後輩君夫婦からのメッセージ2025年05月02日 11時39分

 横浜の後輩O君から、鎌倉で大人気のお菓子と一緒に送っていただいた会報を読み返した。「先輩、読んでみてください」というメッセージだとありがたく受け留めている。
 認定NPO法人『環境と文明21』が毎月発行しているA4サイズ、12ページの『環境と文明』で、そこには彼の奥さんが勤めている。ふたりは早稲田の同じクラブで出会い、夫の方が学年は上で、かわいい優秀な後輩ちゃんと恋愛の末に結ばれた仲である。
 それはともかく、途方もないほど領域が広い課題で、長期戦を覚悟の上の活動を続けていることがうれしいし、頼もしい。
 たとえば、会報の寄稿文のなかに、こんな文章をみつけた。
「(ドイツにいる知り合いの女性は)現在のドイツは以前とは全く異なる国になりつつあることを憂い、安全で人々が他を思いやる日本は素晴らしいと力説していました。理論や原理原則を重んじる西洋文明は限界にきているという話もあり、私たちが提案する“さまざまに人がいる中では日本的な融通無碍の考え方が不確実性を増すこれからの世界では有効ではないか”という考え方とも合致する考え方で、本当にうれしいことでした」
 少しこむずかしい話のようだが、ぼくたちが子どものころは、ごくふつうの常識だった。
 触発されて40年ぶりに、歴史学者の江上波夫と伊藤俊太郎の対談『文明移転 東西文明を対比する』(1984年刊・文庫)を取り出した。なかにも似たような発言があったはずだ。
「『人間はできるだけ早く地球人になれ』という運動を起こすのは、どうしても日本人が最初であるべきだし、切実にそれを感じている人は、さしあたって日本人以外にはいないのではないか」(江上)
「全くそれは賛成です。日本人以外にいないと思いますね。中華主義がなく、いろんな文化があってもいいじゃないかというのはまさに地球主義なんです。地球がこれだけ狭くなると、「おれだけがえらい」という、肩ひじ張った姿勢ではダメです。生きて行けません。
 日本人というのは、昔から狭いところに人口がたくさんいて押し合いへし合いで、譲り合って生きてきたわけでしょう。だから自分の能力の発揮ということも考えるけれども、他人のことも考えるのですよ。この姿勢をやはり全地球的に拡大しなければいけないと思うんです。こういう原理を日本人は持っていますからね。 
 そういういくつかの日本的な生き方、日本的な発想をもっと見直して、その文化のあり方を地球主義の方向へもっていくことについて、日本人はもっとイニシャティブをとるベきだと思います」(伊藤)
「そうなんですね。食糧問題、環境問題でも、一国の単位では解決はしない。全地球規模において、はじめて問題が解決されるべきものです。それを最もよく考えるノウハウを持っているのは日本人なんですよ。ソ連やアメリカ人にはそんなことは考えられないと思うな」
「大国のエゴイズムに対し、ごもっともと言ってその谷間でぺこぺこしているんでは、ダメですね。地球主義こそ二十一世紀の原理を示すのだということで、むしろ、彼らの方がいかに遅れているかということももっと言わなければと思います」(伊東)
「科学革命以降は、フランシス・ベイコンのいう〝自然の征服〟をどんどん行ってこれが人間の福祉だと考えたのですけれども、それに比例して、精神的に非常に貧しくなっていると思います。道徳的、精神的に混乱状態にあり、ただ、より多くの金を持ち、ぜいたくをすればいいということになっている。地球規模でこんなことを続けていたら、絶対に駄目だとおもいますね」(伊藤)
「働こうが働くまいが、人間はみんな生きていく権利があるはずです。『働かないものは食うべからず』というのは、働かないものは死ぬということですね。そんなばかなことはない。しかし現実はそうなのです。だから、誰もが強制されて働かされている」(江上)
「人間が本当に人間になる――それは期待していいと思いますね。このイニシャティブをとるのが日本人に適している。ナショナリズムを超え、国の利害を超えて、地球全体のことを考えようというのを「世界学」と名付けるとすれば、世界的な研究をしているのは、日本ともうひとつはスウェーデンだけです。日本もやるべきだと思います」(伊藤)
 ぼくにはとても届かない知的レベルなので、長々と引用してしまった。
 では、現在の地球の状況はどうか。
 はっきり逆の方へ傾いている。
 好きな言葉ではないけれど、「人間の天敵は、人間」という見方も、またもうひとつの真理なのだろう。権力者は自由であるべきの学問の領域に対しても、「オレのいうことを聞け」とばかりに圧力をかけている始末。
 だからこそ、横浜にいる後輩君たちの健闘ぶりはもっと評価されていいとおもう。
 昨夜もよく眠れなかった。朝5時に起きて、だれにともなく伝えておきたいことを一気呵成に書いた。こんな朝もある。

■写真の小枝や水色のパイプは、先日のブログ「巣作りのカササギに祝福を」の結末。あれから3日後のことだった。それまでカササギ夫婦はコケの塊りを咥えて、巣まで運んでいた。生まれてくる赤ちゃんのために、やわらかいベッドを準備していたのだろう。

腹のなかに竹が生えそうだ2025年05月05日 08時04分

 夜明けから青空がひろがっている。雲ひとつない。
 ゴールデンウィークも終わりが近い5月5日。どこかに行きたいなぁ、とおもいながら、睡眠不足とからだのふらつきが続いて、遠出もせずに、わが身をいたわる日々である。
 原因は直腸あたりにできている腫瘍のせいで、消化器官の働きがおかしくなっているから。髪の毛も抜けはじめたが、まずはこいつをやっつけるのが当面の目標になった。
 ああ、行きたいなぁとおもうのは、カミさんの郷の新潟・南魚沼で、いまごろは桜や梅、あちこちの人家の庭先にはあざやかな濃い桃色の芝桜が咲いている。クスノキやシイ、カシなどの照葉樹林帯の九州とはちがい、落葉広葉樹林のブナやミズナラ、ハルニレなどがいっせいに芽吹いて、まさに山が笑っている景観に目を奪われてしまう。そこはおいしい山菜の宝庫でもある。
 カミさんの姉夫婦はいつも歓待してくれる。料理の上手な義姉さんの山菜料理は、それは、それはおいしくて、うまい地酒がどんどんいける。コゴミ、木の芽、シオデ、フキノトウ、タラノ芽。あんないいところはない。
 先週の土曜日の夜はたのしかった。ちかくにいる長男と次男がやってきて、久しぶりに家族水入らずで、晩飯を一緒にした。
 ぼくが取り出したのは、新潟の義姉が送ってくれた、とっておきの地酒。どちらも大吟醸で、こんな高級品はとても手が出ないから、こうしていただいてしか飲めない酒である。
 家族で2本を飲み比べた。どちらもすいすい入る。「おいしいね」の声があがる。
 でも、こんなことを言ったら罰が当たりそうだが、こんな上物ではなくても、あのあたりの地酒はどれもこれも期待を裏切らないから、もっと安い酒の1升瓶でもよかった。
 ぼくは新潟の旨い地酒を腹いっぱい飲みたいのだ。いまの季節は、できれば山菜で。それを実現するには新潟に行くしかない。
「元気になったら、絶対に帰ろうね」は、カミさんとの約束になった。
 家族和気あいあいの席で、カミさんが作ってくれた山菜代わりの一皿はタケノコである。室見川を渡った農産物の直売店で、とりたて、茹でたてが手に入る。もう何度も買ってきた。砂糖を少しまぶして冷凍保存すれば、風味を損なわずに冷凍保存できるのがうれしい。(カミさんが農家の人から教えてもらった方法は、タケノコ300gに対して、砂糖が大さじ1杯の割合)
 ところが、昨日のこと。お隣さんが「今朝、娘が山からとってきて、茹でたばかりのタケノコを持ってきたので召し上がってください。うちではとても食べきれないので」と、また大量のタケノコがやってきた。
 煮物、炒め物、みそ汁、もうたいがい食べている。
「腹のなかに、竹が生えそうだ」
「いいじゃないの。いまの時期だけよ」
 こんな話をしながら、いちばん好きな季節の大型連休が過ぎていく。

「新しい習慣」を身につける2025年05月12日 22時31分

 週刊誌の記者時代、うまく書けない原稿に泣きたいほど苦戦して、締め切りの日は決まって徹夜だった。3Bの鉛筆ではじめから何度も、何度も、書き直すのは、つくづく体力勝負、格闘技だと感じていた。
 先輩記者たちもそうだった。取材の疲労で、両目はしょぼしょぼして、どの人の目も赤い。デスクは湯呑に酒を注いで、ちびりちびりやりながら、短くなった煙草の吸殻を灰皿いっぱいに突き立てて、ぼくたちの原稿のあがりを辛抱強く待っている。編集長も率先して完徹である。
 とにかく、仕事は体力がいちばん。
 いまそのことをまた実感している。しばらくブログを書けなかった。たったこのていどの文章を書くだけの体力も、気力もわいてこなかった。
 ここ2か月あまり、朝までろくに眠っていない。睡眠不足でふらふらして、じっと立っていられない。団地の階段を登るときも、手すりにつかまらないとちょっと怖い。
 でも、見た目はふつうだから、がんで闘病中の身とは気づかれないだろう。
 この原稿は病院内の化学療法室で、抗がん剤の点滴を受けながら書いている。終わるまで5時間もかかる。
 現在、がん細胞に向かって総攻撃中である。そうおもえば、ファイトが出てくる。
 顔なじみになった看護師さんがこんなことを言っていた。
「△△さんは、意外にお元気でびっくりしているんですよ。強い薬を使っているので、ぐったりしている人が多いんです」
 どうやら、これでもぼくは元気な方らしい。確かに食欲もあるし、酒もうまい。顔色も悪くない。ときどき大きな声をあげて、昔はやった歌を気分よくうたったりする。がんに負ける気はしない。
 からだがきついときには、ささいなことでも我慢せずに、医師や薬剤師、看護婦さんたちに言う。彼ら、彼女たちもそうしてほしいと言っている。今回は軽い睡眠導入剤を出してもらった。
 このみなさんはぼくを支えてくれるために編成された医療チームだとおもっている。こういう気持ちは相手にも伝染して、いい仲間になってくれるものだ。
 今回の化学療法は3日続けて点滴をやり、11日間休むのがひとつのサイクルで、2週間おきに繰り返す。きょうで3回目になる。いまのぼくはこういう状況に慣れる「新しい習慣」を身につけようとしているところである。
(病院での原稿書きはここで終わり)

 さて、話は変わって、うちのカミさんも新しいチャレンジの一歩を踏み出した。午前11時に、自宅から歩いて6、7分のところにある福祉施設まで、履歴書を持って、パートの面接に行って来た。
 カミさんにとって、生まれて初めての職種である。福祉施設といってもさまざまで、そこにはぼくたちとは無縁の、まったく別の人生がある。
 だが、採用されるかどうかも、はたして続くがどうかもわからないし、個人情報のこともあるので、これ以上は触れない。今日は彼女も疲れている。
 取り留めもないことを書いたが、書いて今日が終わる。なんだか安心した。

■団地のなかの歩道。緑が多くて、安全で、公園のようにも見える。

だれにも気づかれないように2025年05月20日 16時19分

 きれいな山や川、海が近くないと、たのしく生きて行けないなぁ、とおもう。
 ようやく強めの抗がん剤の副作用がおさまって、からだが回復期にはいった。頭はふらふらしているが、こうしてパソコンで、のんびり文章をつづれるのがうれしい。
 3種類の点滴が3日間つづく週はきつい。翌週はだんだん元気になる。その次の週にまた点滴。山から谷、谷から山、そして、また谷へ。どうやらこのペースが体調の変化の流れになりそうだ。
 先の日曜日の午後4時過ぎ、カミさんと室見川を少し上流の方まで散歩した。
 ずっと気になっている樹木を見たかった。「たぶん……」と予想して、ズボンのポケットにビニール袋を入れていた。
 狙いは的中した。
 高さ10メートルほどのおおきな桑の木(山桑と同じ)の細い枝先に、数えきれないくらい実がついている。
 手の届く枝先から黒く完熟したちいさな実をちぎって、口のなかに放り込む。
 甘い。おいしい。カミさんも同じことをした。上の方では繁った葉っぱに隠れて、スズメたちが飛びまわっている。
 まるで宝物を見つけたような気分である。ところが、こんなにいっぱいの桑の実がすぐ目の前にあるのに、散歩をしている人、ジョギング中の人、自転車に乗っている人たちはだれも見向きもしない。
「採っているところを見られないようにしなくちゃね」
「そうだな。気がつかれたら、いっぺんに採られて、無くなってしまうからな」
「そうよ」
 なんともあさましい夫婦の会話に堕ちてしまったが、いまから次々に熟すのだから、もっと旬の果実を食べたいではないか。
 この桑の木は自生して、ここまで大きくなったもの。室見川の環境がこんな恵みをくれている。
 健康のためにも、また歩いて行ってみよう。きれいな川が近くにあってよかった。
 この日、長男がお嫁さんと1歳4か月になる孫のKo君を連れて、このへんで遊ばせるためにやってきた。つい先日も家族で室見川の広場にきたという。
 きっと息子も、子どものころのたのしい思い出があるのだろう。これからは彼の出番である。

備蓄米をゲットする2025年05月21日 19時19分

「午後から雨」の天気予報。「いまのうちに歩きに行こうか」とカミさんと連れだって室見川へ。脚が向かったのは、やっぱりあの桑の木。空模様があやしいので、川筋の遊歩道にはだれもいない。
 手のとどく枝という枝をぜんぶ引っぱり寄せて、黒く熟した桑の実を採った。ひと粒、食べる。甘い。いける。
 収穫できたのは写真のとおり。ちょうど100グラムあった。背の高い人なら、この倍は軽く採っただろう。
「次に来るときは、上の方の枝をひっかける棒を持って来よう」とカミさん。
 ビニール袋にはぼくの半分も入っていない。あそこにあんなにあるのに、採りたくてもとどかない。背丈の低いのがよほど悔しいとみえる。
 熟す前の実の方が圧倒的に多い。まだまだ十分たのしめる。
 帰りはちいさなパン屋さんに立ち寄って、焼き立てのフランスパンほかを購入。ここのパンはおいしい。すぐ売り切れてしまう。
 ついでに近くのスーパーでは話題の備蓄米をブレンドした「5キロ3,680円、おひとり様1袋限り」に遭遇して、迷わずにゲット。昼前のいい散歩になった。
 テレビでは、「米は買ったことがない。支援者の方々がたくさん下さるので、家の食品庫に売るほどある」という発言が命取りになって、農水相を更迭されたばかりの江藤拓が出ていた。
 記者時代、彼の父親の江藤隆美には羽田空港から議員会館まで「箱乗り取材」したことがある。
 都会の出身者が多く、個性派ぞろいだった旧中曽根派のなかでも、地方出の異色の存在で、いまから40数年前、「黒木王国」と言われた宮崎県政の黒木博知事が受託収賄の疑いで逮捕されたとき、攻撃の先頭に立って、引きずり下ろしたことがあった。
 江藤は宮崎県政のドンになり、その跡目を継いだのが秘書をしていた息子の拓である。
 後日、黒木は無罪が確定した。戦国時代から今日まで、全国の都道府県で続いている政治の権力闘争のひとつであった。
 江藤拓はなんともお粗末なことをやったものだが、彼は自民党の県連会長の座に就いていたし、テレビで顔を売り出していたので、そろそろオヤジさんに続いて、県政のドンの座もちらついていたのだろうか。
「支援者の方がたくさん下さる」のひと言が言いたかったのだろうな。本人は、悪気はまったくなかったのだろうな。
 まぁ、いいか。割安の備蓄米も手に入ったことだし。
 さて、昨日は酒を抜いたので、これから大威張りで、一杯やるか。

精神鑑定を受けさせたい2025年05月23日 12時36分

「犬の遠吠え」に過ぎないことはわかっていても書いておこう。
 久々に手にした『花森安治の仕事』(酒井 寛、朝日文庫)のなかに、肝に銘じておきたい文章がある。
 ちなみに、花森はあの『暮らしの手帳』を創刊した名編集長で、著名な作家たちの文章を書き写した大学ノートを大量に持っていた。それは百冊なんてものじゃなかったという。
 その彼がこう力説している。
 ―われわれの武器は、文字だよ、言葉だよ、文章だよ。それについて、われわれはどれだけ訓練しているか。それで言葉はむなしい、文章は力の前によわい、なんて平気で言うんだ。ぼくは、そうは思わんよ。
 ここまで前置きして、ぼくのからだに「気の力」が湧いてきたから、言いたいことを書く。

 トランプも、プーチンも、精神鑑定を受けさせたらどうか。

 平気でウソを言う。まるで事実と違うこと言う。それも堂々と、見ていて嫌になるほどに。ぼくはこれだけでも、この人物の頭のなかを疑う。
 気に入らない相手は口汚くののしり、権力で締め上げる。人権も、民主主義も、他国の領土だろうが、人が死のうが死ぬまいが、優先するのは自分本位。そして、自分はしこたまカネをため込んでいて、その財産も税金のこともひた隠し。まさに超特権階級である。
 これがリーダーなのか。どうして、こんな人物が地球環境の危機が差し迫っている21世紀のリーダーなのか。
 こんなおかしなことがまかり通っているのに、かつてぼくらが手本にしていたアメリカのジャーナリズムまでもが敢然と立ち向かうことなく、ペンの力で戦っていない。
 もうひとつ、言いたいことがある。

 おかしいことがおかしいと言えなくなったら、終わり、ではないか。

 この裏側には、とめどなく急拡大しているインターネットの情報社会があって、そのバーチャル社会にも善と悪がある。そこは詐欺やニセ情報があふれかえる無法地帯、犯罪の魔窟で、目に見えない巨万のカネが動いている。
 トランプは調査報道をして、権力を監視するメディアよりも、こちらの情報の方が大のお気に入り。名だたるIT企業のトップまですり寄っている。
 みんな雲の上のとんでもない大ガネ持ちたちで、ビジネスも環境の変化に対応するのが生存戦略の基本とはいえ、そんなにしてまで、まだカネが欲しいのかとおもってしまう。
 話を戻す。
 トランプやプーチンが精神鑑定を受けたら、どんな結果が出るだろうか。
 あれでも正常なのか、知りたいなぁ。
 実際にやるのはとうてい無理だから、ここはひとつ最新のAIを駆使して、だれかやってみたらどうだろう。
 いや、たぶん、狡猾なロシアは、もうやっているはず。きっとほかの国もそうだろう。だって、いちばん気になることだから。
 最後に、こんなことを書いたぼく自身は、精神鑑定を受けなくても大丈夫だとおもっている。

■花壇の花たちがにぎやかに咲いている。隙間にもう少し植えた方がいいかな。去年は猛暑で朝夕の水やりが大変だったので、あまり手のかからない花を選んだ。