初孫の「お食い初め」 ― 2024年05月01日 18時44分

先の日曜日の正午過ぎ、息子夫婦が借りているマンションで、生後3か月半になる初孫のK君の「お食い初め」があった。恥ずかしながら、そんな祝いごとの儀式があるなんてまったく知らなかった。
「なに? おくいぞめ? 変な言葉だな。なんじゃ、それ?」
もしかしたら、ぼくもやってもらったかもしれないけれど、亡くなった両親から「お食い初め」の思い出話を聞いた記憶もないし、その証拠写真もない。
ただ、地域によっては「百日祝い」と呼ばれると知って、それなら思い当たるような気もした。カミさんの記憶も似たり寄ったりで、当然、こんな両親のもとに生まれたわが家のふたりの息子は、「お食い初め」の履歴なし、である。
ともあれ、長男のお嫁さんが育った家庭では、この儀式をちゃんと受け継いでいるということだ。
えらいなぁ、うちとはちがうなぁ。
このぶんでは、これから先もK君の成長にあわせて、「なんじゃ、それ?」の儀式がいろいろ出てくるかもしれない。カミさんも同じ予感がするようで、「次は餅踏みかな」と言っていた。
ベビー服やお菓子などの手土産を提げて、車で向かう。ほんの10分足らずで到着。真新しいマットの上であおむけになって、おとなしくしているK君のところに歩み寄る。
ちょっと見ないあいだにおおきくなった。顔をちかづけて、「Kちゃん」と声をかけた。
いい顔をしている。こわがっているふうでもない。じっと見つめ返して数秒後、ニコッと笑った。
こういう子である。代わる代わるに抱っこしても嫌がらない。
「お食い初め」の赤ちゃんに食べさせるのは、ジイサンの役目だという。
息子に抱かれたK君のちいさな口元に、その場で教えてもらった作法どおりに、箸でごはんや塩焼きの鯛の白身などをつまんでは、そうっとゆっくり運ぶ。食べさせる恰好だけで、口の中には入れてはいけない。ごはんも鯛も見せるだけ見せて、寸前のところでUターンである。
これでは「お食い初め」ではなくて、「お食いお預(あず)け」ではないか。
(Kちゃん、ごめんな。いじわるしているんじゃないからね)
まるで、ママゴトみたいだが、まわりにいるギャラリー(お嫁さんの母と弟、うちのカミさん)は、「かわいい」、「かわいいね」の連発だった。
ひとりだけいい役まわりをさせてもらっていたぼくは、K君の不思議そうな、たのしそうな顔をみながら、こんなこともあるんだな、よかったなとおもっていた。
ぼくたち夫婦の命を受け継いでいる、生まれてまもない人気者がここにいる。
この子とぼくの年の差は73。
ガンに負けなくてよかった。
元気でおおきくなれよ。いつかお父さんも一緒に酒を飲めたらいいな。
■このブログを書いていたら、日本酒を冷で一杯やりたくなった。
写真は、2月末に新潟から遊びに来た姪が義理の姉からことづかって、持ってきてくれた南魚沼市塩沢の地酒『鶴齢』の純米大吟醸。ラベルには豪雪地帯の雪室で貯蔵した書いてある。
K君にもカミさんの血が流れているから、きっと新潟の酒が好きになるだろう。
さてと、今夜こそ封を切るか。
「なに? おくいぞめ? 変な言葉だな。なんじゃ、それ?」
もしかしたら、ぼくもやってもらったかもしれないけれど、亡くなった両親から「お食い初め」の思い出話を聞いた記憶もないし、その証拠写真もない。
ただ、地域によっては「百日祝い」と呼ばれると知って、それなら思い当たるような気もした。カミさんの記憶も似たり寄ったりで、当然、こんな両親のもとに生まれたわが家のふたりの息子は、「お食い初め」の履歴なし、である。
ともあれ、長男のお嫁さんが育った家庭では、この儀式をちゃんと受け継いでいるということだ。
えらいなぁ、うちとはちがうなぁ。
このぶんでは、これから先もK君の成長にあわせて、「なんじゃ、それ?」の儀式がいろいろ出てくるかもしれない。カミさんも同じ予感がするようで、「次は餅踏みかな」と言っていた。
ベビー服やお菓子などの手土産を提げて、車で向かう。ほんの10分足らずで到着。真新しいマットの上であおむけになって、おとなしくしているK君のところに歩み寄る。
ちょっと見ないあいだにおおきくなった。顔をちかづけて、「Kちゃん」と声をかけた。
いい顔をしている。こわがっているふうでもない。じっと見つめ返して数秒後、ニコッと笑った。
こういう子である。代わる代わるに抱っこしても嫌がらない。
「お食い初め」の赤ちゃんに食べさせるのは、ジイサンの役目だという。
息子に抱かれたK君のちいさな口元に、その場で教えてもらった作法どおりに、箸でごはんや塩焼きの鯛の白身などをつまんでは、そうっとゆっくり運ぶ。食べさせる恰好だけで、口の中には入れてはいけない。ごはんも鯛も見せるだけ見せて、寸前のところでUターンである。
これでは「お食い初め」ではなくて、「お食いお預(あず)け」ではないか。
(Kちゃん、ごめんな。いじわるしているんじゃないからね)
まるで、ママゴトみたいだが、まわりにいるギャラリー(お嫁さんの母と弟、うちのカミさん)は、「かわいい」、「かわいいね」の連発だった。
ひとりだけいい役まわりをさせてもらっていたぼくは、K君の不思議そうな、たのしそうな顔をみながら、こんなこともあるんだな、よかったなとおもっていた。
ぼくたち夫婦の命を受け継いでいる、生まれてまもない人気者がここにいる。
この子とぼくの年の差は73。
ガンに負けなくてよかった。
元気でおおきくなれよ。いつかお父さんも一緒に酒を飲めたらいいな。
■このブログを書いていたら、日本酒を冷で一杯やりたくなった。
写真は、2月末に新潟から遊びに来た姪が義理の姉からことづかって、持ってきてくれた南魚沼市塩沢の地酒『鶴齢』の純米大吟醸。ラベルには豪雪地帯の雪室で貯蔵した書いてある。
K君にもカミさんの血が流れているから、きっと新潟の酒が好きになるだろう。
さてと、今夜こそ封を切るか。
代わりに伝える役目がある ― 2024年05月05日 18時22分

気が重いけど、やっぱり、いましかないから書いておく。
先日の夜8時。食事をしながらビールを飲んでいる最中に、携帯が鳴った。
Mさんの奥さんからだった。いくつかの経験から、本人の代わりの電話には、もしかしたら……と、つい身構えてしまう。気配を察したのか、カミさんも息をひそめた。
「Mが先月の26日に亡くなりました」
おそれていた最悪の言葉がはげしく耳を打った。
「びっくりしたやろ。わたしもこんなことになるとはおもわんかった」
夕食中にちょっとのあいだ席を外して戻ったとき、Mさんの大柄なからだはテーブルの下に倒れていたという。救急車も役に立たなかった。誤嚥性肺炎だった。
咽頭ガンで26時間もの手術に耐えてから約7年。再発はしなかったが、以前のように口は開かず、喉の通り道もせまくなって、やわらかいものしか食べれなくなっていた。好物のうどんをふわふわになるまで煮込んで、それを短く切るなどして、奥さんも、本人も食事には重々、用心していた。
なのに、あっけなく、ひとりで旅立ってしまった。
ことしの正月早々には小学校のときからの仲のいい友を失くしたばかりである。こころの容量を測る器があるとしたら、ぼくの小さな容器はガシャーンとつぶれて、いびつな形でへこんだままだ。
そこに立て続けの衝撃である。こころもからだも頼りなく宙に浮いて、自分の足の踏みどころがどこへ行ってしまったのか、見失ったような気持ちになった。
年をとるとはこういうことだ。Mさんにも、ぼくよりひと足早く、そのときが来たのだ。わかっている。わかっているけど、この現実を受け入れるにはもうしばらく時間がかかる。
この街で知り合った人のなかで、いちばん密度の濃い時間を共にしてきたのがMさんである。サラリーマンの出世街道からは外されていたけれど、社内の優秀な強者(つわもの)たちの人望を集めていた。彼らは「俺はMの言うことしかきかないんだ」、「ぼくはM組ですから」などと得意顔で話していた。
世のなかには、自分の持ち場になった先々で、どこに問題点があるのか、たちどころにつかむ人がいる。打つべき手もちゃんと読めている。そして、まず自分から行動に移す。ぼくが出会った人のなかにも、何人かそういう人がいた。Mさんもそうだった。
親しくお付き合いしているうちに、なぜ、そんなことができるのか、おぼろげながらわかったことがある。なにもしていないようにみえても、日々、自分を琢(みが)き続けている人たちである。尊敬する田原隆先生の書にも、「自琢」の文字があったことを思い出す。
陽が落ちるころ、週に1、2回のペースで、Mさんはぼくの事務所にふらりとやってくる。酒はめっぽう強くて、好きな芋焼酎を手酌で遅くなるまで飲んで、飽きもせずに語り合った。
話を聞くがたのしかった。くだらない話をきちんと聞いてもらえて、助言をしてくれるのがうれしかった。こんなぼくにも敬意をはらってくれて、仕事の上でもどれだけ助けてもらったことか。
あるとき、彼の奥さんから、こんなことを言われたことがある。
「Mはいい友だちは何人もいるけど、Mがいちばん好きな人は、△△さんだからね」
ぼくの小さなこころのなかの大切な勲章である。
死んだ人はもう帰ってこない。こうして書かなければ、Mさんがいたことも、教えてもらったことも、ふたりで取り組んだ夢も、苦労話や笑い話も、彼の死とともにぜんぶ消えてなくなってしまう。
それでいいのか、と自分に問う。
「代わりに伝える役目」がまた増えた。
書くことで、ほんの少しずつでも恩返しできればとおもう。
■天気のいい日は、わが家のベランダに置いてある鉢の花に、朝早くからかわいいミツバチがやってくる。同じミツバチだろうか、細い後ろ足に黄色い花粉のだんごをつけたまま、朝も、昼間も、何回も飛んでくる。
また来たか、ちいさなからだで、よく働くなぁ、元気だなぁとほめてあげたくなる。
先日の夜8時。食事をしながらビールを飲んでいる最中に、携帯が鳴った。
Mさんの奥さんからだった。いくつかの経験から、本人の代わりの電話には、もしかしたら……と、つい身構えてしまう。気配を察したのか、カミさんも息をひそめた。
「Mが先月の26日に亡くなりました」
おそれていた最悪の言葉がはげしく耳を打った。
「びっくりしたやろ。わたしもこんなことになるとはおもわんかった」
夕食中にちょっとのあいだ席を外して戻ったとき、Mさんの大柄なからだはテーブルの下に倒れていたという。救急車も役に立たなかった。誤嚥性肺炎だった。
咽頭ガンで26時間もの手術に耐えてから約7年。再発はしなかったが、以前のように口は開かず、喉の通り道もせまくなって、やわらかいものしか食べれなくなっていた。好物のうどんをふわふわになるまで煮込んで、それを短く切るなどして、奥さんも、本人も食事には重々、用心していた。
なのに、あっけなく、ひとりで旅立ってしまった。
ことしの正月早々には小学校のときからの仲のいい友を失くしたばかりである。こころの容量を測る器があるとしたら、ぼくの小さな容器はガシャーンとつぶれて、いびつな形でへこんだままだ。
そこに立て続けの衝撃である。こころもからだも頼りなく宙に浮いて、自分の足の踏みどころがどこへ行ってしまったのか、見失ったような気持ちになった。
年をとるとはこういうことだ。Mさんにも、ぼくよりひと足早く、そのときが来たのだ。わかっている。わかっているけど、この現実を受け入れるにはもうしばらく時間がかかる。
この街で知り合った人のなかで、いちばん密度の濃い時間を共にしてきたのがMさんである。サラリーマンの出世街道からは外されていたけれど、社内の優秀な強者(つわもの)たちの人望を集めていた。彼らは「俺はMの言うことしかきかないんだ」、「ぼくはM組ですから」などと得意顔で話していた。
世のなかには、自分の持ち場になった先々で、どこに問題点があるのか、たちどころにつかむ人がいる。打つべき手もちゃんと読めている。そして、まず自分から行動に移す。ぼくが出会った人のなかにも、何人かそういう人がいた。Mさんもそうだった。
親しくお付き合いしているうちに、なぜ、そんなことができるのか、おぼろげながらわかったことがある。なにもしていないようにみえても、日々、自分を琢(みが)き続けている人たちである。尊敬する田原隆先生の書にも、「自琢」の文字があったことを思い出す。
陽が落ちるころ、週に1、2回のペースで、Mさんはぼくの事務所にふらりとやってくる。酒はめっぽう強くて、好きな芋焼酎を手酌で遅くなるまで飲んで、飽きもせずに語り合った。
話を聞くがたのしかった。くだらない話をきちんと聞いてもらえて、助言をしてくれるのがうれしかった。こんなぼくにも敬意をはらってくれて、仕事の上でもどれだけ助けてもらったことか。
あるとき、彼の奥さんから、こんなことを言われたことがある。
「Mはいい友だちは何人もいるけど、Mがいちばん好きな人は、△△さんだからね」
ぼくの小さなこころのなかの大切な勲章である。
死んだ人はもう帰ってこない。こうして書かなければ、Mさんがいたことも、教えてもらったことも、ふたりで取り組んだ夢も、苦労話や笑い話も、彼の死とともにぜんぶ消えてなくなってしまう。
それでいいのか、と自分に問う。
「代わりに伝える役目」がまた増えた。
書くことで、ほんの少しずつでも恩返しできればとおもう。
■天気のいい日は、わが家のベランダに置いてある鉢の花に、朝早くからかわいいミツバチがやってくる。同じミツバチだろうか、細い後ろ足に黄色い花粉のだんごをつけたまま、朝も、昼間も、何回も飛んでくる。
また来たか、ちいさなからだで、よく働くなぁ、元気だなぁとほめてあげたくなる。
カネ目になるものはないかな ― 2024年05月18日 14時13分

ずいぶん、ほったらかしのままだったなぁ、と省みつつ、久しぶりにパソコンに向かって、ブログを書く。
O君に続いて、Mさんが亡くなった喪失感。自身の体調不良(食あたりでした。ご心配なく)。会社の都合で先月末からカミさんが一日中、自宅にいる……。
いろんなことが折り重なって、一事に集中してブログを書く気がしなかった。
この間、旅にでも出るような気持ちで、さまざまな本を乱読した。途中で嫌になった長編も我慢して最後まで読み切った。それでもやればやっただけのことはあるもので、南木桂士の『阿弥陀堂だより』に出会って、とりあえず自分のなかではひと区切りがついた。
彼のプロフィールによれば、ぼくのひとつ年下という。小説のところどころに同世代ならではの濃厚な匂いを感じた。ああ、同じことを考えていたんだなぁと親しみを覚えて、あちこちに傍線を引いた。いまのぼくにはちょうど頃合いの本だった。
さて、内省的な話はこれぐらいにして、昨日はちょっとおもしろい体験をした。
長い間の懸案だった貸し倉庫の契約を解除するために、近くで借りている倉庫のなかを片づけた。どれもこれもいますぐ使わないものばかり。カミさんの意見を求めると「これからも使うことはない」という。
そこで、どうせ捨てるのなら、いま流行りの買い取り業者のところに持って行って、換金できるものはそうしようという、以前から温めていた考えを実行することにした。親しいご夫婦からの同様のアドバイスもぼくたちの背中を押していた。
そんなわけで昨日の午後、不要になった事務用品やキャンプの小道具、バッグなどを愛車の軽四いっぱいに詰め込んで、勇躍、買い取りの店に持ち込んだという次第。その数、大小合わせて20点ほどになった。
それらの品々の詳細とカウンター越しに向き合った若い女性店員とのやりとりは省く。
ただ、なかには包装紙も開けていない新品が5つあって、いずれも1,000円前後の値札も付いたままだった。ポジフィルムを編集する際の必需品だった照明機器2台も手放すことにした。いくらか値の張ったものだし、きれいなままだから、内心ではいちばん期待していたのである。
査定の結果は、小さな声でしか言いにくい。
(もらったお金は、50円玉ひとつでした。)
プラスチック製品はぜんぶお断りだった。そんなことすら知らなかったぼくたち夫婦は、いまのマーケットの事情に無知で、とんだ常識はずれで、できるだけ来てほしくない客だったのだ。
「せめてクルミぱん1個ぐらいは買えるだろうとおもっていたけどなぁ」
「お金になったのは、バドミントンのラケットを入れていた、わたしのバッグだけだったね。でも、あれがたったの50円か」
それでも持ち込んだモノはぜんぶ引き取ってくれた。おカネにはならなかったけれど、ゴミに出したら、もっとおカネがかかってしまう。総体的には、持って行って正解だった。
よかった、これでよかったんだ、と何度も自分に言い聞かせながら、でも、まだどこかひっかかるものがある。
受付の女性の感じの良さに目隠しされているみたいだったが、一分の隙もない商売の徹底ぶりには恐れ入った。たぶん、同じタイプのあちこちの店から一歩外に出たところで、年寄りたちの悲憤慷慨と諦めの入れ混じった感情が音もたてずに渦巻いていることだろう。
プライドがずたずたになって、「50円なんか、こんなはした金、要らねえよ!」と突き返すご仁がいても、不思議ではないような気もする。
ともあれ、初めての体験で、まさかの恥をかいて、ホント、いい社会勉強をさせてもらいました。
「要らないもので、カネ目になるものはないかなぁ。そういえばメルカリって、方法もあるよな」
わが家では今回の学習効果を忘れずに、さっそくカミさんと次の作戦を練り始めている。
■写真ではわかりにくいけれど、室見川にかかっている橋の手すりから見下ろしたら、本流にそそぎこむ水路にカモの親子がいた。しばし目をこらして追いかけた。この時期だけの定番の光景である。
O君に続いて、Mさんが亡くなった喪失感。自身の体調不良(食あたりでした。ご心配なく)。会社の都合で先月末からカミさんが一日中、自宅にいる……。
いろんなことが折り重なって、一事に集中してブログを書く気がしなかった。
この間、旅にでも出るような気持ちで、さまざまな本を乱読した。途中で嫌になった長編も我慢して最後まで読み切った。それでもやればやっただけのことはあるもので、南木桂士の『阿弥陀堂だより』に出会って、とりあえず自分のなかではひと区切りがついた。
彼のプロフィールによれば、ぼくのひとつ年下という。小説のところどころに同世代ならではの濃厚な匂いを感じた。ああ、同じことを考えていたんだなぁと親しみを覚えて、あちこちに傍線を引いた。いまのぼくにはちょうど頃合いの本だった。
さて、内省的な話はこれぐらいにして、昨日はちょっとおもしろい体験をした。
長い間の懸案だった貸し倉庫の契約を解除するために、近くで借りている倉庫のなかを片づけた。どれもこれもいますぐ使わないものばかり。カミさんの意見を求めると「これからも使うことはない」という。
そこで、どうせ捨てるのなら、いま流行りの買い取り業者のところに持って行って、換金できるものはそうしようという、以前から温めていた考えを実行することにした。親しいご夫婦からの同様のアドバイスもぼくたちの背中を押していた。
そんなわけで昨日の午後、不要になった事務用品やキャンプの小道具、バッグなどを愛車の軽四いっぱいに詰め込んで、勇躍、買い取りの店に持ち込んだという次第。その数、大小合わせて20点ほどになった。
それらの品々の詳細とカウンター越しに向き合った若い女性店員とのやりとりは省く。
ただ、なかには包装紙も開けていない新品が5つあって、いずれも1,000円前後の値札も付いたままだった。ポジフィルムを編集する際の必需品だった照明機器2台も手放すことにした。いくらか値の張ったものだし、きれいなままだから、内心ではいちばん期待していたのである。
査定の結果は、小さな声でしか言いにくい。
(もらったお金は、50円玉ひとつでした。)
プラスチック製品はぜんぶお断りだった。そんなことすら知らなかったぼくたち夫婦は、いまのマーケットの事情に無知で、とんだ常識はずれで、できるだけ来てほしくない客だったのだ。
「せめてクルミぱん1個ぐらいは買えるだろうとおもっていたけどなぁ」
「お金になったのは、バドミントンのラケットを入れていた、わたしのバッグだけだったね。でも、あれがたったの50円か」
それでも持ち込んだモノはぜんぶ引き取ってくれた。おカネにはならなかったけれど、ゴミに出したら、もっとおカネがかかってしまう。総体的には、持って行って正解だった。
よかった、これでよかったんだ、と何度も自分に言い聞かせながら、でも、まだどこかひっかかるものがある。
受付の女性の感じの良さに目隠しされているみたいだったが、一分の隙もない商売の徹底ぶりには恐れ入った。たぶん、同じタイプのあちこちの店から一歩外に出たところで、年寄りたちの悲憤慷慨と諦めの入れ混じった感情が音もたてずに渦巻いていることだろう。
プライドがずたずたになって、「50円なんか、こんなはした金、要らねえよ!」と突き返すご仁がいても、不思議ではないような気もする。
ともあれ、初めての体験で、まさかの恥をかいて、ホント、いい社会勉強をさせてもらいました。
「要らないもので、カネ目になるものはないかなぁ。そういえばメルカリって、方法もあるよな」
わが家では今回の学習効果を忘れずに、さっそくカミさんと次の作戦を練り始めている。
■写真ではわかりにくいけれど、室見川にかかっている橋の手すりから見下ろしたら、本流にそそぎこむ水路にカモの親子がいた。しばし目をこらして追いかけた。この時期だけの定番の光景である。
3回目のCT検査も異常なし ― 2024年05月23日 18時41分

3回目のCT検査を受けた。これまでと違うのは、がんの再発を防ぐ化学療法中ではなく、その抗がん剤の点滴が終了してから4か月後の検査だったこと。
つまり、投薬なしのふだんの生活に戻っても、がんの兆候はないかという点を調べたわけだ。退院後に計画された定期的なチェックの一環である。
担当の外科医は大繁盛していて、部屋に呼ばれるまで1時間あまりも待たされた。
「やぁ、しばらくでした。お待たせしてすみません。CT検査も、マーカーも大丈夫ですね。データのどこにも異常はありません。この調子でやっていきましょう」
医者の目も「心配しなくていいですよ」と言っている。いつも以上に大きな声だった。
「よかった。安心しました。ぼくの方はともかくとして、先生はえらく忙しそうだから、からだに気をつけてくださいね」
そう声をかけたら、3、4人いる看護師さんたちが、いっせいにワァーッと笑い声をあげた。
そんな受けを狙った覚えはないのだが、この部屋にはさまざまながんの悩みを抱えた人たちがやってくる。白衣を着た彼女たちは、日々深刻な現実を嫌というほど見聞きしている。
そこに致死率の高いすい臓がんを乗り越えて、予想を上まわる速さで元気になった高齢の患者がやってきた。そして、主治医と親しげに話している様子をみて、いつもの息苦しい緊張感から一瞬、解きはなされたのだろうか。
病院にたのしそうな笑い声は似合わない。けれども、ときどき、いやもっと、もっと、こんなことがあっていい。
それで思い出したことがある。
ぼくの好きな先輩に、脳溢血で倒れて、担ぎ込まれた病院に入院しているとき、車椅子であちこちの病室に顔を出しては、患者や看護師さんを大笑いさせていた人がいる。
「病室は雰囲気が暗かろうが。みんな朝起きてから夜寝るまで、黙りこんだままで話もせんし。あれはからだによくない。こっちまでおかしくなるよ。オレは入院中のみんなと友だちになるようにして、あちこちのベッドまで出かけて、よく話を聞いてやって、励ましたり、冗談を飛ばして笑わせたよ」
入院中の患者のなかで、いちばんの人気ものだったらしい。車椅子が手放せなくなった後遺症の残るからだで、本人はおもしろそうにそう言っていた。
まるで病院版・フーテンの寅さんみたいな一幕である。彼は退院するのも早かった。
病院から帰宅して、カミさんに声をかけた。
「CTも、マーカーも、検査のデータはぜんぶ大丈夫だったよ」
「よかった。安心したね」
「うん。まだ生きていてもいいみたいだ。だからね、きょうはね、ちょいと多めに飲むからね」
晩酌の時間が近づいてきたので、検査の報告はこのへんで終わることにする。
■ことしもベランダの桑の木が実をたくさんつけている。黒く熟れると、とても甘くておいしい。熟しているのをみつけては、その場で口に放り込んでいる。
つまり、投薬なしのふだんの生活に戻っても、がんの兆候はないかという点を調べたわけだ。退院後に計画された定期的なチェックの一環である。
担当の外科医は大繁盛していて、部屋に呼ばれるまで1時間あまりも待たされた。
「やぁ、しばらくでした。お待たせしてすみません。CT検査も、マーカーも大丈夫ですね。データのどこにも異常はありません。この調子でやっていきましょう」
医者の目も「心配しなくていいですよ」と言っている。いつも以上に大きな声だった。
「よかった。安心しました。ぼくの方はともかくとして、先生はえらく忙しそうだから、からだに気をつけてくださいね」
そう声をかけたら、3、4人いる看護師さんたちが、いっせいにワァーッと笑い声をあげた。
そんな受けを狙った覚えはないのだが、この部屋にはさまざまながんの悩みを抱えた人たちがやってくる。白衣を着た彼女たちは、日々深刻な現実を嫌というほど見聞きしている。
そこに致死率の高いすい臓がんを乗り越えて、予想を上まわる速さで元気になった高齢の患者がやってきた。そして、主治医と親しげに話している様子をみて、いつもの息苦しい緊張感から一瞬、解きはなされたのだろうか。
病院にたのしそうな笑い声は似合わない。けれども、ときどき、いやもっと、もっと、こんなことがあっていい。
それで思い出したことがある。
ぼくの好きな先輩に、脳溢血で倒れて、担ぎ込まれた病院に入院しているとき、車椅子であちこちの病室に顔を出しては、患者や看護師さんを大笑いさせていた人がいる。
「病室は雰囲気が暗かろうが。みんな朝起きてから夜寝るまで、黙りこんだままで話もせんし。あれはからだによくない。こっちまでおかしくなるよ。オレは入院中のみんなと友だちになるようにして、あちこちのベッドまで出かけて、よく話を聞いてやって、励ましたり、冗談を飛ばして笑わせたよ」
入院中の患者のなかで、いちばんの人気ものだったらしい。車椅子が手放せなくなった後遺症の残るからだで、本人はおもしろそうにそう言っていた。
まるで病院版・フーテンの寅さんみたいな一幕である。彼は退院するのも早かった。
病院から帰宅して、カミさんに声をかけた。
「CTも、マーカーも、検査のデータはぜんぶ大丈夫だったよ」
「よかった。安心したね」
「うん。まだ生きていてもいいみたいだ。だからね、きょうはね、ちょいと多めに飲むからね」
晩酌の時間が近づいてきたので、検査の報告はこのへんで終わることにする。
■ことしもベランダの桑の木が実をたくさんつけている。黒く熟れると、とても甘くておいしい。熟しているのをみつけては、その場で口に放り込んでいる。
高校時代の友と昼飲み ― 2024年05月26日 19時22分

久しぶりに人波でごった返した街なかに出ると、あれもこれも様子が変わっていて戸惑うことばかりである。
昨日は数年ぶりに高校の同級生4人が集まって、昼間から飲んだ。
最初は足まわりのいい博多駅の駅ビル内にある『博多ほろよい通り』でやるつもりだった。立ち飲み屋をはじめ大衆居酒屋が密集していて、JRや地下鉄、バスの時間に合わせて、ひとりでも気軽に一杯やれるので、地元だけではなく遠来の人たちにも人気がある。「博多はいいよなぁ」とよく言われる一角である。
土曜日とはいえ、真っ昼間だから、がら空きとまではいかなくても、4人ならどこでも座れるだろうと楽観していた。ところが、この日の飲み会をセットしたぼくは、念のためにひと足はやく偵察に行ってみてびっくりした。
どの店も若い男性や女性客でおおにぎわいだった。店員たちは平日の会社が引けた後のかき入れどきのように動きまわり、注文する声が飛び交って、待っていても席が空くような様子ではない。
「真っ昼間から、酒なんか飲んで」、なんてことは、まるで関係なし。おおげさではなく、「世のなかは変わったなぁ」とおもった。
助かったのは、2週間前に遠方の客をここに誘って、話もできないほどの喧噪ぶりにうんざりした友がいたこと。彼はちゃんと別の飲み屋の候補を調べてくれていた。
駅前から信号をいくつかわたって、ぶらぶら歩くこと5分。活きのいい魚料理が売り物の店で、看板には「昼飲みできます」と赤いペンキで書いてある。
一歩入ると長いカウンター席も、案内された座席の両隣も、若い男女連れが料理の皿をいくつも並べて昼飲みを楽しんでいた。やっぱり、世のなかは変わっていたのである。
どうやら夜遅くまで飲んで、帰りがおっくうになるよりも、昼間のうちに飲み会をやって、明るいうちに終わる方がからだにも楽でいいということらしい。
あれれ、その考え方はぼくたちとそっくりではないか。
でも、待てよ。昼飲みはヒマな年寄りたちの専売特許ではなかったか。若い人たちまでそうなってしまったら、人出の多い街なかで、年金暮らしの人たちは昼飲みできる居酒屋探しに右往左往して、街はずれの片隅に追いやられるかもしれない。
うーん。可能性はあるな。そんな哀しい映像がふと頭をよぎった。
さて、ヨイショ!と座ってしまえば、もうこっちのもの。幹事役はS君にお願いして、年がいもなく全員一致で飲み放題コースにした。4人とも飲む気、満々である。
「いまの政治はおかしいよね」
Y君の出だしのひと言から、パッと火がついた。
自民党はどうしようもないな。安倍からおかしくなったよな。菅も悪いぞ。岸田にもがっかりした。格差社会になってしまって、もうめちゃくちゃじゃないか。政治家もジャーナリズムも劣化したものだ……。
聞きながら、やっぱり、政治の話になるとみんな熱くなるなぁ、オレたちの世代だなぁ、とおもった。
だれひとり、ぼくのがんの話にはふれようとしない。そのことを知ったうえでの飲み会なので、「がんなんか、気にするな。そんな話は止めようや」の無言のメッセージだったのだろう。
ひとしきり、いまやっていることの話になって、それだけではおもしろくないと感じ始めていたぼくは、覚悟も準備もできていないのに、「オレは小説を書こうとおもっている」とつい口走ってしまった。
「へぇ、どんな小説を?」と訊かれた。
「大きなテーマは叛乱だな。いまの世のなかに反旗を翻す叛乱だ」
とっさにそう答えて、どうして叛乱などという言葉が出たのか、自分自身が驚いた。盛り上がった勢いで、こんな青っぽいことを言ったのも、あのころのお互いの坊主頭を知っている「ダチ」だからこそ。何年たっても、何を言っても、笑い飛ばしてもらえる仲である。
4人で約2時間に飲んだ酒の量は、ビールがジョッキ18杯、酎ハイが同じく2杯。
飲めなくなったものだ。でも、みんなもう1杯や2杯はらくに飲めるぞという顔をしていた。
そのうち、「またやろうや」とだれかが言いだすに違いあるまい。そのときは人ごみのなかでもいそいそと出かけて行かねば。
■団地のなかには大小のイチョウの木がある。そのほとんどぜんぶが幹から伸びた枝先を切り取られて、すっきり過ぎるほどの立ち姿をしている。
だが、写真手前の大きなイチョウの木だけは例外で、まるでからだじゅうが毛むくじゃらである。いつか丸ごと散髪されるのだろう。
昨日は数年ぶりに高校の同級生4人が集まって、昼間から飲んだ。
最初は足まわりのいい博多駅の駅ビル内にある『博多ほろよい通り』でやるつもりだった。立ち飲み屋をはじめ大衆居酒屋が密集していて、JRや地下鉄、バスの時間に合わせて、ひとりでも気軽に一杯やれるので、地元だけではなく遠来の人たちにも人気がある。「博多はいいよなぁ」とよく言われる一角である。
土曜日とはいえ、真っ昼間だから、がら空きとまではいかなくても、4人ならどこでも座れるだろうと楽観していた。ところが、この日の飲み会をセットしたぼくは、念のためにひと足はやく偵察に行ってみてびっくりした。
どの店も若い男性や女性客でおおにぎわいだった。店員たちは平日の会社が引けた後のかき入れどきのように動きまわり、注文する声が飛び交って、待っていても席が空くような様子ではない。
「真っ昼間から、酒なんか飲んで」、なんてことは、まるで関係なし。おおげさではなく、「世のなかは変わったなぁ」とおもった。
助かったのは、2週間前に遠方の客をここに誘って、話もできないほどの喧噪ぶりにうんざりした友がいたこと。彼はちゃんと別の飲み屋の候補を調べてくれていた。
駅前から信号をいくつかわたって、ぶらぶら歩くこと5分。活きのいい魚料理が売り物の店で、看板には「昼飲みできます」と赤いペンキで書いてある。
一歩入ると長いカウンター席も、案内された座席の両隣も、若い男女連れが料理の皿をいくつも並べて昼飲みを楽しんでいた。やっぱり、世のなかは変わっていたのである。
どうやら夜遅くまで飲んで、帰りがおっくうになるよりも、昼間のうちに飲み会をやって、明るいうちに終わる方がからだにも楽でいいということらしい。
あれれ、その考え方はぼくたちとそっくりではないか。
でも、待てよ。昼飲みはヒマな年寄りたちの専売特許ではなかったか。若い人たちまでそうなってしまったら、人出の多い街なかで、年金暮らしの人たちは昼飲みできる居酒屋探しに右往左往して、街はずれの片隅に追いやられるかもしれない。
うーん。可能性はあるな。そんな哀しい映像がふと頭をよぎった。
さて、ヨイショ!と座ってしまえば、もうこっちのもの。幹事役はS君にお願いして、年がいもなく全員一致で飲み放題コースにした。4人とも飲む気、満々である。
「いまの政治はおかしいよね」
Y君の出だしのひと言から、パッと火がついた。
自民党はどうしようもないな。安倍からおかしくなったよな。菅も悪いぞ。岸田にもがっかりした。格差社会になってしまって、もうめちゃくちゃじゃないか。政治家もジャーナリズムも劣化したものだ……。
聞きながら、やっぱり、政治の話になるとみんな熱くなるなぁ、オレたちの世代だなぁ、とおもった。
だれひとり、ぼくのがんの話にはふれようとしない。そのことを知ったうえでの飲み会なので、「がんなんか、気にするな。そんな話は止めようや」の無言のメッセージだったのだろう。
ひとしきり、いまやっていることの話になって、それだけではおもしろくないと感じ始めていたぼくは、覚悟も準備もできていないのに、「オレは小説を書こうとおもっている」とつい口走ってしまった。
「へぇ、どんな小説を?」と訊かれた。
「大きなテーマは叛乱だな。いまの世のなかに反旗を翻す叛乱だ」
とっさにそう答えて、どうして叛乱などという言葉が出たのか、自分自身が驚いた。盛り上がった勢いで、こんな青っぽいことを言ったのも、あのころのお互いの坊主頭を知っている「ダチ」だからこそ。何年たっても、何を言っても、笑い飛ばしてもらえる仲である。
4人で約2時間に飲んだ酒の量は、ビールがジョッキ18杯、酎ハイが同じく2杯。
飲めなくなったものだ。でも、みんなもう1杯や2杯はらくに飲めるぞという顔をしていた。
そのうち、「またやろうや」とだれかが言いだすに違いあるまい。そのときは人ごみのなかでもいそいそと出かけて行かねば。
■団地のなかには大小のイチョウの木がある。そのほとんどぜんぶが幹から伸びた枝先を切り取られて、すっきり過ぎるほどの立ち姿をしている。
だが、写真手前の大きなイチョウの木だけは例外で、まるでからだじゅうが毛むくじゃらである。いつか丸ごと散髪されるのだろう。
花壇に残されたナゾ ― 2024年05月27日 18時49分

はて、どうしたものやら。3日前からぼくたち夫婦は少々困惑している。
「事件」が起きた時刻は不明。やった人も不明。ただ「証拠」だけが残っている。
現場はぼくたちが面倒をみている団地の花壇である。事件が起きた前日は、午前中に花の盛りを過ぎたノースポールやパンジーを抜きとって、硬くなった土を耕して、肥料をほどこし、水は3階の自宅からバケツで運んで、これから咲く夏秋の花のトレニア、サルビア、ニチニチソウの苗を植えた。最後の水やりまで1時間ほどかかった。花壇の維持管理もけっこうな出費と運動になる。
あちこちにわざと空けているスペースは、やがて植えつけた花々の枝が伸びて、いい案配にすき間を埋めてくれるはず。ぜんたいの仕上がりをみて、やれやれ、ひと仕事終わった、とおもっていた。
ところがである。翌朝、花の様子を見に行ったら、異変が起きていた。ところどころ空けていたスペースに、黒いビニール製の小さなポットが7個も置かれていたのだ。ポットからは細い緑色の茎と葉っぱがひょろひょろと20センチほど伸びて、先の方は弱々しくおじぎをしている。
はぁー、なに、これ? どうしてこんなものを置いているの? どういう意味?
カミさんとしばらく思案に暮れて、こうやって黙って花の苗を置いて行った人の心理をいろんな角度から推理した。
少なくとも、ぼくらがこの花壇の面倒をみていることを知っている人だろう。自分も加わりたくて、どうぞこの苗を植えてくださいということかな。たぶん、悪気はなくて、善意からだと受けとめておこう。
その半面で、困るよなぁ、一方的にこんなことされても。自分はポンと置くだけで、あとはこっちで面倒をみてね、ということか。ここは団地の共有花壇だから、やりたければ自分で植えて、自分で育てればいいのに。
そんな被害者的な気持ちがどうしても湧いてくる。とにかく所有者がわからないから、勝手なことはしないで、このままにしておこう。そうすれば持って帰るかもしれない。
ということで、ひとまず揺れるこころを落ち着かせた。
翌日。また事件が起きた。
黒いポットは無くなるどころか、逆に16個まで増えていた。手に取ってよくよくみたら、どうやら自分でタネから育てて、ポットに移植したことがわかった。うーん、店から買ってきたのではなくて、あまった苗だったのか。
花壇の花を楽しみにしていて、好意的な声をかけてくる人は何人もいる。この件で、立ち話に加わる人や電話をくれた人もいた。
その合議の結論は、このまま触らずにおいた方がいい、ということになった。
「だって植えるところないでしょ。それに植えたら、またこれからもきっと持って来るわよ」
「植えるんなら、自分でやらんとねぇ。だれが持ってきたか、だいたいの見当はついとるばってん、オレも気をつけて(花壇を)見とこう」
よかった、ぼくたちの気持ちをわかってくれる味方がいてくれて。
それでも事情を知らずに花壇のそばを通る人は、「なんで、(いつも花壇の世話している)あの夫婦は、この花の苗をこのままほったらかしにしておくのだろう」、「このままでは枯れてしまうじゃないの。はやく植えてあげればいいのに」といぶかしくおもうに決まっている。
いよいよどうしようもなくなったら、どこか別の場所にでも持って行くしかないのかなぁ。
よろこんでもらえるのを励みに、ボランティアでやっているのに、こんな居心地の悪い目にあうとは夢にもおもわなかった。
ぼくたち夫婦は、事件を起こしてくれた正体不明のその人に向かって、「お気持ちだけ、ありがたくいただきます」と、1日でも、1時間でも早く言いたい。
天下国家の大事に比べれば、ごくたわいもない話だが、皆さんならどうするだろうか。
■買い物帰りに畑の横の道を歩いていたら、カモが卵を抱いているのを見つけた。5メートルほどまで近づいて、スマホで撮影してもじっとしている。昨夜から未明にかけてのはげしい雨に大丈夫だろうかと心配したが、今日も同じところに、同じ姿勢のままでいた。
「事件」が起きた時刻は不明。やった人も不明。ただ「証拠」だけが残っている。
現場はぼくたちが面倒をみている団地の花壇である。事件が起きた前日は、午前中に花の盛りを過ぎたノースポールやパンジーを抜きとって、硬くなった土を耕して、肥料をほどこし、水は3階の自宅からバケツで運んで、これから咲く夏秋の花のトレニア、サルビア、ニチニチソウの苗を植えた。最後の水やりまで1時間ほどかかった。花壇の維持管理もけっこうな出費と運動になる。
あちこちにわざと空けているスペースは、やがて植えつけた花々の枝が伸びて、いい案配にすき間を埋めてくれるはず。ぜんたいの仕上がりをみて、やれやれ、ひと仕事終わった、とおもっていた。
ところがである。翌朝、花の様子を見に行ったら、異変が起きていた。ところどころ空けていたスペースに、黒いビニール製の小さなポットが7個も置かれていたのだ。ポットからは細い緑色の茎と葉っぱがひょろひょろと20センチほど伸びて、先の方は弱々しくおじぎをしている。
はぁー、なに、これ? どうしてこんなものを置いているの? どういう意味?
カミさんとしばらく思案に暮れて、こうやって黙って花の苗を置いて行った人の心理をいろんな角度から推理した。
少なくとも、ぼくらがこの花壇の面倒をみていることを知っている人だろう。自分も加わりたくて、どうぞこの苗を植えてくださいということかな。たぶん、悪気はなくて、善意からだと受けとめておこう。
その半面で、困るよなぁ、一方的にこんなことされても。自分はポンと置くだけで、あとはこっちで面倒をみてね、ということか。ここは団地の共有花壇だから、やりたければ自分で植えて、自分で育てればいいのに。
そんな被害者的な気持ちがどうしても湧いてくる。とにかく所有者がわからないから、勝手なことはしないで、このままにしておこう。そうすれば持って帰るかもしれない。
ということで、ひとまず揺れるこころを落ち着かせた。
翌日。また事件が起きた。
黒いポットは無くなるどころか、逆に16個まで増えていた。手に取ってよくよくみたら、どうやら自分でタネから育てて、ポットに移植したことがわかった。うーん、店から買ってきたのではなくて、あまった苗だったのか。
花壇の花を楽しみにしていて、好意的な声をかけてくる人は何人もいる。この件で、立ち話に加わる人や電話をくれた人もいた。
その合議の結論は、このまま触らずにおいた方がいい、ということになった。
「だって植えるところないでしょ。それに植えたら、またこれからもきっと持って来るわよ」
「植えるんなら、自分でやらんとねぇ。だれが持ってきたか、だいたいの見当はついとるばってん、オレも気をつけて(花壇を)見とこう」
よかった、ぼくたちの気持ちをわかってくれる味方がいてくれて。
それでも事情を知らずに花壇のそばを通る人は、「なんで、(いつも花壇の世話している)あの夫婦は、この花の苗をこのままほったらかしにしておくのだろう」、「このままでは枯れてしまうじゃないの。はやく植えてあげればいいのに」といぶかしくおもうに決まっている。
いよいよどうしようもなくなったら、どこか別の場所にでも持って行くしかないのかなぁ。
よろこんでもらえるのを励みに、ボランティアでやっているのに、こんな居心地の悪い目にあうとは夢にもおもわなかった。
ぼくたち夫婦は、事件を起こしてくれた正体不明のその人に向かって、「お気持ちだけ、ありがたくいただきます」と、1日でも、1時間でも早く言いたい。
天下国家の大事に比べれば、ごくたわいもない話だが、皆さんならどうするだろうか。
■買い物帰りに畑の横の道を歩いていたら、カモが卵を抱いているのを見つけた。5メートルほどまで近づいて、スマホで撮影してもじっとしている。昨夜から未明にかけてのはげしい雨に大丈夫だろうかと心配したが、今日も同じところに、同じ姿勢のままでいた。
いちばんうれしい言葉 ― 2024年05月31日 15時17分

Mさんが亡くなって1か月が過ぎた。朝起きても声をかける相手は3匹のネコだけになって、独り残された夫人が夜も眠れないほど寂しがっているのは重々わかっていたのだが、込み入った事情があるようで、線香をあげに行くのを控えていたのである。
7年ぶりに会った夫人は髪の毛が真っ白になっていた。
Mさんは三男坊だから、家に仏壇はない。仮の仏壇に置かれている遺骨の白い包みに線香をあげて、掌を合わせた。横にはあのやさしげな笑顔の写真が立ててある。彼の写真は1枚も持っていないので、いつでも会えるようにスマホで撮影した。
お骨が入っている箱をみて、ああ、本当に逝ってしまったんだ、もういないんだとの思いが波のように打ち寄せてきた。彼の死を受け入れたくはないけれど、ようやくその気持ちに終止符を打った。
台所の見慣れたテーブルでお茶をいただく。この席でMさんと何度も飲んだ。夜おそくに次男を連れて押しかけたこともある。酔いがまわったぼくは夫人が運転する車の後部座席に乗せられて、Mさんも一緒に団地の自宅まで送ってくれるのが定番のコースだった。
あれはいつだったか、ぼくの仕事場でいつもの芋焼酎のお湯割りをやりながら、亡くなった親の話の流れから、Mさんは何歳まで生きるとおもいますか、と尋ねたことがあった。話題が微妙だっただけに、あのときの会話は鮮明に覚えている。
「75歳かな。それぐらいがちょうどいいでしょ。寝たきりになるのは嫌だもの」とMさん。
「へえー、驚きました。まったく同じですね。ぼくもなんとなく75歳かなとおもっているんです。別に根拠はありませんけどね」
「75歳がいいんじゃないですか。70歳はちょっと早過ぎるし、80歳は長いでしょ」
「そしたらMさんとあの世で会っても、よぼよぼのジイサン同士じゃなくて、お互いに元気で、いまみたいに飲めますね」
「あの世では、その人が死んだ歳のままでいるのかなぁ」
妙な具合に話が進んでいって、非科学的なことを言い合って、それでもなんの違和感もなくふたりの考えは一致した。ウマが合う仲の秘訣とは、理屈ではどうにもうまく説明しづらいところがある。
Mさんが亡くなった年齢は満79歳だった。いま73歳のぼくが、75歳で死にたいなんて言ったら、バカを言いなさんなと叱られること間違いなしだ。ぼくは最低でも、Mさんのラインは越えなければ、とおもっている。
夫人によれば、亡くなる前に夫婦のあいだでこんな話をしたことがあるという。
「昔に戻れるのなら、20年、30年前に戻りたい。そこからもう一度、人生をやり直せたらいいなあって、よく言うじゃない。オトウチャンはどうおもう?」
「嫌だね。あのころには二度と戻りたくない。いまがいちばん幸せだ」
「あんたはただ座っているだけで、食べて、飲んでいられて、そりゃあ、いまがいちばん幸せだろうけどね。あーあ、わたしはいまがいちばん不幸だよ」
夫人は後妻である。Mさんはいいところ生まれのぼっちゃん育ちだが、40代の働き盛りのときに、自分の関知しないところで深刻な金銭トラブルに巻き込まれた。詳しいことは言えないが、そこから抜け出すまで、それはもうさんざんな目に遭っている。「老後の計画もぜんぶ駄目になりました」と本人は言っていた。
でも、そんなことぐらいでは挫けない器の持ち主だった。
7年前からは、がんの手術の後遺症で、若いころ水球の選手として鍛えぬいたからだがまっすぐ立っていられなくなった。
夫人はよく支えて来られたとおもう。
思い出し笑いを浮かべながら、彼女はこんなことを言った。
「いまがいちばん幸せだと言われたのが、Mと一緒になってからのいちばんうれしい言葉です」
「いまがいちばん幸せだ」のひと言が、いまの夫人を支えている。
帰宅して、スマホのなかの写真に話しかけた。
Mさん、かっこいいこと言いましたね。いちばん幸せでよかったですね。
返事はないけれど、いまにも笑いだしそうな顔をして、ぼくをみている。
■花壇に黙って置かれた苗はそのままである。ちゃんと並べ直して、だれの目にも留まるようにしているのだが、持って来たご本人は、「わたしゃ、知らん!」ということらしい。
写真は、梅雨が近づいたこの時期に、この畑で咲き乱れるハナショウブ。世話をしている農家のオジサンに、「きれいですね。ありがとうございます。毎年たのしみにしています」と声をかけた。「はぁーい」と返事があった。
ひと言、声をかけられる、こんな関係の方がいいんじゃないの、と思うんだけどなぁ。
7年ぶりに会った夫人は髪の毛が真っ白になっていた。
Mさんは三男坊だから、家に仏壇はない。仮の仏壇に置かれている遺骨の白い包みに線香をあげて、掌を合わせた。横にはあのやさしげな笑顔の写真が立ててある。彼の写真は1枚も持っていないので、いつでも会えるようにスマホで撮影した。
お骨が入っている箱をみて、ああ、本当に逝ってしまったんだ、もういないんだとの思いが波のように打ち寄せてきた。彼の死を受け入れたくはないけれど、ようやくその気持ちに終止符を打った。
台所の見慣れたテーブルでお茶をいただく。この席でMさんと何度も飲んだ。夜おそくに次男を連れて押しかけたこともある。酔いがまわったぼくは夫人が運転する車の後部座席に乗せられて、Mさんも一緒に団地の自宅まで送ってくれるのが定番のコースだった。
あれはいつだったか、ぼくの仕事場でいつもの芋焼酎のお湯割りをやりながら、亡くなった親の話の流れから、Mさんは何歳まで生きるとおもいますか、と尋ねたことがあった。話題が微妙だっただけに、あのときの会話は鮮明に覚えている。
「75歳かな。それぐらいがちょうどいいでしょ。寝たきりになるのは嫌だもの」とMさん。
「へえー、驚きました。まったく同じですね。ぼくもなんとなく75歳かなとおもっているんです。別に根拠はありませんけどね」
「75歳がいいんじゃないですか。70歳はちょっと早過ぎるし、80歳は長いでしょ」
「そしたらMさんとあの世で会っても、よぼよぼのジイサン同士じゃなくて、お互いに元気で、いまみたいに飲めますね」
「あの世では、その人が死んだ歳のままでいるのかなぁ」
妙な具合に話が進んでいって、非科学的なことを言い合って、それでもなんの違和感もなくふたりの考えは一致した。ウマが合う仲の秘訣とは、理屈ではどうにもうまく説明しづらいところがある。
Mさんが亡くなった年齢は満79歳だった。いま73歳のぼくが、75歳で死にたいなんて言ったら、バカを言いなさんなと叱られること間違いなしだ。ぼくは最低でも、Mさんのラインは越えなければ、とおもっている。
夫人によれば、亡くなる前に夫婦のあいだでこんな話をしたことがあるという。
「昔に戻れるのなら、20年、30年前に戻りたい。そこからもう一度、人生をやり直せたらいいなあって、よく言うじゃない。オトウチャンはどうおもう?」
「嫌だね。あのころには二度と戻りたくない。いまがいちばん幸せだ」
「あんたはただ座っているだけで、食べて、飲んでいられて、そりゃあ、いまがいちばん幸せだろうけどね。あーあ、わたしはいまがいちばん不幸だよ」
夫人は後妻である。Mさんはいいところ生まれのぼっちゃん育ちだが、40代の働き盛りのときに、自分の関知しないところで深刻な金銭トラブルに巻き込まれた。詳しいことは言えないが、そこから抜け出すまで、それはもうさんざんな目に遭っている。「老後の計画もぜんぶ駄目になりました」と本人は言っていた。
でも、そんなことぐらいでは挫けない器の持ち主だった。
7年前からは、がんの手術の後遺症で、若いころ水球の選手として鍛えぬいたからだがまっすぐ立っていられなくなった。
夫人はよく支えて来られたとおもう。
思い出し笑いを浮かべながら、彼女はこんなことを言った。
「いまがいちばん幸せだと言われたのが、Mと一緒になってからのいちばんうれしい言葉です」
「いまがいちばん幸せだ」のひと言が、いまの夫人を支えている。
帰宅して、スマホのなかの写真に話しかけた。
Mさん、かっこいいこと言いましたね。いちばん幸せでよかったですね。
返事はないけれど、いまにも笑いだしそうな顔をして、ぼくをみている。
■花壇に黙って置かれた苗はそのままである。ちゃんと並べ直して、だれの目にも留まるようにしているのだが、持って来たご本人は、「わたしゃ、知らん!」ということらしい。
写真は、梅雨が近づいたこの時期に、この畑で咲き乱れるハナショウブ。世話をしている農家のオジサンに、「きれいですね。ありがとうございます。毎年たのしみにしています」と声をかけた。「はぁーい」と返事があった。
ひと言、声をかけられる、こんな関係の方がいいんじゃないの、と思うんだけどなぁ。
最近のコメント