あざみの花に会いたくなった ― 2023年05月07日 19時20分

高嶺の百合の それよりも
秘めたる夢を ひとすじに
くれない燃ゆる その姿
あざみに深き わが想い
ふと浮かんできた倍賞千恵子の『あざみの歌』を小声で歌っているうちに、新緑の草むらのなかですっくと立ちあがり、赤紫色に燃えている花に会いたくなった。
刃先が鋭くとがった葉っぱに守られて、そっとさわることさえ許そうともしない野の花に、モンシロチョウがひらひらと舞い降りる。いまごろは、きっとそんな景色が広がっているはずだと見当をつけて、室見川の上流へ歩いて行った。
そうでもしないと、以前はそこらにあったあざみの花は見つからないのである。
連休中どこにも出かけなかったが、すぐ近くに室見川があるので、いつでもちょっとした遠足気分を楽しめる。この春も川辺でセリを摘んだり、カミさんが「おばさんの作ってくれた料理に挑戦してみたい」と言うので、ふたりでイタドリのやわらかい茎先を手折って、ひと晩水にさらして、きんぴらにした。
こうした山野草が食卓を彩るとぼくたち夫婦はうれしくなって、話もはずむし、いつもより酒も旨くなる。
イタドリのことを新潟生まれのカミさんは「すっかんぽ」と言う。鹿児島の桜島付近では「ポン」、大分の南部では「サド」と呼んでいた。
子どものころ野山で遊びまわって喉が渇いたら、まっすぐに伸びた太いやつをポキンと折って、茶色の薄い皮を手で剥いて、ムシャムシャ食ったものだ。あの酸っぱい味を思い出すだけで、口のなかに唾液が出てくる。
あざみの花にはひとりで会いに行った。腹の傷はまだ痛むので、川沿いの遊歩道のあちこちに置かれているベンチで休みながら、そろそろ進む。
室見川にかかっている橋をひとつ、二つ越えて、三つ目を対岸に渡る。
ここまで自宅から2キロあまり。このあたりの川底は砂地になっていて、手で掘ると小粒のシジミが出てくるのだが、探してみる人はいないようだ。室見川の河口近くの汽水域では、親指の先ほどの大きさのシジミが簡単に採れるので、大潮のときは家族連れでにぎわう。
そのシジミはここから大雨のときに流されて行ったものに違いあるまい。上流に立つと、ここにいたシジミたちの流れて行く様子が目に浮かぶ。いったいどんな波乱の旅路だったのだろうか。
川辺には野イチゴが群生していて、なかに踏み込んで行くと真っ赤に熟した丸くておおきなイチゴが隠れていた。形をくずさないように摘みとって、3個だけ口のなかにほうり込んだ。
野イチゴの細い茎にも、あざみと同じように小さなトゲが生えている。そんな藪(やぶ)のなかに好んで入り込む人はいない。いまが食べごろの赤い野イチゴたちはだれからも見つかることなく、土に還って行くのだろう。
あざみの花は遠くからでもそれとわかった。大きく育ったイタドリのまわりのあちこちで、紅(あか)く燃えている。やっぱり白いモンシロチョウも飛んでいた。お前たち、生きていたかとうれしくなった。
ここまで書いているうちに、島崎藤村だったら、『千曲川のスケッチ』ではなく、『室見川のスケッチ』でも書いただろうかとおもった。そして、今度は彼の『千曲川旅情の歌』の一節が浮かんだ。
千曲川いざよふ波の岸近き
宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飮みて
草枕しばし慰む
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ
詩人は、あざみの花でも、流れる川でも、いつまでも語り継がれる詩(うた)にする。彼らは野の花や川の流れに、どれだけたくさんのものを見たのだろうか。
秘めたる夢を ひとすじに
くれない燃ゆる その姿
あざみに深き わが想い
ふと浮かんできた倍賞千恵子の『あざみの歌』を小声で歌っているうちに、新緑の草むらのなかですっくと立ちあがり、赤紫色に燃えている花に会いたくなった。
刃先が鋭くとがった葉っぱに守られて、そっとさわることさえ許そうともしない野の花に、モンシロチョウがひらひらと舞い降りる。いまごろは、きっとそんな景色が広がっているはずだと見当をつけて、室見川の上流へ歩いて行った。
そうでもしないと、以前はそこらにあったあざみの花は見つからないのである。
連休中どこにも出かけなかったが、すぐ近くに室見川があるので、いつでもちょっとした遠足気分を楽しめる。この春も川辺でセリを摘んだり、カミさんが「おばさんの作ってくれた料理に挑戦してみたい」と言うので、ふたりでイタドリのやわらかい茎先を手折って、ひと晩水にさらして、きんぴらにした。
こうした山野草が食卓を彩るとぼくたち夫婦はうれしくなって、話もはずむし、いつもより酒も旨くなる。
イタドリのことを新潟生まれのカミさんは「すっかんぽ」と言う。鹿児島の桜島付近では「ポン」、大分の南部では「サド」と呼んでいた。
子どものころ野山で遊びまわって喉が渇いたら、まっすぐに伸びた太いやつをポキンと折って、茶色の薄い皮を手で剥いて、ムシャムシャ食ったものだ。あの酸っぱい味を思い出すだけで、口のなかに唾液が出てくる。
あざみの花にはひとりで会いに行った。腹の傷はまだ痛むので、川沿いの遊歩道のあちこちに置かれているベンチで休みながら、そろそろ進む。
室見川にかかっている橋をひとつ、二つ越えて、三つ目を対岸に渡る。
ここまで自宅から2キロあまり。このあたりの川底は砂地になっていて、手で掘ると小粒のシジミが出てくるのだが、探してみる人はいないようだ。室見川の河口近くの汽水域では、親指の先ほどの大きさのシジミが簡単に採れるので、大潮のときは家族連れでにぎわう。
そのシジミはここから大雨のときに流されて行ったものに違いあるまい。上流に立つと、ここにいたシジミたちの流れて行く様子が目に浮かぶ。いったいどんな波乱の旅路だったのだろうか。
川辺には野イチゴが群生していて、なかに踏み込んで行くと真っ赤に熟した丸くておおきなイチゴが隠れていた。形をくずさないように摘みとって、3個だけ口のなかにほうり込んだ。
野イチゴの細い茎にも、あざみと同じように小さなトゲが生えている。そんな藪(やぶ)のなかに好んで入り込む人はいない。いまが食べごろの赤い野イチゴたちはだれからも見つかることなく、土に還って行くのだろう。
あざみの花は遠くからでもそれとわかった。大きく育ったイタドリのまわりのあちこちで、紅(あか)く燃えている。やっぱり白いモンシロチョウも飛んでいた。お前たち、生きていたかとうれしくなった。
ここまで書いているうちに、島崎藤村だったら、『千曲川のスケッチ』ではなく、『室見川のスケッチ』でも書いただろうかとおもった。そして、今度は彼の『千曲川旅情の歌』の一節が浮かんだ。
千曲川いざよふ波の岸近き
宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飮みて
草枕しばし慰む
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ
詩人は、あざみの花でも、流れる川でも、いつまでも語り継がれる詩(うた)にする。彼らは野の花や川の流れに、どれだけたくさんのものを見たのだろうか。
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