思い切って、潜れ! ― 2024年03月29日 19時58分

コラムの原稿を書き上げて、一発でOKが出た。少し手間取ったけれど、終わってしまえば、もう過去の話である。
外は春らんまんの陽気で、最高気温は一気に20度を超えた。ちらほら薄いピンクの花を咲かせている桜並木を見ながら、室見川の橋をわたって、ブックオフに行った。
オンライン注文した文庫の古本が届いたので、受け取りのついでに、あと3冊を衝動買いした。小学5、6年生向けの本で、ぜんぶの漢字に平仮名でルビが打ってある。
どうしてこんな本が並んでいる書棚の前で立ち止まったのか、自分でも理由がわからない。でも、こんなことって、ままある。
目に入った『ムーミン谷の冬』を手に取って、パラパラッとめくって、ざっと目を通したら、すごく読みやすくて、物語にひきこまれそうになった。
ああ、こんな世界があったんだ。
お馴染みの作家たちの小説よりも、よっぽど洗練されている。こっちの本の方が長く大勢の人に読まれているんだとおもった。
たぶん、そう感じたのは、昨日まで何度も書き直して、ものごとの分別がわかっているような文言を織り込みながら、なんとか起承転結まで、つじつまを合わせたコラムの原稿の余韻が残っていたからだろう。
子どものころのわくわくする気持ちやみずみずしい感覚がなくなったなぁ。こういうのを書ける人はいいなぁ。よし、買って読んでみるか。
本をリュックにしまって、いつものように室見川の遊歩道をゆっくり歩いてさかのぼる。
ハンノキの枝に、やわらかい緑の新芽たちが羽根を小さくひろげている。いまにも青い空に向かって、いっせいに飛び立ちそうだ。川の瀬の音も軽やかで、そこらいちめんが春に浮かれていた。
こんなときは、ぼくの胸のなかにも、たのしい川の思い出がよみがえってくる。
新潟の越後三山(八海山、駒ケ岳、中ノ岳)が望めるカミさんの里には、歩いて数分のところに子どもたちでも遊べる川がある。そのころはヤマメ、イワナ、アユ、カジカ、ウグイやハヤがいっぱいいた。
夏休みには、幼い息子ふたりと一緒に川に入って、ぼくはヤマメやアユを手でつかまえたり、手製のモリで突いて、夜は地酒の肴にしていた。(この話は何度も書いても、また書きたくなります。)
ところが、こんなにおもしろい川がすぐ近くにあるのに、実家にいる小学生の甥はまったく川遊びを知らなかったのだ。水中メガネをつけて、水の中を一度ものぞいたことがなかったのである。
父親自身がそうだったようで、見ていてちょっとかわいそうになった。
ぼくは子ども用の水中メガネとモリを買って来て、4年生ぐらいだった彼を川に連れて行った。そして、セメントと石ころで固めた堰の下で、潜り方を練習させた。
そこは水の色が深いグリーンブルーになっていて、彼の背丈ではつま先で立たないと頭まで沈んでしまうところである。
「ここにはヤマメやイワナがいる。目の前の堰から滝のように水が落ちているだろ。隠れている場所は、その滝の奥だ。あの白いアワの底はきれい澄み切っていて、奥はえぐれて穴のようになっている。そこにヤマメやイワナが隠れているからな。いいか、怖くないからな。さぁ、うんと息を吸って、頭から思い切って、潜れ!」
それから1年後の夏がやってきた。
ある日、新潟の甥っ子から手紙が届いた。
なかに便箋が3枚。その1枚には、色鉛筆で描いたイワナの姿が躍っていた。脇には仕留めた場所も描いてあって、そこは彼を特訓した堰の下だった。ちゃんとイワナのサイズも書き込んであった。確か28から29センチほどの大物だった。
「くやしい。今度は30センチ以上を狙います」と書いてあった。
早いもので、あの甥っ子も50代になった。
しばらく新潟に帰っていないが、晩飯の時間がくれば、1升ビンをぶら下げて、ぼくの近くに座る。必ず自分の方からあのときの話をはじめる。そして、いつも決まった言葉が出てくる。
うれしそうな顔をして、「師匠!」と何度も、何度も、そう呼ぶのである。
そんなことを昨日のように思い出しながら室見川の河畔を歩く。
歩きながら、川の中に入ってみたくなる。
■室見川にも堰がいくつもある。この堰のすぐ上流は静かな池のようになっている。ときどき鯉を狙って、大物釣り用の投げ竿を2本も3本も突っ立てたまま、地べたに座り込んでぼんやりしている人を見かける。
外は春らんまんの陽気で、最高気温は一気に20度を超えた。ちらほら薄いピンクの花を咲かせている桜並木を見ながら、室見川の橋をわたって、ブックオフに行った。
オンライン注文した文庫の古本が届いたので、受け取りのついでに、あと3冊を衝動買いした。小学5、6年生向けの本で、ぜんぶの漢字に平仮名でルビが打ってある。
どうしてこんな本が並んでいる書棚の前で立ち止まったのか、自分でも理由がわからない。でも、こんなことって、ままある。
目に入った『ムーミン谷の冬』を手に取って、パラパラッとめくって、ざっと目を通したら、すごく読みやすくて、物語にひきこまれそうになった。
ああ、こんな世界があったんだ。
お馴染みの作家たちの小説よりも、よっぽど洗練されている。こっちの本の方が長く大勢の人に読まれているんだとおもった。
たぶん、そう感じたのは、昨日まで何度も書き直して、ものごとの分別がわかっているような文言を織り込みながら、なんとか起承転結まで、つじつまを合わせたコラムの原稿の余韻が残っていたからだろう。
子どものころのわくわくする気持ちやみずみずしい感覚がなくなったなぁ。こういうのを書ける人はいいなぁ。よし、買って読んでみるか。
本をリュックにしまって、いつものように室見川の遊歩道をゆっくり歩いてさかのぼる。
ハンノキの枝に、やわらかい緑の新芽たちが羽根を小さくひろげている。いまにも青い空に向かって、いっせいに飛び立ちそうだ。川の瀬の音も軽やかで、そこらいちめんが春に浮かれていた。
こんなときは、ぼくの胸のなかにも、たのしい川の思い出がよみがえってくる。
新潟の越後三山(八海山、駒ケ岳、中ノ岳)が望めるカミさんの里には、歩いて数分のところに子どもたちでも遊べる川がある。そのころはヤマメ、イワナ、アユ、カジカ、ウグイやハヤがいっぱいいた。
夏休みには、幼い息子ふたりと一緒に川に入って、ぼくはヤマメやアユを手でつかまえたり、手製のモリで突いて、夜は地酒の肴にしていた。(この話は何度も書いても、また書きたくなります。)
ところが、こんなにおもしろい川がすぐ近くにあるのに、実家にいる小学生の甥はまったく川遊びを知らなかったのだ。水中メガネをつけて、水の中を一度ものぞいたことがなかったのである。
父親自身がそうだったようで、見ていてちょっとかわいそうになった。
ぼくは子ども用の水中メガネとモリを買って来て、4年生ぐらいだった彼を川に連れて行った。そして、セメントと石ころで固めた堰の下で、潜り方を練習させた。
そこは水の色が深いグリーンブルーになっていて、彼の背丈ではつま先で立たないと頭まで沈んでしまうところである。
「ここにはヤマメやイワナがいる。目の前の堰から滝のように水が落ちているだろ。隠れている場所は、その滝の奥だ。あの白いアワの底はきれい澄み切っていて、奥はえぐれて穴のようになっている。そこにヤマメやイワナが隠れているからな。いいか、怖くないからな。さぁ、うんと息を吸って、頭から思い切って、潜れ!」
それから1年後の夏がやってきた。
ある日、新潟の甥っ子から手紙が届いた。
なかに便箋が3枚。その1枚には、色鉛筆で描いたイワナの姿が躍っていた。脇には仕留めた場所も描いてあって、そこは彼を特訓した堰の下だった。ちゃんとイワナのサイズも書き込んであった。確か28から29センチほどの大物だった。
「くやしい。今度は30センチ以上を狙います」と書いてあった。
早いもので、あの甥っ子も50代になった。
しばらく新潟に帰っていないが、晩飯の時間がくれば、1升ビンをぶら下げて、ぼくの近くに座る。必ず自分の方からあのときの話をはじめる。そして、いつも決まった言葉が出てくる。
うれしそうな顔をして、「師匠!」と何度も、何度も、そう呼ぶのである。
そんなことを昨日のように思い出しながら室見川の河畔を歩く。
歩きながら、川の中に入ってみたくなる。
■室見川にも堰がいくつもある。この堰のすぐ上流は静かな池のようになっている。ときどき鯉を狙って、大物釣り用の投げ竿を2本も3本も突っ立てたまま、地べたに座り込んでぼんやりしている人を見かける。
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