政治パーティーのこぼれ話 ― 2024年03月02日 18時19分

自民党の政治資金パーティーの裏金事件には本当に腹が立つ。それでも手を染めた議員たちは堂々と公認候補になって、また当選するのだろう。
つくづく嫌になる。どうしていつもこうなんだと情けなくなる。
弾劾すべきは彼ら本人なのだ。どんなに再発防止をめざす法律をつくっても抜け穴はあるとおもった方がいい。性悪説に軸足を置いて、法の力を頼るとあれもダメ、これもダメになって、世の中は窮屈で味気なくなるばかりだ。
いいことと悪いことの区別がつく人間になるんだよ。悪いことをやっちゃいけないよ。子どもに教えることを、あの人たちにもう一度きちんと教え直すしかない。
ところで、ぼくの記憶では、ひと昔前は「政治資金パーティー」ではなく、「政治パーティー」だった。パーティー券を売って、カネを集める目的はいまと変わらないけれど、できるだけ人を集める、ちゃんともてなす、みんなで気勢をあげる、そんな狙いもあったとおもう。
思い出しながら、そのころのこぼれ話を書いておく。
70年代半ばに週刊誌の記者になった当時、「△△君を励ます会」と銘打った政治パーティーは毎週のようにあった。
初当選から政務次官、部会長、各委員会の委員長というふうに、国会と党のポストの階段を一歩ずつ登って、主要閣僚へのトップ争いをしている議員たちは、政治パーティーでも会場のホテルの格や宴会場の広さ、動員数の多寡を競い合っていた。
人が集まるほど政治家としての評価も上がるという図式である。早くから頭角をあらわす政治家は派閥の親分も目をかけていて、××派のホープとか、プリンスと呼ばれる議員が何人もいた。いまとは大違いで、10年先、20年先の総理総裁候補の名前が挙がっていたのだ。彼らの政治パーティーに人が押しかけたことは言うまでもない。
派閥の領袖やニューリーダーと言われた議員のパーティーには、財界の大物や大企業の人たち、人気の女優からスポーツ選手、銀座の高級クラブや赤坂の料亭のきれいどころまでやってきて、会場の外まで来場者があふれる熱気だった。
白いテーブルクロスをかけた何十畳分もあるテーブルには和洋中の料理の大皿がずらりと並べられ、有名店の寿司や蕎麦などの出店もあって、もちろん食べ放題、飲み放題である。とくに田中派のそれは豪華さが評判だった。経団連からの巨額の企業献金が当たり前だったころである。
ここからは、そんな現場にいたぼく個人の感想を交えて書く。
九州から出て来たぼくにとって、東京の一流ホテルで開かれる政治パーティーは、日本を動かしているリーダーたちをこの目で確認する格好の勉強の場でもあった。名詞一枚でどこにも入れる記者の特権をフルに活用して、よく出かけて行ったものだ。
次の総理総裁の候補者、その次、その次、さらにその次と目されている政治家たちの顔と名前、選挙区、プロフィールぐらいは頭に入れておかないと取材先で話にならない。
どんなスピーチをするか、だれと仲がよいのかを、この耳と眼で取材した。ときには彼らが得意な持ち歌を披露することもあった。大物議員とグラスを片手に談笑している著名な財界人の顔ぶれなど、その場にいれば一度に相当な情報をキャッチできた。
ドスの効いたダミ声でぶち上げたあと、人が変わったようにやさしく話しかける田中角栄。人を引き込む話術にたけた中曽根康弘。得意の経済政策を披露する福田赳夫。余裕の笑みを絶やさない非主流派の三木武夫。存在感の割には話の印象が薄かった大平正芳。その他の有力な政治家たちを間近で見て、会場を沸かせる彼らのスピーチを直接聞いたことも、みんなぼくの財産になっている。(東京にいた記者なら、ごくふつうのことです。)
ひと言でまとめると、あのころの盛大な政治パーティーには千両役者がそろっていて、顔見世興行としても充分におもしろかったのである。
だが、いいことばかりではなく、そこにはひとつの「落とし穴」がちゃんと口を開けていた。
政財界の権力者たちが集まっているパーティーの会場で飲み食いしていると、そこにいるだけで特権階級的な気分になってくる。こうして自分を過大評価する大いなる錯覚は会場全体に充満していたとおもう。
政治家も同じ人間だから、たぶんそうなる。そのうえ「先生、センセイ」と持ちあげる人たちがいるので、「オレは偉いんだぞ」とひとりで勘違いして、ぼくたち庶民の常識から遠く外れたセンセイになる人がいても不思議ではない。
あの人たちもそうなのだろうな。
ぼくには裏金問題に関与した政治家たちは、あの「落とし穴」に、自分の方から落っこちた人じゃないのかなとおもっている。
■先日、長男に連れられて、カミさんの故郷の新潟から義姉の次女が団地の狭いわが家にやって来た。先月生まれたばかりの初孫のKちゃんも一緒で、いつもは夫婦だけの夕食がにぎやかな酒盛りになった。
子どものころからぼくのカミさんが大好きという姪は、初めて来た福岡がいっぺんに好きになって、帰りたくないなぁという。飲んで、しゃべって、ぼくもかわいい赤ちゃんを初めて抱いて、別れがなごり惜しい夜だった。
■写真は、室見川の上流の遊歩道で遊んでいた黒ネコ。親子か、それとも兄弟だろうか。
つくづく嫌になる。どうしていつもこうなんだと情けなくなる。
弾劾すべきは彼ら本人なのだ。どんなに再発防止をめざす法律をつくっても抜け穴はあるとおもった方がいい。性悪説に軸足を置いて、法の力を頼るとあれもダメ、これもダメになって、世の中は窮屈で味気なくなるばかりだ。
いいことと悪いことの区別がつく人間になるんだよ。悪いことをやっちゃいけないよ。子どもに教えることを、あの人たちにもう一度きちんと教え直すしかない。
ところで、ぼくの記憶では、ひと昔前は「政治資金パーティー」ではなく、「政治パーティー」だった。パーティー券を売って、カネを集める目的はいまと変わらないけれど、できるだけ人を集める、ちゃんともてなす、みんなで気勢をあげる、そんな狙いもあったとおもう。
思い出しながら、そのころのこぼれ話を書いておく。
70年代半ばに週刊誌の記者になった当時、「△△君を励ます会」と銘打った政治パーティーは毎週のようにあった。
初当選から政務次官、部会長、各委員会の委員長というふうに、国会と党のポストの階段を一歩ずつ登って、主要閣僚へのトップ争いをしている議員たちは、政治パーティーでも会場のホテルの格や宴会場の広さ、動員数の多寡を競い合っていた。
人が集まるほど政治家としての評価も上がるという図式である。早くから頭角をあらわす政治家は派閥の親分も目をかけていて、××派のホープとか、プリンスと呼ばれる議員が何人もいた。いまとは大違いで、10年先、20年先の総理総裁候補の名前が挙がっていたのだ。彼らの政治パーティーに人が押しかけたことは言うまでもない。
派閥の領袖やニューリーダーと言われた議員のパーティーには、財界の大物や大企業の人たち、人気の女優からスポーツ選手、銀座の高級クラブや赤坂の料亭のきれいどころまでやってきて、会場の外まで来場者があふれる熱気だった。
白いテーブルクロスをかけた何十畳分もあるテーブルには和洋中の料理の大皿がずらりと並べられ、有名店の寿司や蕎麦などの出店もあって、もちろん食べ放題、飲み放題である。とくに田中派のそれは豪華さが評判だった。経団連からの巨額の企業献金が当たり前だったころである。
ここからは、そんな現場にいたぼく個人の感想を交えて書く。
九州から出て来たぼくにとって、東京の一流ホテルで開かれる政治パーティーは、日本を動かしているリーダーたちをこの目で確認する格好の勉強の場でもあった。名詞一枚でどこにも入れる記者の特権をフルに活用して、よく出かけて行ったものだ。
次の総理総裁の候補者、その次、その次、さらにその次と目されている政治家たちの顔と名前、選挙区、プロフィールぐらいは頭に入れておかないと取材先で話にならない。
どんなスピーチをするか、だれと仲がよいのかを、この耳と眼で取材した。ときには彼らが得意な持ち歌を披露することもあった。大物議員とグラスを片手に談笑している著名な財界人の顔ぶれなど、その場にいれば一度に相当な情報をキャッチできた。
ドスの効いたダミ声でぶち上げたあと、人が変わったようにやさしく話しかける田中角栄。人を引き込む話術にたけた中曽根康弘。得意の経済政策を披露する福田赳夫。余裕の笑みを絶やさない非主流派の三木武夫。存在感の割には話の印象が薄かった大平正芳。その他の有力な政治家たちを間近で見て、会場を沸かせる彼らのスピーチを直接聞いたことも、みんなぼくの財産になっている。(東京にいた記者なら、ごくふつうのことです。)
ひと言でまとめると、あのころの盛大な政治パーティーには千両役者がそろっていて、顔見世興行としても充分におもしろかったのである。
だが、いいことばかりではなく、そこにはひとつの「落とし穴」がちゃんと口を開けていた。
政財界の権力者たちが集まっているパーティーの会場で飲み食いしていると、そこにいるだけで特権階級的な気分になってくる。こうして自分を過大評価する大いなる錯覚は会場全体に充満していたとおもう。
政治家も同じ人間だから、たぶんそうなる。そのうえ「先生、センセイ」と持ちあげる人たちがいるので、「オレは偉いんだぞ」とひとりで勘違いして、ぼくたち庶民の常識から遠く外れたセンセイになる人がいても不思議ではない。
あの人たちもそうなのだろうな。
ぼくには裏金問題に関与した政治家たちは、あの「落とし穴」に、自分の方から落っこちた人じゃないのかなとおもっている。
■先日、長男に連れられて、カミさんの故郷の新潟から義姉の次女が団地の狭いわが家にやって来た。先月生まれたばかりの初孫のKちゃんも一緒で、いつもは夫婦だけの夕食がにぎやかな酒盛りになった。
子どものころからぼくのカミさんが大好きという姪は、初めて来た福岡がいっぺんに好きになって、帰りたくないなぁという。飲んで、しゃべって、ぼくもかわいい赤ちゃんを初めて抱いて、別れがなごり惜しい夜だった。
■写真は、室見川の上流の遊歩道で遊んでいた黒ネコ。親子か、それとも兄弟だろうか。
室見川の春の山野草 ― 2024年03月09日 15時23分

自転車に乗った高校生たちがよく通る片側一車線の橋をわたって、室見川沿いの遊歩道を歩く。上流に向かって左側が早良区、右側は西区になる。
同じ川をはさんだ遊歩道でも、ぼくたちの町のある早良区の方がいつも人の姿は多い。ということは、室見川の川岸で春の山野草を摘むのなら、だんぜん人通りの少ない西区の方がおすすめ、ということになる。
こんな作戦を立てて散歩をする人はぼくだけではないようで、西区側の遊歩道を上流に向かってぶらぶら歩いていたら、前方に白いビニール袋を手にして、川岸の土手の斜面をかがみこむような格好でのぼり降りしている年配のおばさんがいた。小柄なからだに黒のズボン、茶色のパーカーをはおっている。晴れていても風は冷たい。
追い越しざまにひと声かけた。
「もう、出てますか」
「はい」
「春ですね」
おばさんとの距離がひらいたところで、土手の草むらに近づいてみる。
かわいいツクシの棒があちこちに突っ立っている。おばさんは一本一本のハカマを指先でていねいにとって、卵とじにでもするのだろうか。大きな白いビニール袋がいっぱいになるまでには、まだ相当の距離を歩かなければならないだろう。そして、手間をかけて調理しても、まとめてパクリとやれば、至福のときはたちまち終わる。
ぼくのジャンパーのポケットにも、白いビニール袋とカッターナイフを忍ばせていた。こちらの狙いはツクシではない。もっと上流に自生している川セリを摘みに出て来たのだ。
数年前までは足の踏み場もないほど密集していたセリも、度重なる護岸工事や川底の掘削工事で川岸の様子がすっかり変わってしまい、自生している場所が少なくなった。
でも、ぼくはどこに行けばセリが生えているのか、ちゃんと知っている。そこは枯れた葦の繁みのなかに隠れているので、よほどのモノ好きでもない限り、遊歩道からはなれて足を踏み入れる人はいない。
背丈ほどもある薮(やぶ)のなかだろうが、野ばらの鋭いトゲが待ち構えていようが、クモの巣の糸が顔に巻きつこうが、どんどん奥へ奥へと突き進むのは、子どものころからそんなことなど平気で遊んでいた田舎育ちの強みである。
バギッ、バキッ、バキッと目の前に立ちふさがっている枯れ枝をへし折って、からだごと倒すようにして前に進む。通りがかった人からみれば、「あんなところで、何をやっているんだ」と変人扱いされても仕方がないけれど、ぼくはこんなことをやっているときがすごくおもしろくて、たのしくて、こころが躍っているのだ。
昨日の午後もそうやって服を汚して遊んだ。帰りにスーパーに立ち寄って、木綿豆腐一丁と芋焼酎の紙パックその他を買って来た。
さぁ、これで準備よし。
四角い豆腐の上に皿を置き、愛用していた素潜り用のベルトから外した重さ2キロの鉛の板をその上に載せて、しっかり水切りをする。摘んできたばかりの香りの高いセリをさっと茹でて、セリと豆腐の白和えをこしらえた。夜が来て、晩酌をやりながら、春のたのしみを味わった。
ニュースをみて、株が4万円を突破したと聞けば、株をやっている人はいいなぁ、とおもい、生成AIの話題を耳にすると、便利そうだな、おもしろそうだなぁ、とおもう。でも、そうおもうだけで、いますぐにでもやろうとはおもわない。
いま注目の株やAIに比べれば、ツクシやセリの話なんて、どうでもいいようなことかもしれないが、ぼくは白いビニール袋を提げて、ほんのひとときの季節のタイミングを逃さずに、野山をうろついている人が好きである。
■過日、通院している総合病院でその後の血液検査と定期診断を受けた。糖尿病の担当の女医さんは、このところの血糖値のデータをみて、もしかしたらインスリンの出る量が増えているかもしれない、期待しています、と話していたが、結果は逆に減っていた。
次に診察を受けた外科医によれば、手術で切り取ったすい臓の下半分に、インスリンを出す機能があるという。その通りの結果だったわけだ。
それでも、「出ていますからね」と言われた。女医さんは「また調べましょう」と言う。どうやら万事休す、でもなさそうである。どちらも励ましの言葉だと受け止めている。
同じ川をはさんだ遊歩道でも、ぼくたちの町のある早良区の方がいつも人の姿は多い。ということは、室見川の川岸で春の山野草を摘むのなら、だんぜん人通りの少ない西区の方がおすすめ、ということになる。
こんな作戦を立てて散歩をする人はぼくだけではないようで、西区側の遊歩道を上流に向かってぶらぶら歩いていたら、前方に白いビニール袋を手にして、川岸の土手の斜面をかがみこむような格好でのぼり降りしている年配のおばさんがいた。小柄なからだに黒のズボン、茶色のパーカーをはおっている。晴れていても風は冷たい。
追い越しざまにひと声かけた。
「もう、出てますか」
「はい」
「春ですね」
おばさんとの距離がひらいたところで、土手の草むらに近づいてみる。
かわいいツクシの棒があちこちに突っ立っている。おばさんは一本一本のハカマを指先でていねいにとって、卵とじにでもするのだろうか。大きな白いビニール袋がいっぱいになるまでには、まだ相当の距離を歩かなければならないだろう。そして、手間をかけて調理しても、まとめてパクリとやれば、至福のときはたちまち終わる。
ぼくのジャンパーのポケットにも、白いビニール袋とカッターナイフを忍ばせていた。こちらの狙いはツクシではない。もっと上流に自生している川セリを摘みに出て来たのだ。
数年前までは足の踏み場もないほど密集していたセリも、度重なる護岸工事や川底の掘削工事で川岸の様子がすっかり変わってしまい、自生している場所が少なくなった。
でも、ぼくはどこに行けばセリが生えているのか、ちゃんと知っている。そこは枯れた葦の繁みのなかに隠れているので、よほどのモノ好きでもない限り、遊歩道からはなれて足を踏み入れる人はいない。
背丈ほどもある薮(やぶ)のなかだろうが、野ばらの鋭いトゲが待ち構えていようが、クモの巣の糸が顔に巻きつこうが、どんどん奥へ奥へと突き進むのは、子どものころからそんなことなど平気で遊んでいた田舎育ちの強みである。
バギッ、バキッ、バキッと目の前に立ちふさがっている枯れ枝をへし折って、からだごと倒すようにして前に進む。通りがかった人からみれば、「あんなところで、何をやっているんだ」と変人扱いされても仕方がないけれど、ぼくはこんなことをやっているときがすごくおもしろくて、たのしくて、こころが躍っているのだ。
昨日の午後もそうやって服を汚して遊んだ。帰りにスーパーに立ち寄って、木綿豆腐一丁と芋焼酎の紙パックその他を買って来た。
さぁ、これで準備よし。
四角い豆腐の上に皿を置き、愛用していた素潜り用のベルトから外した重さ2キロの鉛の板をその上に載せて、しっかり水切りをする。摘んできたばかりの香りの高いセリをさっと茹でて、セリと豆腐の白和えをこしらえた。夜が来て、晩酌をやりながら、春のたのしみを味わった。
ニュースをみて、株が4万円を突破したと聞けば、株をやっている人はいいなぁ、とおもい、生成AIの話題を耳にすると、便利そうだな、おもしろそうだなぁ、とおもう。でも、そうおもうだけで、いますぐにでもやろうとはおもわない。
いま注目の株やAIに比べれば、ツクシやセリの話なんて、どうでもいいようなことかもしれないが、ぼくは白いビニール袋を提げて、ほんのひとときの季節のタイミングを逃さずに、野山をうろついている人が好きである。
■過日、通院している総合病院でその後の血液検査と定期診断を受けた。糖尿病の担当の女医さんは、このところの血糖値のデータをみて、もしかしたらインスリンの出る量が増えているかもしれない、期待しています、と話していたが、結果は逆に減っていた。
次に診察を受けた外科医によれば、手術で切り取ったすい臓の下半分に、インスリンを出す機能があるという。その通りの結果だったわけだ。
それでも、「出ていますからね」と言われた。女医さんは「また調べましょう」と言う。どうやら万事休す、でもなさそうである。どちらも励ましの言葉だと受け止めている。
おでんを食べよう ― 2024年03月19日 20時03分

朝食のあと片付けが終わって、ひと息つく間もなく、重たい大根を長さ3、4センチほどに断ち切って、皮をむき、丸い断面に十字の切れ目を入れる。そのあいだにゆで卵を4個つくった。卵をゆでた小鍋を洗って、こんにゃくをぐらぐらたぎらせて灰汁(あく)をとる。
朝っぱらから、また、おでんの仕込みである。おでんの前に、「また」がつくのは、また客が来て、またおでんを出すことになって、またそれをぼくが作るという三重の意味がある。
人さまに食べていただくのだから、失敗は許されない。もう少しうすくち醤油を足した方がいいかなと何度も味見をしているうちに、舌の感覚が麻痺して、着ている服にもおでんの汁の匂いが染みついて、もうおでんなんか食べなくてもよくなった。
きょうもまたこんなどうでもいいようなことを書いているのだが、なにも書かないでいると、ときには騒ぎになる。
先日は、高校時代の友からめずらしく電話がかかってきた。
「ブログ、3月9日からずっと更新していないけど、からだの方は大丈夫なのか」
予想もしなかった言葉にちょっとジーンときた。でも、こんな電話は二度や三度ではない。
彼は腰の手術をして入院中だという。あっちもこっちもガタがきている者同士のよくある話になって、「75歳の壁を越えたら、80歳までは大丈夫だ」というウソかマコトかわからない流説に落ち着いた。ぼくたちの年代の会話はだいたいこうなる。
さて、同じ書くのなら、おカネになる方がいいなとおもい、ここ数日、インターネットで、自分にもできそうな仕事を探している。その方面のホームページを開けば、書き手を募集している情報はゴマンとあるのだ。
だが、それら仕事の説明文には、ABCでつづられた専門用語や略語、カタカナがあふれていて、さっぱり意味がわからない。インターネットの仕事を探すたびに、時代に取り残されたような疎外感を味わっている。
ちょっと肩の凝りそうな話になるが、たとえばポートフォリオという言葉が出てくる。ぼくは、ボストンコンサルティングが発案した、あの有名な経営戦略の話だなとおもう。
そこから成長曲線や市場のポジショニング、事業の絞り込み、ナンバーワン戦略といったおなじみの経営戦略の話へと展開していく。ポートフォリオと聞けば、頭のなかにそんな思考回路が出来上がっているのだ。
そうだとばかりおもっていた。ところが、いまネットで目にするポートフォリオは違っている。いわば自分の実績をアピールするものだった。まぁ、得意技というジャンルでくくれば当てはまるのだが、それだけこちらの頭が固くなっているのだろう。
そうそう、おでんの話だった。おでんからインターネットまで飛んでしまった。
明日は同じ団地住まいの仲良し夫婦がわが家に来ることになっている。真っ昼間から飲み会をする約束で、そのこと自体は楽しみなのだが、どうもぼくたち夫婦が作る予定の料理は古いというか、華やかさに欠けている。
若い人たちのあいだで、どんなしゃれた料理が流行っているのか、まるっきり知識がない。たぶん見たことも、食べたこともないものがいっぱいあるんだろうな。ぼくのじいちゃん、ばあちゃんがそうだった。
こちらが用意する料理は、おでん、菜の花とシイタケのおひたし、漬け物、それに豚肉とニラの……。
ま、いいか。やっぱり、おでんを食べよう。
■室見川の遊歩道をヨチヨチ歩きで横断しているカモたち。おおぜいの仲間たちはとっくに北へ帰って行った。
もしかしたら、このまま居残るのだろうか。猛暑が来るんだぞ。大丈夫か、お前たち。
朝っぱらから、また、おでんの仕込みである。おでんの前に、「また」がつくのは、また客が来て、またおでんを出すことになって、またそれをぼくが作るという三重の意味がある。
人さまに食べていただくのだから、失敗は許されない。もう少しうすくち醤油を足した方がいいかなと何度も味見をしているうちに、舌の感覚が麻痺して、着ている服にもおでんの汁の匂いが染みついて、もうおでんなんか食べなくてもよくなった。
きょうもまたこんなどうでもいいようなことを書いているのだが、なにも書かないでいると、ときには騒ぎになる。
先日は、高校時代の友からめずらしく電話がかかってきた。
「ブログ、3月9日からずっと更新していないけど、からだの方は大丈夫なのか」
予想もしなかった言葉にちょっとジーンときた。でも、こんな電話は二度や三度ではない。
彼は腰の手術をして入院中だという。あっちもこっちもガタがきている者同士のよくある話になって、「75歳の壁を越えたら、80歳までは大丈夫だ」というウソかマコトかわからない流説に落ち着いた。ぼくたちの年代の会話はだいたいこうなる。
さて、同じ書くのなら、おカネになる方がいいなとおもい、ここ数日、インターネットで、自分にもできそうな仕事を探している。その方面のホームページを開けば、書き手を募集している情報はゴマンとあるのだ。
だが、それら仕事の説明文には、ABCでつづられた専門用語や略語、カタカナがあふれていて、さっぱり意味がわからない。インターネットの仕事を探すたびに、時代に取り残されたような疎外感を味わっている。
ちょっと肩の凝りそうな話になるが、たとえばポートフォリオという言葉が出てくる。ぼくは、ボストンコンサルティングが発案した、あの有名な経営戦略の話だなとおもう。
そこから成長曲線や市場のポジショニング、事業の絞り込み、ナンバーワン戦略といったおなじみの経営戦略の話へと展開していく。ポートフォリオと聞けば、頭のなかにそんな思考回路が出来上がっているのだ。
そうだとばかりおもっていた。ところが、いまネットで目にするポートフォリオは違っている。いわば自分の実績をアピールするものだった。まぁ、得意技というジャンルでくくれば当てはまるのだが、それだけこちらの頭が固くなっているのだろう。
そうそう、おでんの話だった。おでんからインターネットまで飛んでしまった。
明日は同じ団地住まいの仲良し夫婦がわが家に来ることになっている。真っ昼間から飲み会をする約束で、そのこと自体は楽しみなのだが、どうもぼくたち夫婦が作る予定の料理は古いというか、華やかさに欠けている。
若い人たちのあいだで、どんなしゃれた料理が流行っているのか、まるっきり知識がない。たぶん見たことも、食べたこともないものがいっぱいあるんだろうな。ぼくのじいちゃん、ばあちゃんがそうだった。
こちらが用意する料理は、おでん、菜の花とシイタケのおひたし、漬け物、それに豚肉とニラの……。
ま、いいか。やっぱり、おでんを食べよう。
■室見川の遊歩道をヨチヨチ歩きで横断しているカモたち。おおぜいの仲間たちはとっくに北へ帰って行った。
もしかしたら、このまま居残るのだろうか。猛暑が来るんだぞ。大丈夫か、お前たち。
売文業のささやかな復活 ― 2024年03月24日 13時33分

集中して、もっと高いレベルの原稿を書かないといけないかな。でも、からだに合わないよそ行きの服を着て、肩に力が入るとろくなことはないから、ふだんどおりに気楽にやるか。
一昨日から頭のなかで、何を書こうかなと考えている。
インターネットで、これならやれそうだという仕事を見つけた。やりたい人は募集の情報に応募して選ばれる方式で、契約できる人数は数名だった。
選考の条件のひとつが、ブログの原稿を提出すること。よくあるやり方のようで、数編を選んで応募したら、意外にもあっさりと契約が決まった。
その仕事とは、コラムを1本書くこと。書き上げた原稿は発注先が運営しているホームページに載せるらしい。これ以上の詳しい内容は紹介できないけれど、ちょっとした小遣い稼ぎになる。取材に出かける必要もないし、経費もかからない。パソコン1台あればこと足りるので、カミさんは「よかったね、お父さん」と言っている。
長いあいだ遠ざかっていた売文業のささやかな復活だ。これをきっかけに、ほかの公募にも挑戦してみようかな。やる気が出てきて、ちいさな幸せをちょっとつかまえたような気分である。
と、ここまではよかった。
契約が決まったので、発注元のホームページを開いて、これまでどんなコラムが掲載されているのか、参考にしようと調べたところで、びっくりしてしまった。
ぼくとは原稿の書き方がぜんぜん違うのだ。
そこにあるコラムの文章は、ほんの数行書いて終わり。1行分空ける。また数行書いて終わり。また1行分空ける、という調子。まるで、ひと塊の言葉のちぎれ雲が一定の間隔をおいて並んでいるようなものだ。
人間の頭はこんなふうにぶつぶつ切って考えるようにできていない。ふつうに書いた原稿をもう一度、わざわざこのスタイルにしたのかもしれない。そのことにどんな意味があるのだろうか。編集サイドの意図だろうか。
待てよ、と気がついた。どこかでみたことがあるとおもったら、スマホでおなじみのLineの文章に似ている。
そうか、若い人たちはコラムも新聞や雑誌ではなく、スマホで読むのか。だから、こんな文体になるのか。コラムに限らず、これがいまふうの文章の書き方なのか。
しかも、テーマも文字数もこちらの自由なのだが、よく読まれる文字数は3,000字から4,000字だそうで、これも意外だった。400字詰めの原稿用紙に換算すると7.5枚から10枚にもなる。ぼくの感覚では、これはもうコラムというより、短編である。
それだけのボリュームの原稿をスマホの画面で読んでもらうためにも、文章を数行ずつに分解する方法が生まれたのだろう。文章全体の姿もアナログからデジタルなのだ。
(批判しているのではありません。掲載されている作品はさすがの内容です。Webマーケティングの事業をしている発注先の考え方も理解できます。スマホの読者のニーズに合わせて、こんな表現方法になったということでしょう)
いまごろこんなことで驚くようでは、笑いものになりそうである。でも、IT関連の話にうといアナログ世代の73歳が自宅でできる仕事を探してしゃしゃり出ていくのだ。慣れないところに足を踏み入れる新人みたいなものだ。
現実をしかと受け入れた上で、わが身に問う。
とっくにスマホの時代だぞ。お前もあんな文体の原稿にチェンジしなくていいのか、と。
答えは動かしようがない。
自分ができることをやるしかないさ。ものごとには必ず反対側があって、有名な作家の長編小説をネットで読んでいる人もいる。変な恰好をつけないで、オレはこのままの「風のひょう吉」で行くよ。
たのしみができた。やってみよう。
■近くの畑で放置されている大根たち。芽が大きく伸びて、白い花をつけている。この畑で栽培される大根の3割ほどが、毎年こうなった末に、引っこ抜かれて、打ち捨てられる。
一昨日から頭のなかで、何を書こうかなと考えている。
インターネットで、これならやれそうだという仕事を見つけた。やりたい人は募集の情報に応募して選ばれる方式で、契約できる人数は数名だった。
選考の条件のひとつが、ブログの原稿を提出すること。よくあるやり方のようで、数編を選んで応募したら、意外にもあっさりと契約が決まった。
その仕事とは、コラムを1本書くこと。書き上げた原稿は発注先が運営しているホームページに載せるらしい。これ以上の詳しい内容は紹介できないけれど、ちょっとした小遣い稼ぎになる。取材に出かける必要もないし、経費もかからない。パソコン1台あればこと足りるので、カミさんは「よかったね、お父さん」と言っている。
長いあいだ遠ざかっていた売文業のささやかな復活だ。これをきっかけに、ほかの公募にも挑戦してみようかな。やる気が出てきて、ちいさな幸せをちょっとつかまえたような気分である。
と、ここまではよかった。
契約が決まったので、発注元のホームページを開いて、これまでどんなコラムが掲載されているのか、参考にしようと調べたところで、びっくりしてしまった。
ぼくとは原稿の書き方がぜんぜん違うのだ。
そこにあるコラムの文章は、ほんの数行書いて終わり。1行分空ける。また数行書いて終わり。また1行分空ける、という調子。まるで、ひと塊の言葉のちぎれ雲が一定の間隔をおいて並んでいるようなものだ。
人間の頭はこんなふうにぶつぶつ切って考えるようにできていない。ふつうに書いた原稿をもう一度、わざわざこのスタイルにしたのかもしれない。そのことにどんな意味があるのだろうか。編集サイドの意図だろうか。
待てよ、と気がついた。どこかでみたことがあるとおもったら、スマホでおなじみのLineの文章に似ている。
そうか、若い人たちはコラムも新聞や雑誌ではなく、スマホで読むのか。だから、こんな文体になるのか。コラムに限らず、これがいまふうの文章の書き方なのか。
しかも、テーマも文字数もこちらの自由なのだが、よく読まれる文字数は3,000字から4,000字だそうで、これも意外だった。400字詰めの原稿用紙に換算すると7.5枚から10枚にもなる。ぼくの感覚では、これはもうコラムというより、短編である。
それだけのボリュームの原稿をスマホの画面で読んでもらうためにも、文章を数行ずつに分解する方法が生まれたのだろう。文章全体の姿もアナログからデジタルなのだ。
(批判しているのではありません。掲載されている作品はさすがの内容です。Webマーケティングの事業をしている発注先の考え方も理解できます。スマホの読者のニーズに合わせて、こんな表現方法になったということでしょう)
いまごろこんなことで驚くようでは、笑いものになりそうである。でも、IT関連の話にうといアナログ世代の73歳が自宅でできる仕事を探してしゃしゃり出ていくのだ。慣れないところに足を踏み入れる新人みたいなものだ。
現実をしかと受け入れた上で、わが身に問う。
とっくにスマホの時代だぞ。お前もあんな文体の原稿にチェンジしなくていいのか、と。
答えは動かしようがない。
自分ができることをやるしかないさ。ものごとには必ず反対側があって、有名な作家の長編小説をネットで読んでいる人もいる。変な恰好をつけないで、オレはこのままの「風のひょう吉」で行くよ。
たのしみができた。やってみよう。
■近くの畑で放置されている大根たち。芽が大きく伸びて、白い花をつけている。この畑で栽培される大根の3割ほどが、毎年こうなった末に、引っこ抜かれて、打ち捨てられる。
思い切って、潜れ! ― 2024年03月29日 19時58分

コラムの原稿を書き上げて、一発でOKが出た。少し手間取ったけれど、終わってしまえば、もう過去の話である。
外は春らんまんの陽気で、最高気温は一気に20度を超えた。ちらほら薄いピンクの花を咲かせている桜並木を見ながら、室見川の橋をわたって、ブックオフに行った。
オンライン注文した文庫の古本が届いたので、受け取りのついでに、あと3冊を衝動買いした。小学5、6年生向けの本で、ぜんぶの漢字に平仮名でルビが打ってある。
どうしてこんな本が並んでいる書棚の前で立ち止まったのか、自分でも理由がわからない。でも、こんなことって、ままある。
目に入った『ムーミン谷の冬』を手に取って、パラパラッとめくって、ざっと目を通したら、すごく読みやすくて、物語にひきこまれそうになった。
ああ、こんな世界があったんだ。
お馴染みの作家たちの小説よりも、よっぽど洗練されている。こっちの本の方が長く大勢の人に読まれているんだとおもった。
たぶん、そう感じたのは、昨日まで何度も書き直して、ものごとの分別がわかっているような文言を織り込みながら、なんとか起承転結まで、つじつまを合わせたコラムの原稿の余韻が残っていたからだろう。
子どものころのわくわくする気持ちやみずみずしい感覚がなくなったなぁ。こういうのを書ける人はいいなぁ。よし、買って読んでみるか。
本をリュックにしまって、いつものように室見川の遊歩道をゆっくり歩いてさかのぼる。
ハンノキの枝に、やわらかい緑の新芽たちが羽根を小さくひろげている。いまにも青い空に向かって、いっせいに飛び立ちそうだ。川の瀬の音も軽やかで、そこらいちめんが春に浮かれていた。
こんなときは、ぼくの胸のなかにも、たのしい川の思い出がよみがえってくる。
新潟の越後三山(八海山、駒ケ岳、中ノ岳)が望めるカミさんの里には、歩いて数分のところに子どもたちでも遊べる川がある。そのころはヤマメ、イワナ、アユ、カジカ、ウグイやハヤがいっぱいいた。
夏休みには、幼い息子ふたりと一緒に川に入って、ぼくはヤマメやアユを手でつかまえたり、手製のモリで突いて、夜は地酒の肴にしていた。(この話は何度も書いても、また書きたくなります。)
ところが、こんなにおもしろい川がすぐ近くにあるのに、実家にいる小学生の甥はまったく川遊びを知らなかったのだ。水中メガネをつけて、水の中を一度ものぞいたことがなかったのである。
父親自身がそうだったようで、見ていてちょっとかわいそうになった。
ぼくは子ども用の水中メガネとモリを買って来て、4年生ぐらいだった彼を川に連れて行った。そして、セメントと石ころで固めた堰の下で、潜り方を練習させた。
そこは水の色が深いグリーンブルーになっていて、彼の背丈ではつま先で立たないと頭まで沈んでしまうところである。
「ここにはヤマメやイワナがいる。目の前の堰から滝のように水が落ちているだろ。隠れている場所は、その滝の奥だ。あの白いアワの底はきれい澄み切っていて、奥はえぐれて穴のようになっている。そこにヤマメやイワナが隠れているからな。いいか、怖くないからな。さぁ、うんと息を吸って、頭から思い切って、潜れ!」
それから1年後の夏がやってきた。
ある日、新潟の甥っ子から手紙が届いた。
なかに便箋が3枚。その1枚には、色鉛筆で描いたイワナの姿が躍っていた。脇には仕留めた場所も描いてあって、そこは彼を特訓した堰の下だった。ちゃんとイワナのサイズも書き込んであった。確か28から29センチほどの大物だった。
「くやしい。今度は30センチ以上を狙います」と書いてあった。
早いもので、あの甥っ子も50代になった。
しばらく新潟に帰っていないが、晩飯の時間がくれば、1升ビンをぶら下げて、ぼくの近くに座る。必ず自分の方からあのときの話をはじめる。そして、いつも決まった言葉が出てくる。
うれしそうな顔をして、「師匠!」と何度も、何度も、そう呼ぶのである。
そんなことを昨日のように思い出しながら室見川の河畔を歩く。
歩きながら、川の中に入ってみたくなる。
■室見川にも堰がいくつもある。この堰のすぐ上流は静かな池のようになっている。ときどき鯉を狙って、大物釣り用の投げ竿を2本も3本も突っ立てたまま、地べたに座り込んでぼんやりしている人を見かける。
外は春らんまんの陽気で、最高気温は一気に20度を超えた。ちらほら薄いピンクの花を咲かせている桜並木を見ながら、室見川の橋をわたって、ブックオフに行った。
オンライン注文した文庫の古本が届いたので、受け取りのついでに、あと3冊を衝動買いした。小学5、6年生向けの本で、ぜんぶの漢字に平仮名でルビが打ってある。
どうしてこんな本が並んでいる書棚の前で立ち止まったのか、自分でも理由がわからない。でも、こんなことって、ままある。
目に入った『ムーミン谷の冬』を手に取って、パラパラッとめくって、ざっと目を通したら、すごく読みやすくて、物語にひきこまれそうになった。
ああ、こんな世界があったんだ。
お馴染みの作家たちの小説よりも、よっぽど洗練されている。こっちの本の方が長く大勢の人に読まれているんだとおもった。
たぶん、そう感じたのは、昨日まで何度も書き直して、ものごとの分別がわかっているような文言を織り込みながら、なんとか起承転結まで、つじつまを合わせたコラムの原稿の余韻が残っていたからだろう。
子どものころのわくわくする気持ちやみずみずしい感覚がなくなったなぁ。こういうのを書ける人はいいなぁ。よし、買って読んでみるか。
本をリュックにしまって、いつものように室見川の遊歩道をゆっくり歩いてさかのぼる。
ハンノキの枝に、やわらかい緑の新芽たちが羽根を小さくひろげている。いまにも青い空に向かって、いっせいに飛び立ちそうだ。川の瀬の音も軽やかで、そこらいちめんが春に浮かれていた。
こんなときは、ぼくの胸のなかにも、たのしい川の思い出がよみがえってくる。
新潟の越後三山(八海山、駒ケ岳、中ノ岳)が望めるカミさんの里には、歩いて数分のところに子どもたちでも遊べる川がある。そのころはヤマメ、イワナ、アユ、カジカ、ウグイやハヤがいっぱいいた。
夏休みには、幼い息子ふたりと一緒に川に入って、ぼくはヤマメやアユを手でつかまえたり、手製のモリで突いて、夜は地酒の肴にしていた。(この話は何度も書いても、また書きたくなります。)
ところが、こんなにおもしろい川がすぐ近くにあるのに、実家にいる小学生の甥はまったく川遊びを知らなかったのだ。水中メガネをつけて、水の中を一度ものぞいたことがなかったのである。
父親自身がそうだったようで、見ていてちょっとかわいそうになった。
ぼくは子ども用の水中メガネとモリを買って来て、4年生ぐらいだった彼を川に連れて行った。そして、セメントと石ころで固めた堰の下で、潜り方を練習させた。
そこは水の色が深いグリーンブルーになっていて、彼の背丈ではつま先で立たないと頭まで沈んでしまうところである。
「ここにはヤマメやイワナがいる。目の前の堰から滝のように水が落ちているだろ。隠れている場所は、その滝の奥だ。あの白いアワの底はきれい澄み切っていて、奥はえぐれて穴のようになっている。そこにヤマメやイワナが隠れているからな。いいか、怖くないからな。さぁ、うんと息を吸って、頭から思い切って、潜れ!」
それから1年後の夏がやってきた。
ある日、新潟の甥っ子から手紙が届いた。
なかに便箋が3枚。その1枚には、色鉛筆で描いたイワナの姿が躍っていた。脇には仕留めた場所も描いてあって、そこは彼を特訓した堰の下だった。ちゃんとイワナのサイズも書き込んであった。確か28から29センチほどの大物だった。
「くやしい。今度は30センチ以上を狙います」と書いてあった。
早いもので、あの甥っ子も50代になった。
しばらく新潟に帰っていないが、晩飯の時間がくれば、1升ビンをぶら下げて、ぼくの近くに座る。必ず自分の方からあのときの話をはじめる。そして、いつも決まった言葉が出てくる。
うれしそうな顔をして、「師匠!」と何度も、何度も、そう呼ぶのである。
そんなことを昨日のように思い出しながら室見川の河畔を歩く。
歩きながら、川の中に入ってみたくなる。
■室見川にも堰がいくつもある。この堰のすぐ上流は静かな池のようになっている。ときどき鯉を狙って、大物釣り用の投げ竿を2本も3本も突っ立てたまま、地べたに座り込んでぼんやりしている人を見かける。
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