肩書きなんて、要らないよ ― 2024年01月09日 10時14分

朝5時半に起床。今日からカミさんは仕事始めである。本来は4日だったのだが、本人と会社の事情があって、年末からの休みは11日間連続という彼女の新記録になった。ネジがすっかり緩んでいたので、まだ暗いなかの久々の出勤は辛かったとおもう。
人のことばかり言っておられない。こちらものんびりし過ぎた。ときどき手にする小林秀雄の著作『考えるヒント』のなかにこんな一文がある。
―さて、年齢を重ねてみると、やはり、次第に物事に好奇心を失い、言わば貧すれば鈍するという惰性的な道を、いつの間にか行くようだ。のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、当人は次第に円熟して行くと思い込む、そんな事にも成りかねない。―
まるでいまの自分を見透かされているようで、耳が痛い言葉である。ま、これも読書の効用としておこうか。
昨日の朝刊の文化欄におもしろい言葉をみつけた。大佛次郎賞の記事で、受賞した平山某氏の肩書きが目に留まった。そこには作家やエッセイストなどではなく、「雑文家」とあった。
そんな職業があるのかとちょっとびっくりした。そして、このオレは何だろうかとぼんやり考えた。また自分だけではなくて、年金暮らしをしている大勢の人たちは職業欄に「無職」と書き込んでいるのだろうが、それで本人は満足しているのかとおもった。
小林秀雄はこんなことも書いている。
―人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない―
わが師の田原隆先生の晩年の名詞は個性的だった。見た目はふつうの名詞だが、三つ折りになっていて、その表には「田原隆」とあるだけ。中面には工学博士の文字と官僚時代から政治家のキャリアが簡潔に記してあった。肩書きのないこの名刺は、もちろんご本人の発案で、政治活動をはなれたオフタイムには胸の議員バッヂを外していたお人柄の通りだった。
あのとき先生の前で、シンプルでいいな、見習いたいなとおもったものの、オレには書き並べるほどのキャリアは何もない、この出来の悪い門下生は、いったい何をやってきたんだろうと考え込んでしまった。
さて、こんな文章を書きながら、頭の片隅では別の原稿のことを考えている。ぼくはインターネット上でライターの仕事を取り持つ会社に登録していて、そのホームページには自分を売り込む欄がある。そこには「ここが大事です」とただし書きがついている。
ほかの人たちはどうかというと、自己PRをがんがん書き立てて、たいへんな自信家ぞろいである。
自分にたいした実力がないことはよくわかっている。それなのに自画自賛するのはどうにも居心地がよくないし、でも書かないと目立たないし、いまもどうしようかと悩んでいるところだ。
ちょうどそんなときに、「雑文家」の文字が目に入った。これなら自分がやってきたことに近い。でもなぁ、オレは雑文で食っていないしなぁ。
「△△さん、肩書なんて、要らないよ」
11年以上も机の上に置いてある田原先生の訃報記事の切り抜きの写真が、ぼくをみて笑っている。
■写真は、雑煮と大根・ニンジンのなます。どちらもカミさんの故郷の元日に出される定番料理で、雑煮には雪国の奥深い旨味が詰まっている。見た目はパッとしないが、たっぷりの根野菜と塩サケ、餅、醤油との相性がよく、すごくおいしい。「正月以外でも食べたいな」とリクエストしている。
今日は長男のお嫁さんの出産予定日。無事に元気な赤ちゃんが生まれてほしい。こうしていても心配で落ち着かない。
人のことばかり言っておられない。こちらものんびりし過ぎた。ときどき手にする小林秀雄の著作『考えるヒント』のなかにこんな一文がある。
―さて、年齢を重ねてみると、やはり、次第に物事に好奇心を失い、言わば貧すれば鈍するという惰性的な道を、いつの間にか行くようだ。のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、当人は次第に円熟して行くと思い込む、そんな事にも成りかねない。―
まるでいまの自分を見透かされているようで、耳が痛い言葉である。ま、これも読書の効用としておこうか。
昨日の朝刊の文化欄におもしろい言葉をみつけた。大佛次郎賞の記事で、受賞した平山某氏の肩書きが目に留まった。そこには作家やエッセイストなどではなく、「雑文家」とあった。
そんな職業があるのかとちょっとびっくりした。そして、このオレは何だろうかとぼんやり考えた。また自分だけではなくて、年金暮らしをしている大勢の人たちは職業欄に「無職」と書き込んでいるのだろうが、それで本人は満足しているのかとおもった。
小林秀雄はこんなことも書いている。
―人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない―
わが師の田原隆先生の晩年の名詞は個性的だった。見た目はふつうの名詞だが、三つ折りになっていて、その表には「田原隆」とあるだけ。中面には工学博士の文字と官僚時代から政治家のキャリアが簡潔に記してあった。肩書きのないこの名刺は、もちろんご本人の発案で、政治活動をはなれたオフタイムには胸の議員バッヂを外していたお人柄の通りだった。
あのとき先生の前で、シンプルでいいな、見習いたいなとおもったものの、オレには書き並べるほどのキャリアは何もない、この出来の悪い門下生は、いったい何をやってきたんだろうと考え込んでしまった。
さて、こんな文章を書きながら、頭の片隅では別の原稿のことを考えている。ぼくはインターネット上でライターの仕事を取り持つ会社に登録していて、そのホームページには自分を売り込む欄がある。そこには「ここが大事です」とただし書きがついている。
ほかの人たちはどうかというと、自己PRをがんがん書き立てて、たいへんな自信家ぞろいである。
自分にたいした実力がないことはよくわかっている。それなのに自画自賛するのはどうにも居心地がよくないし、でも書かないと目立たないし、いまもどうしようかと悩んでいるところだ。
ちょうどそんなときに、「雑文家」の文字が目に入った。これなら自分がやってきたことに近い。でもなぁ、オレは雑文で食っていないしなぁ。
「△△さん、肩書なんて、要らないよ」
11年以上も机の上に置いてある田原先生の訃報記事の切り抜きの写真が、ぼくをみて笑っている。
■写真は、雑煮と大根・ニンジンのなます。どちらもカミさんの故郷の元日に出される定番料理で、雑煮には雪国の奥深い旨味が詰まっている。見た目はパッとしないが、たっぷりの根野菜と塩サケ、餅、醤油との相性がよく、すごくおいしい。「正月以外でも食べたいな」とリクエストしている。
今日は長男のお嫁さんの出産予定日。無事に元気な赤ちゃんが生まれてほしい。こうしていても心配で落ち着かない。
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