売文業のささやかな復活2024年03月24日 13時33分

 集中して、もっと高いレベルの原稿を書かないといけないかな。でも、からだに合わないよそ行きの服を着て、肩に力が入るとろくなことはないから、ふだんどおりに気楽にやるか。
 一昨日から頭のなかで、何を書こうかなと考えている。
 インターネットで、これならやれそうだという仕事を見つけた。やりたい人は募集の情報に応募して選ばれる方式で、契約できる人数は数名だった。
 選考の条件のひとつが、ブログの原稿を提出すること。よくあるやり方のようで、数編を選んで応募したら、意外にもあっさりと契約が決まった。
 その仕事とは、コラムを1本書くこと。書き上げた原稿は発注先が運営しているホームページに載せるらしい。これ以上の詳しい内容は紹介できないけれど、ちょっとした小遣い稼ぎになる。取材に出かける必要もないし、経費もかからない。パソコン1台あればこと足りるので、カミさんは「よかったね、お父さん」と言っている。
 長いあいだ遠ざかっていた売文業のささやかな復活だ。これをきっかけに、ほかの公募にも挑戦してみようかな。やる気が出てきて、ちいさな幸せをちょっとつかまえたような気分である。
 と、ここまではよかった。
 契約が決まったので、発注元のホームページを開いて、これまでどんなコラムが掲載されているのか、参考にしようと調べたところで、びっくりしてしまった。
 ぼくとは原稿の書き方がぜんぜん違うのだ。
 そこにあるコラムの文章は、ほんの数行書いて終わり。1行分空ける。また数行書いて終わり。また1行分空ける、という調子。まるで、ひと塊の言葉のちぎれ雲が一定の間隔をおいて並んでいるようなものだ。
 人間の頭はこんなふうにぶつぶつ切って考えるようにできていない。ふつうに書いた原稿をもう一度、わざわざこのスタイルにしたのかもしれない。そのことにどんな意味があるのだろうか。編集サイドの意図だろうか。
 待てよ、と気がついた。どこかでみたことがあるとおもったら、スマホでおなじみのLineの文章に似ている。
 そうか、若い人たちはコラムも新聞や雑誌ではなく、スマホで読むのか。だから、こんな文体になるのか。コラムに限らず、これがいまふうの文章の書き方なのか。
 しかも、テーマも文字数もこちらの自由なのだが、よく読まれる文字数は3,000字から4,000字だそうで、これも意外だった。400字詰めの原稿用紙に換算すると7.5枚から10枚にもなる。ぼくの感覚では、これはもうコラムというより、短編である。
 それだけのボリュームの原稿をスマホの画面で読んでもらうためにも、文章を数行ずつに分解する方法が生まれたのだろう。文章全体の姿もアナログからデジタルなのだ。
 (批判しているのではありません。掲載されている作品はさすがの内容です。Webマーケティングの事業をしている発注先の考え方も理解できます。スマホの読者のニーズに合わせて、こんな表現方法になったということでしょう)
 いまごろこんなことで驚くようでは、笑いものになりそうである。でも、IT関連の話にうといアナログ世代の73歳が自宅でできる仕事を探してしゃしゃり出ていくのだ。慣れないところに足を踏み入れる新人みたいなものだ。
 現実をしかと受け入れた上で、わが身に問う。
 とっくにスマホの時代だぞ。お前もあんな文体の原稿にチェンジしなくていいのか、と。
 答えは動かしようがない。
 自分ができることをやるしかないさ。ものごとには必ず反対側があって、有名な作家の長編小説をネットで読んでいる人もいる。変な恰好をつけないで、オレはこのままの「風のひょう吉」で行くよ。
 たのしみができた。やってみよう。
 
■近くの畑で放置されている大根たち。芽が大きく伸びて、白い花をつけている。この畑で栽培される大根の3割ほどが、毎年こうなった末に、引っこ抜かれて、打ち捨てられる。