態で充満しているではないか。看護師さんにも見せたら、知りませんでした、とびっくりしていた。
 そんな副作用ならいつてもどうぞ。
 さぁ、いよいよ午前中に打った抗がん剤の点滴がからだじゅうにまわり始めたころ。これからどんな新しい景色がみえるだろうか。

※たった今、糖尿病の担当医師から聞いたところでは、飲んだ薬にはステロイドが入っていて、それは、いわば万能薬だという。抗がん剤の副作用を抑える代わりに、血糖値は上がる。頭痛も出れば、幸福感もあるとのこと。狂態は同居しているというべきか。

■室見川の河畔で食事中のコガモたち。ちょうど20羽いた。仲のいい夫婦連れもいるのだろうな。

義父の飲みっぷり2022年12月15日 15時10分

 あー、おもいっきり酒を飲みたい。この歳になって、まさか飲酒の量を制限しなければいけない哀しい運命が待ち構えているとはおもわなかった。
 管理栄養士の若い女性から渡された食生活の指導メモによれば、酒を飲むのは原則禁止。
 でもね、あくまでも「原則」だからね。ここは無視します。
 気になるのは、飲んでも1日のアルコールの摂取量は160kcalまで、というところ。この「飲んでも」とは、言うまでもなく「最大限飲んでも」という意味である。
 はぁ、最大限って、最低でも1升瓶1本のことでしょ?
 具体的には、日本酒なら140ml、焼酎100ml、ウィスキー60ml、ワイン200ml、ビール400ml(中瓶1本)と書いてある。
 そいつはあんまりでしょ。今までは好きなだけ、気に入りのぐい呑みやグラスにゴボゴボ注いでいた。ビールも、日本酒も、焼酎も、ワインも、チビリチビリではなく、人並み以上のペースで飲んでいた。それも、一度にあれもこれも飲むのが好きなのだ。
 生まれてこの方、こんなに細かい分量をいちいち測って飲んだことはない。日本酒なら大さじで、たったの4杯弱だよ。焼酎は同じく3杯ほどしかないんだよ。
 徳利(とっくり)をみながら、こう考えた。智に働けば飲めなくなる。情に掉させばストレスがたまる。意地を通せば高血糖だ。とかく酒の加減はやりにくい。
 思い出すのは、亡くなったカミさんの父親の飲みっぷり。
 あれは真っ白な雪におおわれた新潟県六日町(現在の南魚沼市)の山里にあるカミさんの実家でのことだった。その日の朝方、九州・小倉の家を出たぼくは、新幹線で東京駅まで、上野駅から越後湯沢駅までは特急「とき」に乗り継ぎ、そこからローカル線に乗り換えて、夕方前には六日町駅に着いた。
 小倉の両親に結婚の了解をもらい、その脚で雪の新潟までカミさんの両親に挨拶に行くためだった。あの国境のトンネルに差しかかったとき、関東側の水上あたりは山霧が渦を巻きながら舞い上がっていたが、暗くて長いトンネルを出たとたん、そこは真昼のようにまぶしい白色光に照らされた雪国だった。車内から「ワーッ」と歓声があがる。見渡す限りふかふかの白い静かな世界である。
 六日町駅のホームに降りたとき、線路をはさんだ向こうの改札口に、赤い綿入れを羽織った小柄な娘が立っていた。まっしろな雪のなかで、にこにこ笑って手を振っている。迎えにきてくれたのだ。のろけるわけではないが、かわいいなぁ、とおもった。
 四輪駆動のランドクルーザーで、カミさんを駅まで連れてきたのはいまの義兄。
「どんな男かみてやろうと付いて来た。気に入らなかったら、結婚に反対する気だったけど、いや、いい男じゃないか」
 そう言ってくれたという。
 義理の父の飲みっぷりを目撃したのは、茶の間のこたつに義母と3人で落ち着いたとき。挨拶もそこそこに、いきなり酒だった。銘柄は地酒の白瀧の2級酒。
 そのころの地酒は庶民的な値段の2級酒と決まっていた。都会から遊びに来る人も、1級酒ではなく、わざわざ2級酒を買い求めていたものだ。それが「通」だった。そして、それらの地酒はやっぱり、その土地で飲むのがいちばん旨いのである。
 先刻承知とばかりに、母がとりだしたのは背が高くて、胴まわりの大きなグラスふたつ。待ちかねたように父が膝に抱えた一升瓶の栓を抜いて、グラスのてっぺんまで酒を注がれた。真向いに座っている本人は手酌である。
 酒は大好きだ。こいつはいいや、とおもった。
「俺はビールじゃなくて、いつもこれ(白瀧の冷や)だよ。戦争に行ってたとき、同じ隊にいた九州の男は酒が強かったなぁ。九州は強いもんなぁ」
「そうですか。いただきまーす」
 ほんの少しだけ口にふくんだ。常温の酒がすうっと喉元をすべっていく。九州の酒のような重みがない。広島の酒とも、灘とも違う。まるでおいしい水のようだ。ふぁーん、と酒精の芳香が鼻からもれる。もうひと口、もうひと口、飲みたくなる酒である。
 いける。この家ではいつもこんなに旨い酒を飲んでいるんだ。
 そのぼくの目の前で、父親は息もつかずに、ゴク、ゴク、ゴクとたったの3、4口ほどで飲み干したのだ。からっぼになったグラスをコトン、と置いた。すぐにまた自分でてっぺんまで注いだ。
 とてもじゃないが、歯が立たないとおもった。この親父さん、2杯目も一気飲みしたのである。でっかいグラス1杯につき、5秒もかかっていない。水だって、あんなふうに飲めるものではない。
 その夜、ぼくはカミさんの両親、同居の長男家族、義兄夫婦、そして、これから義理の兄弟になる3つ年上の友から盛大な歓迎を受けた。母はおちゃめなところのある明るい人で、ぼくに抱きついて、ほっぺたにキスしてくれた。
 みんなが寝静まった夜更け、酒に強いと思われていた九州男児は何度もトイレに通うはめになった。せっかくのご馳走も、吐いて、吐いて、吐きまくった。
 やさしかった新潟の父も母も、もういない。ぼくたち夫婦の縁結びをした友は余命わずかな炎を燃やしながら、あの夜、プロの料理人らしく豪勢な手料理をふるまい、大勢が取り囲んだ食卓を色とりどりにしてくれた。それからまもなく、東京での結婚式を見とどけ、末っ子の妹をぼくに託して、33歳の若さで人生を駆け抜けて行ってしまった。
 飲みすぎて吐くのはこりごりだけど、それでもいいから、もう一度、いや、あと何度でも、何百回でも、新潟の酒をあのときのように思う存分、がぶ飲みしたい。
 さぁ、これから退院だ。今夜は好きなだけ飲みたいなぁ。

■いま2日ぶりのわが家で「一畳一夢」の机に向かっている。
 写真は、先日みかけた室見川の川底をひろげる工事。上流からの土砂が大量に堆積するので、重機で掘っては広げての繰り返しである。

後輩から尻をたたかれる2022年12月24日 18時00分

 昨夜の8時半ごろ、晩飯の最中におもいがけない人から電話がかかってきた。耳元に、にぎやかな話し声が聞こえてくる。何人か集まって盛り上がっているらしい。
 電話の主は学生時代の後輩のK君。のっけから遠慮なしの口ぶりである。久しぶりの挨拶も何もあったものではない。
「どうしても××さんの声を聞きたくなって、電話しました。ぼくも70歳になりました。それで××さん、いまの生活は安定していますか?」
「いいや、好き放題やってきたからな。蓄えもないし、つつましいものさ」
「アハハ、そうですか、やっぱり。奥さん、それでよく平気ですね」
「うん。文句も言わずに、好きなようにやらせてくれている」
「いいなぁ。ぼくはですね、いま高齢者の施設で、ばあちゃんたちのオムツを交換しています。かわいいですよ、ばあちゃんは。お尻をきれいに拭いて、オムツを替えてあげるとよろこばれるんですよね。
 うんこまみれのときは細かい皺と皺の間に、うんこがこびりついていて、いくら拭いてもまた皺のなかから出てくるんですよ。アハハハ。長い棒を持っている人(男性のこと)のオムツ交換は嫌ですけど、ばあちゃんたちはホント、かわいいんですから。ぼく、これが天職だとおもいました」
「たいしたもんだ。よかったな」
 この後輩くん、元は横浜市役所の職員だった。先ごろには、やっと10回目の挑戦で中型のバイクの免許をとって、遠くまで乗りまわしているという。
 こんな話を聞くと無性にうれしくなってくる。彼の明るい気分に水を差したくないので、「お元気ですか」という質問には、「まぁまぁ、元気でやってるよ」と答えておいた。
 突然の電話も意外だったが、もっとびっくりしたのは、その彼がこんなことを口に出したからである。
「××さんは、ぼくのあこがれです。今もずっとずっと、あこがれです」
 おいおい、急にどうした。飲んだら、お前はそうなるタイプなのか。
「今度、博多へバイクで行きます。ですから、それまでに生活をちゃんと安定しておいてくださいね。××さんは、ぼくの永遠のあこがれなんですからね」
 持ち上げられたり、励まされたり、後輩からしっかり尻をたたかれてしまった。
「わかった、わかった。楽しみに待ってるよ」
 電話をしてきたK君の横には、同じクラブの同期の仲間だったO君がいるという。
 4年前には、そのO君が職場の若い後輩ふたりを連れて、福岡まで会いに来てくれた。そこでも「俺は好きなことをやって失敗ばかりしてきた」と笑って話したことがある。
 K君との電話のやりとりから、そのときにO君から言われた言葉をおもいだした。
「失敗をたくさんできる人はうらやましいですよ。ぼくはそんなことできなかったですから。××さんのように、失敗をやれる人って、すごいなぁ、とおもいます」
 わが身を振り返ると、穴があったら入りたいような気持ちになるが、このぼくから言わせると、そういう君たちこそ、ひとつの職責を立派に勤め上げて、安定した基盤をがっちりつかんで、きっと後輩たちのあこがれのマトだよ、と声をかけたくなる。
 この駄文とは関係なく、「あこがれ」は人から人へとつながっていって、人を育てる目標のひとつになるものだ。ぼくにも子どもころから、あこがれる人が途切れることなく近くにいた。なぜだか知らないが、そんな縁にたくさん恵まれてきた。とても幸運なことだとおもっている。
 いまのぼくがこころの底でいちばん求めているかもしれない肯定的な言葉を、遠く離れた後輩たちがくれた。
 これも何かの啓示だろうか。電話を切った後、よし、やってやるか、と元気が出てきた。

 『楢山節考』の作者・深沢七郎(1914年-1987年)がある対談の席で、こんなことを言っていた(1994年)。彼が狭心症を患い、埼玉県北部の田舎町に引っ込んで、ラブミー牧場をやっていたころの発言である。
-私は、家中みんな癌で死ぬのがいちばんいいと思って、期待しているわけですよね。先祖代々、親と同じ病気で、同じように死んでいくんだから、苦しくっても、まあこれくらい苦しいのだろう、あのくらい苦しいのだろうと思って死ねば、我慢できると思うんですよね。それで本望じゃないですか。-
 こんなふうに考える人もいた。たびたび気づかされることだが、モノの見方ひとつで、目の前の景色や人の評価はがらりと変わるものだ。

■写真は学生のころ。大学のプールで遊ぶ。若かったなぁ。いつもこんな格好で、下駄を鳴らしていた。自分の写真を載せる気はなかったが、いまのぼくとはわかるまい。