語るに堕ちた2024年02月05日 12時10分

 「歴史は繰り返す」。このところずっとこの言葉が頭をよぎっている。
 自民党派閥による政治資金パーティーの裏金事件。パーティー券を売りさばいて集めたカネを、法律にひっかからないように、こっそり自分の懐に入れたり、人によって金額の差をつけて仲間たちに渡していた。
 主役は暴力団ではない。胸に国会議員バッヂを光らせている「選良たち」である。
 悪質ランクキングで断然トップの安倍派を筆頭に、二階派から岸田派まで、国の最高機関の立法府を構成する面々が平然と法律を破って、なに食わぬ顔をして何百万、何千万円もの裏金を懐に入れていた。もちろん、一円も税金はかからない。
 イワシは頭から腐るというが、そうやって腐りはじめるのは、イワシだけではなかったわけだ。
 安倍派にいたっては最高幹部の5人組が示し合わせたように、内証でたんまりくすねていた。そして、やっぱり5人とも責任をとる気などさらさらない顔をしている。察するに、亡くなったあの人もやっていたじゃないか、と言いたいのだろう。
 そのうちのひとりは、「なんでオレだけが…」とこぼしたという。
 それでもツケはちゃんとまわってきて、最強を誇っていた彼らの拠りどころの派閥はあっけなく解散に追い込まれた。裏金に手を染めた幹部たちは空席になっていた会長の椅子を争い、悪事がバレて、保身に走った末に、カネの切れ目が縁の切れ目を地で行った有様である。
 腹にいちもつ抱えた信用なんて、それこそアッという間に崩れるのを、身を待って知ったことだろう。もう一度、出直すしかあるまい。
 語るに堕ちた。
 こんな情けない政治家たちの大量生産を許してきた責任の一半を感じてしまう。
 大江健三郎は20年ほど前に、ある講演で話したことを文章に残している。自戒を込めつつ、締めの言葉として、ここに書き留めておく。
 ―いま日本国内にあるのは、(略) 政治家、官僚、実業家のまったくあからさまな倫理観的退廃と、それを充分には批判しえない民衆の社会がある、という構図です―

■室見川にやってくる冬の野鳥のカモやユリカモメが少なくなった。このあたりでは激減したと言ってもいいくらいだ。本流からはなれた用水路のコンクリートの壁の上に、カモが1羽だけいた。よく見かけるようなパートナーはいない。
 おい、お前さんは、無所属か。

習慣化した言葉の魔力2024年02月09日 18時43分

 昨日の昼下がりにかかってきた電話の相手はにぎやかだった。
「Kです。いまOの家に来ています。あっ、いまいいですか」
 横浜にいる後輩君で、しばらく声を聞いていないのに、のっけから、つい先ほど別れたばかりのような話しぶりである。
「すい臓ガンだったんですってね。よくみつかったですね。あれはほとんど手遅れになるでしょ」
 彼の隣にいるはずのO君への年賀状に、初めて病気のことを書いたので、その情報を知ったのだろう。ひとしきりガンと糖尿病の話になった。(何度も書いたので、この部分はカットする。)
 ふたりから繰り返し言われたのは、「運がよかったですね」、「すごく運がつよいなぁ」という言葉だった。そのことをいちばん感じているのは当のぼく自身で、そういえば…と思い当たるフシがなくもないことに気がついた。
「習慣化した言葉の持つ力」とか、「口ぐせは人を変える」とか、よく自己啓発などの本に出てくるアレである。昔から知られているやり方で、こうなりたいと思っている言葉を口ぐせにしていると、それが意識の深いところで推進力になって、実際にそうなる、というもの。
 いつごろからか、ぼくも同じことをやっていて、「ついてる」という言葉がいちばんなじみ深い。いいことがあったときはもとより、困ったときでも、自動的に「オレはついてる」と自分に言い聞かせるのがほとんど癖になっている。
 そうするとこれまでもそうだったよなと、「ついている」ことが次々に浮かんできて、「オレはついている人間だ」と気持ちがずいぶん楽になる。人間の頭脳はそういうふうに都合よくできているらしい。
 今回の闘病生活は結果的にこの習慣がプラスに出たとおもう。運なんて、どっちみち雲をつかむような話だから、むずかしく考えずに、そういうことにしておこう。
 さて、このふたりの後輩君、予定では来月3月半ばに『青春18きっぷ』(料金は12,050円。JR全線の普通列車の普通車自由席が5回〈人〉乗り放題)を使って、福岡まで会いに来ることになっていた。小倉にいる学友も、一緒に飲むのを楽しみにしていたのだが、ある事情から家を空けられそうもなく(祝いごとです)、彼らの九州への旅は年末まで順延することにしたという。
 こちらも即座に了解した。こんな場合でも、ぼくは「ついてるな」と頭を切り替えるようにしている。それにしても71歳になって『青春18きっぷ』とは元気なものだ。
 おっと、今度来るときは72歳か。すごいな。なんだか会う楽しみが増えたような気がする。

■カミさんの誕生日に合わせて、新潟にいる姉(長女)と名古屋にいる姉(次女)から贈り物が届いた。この3姉妹はうらやましくなるほど仲がいい。
 それぞれの段ボール箱のなかに、新潟の姉からはカミさんが好きな鉢植えの花のセット(写真)が、名古屋からは静岡県掛川産のお茶と、もうひとつ不思議なことに煮干しを詰めた大きな袋が入っていた。
 なんで煮干しなの? 
 カミさんによれば、「お正月に、わが家に泊まりに来たときに作った朝のみそ汁がおいしかったんだって。だからじゃないの」ということらしい。
 どうもよくわからないけれど、これもきっと仲がいいからなのだろう。

シロウオがいなくなった2024年02月15日 18時29分

 買い物に行くときも、そのときの気分で室見川沿いの遊歩道を歩くことがある。すこし遠まわりになるけれど、車も来ないし、信号もない。右手に川の流れを見ながら、カモがいれば立ち止まり、野鳥のうつくしいさえずりが聴こえれば、どこにいるのかとあたりを探す。そんなそぞろ歩きがいい気分転換になる。
 ここから2キロ足らずの河口近くには、例年ならシロウオ漁のヤナが仕掛けられているはずだった。残念なことに不漁続きで、昨年に続いて漁は取り止めになった。
 シロウオのメスは川底にある石の裏側に産卵する。ところが、近年は川の流れに勢いがなくなって、大量の砂が堆積するようになり、卵を産みつける石が砂に埋まってしまった。シロウオがいなくなるはずである。
 だが、なかには立ち上がる人たちもいて、シロウオが産卵のためにやってくる前に、地元の大学生やボランティアのみなさんが砂に埋もれた石を掘り出して、産卵場を整備している。数年前からやっているのだが、現場に集合するのは1日限り、それも数時間の手作業では、その努力に頭はさがるけれど、とてもかつてのような漁獲量の回復は無理だろうなぁとおもってしまう。
 もう少し上流の様子を見れば、そう考えても仕方のないことはだれの目にも明らかだろう。
 いつ起きても不思議ではないゲリラ豪雨による洪水に備えて、室見川でも大型の重機を何台も使い、何週間も、何か月もかけて、川幅を拡張し、堆積している土砂をきれいにさらってきた。
 ところが、そのぶん水深は浅くなり、水流も弱くなる。たちまち砂が積もりだして、いまも川のなかに家が何十軒も立てられる広さの陸地ができている。こうなることはわかっていても、人の力ではどうすることもできない。この繰り返しだ。
 雨が降るたびに大量の砂は下流へ、下流へと運ばれる。シロウオが卵を産みつける石は掘り上げても、掘り上げても、ほどなくまた砂地のなかに飲み込まれる宿命にある。
 ぼくは子どもころからきれいな川や海のなかを見ながら遊んでいたから、川岸から眺めるだけで、川底の様子や魚たちがどこにいるかぐらいの見当はつく。
 砂が増えれば、アユも卵を産めなくなる。魚たちの食糧である水生昆虫も棲めなくなる。水中に生える水草もなくなる。そして、すでに室見川の下流域はそうなってしまった。
 あんなにいたナマズはもういない。食料にする小魚が減った証拠だ。シロウオに群がっていたユリカモメの大集団も、水草や藻類が好物のカモも激減した。
 今日も川風を受けながらジョギングやウォーキングをたのしんでいる人たちがいる。室見川が好きな人たちは多いけれど、どれだけの人が異常気象と、目の前の川の流れと、生き物たちの関係の変化に気がついているだろうか。
 田舎の自然のなかで遊びまくって育った眼には、ぶらぶら歩いていても気になる景色があちらこちらにある。

■ここ両日の福岡市の最高気温はほぼ20度。種類はわからないが、室見川の河畔に、この暖かさで一気に咲いた桜の木がある。ちいさなミツバチが花から花へ忙しそうに飛びまわっていた。

お宮参りの祝福の音2024年02月20日 13時45分

 先の日曜日は最高気温が20度を超える季節外れの陽気だった。この日は初孫の△△ちゃんのお宮参りで、ぼくたち夫婦も車で10分少々の神社に向かった。
 △△ちゃんに会うのは3回目。お母さんの腕のなかで気持ちよさそうに眠っている。ぷっくりしたほっぺたをチョンチョンしても、目を覚まさない。
 拝殿で式が始まって、神主さんが太鼓をドンドンドンとたたいても、金色の飾りのついた棒を左右に振って、ジャラジャラジャラと鳴らしても、生後1か月と1週間の赤ちゃんはおとなしく眠ったままだった。このところ夜なかにひと騒ぎして、昼と夜とが逆転しているらしい。
 まぁ、泣かなくて助かったのだが、目を開けてくれないと物足りないもので、やっと目を開いたら、今度は笑っている顔が見たくなる。泣いている顔だって見てみたいし、泣き声も聞きたくなる。そんなこんなで両方の新米ばあちゃんは式が終わったあと、代わるがわるに抱っこして、片時もちいさな顔から目をはなさなかった。
 まったく、赤ちゃんが主役の生活になる、とはよく言ったものだ。
 こうしてお宮参りはとどこおりなく終了して、夜はカミさんと軽くビールをやりながら、この日のことを振り返る話になった。笑ったね、あくびしたね、右足を蹴っていたねなど、ひとしきり△△ちゃんの話が終わって、そこから急に話の品(ひん)が落ちた。
「式典のあいだ、俺たちの背中の後ろの方で、あの太い紐をゆすって、鈴をガラガラ鳴らして、賽銭箱におカネを投げこむ音がしてたよな。拝殿室にいたオレたちは、外にいたあの人たちから神様みたいに拝まれていたんだよな」
「何度もお賽銭を入れる音がしてたでしょ。ワタシ、気になって、あっ、また神社におカネが入るんだとおもっちゃった」
「お前、そんなことを考えていたのか」
「だって、次から次に何回もおカネの音がするんだもの」
「あっ、いまのは10円玉だとか、これは100円玉かな、音が大きいから500円玉かなとか、そんなことか」
「そう。硬貨の音がしないのは、きっとお札を入れたんだわとか、ね」
「あきれた。でも、いいよなぁ、人がいっぱい来る神社は」
 お宮参りに行った神社の境内で、△△ちゃんは知らない人たちから、かわいい、かわいいとモテモテだった。そう言われるとこちらもうれしくなる。みんないい人にみえてくる。
 そうか、そうおもえば、別の解釈も成り立つな。あのチャリン、チャリンと景気よく聞こえていたおカネの音は、ぼくたちに向かって、きちんと二拝二拍手一拝して、△△ちゃん一家の幸せと健康をこころから願ってくれた祝福の音だったとしておこう。
 チャリン、チャリンが△△ちゃんの未来についてまわりますように。

■冬の室見川の夕景。正面に見える三角形の山はこのあたりのランドマークの飯盛山。お宮参りに行った神社とは関係ないけれど、山ぜんたいが信仰の対象になっている。

がん手術からちょうど1年2024年02月21日 15時42分

 すい臓がんの手術から1年が経つ。いまも再発の不安は消えないが、こうして元気でいられるのが夢のようである。
 ときどき手にする小林秀雄の本にこんなことが書いてある。
 ―ある人の個性とは、その人の癖でもなければ才能でもないだろう。変わった癖も面白そうな意見も、個性の証しとはなるまい。ある人の個性は、その人の過去に根を下ろしているより他はなく、過去が現に自己のうちに生きている事を、頭から信じようとしない人に、自己が生きて来た精神の糸を辿ろうする努力を放棄して了う人に、個性の持ちようはないわけだ―
 彼の論でいけば、すい臓がんの体験はすでにぼくの個性に反映しているということか。うまく言えないが、確かにそうだとおもう。
 区切りのいいこの日に、1年前の過去にいちど根を下ろして振り返るのは、自分という人間を知るためにも意味がある。そこで昨年のスケジュール帳に記した手術の前日、当日、翌日の3日間の走り書きをここに抜き書きしておく。

□2月20日(月)
 ・手術前日。時計の針はいつもと変わらず進んでいく。特に異変なし。
 ・談話室にH女医が訪ねてきた。血糖値コントロールのこと、手術のこと等、心配し、応援してくれている。
 ・N医師も来たが、ほんの10数秒ていど。いつにも増して目に力が入っていた。
 ・HからLineで声援。Iさんからはメール届く。返信。
 ・20時過ぎに△△子とビデオ電話、のちtelに切りかえる。△はまだ仕事。今日の出来事、明日のことを話す。
 ・現21:59。所望していた睡眠剤、つい先ほど受けとって飲む。もうすぐ消灯。

□2月21日(火)
 ・手術当日を迎える。下剤が効き、3:30ごろトイレへ。スマホに着信していた△△子のLineを読む。△に22才の彼女!!
 ・夜半過ぎだが、うれしいビッグニュースと返信す。心がすっと軽くなった。
 (このあと午前9時に手術室へ。この走り書きはいったん中断。以降はいくらか体力が回復した2月26日に、それまでのことを思い出しながら書き留めた)
 ・浣腸。手術服を着て、車イスで手術室へ。明るい。
 ・麻酔が切れ、目が覚めてからが地獄の苦しみだった。N医師が、がんは散らばってなかった、きれいに全部とりました、安心して、という。
 ・集中治療室に移される。次から次に薬を投与。重苦しい疼痛、もうれつな吐き気。こんなに大変とは思わず。

□2月22日(水)
 ・痛み止めの点滴、注射、睡眠薬等で、なんとか耐える。それしかない。
 ・薬や看護師さんがいなければ、とうてい生きられない。つくづくそう思った。何度も、何度も。
 ・こんな状態なのに、20メートルほど歩かされる。
 ・午後、6Fの病室が空いたので移しますといわれる。いわれるまま。
 ・614号室の窓辺のベッドに運びこまれる。点滴。からだに管が巻き付いている。苦しくてならぬ。
 ・朝、△△子からLine着。昨夕、N医師から連絡あり、うれしかった、△と△(長男と次男)、姉たちにも知らせたという。
 (※病室に移動したあと、やっとスマホの着信記録を見れるようになった)
 ・14:51 △△子からLine。病院に荷物を預けたという。ありがとうと返信。
 ・歯科から歯と口のクリーニングを受ける。
 ・歩行。右側のリハビリ室まで往復す。

 その後も3月6日の退院の日まで、背中が痛くて眠れない、吐き気が止まらないなど、延々と苦闘の記述が続いている。
 読み返して、こんなに元気になったいまに感謝しかない。
 あのときのことをいつまでも忘れないでおこう。

■団地のなかにある桜の木に、カササギのつがいが小枝を集めて巣をつくっている。1羽が飛んできて、巣の左の枝に止まった。少しはなれたところに同じ大きさの巣がもうひとつある。

友をおくる会を、友と過ごす2024年02月23日 17時20分

「Oはオレたちよりもひと足早く逝って、あちらで待っているからね。だから『お別れの会』ではなく、『O君をおくる会』にしました。今夜は暗く沈むのではなく、アイツらしく、明るく、たのしく盛り上がって、O君を送り出しましょう」
 昨日、こんな挨拶をして、小倉の居酒屋の一室で、正月早々に亡くなった『O君をおくる会』をした。集まったのは小・中学時代を共に過ごした男子6人、女子ふたりの計8人。小倉にいる友が声をかけてくれたほぼ全員がそろった。
 60年以上も昔の同期生たちである。あのころはひとクラスに50数人もいて、中学は1組から8組まであったから、とんでもない大集団だった。
 昨日の8人も、卒業するまでクラスの違う人がほとんどだった。名前を聞いてもわからない。顔を見ても70歳過ぎの年輪は露(あら)わで、こんな男や女の子がいたっけで、まったく思い出せない。相手も同様で、ぼくのことを「覚えとらん。わからん」が5人もいた。
 あやふやな記憶をつなぐ接着剤は、当時の担任の教師の名前を聞くこと。ああそうかと共通の話題にたどりつくのだが、その肝心の担任の名前を完全に忘れ去っている人もいた。こうなると同じ学校の同じ学年だったとはいえ、まるっきり初対面のようなものだ。
 断っておくが、このような隔絶した感慨にふけったのは、たぶんぼくだけだったろう。残りの7人はずっと地元に残っていたり、リタイアして帰郷しているから、ふだんから会っているし、仲がいいのだ。
 これまでも幾度となく考えたことが、また浮かんできた。地元にいる人、出て行ったまま帰ってこない人のどちらが最後は幸せなのだろうか、と。
 そういうわけで、裏を返せば、すごく新鮮な集まりだった。ぼくの知らない小倉での時間のほんの少しだけ教えてもらったような気がした。
 それにしても、73歳になった同期生たちがこうして集まるのだから、中学の生徒会長をやったO君の存在はいまさらながら傑出していたとおもう。
 最初に、思い出話をして、たのしくやろうと念を押していたのに、話しているうちに泣き出すやつがいた。いったん泣きだしたら、子どもみたいに涙が止まらない。おしぼりで何度も目元をふいていた。
「泣け、泣け。今夜はいくらでも泣け」
 こちらも一転して荒っぽい口調になったのは、やっぱり同じ学校の同期生だったからだろう。これも亡くなったO君がつないでくれた新しいご縁である。
 酔っぱらったらマズイからと自制して、あまり食べず、飲まずで、夜の9時過ぎ、冷たい雨のなかを独り新幹線に乗って帰路についた。
 風呂に入って、日本酒をコップで飲みなおす。
 Oよ、お前はいまでも愛されているな。
 ……
 飲まずにいられるものか。

■桜の木につくられたカササギの巣から家主が降りて来た。すっかりぼくたちと同じ団地族の仲間である。