お隣のベッドのお父さん2025年04月11日 16時28分

 朝の9時すぎ、病棟内にも決まった活気がでてくるころである。淡いベージュのカーテンで仕切られたお隣のベッドから話し声が聞こえてきた。
 太めのからだで、しらが頭を丸坊主に刈り上げた80歳すぎと思われるお父さんが、娘のような年代の介護補助のおばさんをつかまえて、しきりに何か訴えていた。
 耳が遠いのだろうか、声がおおきいのでまわりに筒抜けである。
「もう3日も経つのに、手術はいつすると? 手術するために入院したのに」
 そんなことを訊かれても、このおばさんにわかるはずがない。いつもなら度胸ひとつで、なんとかその場を切り抜ける技をお持ちのおばさんだが、さすがにおこまりの様子である。
「そうなの。気になるよねぇ。でも、もうそろそろじゃないの」
 それから20、30秒後、その場に主治医が若い女性の看護士ふたりとやってきた。
「センセー、手術はいつしてくれるとね?」
 40代そこそこの医者は一瞬、言葉に詰まったようだった。
「手術はもう終わったよ。寝ているときに」
「はぁ? 終わったと? ポリープ。腹は切らんやったとね?」
 爆笑が起きた。おばさんも、看護士さんたちも大笑いである。ほかのベッドからも笑い声があがった。
「うん。眠っているときに。大腸の内視鏡で、ちゃんと手術は終わったからね」
 なんともうらやましいおとうさんである。ぼくも「よかったですねぇ」と声をかけずにはいられなかった。
「そうか。終わっとったんか……。へ、へ、へ」
 お年寄りには何度も、何度も、同じことを言って聞かせるのがよろしいようで。

 こちらは化学療法の二日目。ぜんぶの抗がん剤の投与が終わるのは明日・土曜日の午後になる。首から透明の液体の薬が入ったちいさな袋をぶらさげて、どこに行こうが点滴は休みなくつづく仕掛けだ。
 担当の医師は「血液データも順調です」といっていた。予定通りに日曜日の午前中に退院が決まった。
 きょうはカミさんが着替え等を持って、午後から面会に来てくれた。ここまで歩いて来れる距離だから、ほんとうに助かる。そして、夫婦の片方だけでも、こうして元気に居てくれることがうれしい。

■室見川の下線公園にそびえるケヤキ。つぎに会いに行ったら、ずいぶん若葉がおおきくなって、青々と茂っているだろうなぁ。

きょう入院しました2025年04月09日 20時28分

 使いなれた青いリュックを背負い、右手におおきな布袋を提げて、ゆっくり歩いて朝の10時に総合病院に着いた。隣にはぼくの着替えを入れた黒いリュックのカミさんがいる。
 4人部屋、3食付き、4泊5日の短い治療専念の旅がはじまった。
 ここまでが長かった。やっと受け身一方だった流れを変えられる、きっとよくなる方向へ。
 このごろのカミさんは努めて明るくふるまっている。前日はぼくを外へ引っ張り出して、スマホで写真を撮ってくれた。
「お父さん、(抗がん剤治療で)髪の毛がなくなる前に、写真を撮ってやるよ。髪がなくなったら、もう間にあわないからね」
「やっぱり副作用でそうなるんだろうなぁ」
「そうよ。退院して帰って来るときは、ちゃんと帽子をかぶらなくっちゃね」
「おまえ、たった3日間の治療で、髪の毛がぜんぶ抜けてしまうとでも思っているのかよ」
「そうでしょ? あれっ、違ったっけ?」
「いくらなんでも、それはないんじゃないの」
「でもね、いま撮らないとずっと後悔するからね」
「わかった、わかった。じゃあ、そうしてもらおうか」
 まさか手まわしよく夫の「遺〇写〇」の撮影じゃないだろうな、ふと縁起でもないことが頭をよぎった。だが、カミさんの顔はやる気満々である。「やってあげるから、ね。いまのうちに早く撮ろうよ」と手ぐすねをひいて、にこにこしている。
 いったいこんなことのどこがそんなにおもしろいのだろうか。いつまでたっても、女ごころは意味深と意味不明とが入れ混じって、さっぱりわけがわからない。
「あのラガーシャツに着替えたらいいんじゃない。若くみえるから」
 ご要望にお応えして、できるだけ自然な笑顔をつくったのに7、8回も撮りなおしを要求された。すでに頭のてっぺんは薄くなっていて、地肌がみえるのは致し方がないにしても、それでもちゃんと髪の毛が生えているときの写真を撮ってもらった。カミさんは目的を達して、ご満足の様子であった。
(いったんここで筆をおく)
 午後5時ごろ、1時間ほどかかって、痛くも、怖くもない手術を終えた。明日からはじる化学療法の準備の一環で、たいした手術ではないのでご安心を。
 どうやら、このフロアにはがんで闘っている人がたくさんいるらしい。同室の40代の男性は部屋のなかでも緑色の帽子をかぶったままだ。だからといって、落ち込んでいる様子はみじんもない。まだご挨拶もできていないが、「共に戦いましょう」と声には出さずに、エールをおくった。
 そうなのだ。髪の毛が抜け落ちているのは、前を向いて、挫けずに闘っている証明なのだ。尊い姿だとおもう。
 ヨシッ! これでハゲてしまったときのこころの準備もできた。

■今朝がた、歩いて病院に向かうときに撮った花壇の写真。カミさんは病院からの帰り道、ご近所さんから「花壇がきれい」とほめられたという。
 ヨカッタ、ヨカッタ。

青春からの仲間たち2025年04月07日 18時07分

 昨日も花見をした。予定外のことだった。連れは高校時代の友人ふたりである。
 前日の夜8時すぎ、1通のLINEが着信。小倉にいる「西高3人組」のひとりH君からだった。
「平日は自由な時間が取れなく、河畔公園で一緒に花見がしたいので、明日の昼前ごろにそちらに行ってもよいですか?」
 断れるわけがない。この短い文だけで、もっと言いたいことは充分に読みとれる。
 この日のブログを読んでくれたのだ。彼はここまで一度も来たことがない。高速バスや地下鉄を乗り継いで、待ち時間なしでも往復4時間はかかる。
 さっそく同意の電話をした。
 そうなるともうひとり声をかけたい友がいる。
 毎年一緒に花見をしているS君で、つい先日、花見の件を持ち出されて、やんわりお断りしたばかり。彼もブログで、ぼくの状況をときどきチェックしている。
 するとその翌日、「お酒は飲めなくても、桜の下でお茶とお菓子ぐらいはと思って」という誘いが来た。気持ちはうれしかったけれど、「またの機会に」と辞退したいきさつがあった。
 同じ高校の仲間とはいえ、H君とS君が顔を合わせるのは卒業以来のこと。ふたりは実に半世紀ぶりの再会になるという。お互いの性格も、歩いてきた道もそれぞれ違っても、どちらも大切な友である。H君から連絡があったことを、S君に知らんふりできるわけがない。
 こうして70代半ばのかつての若者たちが満開の桜の下で一杯やることになったという次第。
 桜の花がちらほら舞い落ちるなかで、彼らはぼくの病気のことに触れようとはしなかった。こんな機会はめったにないから、お互いにしゃべりたいことがどんどん出てくる。ふたりで飲むよりも、やっぱり3人の方が何倍も話の花が咲いた。
 桜の花が一枚、二枚、酒を注いだ紙コップのなかに浮かんでいる。花びらごとクビッと飲み干す。桜も粋な演出をしてくれるものだ。
 友とはありがたいものである。久しぶりに大笑いしながら、彼らとも簡単にサヨナラできないな、とおもった。
 隣のテーブルで談笑していた「77歳の元クラスメート同士」という3人連れの「もと乙女たち」にも声をかけた。きれいな銀色の髪のショートカットがよく似合う、笑顔のチャーミングな女性は、「わたしの主人は亡くなってね、あちらにいるの」。
 そういいながら、桜の花から透けてみえる青い空に向かって、ひらひらと手を振ってみせた。H君はそのかわいい人にお願いして、ぼくたちの集合写真を撮ってもらった。
 別れる間際になって、ふたりから「がんばれよ。また会おうや」とひと言があった。

 あさって入院します

 きょうは外科医の診察の日。明後日の入院が決まった。期間は5日間。ようやく待ちに待った化学療法がはじまる。

満開の桜から生気をもらう2025年04月05日 17時44分

「今日こそ行かなくては」
 そう奮起して、昼めしどきにカミさんと花見をした。
 いまのぼくは花見をするにも、それなりの気合いを要する。気持ちとからだの調子次第なので、一昨日も、昨日も、「やっぱり止めておこう」となった。だが、ぼやぼやしているとたちまち花は散ってしまう。
 桜の木がある室見川のちいさな河畔公園まで歩いて4分ほど。ちかくのスーパーで、つまみになりそうな弁当と缶ビール、イチゴなど3、4品を買い込んで、初ものの筍の煮物とお茶は家にあるものを提げて行く。ほんの短い道中でも、満開の桜の花に会いに行く気分は浮き浮きしていいものである。
 子どもたちが幼いころ、よく焼肉をしたコンクリート製のテーブルと椅子を占領して、暖かい陽ざしをいっぱいに浴びながら、さっそく缶ビールを開けた。まわりでもお年寄りの団体さんや家族連れが仲よく宴会をしている。
 ピーヨピーヨ。チュン、チュン、チュン。
 ほのかなピンクの桜の花のあいだをヒヨドリやスズメがにぎやかに飛びまわっている。そこだけ小枝がはげしく揺れ動き、花びらがひらひら舞い落ちる。ぼくたちのテーブルの上には、弁当のおこぼれをねらって野バトも1羽、飛んできた。小首をかしげて、まんまるい眼でこっちをみながら、じっとしている。
 ああ、よかった。ことしも花見ができた。また来年もやろうとおもった。
 心配してくれる人もいるので、ここで少し病院通いの報告をしておく。
 先の月曜日に外科の担当医の診察を受けた。下された判断は、「大腸カメラの検査で採取した細胞の検査の結果を待って、これから先の治療方法を決めましょう」だった。
 できるだけ早く治療をはじめてほしいのだが、経験豊富な医者は慎重である。治療の方針が決まるのは来週に持ち越しとなった。カミさんにも伝えて、毎度のことながら、いい方向に考えるようにしている。
 花見から帰って、カミさんの髪を染めてあげた。
 こちとらはもう手馴れたもので、「はい、いいよ」と答えて、一丁上がりまで1時間とかからない。若返ったカミさんは同じ団地にいる友人のところに呼ばれて行った。そこのベランダの真正面にも桜が満開に咲いている。
 きょうはやることをやったような、ちょっといい気分である。風呂上がりに、「思いだし花見」をしながら、軽く一杯やることにしよう。

■「絶対に負けるな。高校時代の友だちはもうお前ひとりしかいないんだからな」、「友人は〇〇で完治しています。治ると信じて進めることを祈っております」、「気力に満ちているので、必ず治るよ」、「△△さんは持ってる、モテ男。必ずや闘いに勝利されると確信しています」。
 長いつきあいの友や後輩君からのメールである。カミさんにも励ましのメッセージがいくつも届いている。
 ありがとうございます!

合言葉は、「必ず治るよ」2025年03月29日 11時27分

 昨日は大腸カメラの検査をした。ベッドの上に横になって、係りの若いお兄さんに「終わるまでどれぐらい時間がかかりますか」と訊いた。「何もなければ30分ぐらいですね」という返事。
 鎮静剤の眠りから覚めて、壁にかかっている時計を見たら1時間を越えていた。
 しばらくして担当の消化管内科の若い医師から検査の結果を聞いた。
「がんですね。直腸のちかくにあります。すい臓がんからのものでしょう」
 こういうこともあるといちおうは覚悟していた。だが、実際に大腸の穴の壁面に盛り上がっているがんの写真を見せられて、淡々と説明される身には、こころに非情なヤスリでもかけられているような気分である。
 それにしてもあれだけCT検査をしたのに、がんの存在がわからなかったものか。それだけ見つけるのがむずかしい病気だということだろう。
「内視鏡を使って、がんを取り除くことはできますか」
「できません。(これから先のことは)外科の先生がどうされるかですね」
 (こうやって、まるで他人事のように、すらすらと事実を客観的に書くのは自分でも妙な気持ちになるが、やはり書かなければいけないという元記者の本性がそうさせるのだろうか)
 鎮静剤を打ったので、昨日の病院通いに車は使えず、往復とも歩きだった。自宅まで30分足らず、カミさんが心配しているのはわかっていたが、いちばん言いたくないことだし、聞く方も聞きたくない話なので、一報を入れずに、顔をみながら話すことにした。
 このところ見た目にもはっきり痩せたカミさんの小柄なからだは、みるみるちいさくしぼんでいくようだった。いまにも泣き出しそうだった。ここでなぐさめたら終わりだとおもった。見ていて、かわいそうでたまらない。
 こんなときは気持ちを奮い立たせるしかない。これまで数えきれないほどそうしてきた。
 ちょうどネットで注文していたブラジル産のプロポリスが届いていたので、さっそく飲んでみた。現地にいる友が「実際に効果があった人を確認して」、勧めてくれたものである。
 一夜明けて、今朝も起きがけに飲んだ。そして、簡単な日記兼用の大判の手帳に、「免疫療法スタート」と書き込んだ。ブラジルの友からは「治ると信じて前向きに勧める事を祈っております」とのLINEも届いている。
 とにかく、がんはみつかったばかりなのだ。治療は来月からである。
 先進の抗がん剤治療。それに次男が支えてくれる漢方薬、さらにブラジル産プロポリスをつかった免疫療法。手術をした二年前は、前者ふたつのダブル戦法だったが、今度はこの三つの療法をミックスしたトリプル戦法で闘う。
 病は気から、という。やるだけやってやろうとおもっている。カミさんもいくらか落ち着きをとり戻して、いつものように「必ず治るよ」と言っている。ふたりの息子も協力を約束してくれた。
「必ず治るよ」は、ぼくたち家族の合言葉になった。

■きょうは地元サッカーチーム・アビスパ福岡の試合が午後3時からある。熱心なサポーターのカミさんは「行くのを止める」と言っていたが、ぼくは「行ってもらいたい」と勧めた。カミさんも受け入れてくれた。

「ゴミ」のおおそうじをする2025年03月27日 14時42分

 あんなブログを書いたものだから心配してくれる人もいて、この先どうなることかと思われているだろうし、自分自身もそう思っている。揺れ動く感情をピンで固定することはできないが、こんな独り言を書くのも、こんなことになったからである。
 うまく言えないが、人生をみる目にまたひとつ別の角度から眺められるようになった感がある。そして、自分の気持ちをコントロールする術もいくらか上達したようにおもう。
 たとえば、ぼくのからだのなかにあるがん細胞を「ゴミ」と呼ぶことにした。がんは不要なゴミである。これからはじまる治療は「ゴミそうじ」というわけだ。
 そうなのだ、ぼくは「ゴミのおおそうじ」をするのだ。「ゴミ」という言葉はなんの抵抗もなく、ぼくの脳みそに受け入れられて、気持ちよく定着した。
 以前も引用したが、作家の井上ひさしが話したことを再度、書き写しておく。
 
 自分が悩みごとやさまざまなことで追いつめられたとき、言葉がいちばん、役に立つのです。言葉で切り抜けていくしかないのです。

 さて、昨夜のこと、気晴らしでぼちぼち書きはじめた習作をカミさんにみせた。まだ400字詰めの原稿用紙に換算して20枚ていどの下書きで、どうというものではないが、「好きなことをやっているからね。まだやりたいことがあるからね」というサインのつもりである。
 それでも一度みせた手前上、「まだ書き出しの途中で、次にすすむ筋書きも浮かんでいないけれど、下手でも書き上げないといかんなぁ」という気になった。
 明日は大腸カメラをつかった検診が待っている。すでに今朝の朝食から食事制限がはじまっていて、明日の昼までに大量の下剤を飲んで、大腸のなかをすっからかんにしておかないといけない。
 昨日、病院で受けた看護士さんの説明では、うどんなら具材のない素うどんにして、薬味の青ネギも駄目という。おにぎりも海苔があったらバツ。トーストもバターやジャムはアウト。野菜、果物、ジュースも植物繊維があるのでいっさいダメ。もちろん、明日の朝と昼は絶食である。検査のためとはいえ、ここまでからだをいじめないといけないものか。
 来週はまた病院である。たぶん入院の日程も決まる。
 はやく「ゴミそうじ」をはじめたいなぁ。落ち着かない日々がつづく。

■燃えないゴミを出しに行ったら、花壇の手入れをしていたカミさんが見知らぬ年配の女性につかまっていた。花が好きな人が通りかかると、こんなふうにときどき立ち話に巻き込まれる。
 この人も一戸建てを処分して、この団地に移って来たという。以前住んでいた自宅の庭には花がいっぱい咲いていたそうだ。

がんとの闘い、第2ラウンド開始2025年03月24日 17時15分

 午後1時過ぎに病院から帰宅した。1時間以上も待たされて、外科の担当医から聞いたPET検査の結果は、やはり歓迎せざるものだった。
 すい臓がんが再発したばかりではなく、腹膜にもがん細胞のタネが散らばっているという。ただ検査報告書ではいずれも「軽度の」という前置きと、「可能性がある」との常套文句がついている。また、このところお腹の調子が悪いせいか、直腸にも病変の可能性があると指摘された。これについては後日、大腸カメラで詳しく検査することになった。
「順調にきていたのに。こんな話をするのはつらいんですよ」と医者は言った。「そうだろうな。オレだってカミさんに話すのはつらいんだよ」とおもった。
 今後の治療スケジュールはまだ決まっていないが、4月に入ったら1週間ほど入院して、抗がん剤治療がはじまるのは決定的である。腹膜については、「外科のメンバーとも話し合って、一度なかをのぞいて、がんかどうか確認することもありますね」と言っていた。この外科部長はなんでも率直に話してくれる。だから、こちらも気になることはなんでも訊ける。
 ぼくのすい臓がんの手術を担当して、ずっと経過を見守ってきた医師としては、少しでも明るい希望があるのなら、やれることはやってやろうという気持ちが伝わってくる。
 今日の診察のおおまかな報告は以上の通り。
 気持ちが滅入りそうな話を並べたてたが、ぼくはこうおもっている。
 モノゴトには必ず反対側がある。ちいさながんが見つかって、手術をしないで、抗がん剤治療で回復した人は、まわりにたくさんいる。しかも、ぼくのそれはようやくみつかったばかり。同じ薬でも、効かない人もいれば、効く人もいる。すい臓がんのステージ3だった人が手術を受けないで回復した人も実際にいる。
 悲観せずに、明るい方だけをみて、自分は運がいいと強く信じることだ。
 昨日、カミさんがぼくの心配ごとを打ち明けた仲良しの奥さんから、彼女のスマホにメールがきた。「(ぼくに)なにかあったら、遠慮なく連絡して。主人がすぐ車を出すから」という内容だった。「気が早いよな」と笑ってしまったが、ありがたさが身に染みた。
 高校時代の友だちからも電話があった。先日のブログを見て、心配していたという。包み隠さずに今日のこと、そしてぼくの気持ちを打ち明けた。2年前の手術のときと同じように、ガンバロウゼ! のエールをもらった。
 たまたまカミさんは今日がパートの最終日で、早いご帰還だった。彼女にもぜんぶ話した。心配で、心配で、泣きそうな顔をしていたが、いまでは一緒に戦う気持ちになっている。こころ休まる、なによりの援軍である。
 ともかく、やることがはっきりした。もやもやしていて、ついつい沈みがちだった昨日までとはこころの持ちようがまるで違う。

■室見川にいたカモは数えるほどしか残っていない。この3羽は居残り組か。

CT検査、PET検査の10日間2025年03月22日 17時23分

 暖かい。気温は20度を超えて、いっぺんに春らんまんである。
 このところブログを書く気になれなかった。いまでもそうなのだが、重い気持ちを奮い立たせて書く。
 どうやらがんが再発したらしい。いや、「らしい」という言いまわしは、現実から目をそらしている。
 昨年の暮れに医師からがんの再発をにおわされて、今年1月初旬に予定になかったCT検査を受けた。
 判定は、がんは見当たらず。だが、腫瘍マーカーの数値は昨年末の200から1,200に跳ね上がっていた。正常値は160以下だから、ふつうに考えたら、がん細胞はどこかにある。
 医師は2か月後に再度のCT検査を設定した。その日の今月11日、またCT検査と腫瘍マーカーを調べる血液検査を受けた。そして、結果を聞いたのは今週の17日。
 結果はまたもや、がんは特定できなかった。腫瘍マーカーのデータは渡してもらえなかったが、「高いなぁ」と言われた。
 医師はCTの画像のある一点を指先で示しながら、「どうもここが気になる。すい臓の血管かなぁ。まずいなぁ」と言った。以前、「もうすい臓がんになることはありません」と言われていただけに、「またか」とショックだった。
 ぼくはこの先の治療について質問した。「もうすい臓の手術はできません」と返ってきた。こちらもあんな辛い手術は二度としたくない。そして、今度は「がんを調べるもうひとつの方法のPET検査をやりましょう」となった。
 それが昨日のことで、生まれて初めてPET検査を受けた。結果がわかるのは来週になる。いつもの主治医から説明がある。
 このところ吐き気と腹くだしが止まず、食欲も落ちて、からだも気持ちも低空飛行をしている。きっとストレスのせいもあるのだろう。心配性なカミさんは気丈に耐えて、努めてふだん通りにしてくれている。この身近な支えが本当にありがたい。
 こんな状況だから、とても日々の出来事を書く気になれなかった。
 ここまでは事実を並べただけで、心の方はどうかと言えば、闘う気持ちは健在である。
 とにかくCTでもまだ病巣を判定できる段階ではない。データによるがんの兆候は明らかだが、がんは見つかっていない。すい臓の血管はやっかいでも、それがどこであれ、やっつけるのはいまのうちである。そして、闘う武器は、放射線や抗がん剤だけではないことをぼくはわかっている。
 いまは不安要因だらけだから精神的にきついが、がんの再発が頭から完全に消えたことはない。だれがいつなってもおかしくない病気だから、二度目もありうる。もし、そうなったら、こんどは早期発見で手術ではなく、抗がん剤ですむだろうとおもっていた。
 勝ち戦をした総合病院での治療が始まったら、やることがはっきりして、逆に落ち着くとおもう。
 この陽気で、桜の蕾もふくらんで、もうすぐ花見である。気持ちのいい季節がはじまる。
 よし! きっと気分も変わる。

ネコ好きにもほどがある2025年03月16日 15時27分

 ネコがいる家で育ったカミさんは、大のネコ好きである。
 あーあ、ネコを飼いたいなぁ、撫ぜたいな。よくそう言っているけれど、団地の決まりであきらめるしかない。せめてものなぐさめか、先ほどまでカミさんはニャンコが出ているテレビ番組の録画をみながら、ときどき噴き出していた。
 ぼくもたまには付き合うのだが、主役は人間不信の塊みたいな保護ネコで、「シャーッ!」とやったり、ハンガーストライキをしたり、とうとう根負けして恐る恐る檻から出て来るのは毎回同じ。スタジオにいるタレントたちが「キャー!」とか、「グスン!」とやるのもいつものことで、こんなにワンパターンの番組がそんなにおもしろいのだろうかと不思議におもってしまう。
 別に目くじらを立てているのではない。こうみえても動物愛護の啓蒙活動につながる意義はちゃんと評価しているのだ。ぼくはイヌ派だが、実家でネコを飼っていたこともあるし、ネコがゴロゴロ喉を鳴らしながら、ふとんのなかにはいってくるのもうれしかった。
 ネコが出てくる番組はいくつもある。それだけ愛猫家が多いのだろう。そこで、ネコ好きにもほどがある、という一例をあげておこう。
 小説家の村松梢風(1961年没)の随筆『猫料理』にこんな文章がある。タイトルこそ『猫料理』だが、なにもネコをとって食おうというのではない。全文を紹介したいのだが、さわりだけを抜粋する。
 ちなみに鎌倉市に住んでいた村松氏がこの短い文章を書いたとき、彼は自宅に迷い込んだネコの子孫たちや別の迷いネコを合わせて、10匹のネコを飼っていた。

 さてこの猫たちの食物だが、最初から、私のところでは飯はやらずに魚だけで育てた。初めのうちはほとんど小アジばかりであったが、段々贅沢になり、今では魚だけでも毎日六、七種になる。鎌倉名物の小アジのナマと塩なしの干物、これは主食のようなものである。ほかに季節によって多少の変化はあるが、キス、ヒラメ、カツオ、ナマリ節、マグロのさし身、夏は開きドジョーも焼いてやる。それに卵の黄身、牛乳は欠かさず、ビフテキ、レバーなども時々やる。カツオ節もかいてやる。飯へかけるのではなく、カツブシだけ食べるのだ。(略)
 朝夕二回魚屋が私の家へ運ぶ魚の量は大変なものだ。さし身でも何人前かを、人間の場合と同じようにツマからワサビまでつけ飾りを立てて持ってくる。(略)
 砂箱はいたるところにあって毎日その砂を取り替えるから、月に一度大トラックで海浜の清潔な砂を運んできて、帰りに古い砂を持ち去る。横浜から有名な獣医さんが十日目ごとに全員の健康診断に来る。

 初めて読んだとき、本当だろうかと疑った。だれにともなく、「どうだ、参ったか。オレの右に出るやつはいないだろう」と言わんばかりである。
 それにしても、ネコはどうして人間をこんなふうにさせてしまうのだろうか。

■写真は、「室見川のいちばん桜」。この名前はぼくが勝手につけた。毎年、室見川沿いの桜のなかで真っ先にピンク色の花を咲かせる。
 冬鳥のカモはぽつりぽつりになって、代わりにツバメたちが飛びまわっている。枯れ草のなかから顔を出したばかりのツクシをとっている人もいる。

奇人、変人だらけ2025年03月09日 10時13分

 夜明けから青い空、気持ちのいい朝である。もう草取り婆さんがしゃがみこんでいる。白い羊のようなその恰好を見て、ふと浮かんだ言葉は「奇人、変人」。
 奇人、変人には尊称の意味もあるのではないか。下記のような文章を目にすると、「やっぱり、そうか」と得心がいって、なんだかうれしくなる。
 夏目漱石の随筆、『正岡子規』にこんなくだりがある。このふたりは仲がよかった。漱石は子規の突拍子もない人柄をいとおしみ、友のありのままの姿を書き残しておきたくなって、ペンをとったのだろう。そのときの子規の得意げな様子が目に見えるようだ。

 其時分は冬だった。大将雪隠(せっちん)へ這入るのに火鉢を持って這入る。雪隠へ火鉢を持って行ったとて当る事が出来ないじゃないかというと、いや当り前にするときん隠しが邪魔になっていかぬから、後ろ向きになって前に火鉢を置いて当るのじゃという。それで其火鉢で牛肉をじゃあじゃあ煮て食うのだからたまらない。

 まさか便所のなかでこんなことをする人はそんなにいないだろうが、ぼくのまわりにはどちらかといえば奇人、変人が多かった。この「多かった」と過去形で書くのはちょっと辛いものがある。
 ある友は学生時代の下宿の部屋に、だれが使ったものかもわからない洋式トイレを持ち込んで、どでかい灰皿にしていた。この男、ヨットを乗れば、風が止まってどうにもならないときに船を進めるのが得意だった。「凪(なぎ)の△△」と呼ばれていた。
 ある先輩は幼い息子を連れて田舎に里帰りしたとき、東京への戻りの列車に間に合わず、線路のなかで仁王立ちして、肩車した息子に両手を広げさせ、向かってくる列車を緊急停車させた。高校生のときには家から持ちだした日本刀を放課後の教室でふりかぶり、分厚い電話帳をバッサリ断ち切って、同級生の度肝を抜いたこともある。だれも教師にはタレコミをしなかった。そんなおおらかな時代があった。
 別の先輩はチリ紙交換のバイトをしているとき、スピーカーの音量を上げて、「毎度おなじみのチリ紙交換で~す」とやりながら、「そこのお嬢さん、ちゃんと信号を渡りましょう」、「ゴミを捨ててはいけません」と街の保安活動をやっていた。縄張りを荒らされて、ケチをつけたチンピラには、そやつの机の上を片足でドンと踏みつけて黙らせた。
 ある友は下宿の部屋を真っ暗にして、本を読みはじめたら二晩続けて徹夜して、翌日は丸一日寝て過ごすのが習慣になっていた。寝ている間は飯を食わずにすむ。本代がかさんでいつも金がなく、基本は一日一食。鍋で一度に三合の飯を炊き、おかずはサバやイワシの缶詰ひとつ。じつにうまそうに食っていた。彼は大学の授業をバカにしていた。
 みんなぼくの結婚式に来てくれた。人はさまざまだし、人を見る目もさまざまだから、もしかしたらこの世のなかは奇人、変人だらけなのかもしれない。
 
■先日の名古屋の姉の話。結局、テレビに出て来なかった。
 写真はヒヨドリ。カミさんがベランダで育てて、黄色い花がいっぱいついていたギンギョソウが丸裸になっていた。開いたままの花が10個以上も散らばっていた。どうやら留守のあいだにヒヨドリにやられたらしい。腹が減って、腹の足しになるものを探しまわっていたのだろう。写真のヒヨドリは「犯人」ではありません。