政治家も風化する ― 2023年08月22日 17時39分

8月はヒロシマ、ナガサキ、そして終戦の日。青い空の下、セミの声を聞きながら、いつも以上に強くおもうのは、あんな戦争をしなければよかったのに、ということである。
中国、北朝鮮、ロシアの独裁国家が手を組んで、日本をはじめ、アメリカを中心とする西側諸国との非難応酬、軍拡競争、経済制裁の争いは激しくなる一方だ。核兵器の言葉を聞かない日はない。
こういうときに、ひと昔前の政治家だったら、どんな手を打っただろうか。わずか50年前の国会にはどんな政治家がいたのか。まったく知らない人も多くなったとおもうので、少しだけ書き留めておこう。
参議院には、帝国海軍の戦闘機パイロットのエースで真珠湾攻撃に参戦し、航空参謀を務めた源田実がいた。取材したときの眼光の鋭さはいまも印象に残っている。まさしく太平洋戦争の生き証人だった。
戦後のエリートを輩出した短期現役士官(略称は短現。海軍が旧制大学卒業者などを対象に2年間に限って採用した)には、中曽根康弘や政界寝業師と言われた松野頼三などがいて、両者とも防衛庁長官を務めた。また、その特異なキャリアから満州浪人とも言われた三原朝雄も防衛庁長官を経験している。
ぼくがいちばん興味深かったのは、政権の大番頭で、スポークスマンの大役を担う官房長官ポストである。ここにも戦火をくぐってきた個性の強い大物政治家が登用されていた。
すぐ頭に浮かぶのは、次の3人。
福田内閣で官房長官だった園田直は中隊長から陸軍大尉。外相を務めていたとき、日中平和条約に署名・調印している。
武闘派と言われた梶山清六は陸軍の軍曹だった。橋本内閣の官房長官。通産族のドンとしても知られ、通産大臣、自民党幹事長なども歴任した。
カミソリと言われた後藤田正晴は、中曽根内閣の長期政権を支えた。東大法学部卒の内務官僚だったが、陸軍に徴兵されて二等兵からスタートしている。
中曽根がレーガン米大統領との初めての日米首脳会議で、日本列島を不沈空母と見立てる発言をしたとき、上司に当たる最高権力者の中曽根を強く諫めたことでも知られる。大平正芳が集めた当代最高レベルのブレーンをそのまま引き継いだ中曽根も、忖度とは無縁の忠告に耳を傾けた。
この3人はいくつもの大臣の重責をこなしている。いずれも戦後の焼け野が原に立って、戦争は二度と繰り返してはいけない、資源のない日本は通商で生きる国なのだという強い覚悟があったとおもう。
もし、いま彼らが官房長官だったら、首相の知恵袋、よき相談相手、内閣の大番頭として、どんな指揮を執るだろうか。できることなら、その考えを聞いてみたいものである。
こんなふうになるまで放っておかないよ、打つ手はいくらでもあるんだから。どんなに嫌いな相手でも、その懐に飛び込んで腹を割って話をするよ、とでも答えるだろうか。
反対に、記憶に新しいところでは、自分の気に入らない異論、反論は無視して、敵意をむき出しに、まともな議論を避けつづけた国のリーダーがいた。いまでは庶民の間でも、自分の気に入らない言動と思われたら最後で、ネットで袋叩きにあうという声をよく耳にする。顔も見えない相手から罵詈罵倒の集中砲火を浴びて、自殺に追い込まれた人までいる。
いやな世の中になったものだ。
ここから連想するのは、戦時下の「非国民」という言葉である。権力に逆らうと非国民のレッテルを貼られた。当時は言論出版も厳しい取り締まりを受けた。戦争のこのような暗黒の歴史も忘れられているのかもしれない。
ぼくは戦争を知らない世代だが、戦争の想像力を無くしてはいけないとおもっている。
先ごろ癌で亡くなった坂本龍一は、こんなことを言っていたという。
「このごろの日本は、言いたいことが言えない国になった」
やっぱり、彼もそうおもっていたんだ。何かが崩れて始めていることに気がついていたのだ。
いま声を大にして言いたい。
再び戦争を起こさないためにも、子どもたちもためにも、言いたいことが言える社会であらねば。
■母親が4羽のコガモを引率している。スマホを向けたとたんに警戒モード。この猛暑のなか、熱中症にもならずに生き延びている。
中国、北朝鮮、ロシアの独裁国家が手を組んで、日本をはじめ、アメリカを中心とする西側諸国との非難応酬、軍拡競争、経済制裁の争いは激しくなる一方だ。核兵器の言葉を聞かない日はない。
こういうときに、ひと昔前の政治家だったら、どんな手を打っただろうか。わずか50年前の国会にはどんな政治家がいたのか。まったく知らない人も多くなったとおもうので、少しだけ書き留めておこう。
参議院には、帝国海軍の戦闘機パイロットのエースで真珠湾攻撃に参戦し、航空参謀を務めた源田実がいた。取材したときの眼光の鋭さはいまも印象に残っている。まさしく太平洋戦争の生き証人だった。
戦後のエリートを輩出した短期現役士官(略称は短現。海軍が旧制大学卒業者などを対象に2年間に限って採用した)には、中曽根康弘や政界寝業師と言われた松野頼三などがいて、両者とも防衛庁長官を務めた。また、その特異なキャリアから満州浪人とも言われた三原朝雄も防衛庁長官を経験している。
ぼくがいちばん興味深かったのは、政権の大番頭で、スポークスマンの大役を担う官房長官ポストである。ここにも戦火をくぐってきた個性の強い大物政治家が登用されていた。
すぐ頭に浮かぶのは、次の3人。
福田内閣で官房長官だった園田直は中隊長から陸軍大尉。外相を務めていたとき、日中平和条約に署名・調印している。
武闘派と言われた梶山清六は陸軍の軍曹だった。橋本内閣の官房長官。通産族のドンとしても知られ、通産大臣、自民党幹事長なども歴任した。
カミソリと言われた後藤田正晴は、中曽根内閣の長期政権を支えた。東大法学部卒の内務官僚だったが、陸軍に徴兵されて二等兵からスタートしている。
中曽根がレーガン米大統領との初めての日米首脳会議で、日本列島を不沈空母と見立てる発言をしたとき、上司に当たる最高権力者の中曽根を強く諫めたことでも知られる。大平正芳が集めた当代最高レベルのブレーンをそのまま引き継いだ中曽根も、忖度とは無縁の忠告に耳を傾けた。
この3人はいくつもの大臣の重責をこなしている。いずれも戦後の焼け野が原に立って、戦争は二度と繰り返してはいけない、資源のない日本は通商で生きる国なのだという強い覚悟があったとおもう。
もし、いま彼らが官房長官だったら、首相の知恵袋、よき相談相手、内閣の大番頭として、どんな指揮を執るだろうか。できることなら、その考えを聞いてみたいものである。
こんなふうになるまで放っておかないよ、打つ手はいくらでもあるんだから。どんなに嫌いな相手でも、その懐に飛び込んで腹を割って話をするよ、とでも答えるだろうか。
反対に、記憶に新しいところでは、自分の気に入らない異論、反論は無視して、敵意をむき出しに、まともな議論を避けつづけた国のリーダーがいた。いまでは庶民の間でも、自分の気に入らない言動と思われたら最後で、ネットで袋叩きにあうという声をよく耳にする。顔も見えない相手から罵詈罵倒の集中砲火を浴びて、自殺に追い込まれた人までいる。
いやな世の中になったものだ。
ここから連想するのは、戦時下の「非国民」という言葉である。権力に逆らうと非国民のレッテルを貼られた。当時は言論出版も厳しい取り締まりを受けた。戦争のこのような暗黒の歴史も忘れられているのかもしれない。
ぼくは戦争を知らない世代だが、戦争の想像力を無くしてはいけないとおもっている。
先ごろ癌で亡くなった坂本龍一は、こんなことを言っていたという。
「このごろの日本は、言いたいことが言えない国になった」
やっぱり、彼もそうおもっていたんだ。何かが崩れて始めていることに気がついていたのだ。
いま声を大にして言いたい。
再び戦争を起こさないためにも、子どもたちもためにも、言いたいことが言える社会であらねば。
■母親が4羽のコガモを引率している。スマホを向けたとたんに警戒モード。この猛暑のなか、熱中症にもならずに生き延びている。
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