お正月のもてなしは、大根の皮2024年01月04日 15時32分

 過日、敬愛する人から「あなたのブログはタイトルがよくない。暗くて読む気がしない」と言われた。気持ちが少しへこんだけれど、面と向かって、あんなに率直な批評をしてくれる人はいなくなった。
 貴重なご意見はありがたく素直に頂戴して、でも、このブログは自分しか書けないことを書くのだから、「風のひょう吉」はどこまでも自然体で行こうと思いなおした。息子たちに「父親はこんなことを考えていたのか」と書き残しておきたい意図もある。
 そんなわけでしばらく休筆していたが、ことしも思いつくままに書くことにする。また辛気くさいことをと苦笑いされそうだが、これは自分自身に贈る2024年の年頭の辞でもある。

 昨日の朝方、暮れの30日からわが家に泊まっていたカミさんのすぐ上の姉(次女)が名古屋に戻って行った。40代そこそこで夫と死別して独り暮らし。お正月はさびしいだろうから遊びにおいでよと誘ったら、はるばる訪ねてきてくれた。
 わが家に人を招いて、たのしく酒を酌み交わすのは大好きである。中学生のころから母の郷里の飲めや歌えやの席にいて、顔から太い腕まで褐色に潮やけした大人たちから「義理と人情を重んじる男の生き方」を教え込まれて、ビールもがぶがぶ飲んで育ったので、お上品なご家庭とはまったく縁がなかった。
 この性分は雪国の田舎育ちのカミさん一家とも相通じるところがあって、義理の父が亡くなった葬式の夜は家族や親戚が集まり、食って、飲んでの大騒ぎになった。
 父の笑顔の遺影をバックにして撮影した集合写真は、残された母やその子どもたち、嫁、婿、孫までがもうたのしくて、おもしろくてたまらずに、口を開けて笑っている顔だらけである。知らない人があの写真をみたら、特別なお祝いごとでもあったのかと勘違いするだろう。
 そんな家庭で育ったカミさんの姉が遊びにきたのだから、日ごろの延長戦のようなものだ。お正月でもお上品なお料理はなし。到着した30日は、ぼくが朝から台所に立って、大鍋におでんを仕込み、大晦日は彼女が食べたがっていたもつ鍋をつくってあげた。
 おでんに入れた大根の皮は捨てずに、ポン酢で即席の漬物にした。元日の朝は新潟の雑煮。昼はレトルトカレーを温めて終わり。ただし、酒だけは日本酒、ビール、ワイン、缶チューハイ、ハイボール、芋焼酎と寸分の隙もなし。
 なんとまぁ、安上がりで肩の凝らない正月料理であろうか。(もちろん、カミさんはほかの料理もつくりました)
 名古屋の姉はみなよろこんで食べてくれて、なかでも大根の皮がお気に召したようだった。そういえば、一昨年の秋にわが家に来てくれた新潟の姉(長女)が、「わたし、これがいちばん好き」とよろこんで箸を伸ばしたのは博多自慢の活きのいい刺身ではなく、カミさん手づくりのキュウリやニンジンのぬか漬けだった。
 ぼくはこういう人たちに心から親近感を覚える。一緒に飲むなら、こんな人たちがいい。
 昨夜、その大根の皮の漬物を肴にして、日本酒をやりながら、きっとカミさんもおもっていることを口に出した。
「たぶん俺が△△子(カミさんのこと)よりも先に死ぬから、△△子ちゃん(名古屋の姉のこと)はここに来て、姉妹仲よく助け合って、一緒に暮らしたらどう? お互いにさびしくなくて経済的だし、それがいいとおもうよ」
 ふたりとも笑っていたが、否定はしなかった。家族は助け合って暮らすのがいい。助け合う家族がいい。歳をとるにつれて、その思いは確信になってきた。
 こんなささいな個人史は別にして、元日は能登半島で大地震が起きた。大津波警報も発令されて、甚大な被害が出ている。翌2日は羽田空港で航空機同士が衝突して炎上した。正月早々、予想もしない被害に遭った人たちが気の毒でならない。
 令和6年は大規模な自然災害と科学の塊りの盲点をついた人災が発生して、歴史に残る悲劇の幕開けになった。
 ぼく個人は波瀾の1年を乗り越えて、希望の持てるスタートになった。
 何が起きても不思議ではない。年のはじめに、自分は運が強いと信じることにした。

■元日は例年通りに近くの寶満神社へ初詣に行った。いつもより参拝する人が多かったのはコロナの影響から解放されて、帰省してきた人が増えたせいかもしれない。カミさん姉妹はぼくよりも長いあいだ、じっと掌を合わせていた。

肩書きなんて、要らないよ2024年01月09日 10時14分

 朝5時半に起床。今日からカミさんは仕事始めである。本来は4日だったのだが、本人と会社の事情があって、年末からの休みは11日間連続という彼女の新記録になった。ネジがすっかり緩んでいたので、まだ暗いなかの久々の出勤は辛かったとおもう。
 人のことばかり言っておられない。こちらものんびりし過ぎた。ときどき手にする小林秀雄の著作『考えるヒント』のなかにこんな一文がある。
 ―さて、年齢を重ねてみると、やはり、次第に物事に好奇心を失い、言わば貧すれば鈍するという惰性的な道を、いつの間にか行くようだ。のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、当人は次第に円熟して行くと思い込む、そんな事にも成りかねない。―
 まるでいまの自分を見透かされているようで、耳が痛い言葉である。ま、これも読書の効用としておこうか。
 昨日の朝刊の文化欄におもしろい言葉をみつけた。大佛次郎賞の記事で、受賞した平山某氏の肩書きが目に留まった。そこには作家やエッセイストなどではなく、「雑文家」とあった。
 そんな職業があるのかとちょっとびっくりした。そして、このオレは何だろうかとぼんやり考えた。また自分だけではなくて、年金暮らしをしている大勢の人たちは職業欄に「無職」と書き込んでいるのだろうが、それで本人は満足しているのかとおもった。
 小林秀雄はこんなことも書いている。
 ―人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない―
 わが師の田原隆先生の晩年の名詞は個性的だった。見た目はふつうの名詞だが、三つ折りになっていて、その表には「田原隆」とあるだけ。中面には工学博士の文字と官僚時代から政治家のキャリアが簡潔に記してあった。肩書きのないこの名刺は、もちろんご本人の発案で、政治活動をはなれたオフタイムには胸の議員バッヂを外していたお人柄の通りだった。
 あのとき先生の前で、シンプルでいいな、見習いたいなとおもったものの、オレには書き並べるほどのキャリアは何もない、この出来の悪い門下生は、いったい何をやってきたんだろうと考え込んでしまった。
 さて、こんな文章を書きながら、頭の片隅では別の原稿のことを考えている。ぼくはインターネット上でライターの仕事を取り持つ会社に登録していて、そのホームページには自分を売り込む欄がある。そこには「ここが大事です」とただし書きがついている。
 ほかの人たちはどうかというと、自己PRをがんがん書き立てて、たいへんな自信家ぞろいである。
 自分にたいした実力がないことはよくわかっている。それなのに自画自賛するのはどうにも居心地がよくないし、でも書かないと目立たないし、いまもどうしようかと悩んでいるところだ。
 ちょうどそんなときに、「雑文家」の文字が目に入った。これなら自分がやってきたことに近い。でもなぁ、オレは雑文で食っていないしなぁ。
「△△さん、肩書なんて、要らないよ」
 11年以上も机の上に置いてある田原先生の訃報記事の切り抜きの写真が、ぼくをみて笑っている。

■写真は、雑煮と大根・ニンジンのなます。どちらもカミさんの故郷の元日に出される定番料理で、雑煮には雪国の奥深い旨味が詰まっている。見た目はパッとしないが、たっぷりの根野菜と塩サケ、餅、醤油との相性がよく、すごくおいしい。「正月以外でも食べたいな」とリクエストしている。
 今日は長男のお嫁さんの出産予定日。無事に元気な赤ちゃんが生まれてほしい。こうしていても心配で落ち着かない。

初孫が生まれました2024年01月11日 18時00分

 昼過ぎ、仕事中のカミさんからLINEが届いた。
「無事に生まれたって良かった~」
 よかった、よかった。
 長男から男の子誕生の知らせ。ようやく孫ができた。
 今日は1月11日。1.1.1.と1が3つ並んで、なんだかいい星の下に生まれてくれたような気がする。誕生日もすごく覚えやすい。
 たまたま今朝の血糖値は111だった。なんの科学的な関連性はないけれど、カミさんにその数字をみせたら、「えっ、111。わぁ、すごい。お父さん、これこそブログに書かなきゃ」と尻をたたかれた。朝の5時ごろ、息子から「いま産婦人科に連れて行った、昼ごろには生まれそうだ」という連絡があって、ふたりともそわそわしていたのである。
 自分たちのことがあるから、無事に生まれるまではやっぱり心配した。男のぼく以上に、カミさんは祈るような気持ちだったとおもう。
 さぁ、息子夫婦は新しい家族ができて、今日からよろこびも苦労も多い子育てがはじまった。ぼくたちもそうだったように、これから先どんどん大きくなっていく子どもの成長に、どうすればいいのか迷い悩むことがいっぱい待ち構えているだろう。
 こんな親でも、自分たちの両親を見る目も少しは変わるかな?
 
 ■ことしも十月桜が咲いている。この樹もだんだん大きくなってきた。

ことしも快方に前進中2024年01月15日 16時58分

 ことし初の通院、化学療法の日。昨年4月24日からスタートして、19回目の抗がん剤の点滴を受けた。しかし、完全に効くという保証はない。がん細胞はからだのどこに潜んでいて、いつ暴れ出すがわからないという。
 どうなるかわからないけれども、こうして20回近くも点滴を続けてきたのだ。そこで、担当の外科医に、ずっと気になっていることを訊いてみた。
「抗がん剤を打っているあいだは、がんは再発しないんですか」
 答えはあるていど予想はしていたものの、現実は想像以上に甘くなかった。
「そんなことないですよ。化学療法をやっているときでも、(すい臓がんの場合)再発する人はいっぱいいます。そういう人の方が珍しくないですよ。体質的に抗がん剤が効かない人もいますからね」
「やっぱり、そうなんですね」
 ぼくはいまのところまったく異常なし。毎回、順調ですねと言われてきた。
「最近では、手術をした後に再発しない人は3割と言われています。少し前までの抗がん剤が効かなかったことを知っている自分たちからすれば、3割はたいへんな数字です。
 そこまで持っていくには時間もかかります。手術の技術が上がったこともあるし、いい薬が出てきたこともあって、どうにか3割に達したということです。7割の人は再発しています。このへんはぼくたちと患者さんの認識が違うんですね」 (※再発した患部はいろいろで、もちろん、治療してそれらのがんが消えた人もいるはずだ)
 手術がうまくいったからよかった。これでひと安心だな。
 患者はそう思いたいけど、数多くの事例を診てきた医者の認識はまた別、というわけである。それでも「3割は再発しない」と聞いて、近年の医学の進歩をこの身で再確認できた。
 診察時間は短くても、こちらの疑問や質問に対して、話をそらしたり、とりつくろうような発言はいっさいしない。こんなふうにはっきり説明してくれるので、ぼくはこの人を信用している。プロフェッショナルが目を光らせてくれている気持ちになる。
「ぼくたちの間では、△△さんはいけるかもしれないなとおもっているんです」
 ここまで踏み込んだ発言は初めてだ。立場上、どんなに良好な場合でも、絶対に「かもしれない」のひと言はつけるはずである。その彼の最後のひと言で、またいくばくかのやる気と安心感が積みあがった。
 楽天的な性格の方がいいんだよな、こんなときは。がんは治る病気になってきているんだから。
 一昨日は、長男に車で送り迎えしてもらって、カミさんと一緒に生まれたばかりの孫の顔をみてきた。ガラス戸越しに見る、ちいさな顔、ちゃんと目を開けて、ぷっくりしたまるっこい5本の指を開いたり、げんこつにしたり。お嫁さんも明るく元気で、ほっとした。
 真っ白な産衣(うぶぎ)にくるまっているあの顔を見たら、そう簡単にくたばってしまうわけにはいかない。

■昨日の日曜日。団地のなかの集会所前の広場で、餅つき大会をやっていた。男性陣が餅をつき、女性たちはつきあがった餅をまるめる役目。鹿児島にいた子どものころ、わが家の庭でもやっていた。
 ハイヨ、ホイサの合いの手に、ペッタン、ペッタンの音がして、待ち遠しくてますますお腹が減って、やっとできたてのやわらかいあんこ餅をもらって、その場でかぶりつくのがうれしくてたまらなかったなぁ。

あいつの分まで2024年01月18日 18時33分

 一日の間に「悲」と「喜」のふたつの知らせが届いた。ひとつは文章で、もう一通は写真である。こころの平衡を取り戻したくて、メールを読んでは、また写真を見つめなおしている。
 無二の友が逝ってしまった。東京都町田市の奥さんから悲報が届いたのは昨日の午後。亡くなったのは1週間以上も前の1月8日だったという。心配していたことが正月早々、現実になってしまった。
 小・中学の同級生の72歳。旅立つには早過ぎる。その背中をつかまえて叫びたくなった。
「おい、待てよ。ひとりで行くな。戻ってこい!」
 このブログでも触れたことのあるO君。小学5年生のときに鹿児島の田舎町から都会の小倉の小学校に転校して、同じクラスで知り合った。中学でも一緒のクラスになった。お互いの結婚式にも出席した。小学生のころに出会った友だちで、この歳になるまで付き合いが続いていたのは、唯一、O君だけである。
 でも、彼がいればそれで充分だった。穏やかな人柄で、発想がおもしろくて、だれからも好かれていた。あいつがいるから、ぼくは友だち運がいいとおもっていた。
 着信したメールを読んで、すぐさまO君の携帯に電話した。2回コールした後に、奥さんが出た。ぽつんと独りきりで、夫の携帯を握ったままだったのだろうか。
 そこでのやりとりも、彼に誓ったことも、大切に胸にしまっておこう。
 それから数時間後、今度はカミさんからの着信があった。スマホを開いてみると、先日生まれたばかりの孫のビデオと写真だった。ちいさな口に哺乳瓶をくわえて、ジュー、ジュー音を立てながらミルクを飲んでいる。写真の方は、満ち足りて、いまにも笑いだしそうな顔をして眠っているところ。
 みんなに祝福されて、世の中でなにが起きているのか、なにも知らないで、生後6日目の始まったばかりの人生である。
 この子のいることが、かけがえのない友を亡くした救いになった。消える命があれば、新しく生まれる命もある。O君はぼくよりひと足先に逝ってしまったが、こちらが先にこの世からいなくなっても不思議ではなかったのだ。
 とても眠れそうになかったので、昨夜はにがい酒を流し込むようにして飲んだ。
 あいつの分まで、生きなければ。
 10代のころから、そんな人が何人分もぼくの肩には乗っている。

■ありがたいことにふだんの生活は変わらない。珍しいものを見つけたので買って来た。高菜の若い葉っぱで、よく洗って竹のザルで干して、塩漬けにした。ピリリとした辛味がきいて、食がすすむ。

ネコはこたつで丸くなる2024年01月23日 14時39分

 寒い。朝から気温は1、2度しかない。ときおり白い雪が舞い落ちてくる。
 電気こたつからはなれずに、ぼーっとしていたら、「ネ~コはこたつで丸くなる」の子どもたちの歌声が頭のなかで聞こえてきた。
 働いている人たちや学校に通う生徒たちからみれば、「年寄りはなにもしないで、ああやって家のなかで一日中ごろごろしているんだ」とおもわれかねない。
 きっとそうだ、そうに決まっていると気がついて、こりゃあ、いかんと跳ね起きた。
 朝食後の食器を洗って、冷たい水に手を濡らしながら風呂掃除をして、かたときも休まずに掃除機をかけた。それから今夜の献立は鶏肉のクリームシチューに決めて、必要な材料をメモ書きして、小雪が舞うなか、リュックを背に、歩いて買い物に行った。
 まだ昼どき前の時刻、いつも行くスーパーは年寄りだらけである。その人たちの顔や動きをみていると、「時間潰し」としか言いようがない。きびきびした活きのいい人はどこにもいない。朱に交われば赤くなるではないけれど、とたんにこちらも同調してしまい、気持ちも動きもたちまちスローダウンしてしまった。
 買い物のリストを持っているのに、買わなくてもいい安売りの商品を探し始めたのは、亡くなった親父と同じで、持って生まれた性分だろうか。すぐ横にいた年寄り男性の買い物かごには、割引の値札がついた菓子パンや饅頭、生ラーメンの袋などがごちゃごちゃ入っている。賞味期限が間近だろうに、あんなに買って、ぜんぶ食べきれるのだろうかと余計な心配をしてしまった。
 以前、ぼくたちの住まいがある団地の棟の1階に、独り暮らしのおばあちゃんがいた。このおばあちゃん、言葉遣いがとても上品な人で、腰は少し曲がっていて、脚も弱くて、続けて50メートルも歩けない。あちこちに腰かけて、ゆっくり休んではまた歩きだす。自宅から少しはなれたスーパーにはタクシーで往復していた。
 彼女の愉しみは買い物で、1回の買う量も、品数も、半端ではなかった。タクシーの運転手さんは荷物運びの役目があって、大きな買い物袋を提げては車と玄関のドアを最低でも2往復していた。そんな場面が毎日のように午前中と午後の2回もあるのだ。
 夏が近づくとおばあちゃんの部屋から異様な臭いが流れてきた。大きなハエがあたりを飛びまわるようになった。心配して、部屋の中に入ったご近所さんの目撃談によれば、よくテレビに出てくるゴミ屋敷とそっくりの状態だったという。
 ある日、おばあちゃんのところに身内らしい男性と引っ越しのトラックがやってきて、何十個ものゴミ袋と一緒に家財道具をぜんぶ持ち運んで行った。そして、あのやさしいおばあちゃんは二度とぼくたちの前に現れることはなかった。
 いまでは想像するしかないが、彼女はからだが不自由でも、「ネコはこたつで丸くなる」を嫌った人だったとおもう。毎日あれだけの数と量の買い物をしていたのは、過ぎた日の家庭がにぎやかだったころを懐かしんでいたのだろうか…。
 あれっ、ちょっと待てよ。さっきからこんなことを書いているぼくは、よっぽど暇な年寄りだとおもわれるんだろうな。

■雪がちらつくなか、梅の花が咲いている。あと十日あまりもすれば立春である。

ガンよ、サラバ!2024年01月30日 12時02分

「再発はありません!」
 いつになく声が大きかった。向き合っている担当医の目が笑っている。後ろにいる3人の看護師さんたちもうれしそうだった。
 昨日の午前中に受けたCT検査報告の一幕である。結果次第で、今後の治療計画を決めることになっていた。ガンはいつ、どこで再発するかわからないと何度も言われていたから、この日の検査は自分の運命はどちらに転ぶかという大きな山場だったのだ。
「化学療法(抗がん剤の点滴)も今日から止めましょう。これからは3か月に1回の割合で来てもらって、(腫瘍)マーカー検査をします。半年に1回はCT検査をやって、定期的にからだのチェックをしていきましょう」
 よかった。抗がん剤の点滴もやっと終わりになった。これならふつうの健康診断と同じだ。ようやく祈願していたところに着地できた。
 完治がむずかしいすい臓がんとわかって、それまで想像の領域でしかなかった死が突然、底なしの闇で目の前に迫ってきた。「(腹部を)開けてみなればわからない」と言われた開腹手術から1年足らずで、抗がん剤治療から解放されたのだから、本当に運がよかったとおもう。まだまだ油断はできないけれど、ひとまずガンとはオサラバだ。晴れて「元気な元ガン患者」の仲間入りである。
 病院でお世話になった人たち一人ひとりに、お礼を言ってまわりたい。仕事中の次男にLINEで知らせるとすぐに電話がかかってきた。カミさんからも、長男からも勤務先から返信があった。
 手術の前日に、「頑張れ△△! 頑張れ△△!! 頑張れ△△!!!」とLINEをくれた友もいる。このブログで、「心配かけたな。もう大丈夫だよ。また飲もうや」と報告しておこう。
 つくづくおもう。人生はなにがあるかわからない。それを受け入れるしかないのも、その人の人生だ、と。
 ともかく家族に支えられて、15か月間にわたるガンとの闘いを乗り越えることができた。これを機に「風のひょう吉」も病気の話にひと区切りつけて、以前のように、気楽にぶらぶらと散文をつづって行くことにしよう。また下手な短編小説にも挑戦してみようかな。

■花が好きなカミさんがベランダで育てている花たちが元気に咲いている。ネメシアやゼラニウムのように挿し木で増やした鉢もある。越冬はむずかしいと言われる花も、わが家では枯れることなく春を迎える。