友をおくる会を、友と過ごす2024年02月23日 17時20分

「Oはオレたちよりもひと足早く逝って、あちらで待っているからね。だから『お別れの会』ではなく、『O君をおくる会』にしました。今夜は暗く沈むのではなく、アイツらしく、明るく、たのしく盛り上がって、O君を送り出しましょう」
 昨日、こんな挨拶をして、小倉の居酒屋の一室で、正月早々に亡くなった『O君をおくる会』をした。集まったのは小・中学時代を共に過ごした男子6人、女子ふたりの計8人。小倉にいる友が声をかけてくれたほぼ全員がそろった。
 60年以上も昔の同期生たちである。あのころはひとクラスに50数人もいて、中学は1組から8組まであったから、とんでもない大集団だった。
 昨日の8人も、卒業するまでクラスの違う人がほとんどだった。名前を聞いてもわからない。顔を見ても70歳過ぎの年輪は露(あら)わで、こんな男や女の子がいたっけで、まったく思い出せない。相手も同様で、ぼくのことを「覚えとらん。わからん」が5人もいた。
 あやふやな記憶をつなぐ接着剤は、当時の担任の教師の名前を聞くこと。ああそうかと共通の話題にたどりつくのだが、その肝心の担任の名前を完全に忘れ去っている人もいた。こうなると同じ学校の同じ学年だったとはいえ、まるっきり初対面のようなものだ。
 断っておくが、このような隔絶した感慨にふけったのは、たぶんぼくだけだったろう。残りの7人はずっと地元に残っていたり、リタイアして帰郷しているから、ふだんから会っているし、仲がいいのだ。
 これまでも幾度となく考えたことが、また浮かんできた。地元にいる人、出て行ったまま帰ってこない人のどちらが最後は幸せなのだろうか、と。
 そういうわけで、裏を返せば、すごく新鮮な集まりだった。ぼくの知らない小倉での時間のほんの少しだけ教えてもらったような気がした。
 それにしても、73歳になった同期生たちがこうして集まるのだから、中学の生徒会長をやったO君の存在はいまさらながら傑出していたとおもう。
 最初に、思い出話をして、たのしくやろうと念を押していたのに、話しているうちに泣き出すやつがいた。いったん泣きだしたら、子どもみたいに涙が止まらない。おしぼりで何度も目元をふいていた。
「泣け、泣け。今夜はいくらでも泣け」
 こちらも一転して荒っぽい口調になったのは、やっぱり同じ学校の同期生だったからだろう。これも亡くなったO君がつないでくれた新しいご縁である。
 酔っぱらったらマズイからと自制して、あまり食べず、飲まずで、夜の9時過ぎ、冷たい雨のなかを独り新幹線に乗って帰路についた。
 風呂に入って、日本酒をコップで飲みなおす。
 Oよ、お前はいまでも愛されているな。
 ……
 飲まずにいられるものか。

■桜の木につくられたカササギの巣から家主が降りて来た。すっかりぼくたちと同じ団地族の仲間である。

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