高校の同級生と花見酒2024年04月02日 18時04分

 昨日は高校時代の友人がやってきて、すぐ近くの室見川の公園で花見をたのしんだ。初夏のような陽ざしを浴びて、おとといは2分咲きだった桜の花は、たちまち7分咲きの見ごろを迎え、絶好の花見日よりだった。
 平日の月曜日に昼間からのんびり酒を飲めるのは、ふたりともほかにやることがないからである。となりのコンクリート製のテーブルには車椅子に乗ったばあちゃんたちがおとなしく弁当を広げている。ばあちゃんたちは食べること以外にやることがなさそうだった。
 若いのはぼくたちのすぐ横のケヤキの木の枝に止まっているカラスだけ。黒い目の下にあるのは、スーパーで買ったささやかな弁当と缶ビール、ワイン、麦焼酎だけだから、一直線に飛んできたカラスも当てが外れたことだろう。
「死ぬときはぽっくり行きたいな」
 久しぶりに会う友の口から出る話もこんなもの。
 それでも同じ高校の友だから、しゃべることはいくらでもある。お互いにふだんは話すこともない「持論」を言い合えるし、気兼ねがなくていいものだ。
「会いたい人は、こっちよりも、あちらの世界の方が多くなったなぁ」
 そんな話題からぼくも「持論」を展開した。
 「親友」というめったに使わなくなった言葉がおもわず口から出たのは、目の前にいる相手が同じ高校のクラスメイトだったからだろう。
 高校生のころ、「自分には本当に心底から親友と呼べる友がいるだろうか」とおもったことが何べんもあった。それは未解決の問題として、その後も何度も出てきた。
 こころのなかで名前を挙げてみる。親友のような気がする。
 でも、こっちが一方的に親友だとおもっても、向こうがその気じゃなかったら、それって親友同士じゃないもんな。
 そんな考えが行ったり来たりしていた。
 この歳になって、やっとわかった。友が旅立って、20年あまりも経って、はっきり理解できた。いなくなった友といまでもときどき胸のなかで話をしていて、それで初めてわかったのだ。
 あいつこそ親友だった、と。
 本を読んで、それを書いた人を「師」とおもえば、そのときからその人は「自分の師」になる。同じように、親友だとおもえば、それでいいのだ。
 それから、あいつも、やさしかったあの先輩も、大切な親友だったのだ。もっと早く気がついて、もっとたくさん会っていたらよかった。
 でも、いまの知りあいのなかにも、親友だとおもうようになる人がいるかもしれない。生涯の親友はそう簡単にできないよと常識のように答える人がいる。
 その常識は一度疑った方がいい。親友だってケンカ別れもするだろう。杓子定規に定義づけする必要はなにもなかったのだ。
 プラスチックのコップで、ワインや焼酎を飲みながら、そんなことを話した。
 さきほど昨日会った友からLineが届いた。
 「次回やるときは」の連絡だった。
 まだしゃべり足りない、飲み足りないのだろうか。
 よし、延長戦をやるか。

■写真は、今日の室見川の河畔。5月上旬の陽気で、桜はどれもこれも満開である。
 無情にも、まもなく雨が降る予報。明日は朝から終日、雨らしい。
 サクラよ、散るな。がんばれよ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://ichi-yume.asablo.jp/blog/2024/04/02/9672605/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。