カストリを飲んで、月に吠える2021年08月02日 11時57分

 井伏鱒二の中編を読んでいたら宴席の場面で、カストリを飲み回して酔っぱらう描写があった。読み進めると、またカストリが出てきた。
 こうなるといけない。ただ目だけが字面を追いかけて、とても作中に没頭できない。
 カストリかぁ。ぼくの頭のなかには別のシーンがまざまざと思い浮かんでくる。
 あれは大学3年生の早秋だったか。身長192センチ、両肩よりも長い髪、グレーの浴衣に黒の兵児帯を締め、つっかけ履きの姿で、同じゼミの授業に出ていた I 先輩とふたりで、月をめでながら酌み交わした酒がカストリだった。
 ある日、ゼミの授業が終わると、I先輩が寄ってきて、「カストリが手に入ったんだ。一緒に飲もう」と声をかけられた。
「じゃあ、西武池袋線で飯能まで行って、そこから歩くと、いい渓流があります。水も石ころもきれいで、焚火もできるので、そこで月を見ながら一句つくりましょう」と話がまとまった。
 ぼくはそれまでカストリを飲んだことがなかった。I 先輩は、「戦後の闇市で出まわっていた焼酎だよ。新宿のある細い路地の奥に朝鮮人がやっている飲み屋があって、そこで手に入れたんだ。密造酒だよ」と、大いにぼくの関心をそそるのである。
 その週末の昼過ぎ、池袋駅の改札口にあらわれた I 先輩は、あのなつかしい唐草風呂敷を下げていた。緑の地に白い線の唐草模様をあしらった図柄は強烈なインパクトで、これが夜中なら、見上げるような大男の I さんは警官に職務質問されるのは免れぬところだったろう。
 その風呂敷は大きく膨らんでいて、なかには鍋、包丁、しょうゆ、紙コップなどのほかに、緑色の一升瓶も納まっていた。
 I 先輩は東京生まれの、東京育ちだが、母親は島根のお城の家老という血筋で、父親はバイオリストだった。東京芸術大学で二人は恋に落ち、古い公団での生活はけっして豊かな暮らしぶりのようではなかったが、仲の良い上品な夫婦だった。I 先輩によると「坂本龍馬の書(手紙など)もあったけど、みな売り払った」と言っていた。
 飯能の駅前のスーパーで、白菜やネギ、豆腐などを買い(貧乏学生なので肉はなし)、農家が散在するゆるやかな上りの道を歩いて、並行している川幅3間ほどの流れに降りた。ここは、ぼくがつきあっていた女性をつれてきた場所である。お茶を飲むとか、一緒に映画を見るとか、そんな趣味はぼくにはなかった。それはI先輩も同じだった。
 はじめて飲んだカストリは、うまいものではなかった。先輩が持参した一升瓶にはラベルなんて貼られていない。素材やアルコール度数の表示もない。薄白く濁っていて、そんなに度数は高いとは感じなかったが、清酒や焼酎とは違う、いままで嗅いだことのないニオイが鼻をつく野性的な酒だった。
 目の前は岩の間を透き通った水がとうとうと流れて行き、その向こうには壁のように山肌が迫っている。夕暮れになると川霧が出てきた。
 石を組み合わせてこしらえた小さなかまどの上に載せた鍋から湯気が立ち昇っていた。集めた枯れ木は赤い熾火になっていた。ぼくたちは熱い豆腐やネギに箸を伸ばしては、カストリを何杯も飲んだ。
 はじめのうちは、ちょっとこれは、というキワモノ扱いだったが、そのうちに酔いがまわってきて、
「これはうまい。こういう酒の文化は守り続けなくてはいかん」
「その通り。酒屋でも正々堂々と販売すべきであーる」と叫ぶようになった。
 やがて山峡に、大きくてまるい、黄色に輝く月がのぼった。
「さぁ、先輩、せっかくだから、一句読みましょう。ぼくからやりますよ。大海の、いくら群れても、メダカはメダカ。池の鯉でも、鯉は恋。あれっ、これ、都々逸でしたっけ。いや、間違ってるな」
「沖のカサゴは、酔いどれカサゴ、潮水を飲んでは、げろを吐く。いかん、酔っぱらった」
 はっきり覚えていないけど、こんなわけのわからないことを言いあいながら、終電近い電車で引き上げたことを思いだす。
 I 先輩は、他学部への編入試験を受けたことがある。そこで出た問題に、「社会法とは何か」というのがあったそうだ。これに対して、彼が書いた回答文は、「社会法は、社会の法律である」という一文だけ。そういうことを平気でやってのける人だった。
 もう、カストリを口にすることはあるまい。数年前、I さんはやさしいお母さんをひとり残して、鬼籍に入られた。

■室見川で猛暑の日々を生き抜いているコガモ。からだがひときわ小さくなったように見える。

大酒飲みの流儀2021年08月04日 11時45分

 断酒をすることで、本来の頭のキレを取り戻そうとした人の筆頭格といえば、碁打ちの故藤沢秀行さんの顔が浮かぶ。
 彼は完全なアルコール依存症だった。酒だけではない、バクチや女の出入りも度が外れていた。それでも人気は抜群だった。とりわけ、ぼくがすごい人だとおもったのは、彼がここ大一番のときには好きな酒を断ち切る見事さである。
 秀行さんはタイトルの初物喰いでも有名で、第1期名人のほか、最高棋士決定戦と位置付けられた初代棋聖のタイトルも獲っている(1976年、52歳)。
 賞金額は当時の最高ランクで、億単位といわれた借金漬けの秀行さんは棋聖戦に生死をかける覚悟で臨んでいた。ふだんは朝からウィスキーの瓶を離さなかったが、タイトル戦の一か月前には、ピタリと酒を断った。そして、次々と挑戦してくる若手強豪を退けて、6連覇を達成した。
 この間、借金のために自宅を競売にかけられたが、賞金できれいに返済している。「酒を断って、本気になれば自分はやれるのだ」というお手本のような人である。
 その秀行さんに、一度だけ会ったことがある。確か自宅ではなく、仕事用のマンションの一室だった。そのときも秀行さんは酒臭かった。水の入ったコップを持つ手がぶるぶる震えていた。でも、話しぶりはやさしくて、愛嬌のある笑顔で相手をしてくれた。
 彼は若手をかわいがる人だった。中国の若手も惜しみなく指導した。いまでも秀行さんのことを慕う棋士は大勢いる。ファンは経営者にもいる。
 あんな破天荒な異才を受け入れる度量の広さが、ひと昔前の日本人にはあったのだ。
 酒と取材の話はいろいろあったが、いちばんきつかったのは「サントリーの角」である。
 あれは明治大学ラグビー部の創設者であり、初代監督の故北島忠治さんの特集企画を取材していたとき。エース記者のTさんとのコンビで、ぼくは現役選手とOBの取材を担当した。後に新日鉄釜石ラグビー部を率いる松尾雄治さんが4年生のときで、大学日本一と日本選手権初優勝に輝いた直前である。
 パンツ一枚になった松尾さんの鋼のような肉体にも驚いたが、酒と格闘した取材は、元日本代表のOBを自宅に訪ねたときだった。
 ポジションはFWのロックで、還暦を過ぎても、見るからに頑強なからだつき。座敷に通されて、挨拶をした後、彼はサントリーの角の、通常サイズの倍はあろうかという特大ビンを持ってきた。それを座卓の上にドンと置き、これも特大のグラスをふたつ、そして柿の種とポテトチップスの袋を皿に開けた。
「チュウさん(北島忠治さんの愛称)の取材なら、こいつをやらなくっちゃ、話が始まらんからね」
 そういって特大の角ビンから、特大のグラスのてっぺん近くまで、琥珀色の液体を注いだのだ。氷も水も入れてくれない。ストレートでやろうぜ、というわけだ。
 どう見ても軽く2合は入っている。酔ったらいかんぞと気を張りながら、相手のペースにあわせて飲んだ。昔話を聞き取りながら、30分ほどでなんとか空っぽにした。
 すると元日本代表さんは、がぜん調子に火がついたようにご機嫌になり、また特大の角ビンに手を伸ばしたのだ。
「一杯きり、というのはね、ぼくも、チュウさんも嫌いなんだよ」
 そのときの話題は、彼らラグビー部の部員たちが地まわりのやくざとケンカして、強烈なタックルをかまして、コテンパンにやっつけたという武勇伝の真っ最中だった。そして、そのヤクザたちが仕返しをするために、当日の夜、ドスを片手に八幡山の明大ラグビー部の合宿へ乗り込んできた。そんな話で大いに盛り上がっているときだった。
 ひとりで留守番をしていて退屈していた相手は、ぼくを小躍(こおど)りするようにして待ち構えていたのだ。ウィスキーが一杯だけで終わるはずはなかったのである。
 このケンカの結末も書いておこう。
 玄関で応対した北島監督は、顔色ひとつ変えずに、さっと刀を奪い取るやいなや、抜き手も見せずに、横にあった木製机の脚をピュッとけさがけに切り払った。おニイさんたちは顔面蒼白。その足下に刀をポンと放り投げた北島さんは、「帰れ! ここはお前らの来るところじゃない!」と大音響で一喝したという。
 その後、おニイさんたちは明大ラグビー部のファンになったというオチもついている。
 こんな映画のような事件も、ひと昔前だから大騒動にはならなかったのだ。いまは人の情が薄れて、何かといえばバッシングだ。人の世なのに、すっかり味気なくなってしまった。
 取材中に乱れることはなかったが、帰りのタクシーのなかで酔いがまわり、昼間に早退したのは後にも先にもこのときだけ。お恥ずかしい話で、記者失格といわれても仕方のない「酒の顛末」だった。

■「御大」の愛称で慕われていた同じ明大の野球部の名物監督・故島岡吉郎監督は取材の後で、ぼくに「きみ、飲めるか」と言い、「サントリーのロイヤル」を持たせてくれた。あのころは若手をかわいがる大人がたくさんいた。それだけ自分の信念に自信のある教育者が多かったのだとおもう。

■先の休日、室見川で子どもたちが水遊びをしていた(写真)。

里山-多技能の世界がおもしろい2021年08月05日 09時42分

 猛々(たけだけ)しい勢いで、葛(くず)のつるが伸びている。ほうっておくと2、30メートルも先まで伸びて行く。ものすごい生命力である。
 少し家並の途切れたあたりの道路の脇が密生した葛のマントでおおわれているところがある。その奥はひっそりとした暗い闇のようで、立ち入る人はいない。
 竹林に春がきて、タケノコが生えてきても、壁のようにおおいかぶさっているマントの向こう側は暗い竹やぶだから、タケノコを採る人もいない。なかに踏み込むと立ち枯れした茶色い竹が斜めになったままだったり、転がっていたりする。それは管理の行き届いていない杉林と同じようなものだ。人の手が入らないと、こうやって山は見る間に荒れていくのである。
 こういう光景を目にするたびに、里山文化の荒廃を身近に感じてしまう。
 子どもころは山すその雑木林も、竹林も、ぼくたちの格好の遊び場だった。木立ちの中は明るくて、風が吹くといっせいに木々は白い葉うらを見せて、風と一緒にさざ波のように走っていく。まるで風の動きが目に見えるようだった。そのときぼくらは風の子どもの、風小僧になるのだ。
 みんなポケットに肥後守を持っていた。小さくとも刃先は日本刀と同じく鋼(はがね)で、錆びないように砥石でせっせと研いだものだ。肥後守で竹を切り、チャンバラごっこの刀を作った。笛を作って吹いた。釣り竿を作って、港の岸でアジを釣った。
 そうやってぼくらは里山文化の一端にふれていた。
 里山文化は多技能の世界である。人々は山からとってきた腐葉土や草や木を、畑やたんぼの肥料にした。牛や馬を飼い、それらの小屋や小川に掛ける橋も自力でつくった。麦や稲の藁(わら)で縄や籠もつくった。山ではウサギやイノシシ、ヤマドリ、キジを、川ではアユやモヅクガニ、ウナギを獲った。
 農家、大工、猟師などの技術をあわせ持った万能型の人たちによって支えられていたのが里山文化である。多技能を身につけている点では、海の民も同じだろう。
 いまでは多くのところで、里山文化は崩壊してしまった。
 数年前、ぼくは東京の知人からイノシシやシカを追い払う製品の普及を依頼されて、甘木市郊外の農家を訪れたことがある。
 その自宅のすぐ裏山はすでにシカたちに占領されていた。10年前までの裏山は、春になると桃の花のピンク一色に染まっていたという。だが、何十年も育ててきた自慢の桃の木はシカの食害で、ほぼ全滅していた。
 農家のお婆さんによると「シカは目の前まで平気でやってくる。大きくて、怖い。ひとりではとても山に入れない」という。ご主人は足腰がおもうように動かず、「シカのどこが怖いんだ」と老妻を笑って叱るだけだった。
 別の農家の高齢者の男性は「シカを追い払うために、花火のロケット弾を撃っている。でも、数メートル先まで逃げるのはそのときだけ。仕方がないから、ほかの麦畑を守るために、山ぎわの麦畑の一反はシカ用にして、好きなだけ食べさせている」と言っていた。
 シカやイノシシの食害は深刻だと言っても、都会の人にはピンと来ないだろう。だが、現場に行ってみると、宮崎県の山奥の五ヶ瀬町では「ヘリコプターで山の上を飛んだら、シカが何百頭も走って、山が揺れるようだった」という声を聞いた。
 筑豊のある町では、サルが家の中まで侵入して、冷蔵庫まで開ける被害にたまらず、猟師が鉄砲で駆除したことがあった。すると、たちまち動物保護団体から避難の嵐。猟師だって、「サルを撃つと、苦しむ姿が人間そっくりだから、本当は撃ちたくない」のだ。このような苦悩する声がどこまで届いているだろうか。
 町の担当者は頭を下げて、サルの駆除を中止せざるを得なかった。北の国ではクマが街中に出没し、福岡市でもサルの大捕物があった。今度は何が出てくるのやら。いずれも原因の行きつくところは、里山文化が消えたからだ。
 コロナ禍の下、いまキャンプが流行っていると聞く。ぼくたち家族もいろんなところでキャンプをしたから、その楽しさはわかる。何でも自分で工夫してみる多技能のおもしろさを、子どもたちに実践で伝えるチャンスだった。
 目の前にある葛のつるだって、ロープ代わりに使えるし、縄跳びの縄にもなる。里山文化の多技能の世界への小さな入り口はいたるところにある。

■写真は自宅のすぐ近くで撮影したもの。もうすぐ金網は葛の葉で見えなくなる。

8月6日、9日、15日をおもう2021年08月09日 10時31分

 コロナ禍の下での平和の祭典・東京オリンピックが終わり、今日は6日の広島市に続いて、アメリカの爆撃機が長崎市に原子爆弾を落とした日。そして15日は敗戦の日。平和を願うひとりとして、心に映る事柄を整理しておきたい。
 学生時代、ぼくは3畳間の下宿の小さな書架に、大江健三郎の「広島ノート」と「沖縄ノート」を並べていた。10月21日の国際反戦デーでは、ぼくら一般の学生たちも赤坂のアメリカ大使館の周辺で反戦歌の「暁の空に」や「勝利を我らに」を歌いながら、手をつないで大通りいっぱいに広がって歩くフランスデモをした。だが、幹線道路を占拠して、反米帝国主義を叫ぶ学生たちのなかには、お祭り気分の者も大勢いた。ぼくもそうでなかったとは言い切れない。
 初めて広島の原爆資料館を訪れたとき、展示の前で立ち尽くしてしまった。その後、長崎の原爆資料館にも行った。現地を訪れた人なら、戦争が引き起こしたあまりにも不条理で残酷な事態に巻き込まれる恐ろしさや、なぜ、こんなことをしたのかという怒りが入り混じって、亡くなった人々を哀悼し、強く平和を願いたくなる気持ちはわかるだろう。
 先の大戦を美化する人もいるようだが、原爆資料館の前で「あの戦争は正しかった」と言い切れるのだろうか。
 いまの日本には、酔っぱらった末に、核兵器を使って戦争すればいいじゃないかと言い放ったバカな政治家がいる。ぼくはそういうアホウに、「どこかだれもいないところで、お前ひとりでやれ。ほかの人を巻き込むな」と言いたい。
 週刊誌の記者になって、政治の取材をするようになり、さまざまな情報に触れていると、記者としてどう判断すればいいのか、迷うことが度々あった。そういうときにご意見拝聴と訪ねていたのが佐藤内閣の名官房長官といわれた故K代議士である。外相も務めた屈指の国際通で、見るからに知的でスマートな人だった。
 彼のオフィスに行くと、飾り気のない広い部屋は深閑としていて、いつも窓際の大きなテーブルに向かって、書類に目を通している姿があった。
「取材は11時の約束だったね。まだ3分ある。少しそこで待っててください」
 話を聞ける時間は長くて30分間。K氏に会う目的は、取材を重ねて、自分なりに組み立てたストーリーやモノの見方に偏向したところはないかをチェックするためだった。K氏もこちらの狙いは承知の上で、貴重な時間をとってくれた。彼の話はコメントに使わず、いわゆる「字の文」にするのである。
 あるとき、ぼくは取材の関連で、核兵器という言葉を口にした。K氏は即座に反応した。
「これまでアメリカとソビエトが戦争にならなかったのは、どちらも核兵器を持っているからですよ。核は戦争の抑止力になっている」
 ぼくは広島、長崎の原爆資料館のことが頭にあったから、核兵器廃絶論者で、そう言われたときは、いかにも自民党員らしい月並みな意見だと感じた。だが、同じ言葉でも、話す人によって説得力は違ってくる。
 K氏は「沖縄の核抜き本土並み返還」に尽力したハト派のリーダーである。なぜ、K氏はぼくに「核兵器があるから戦争は起きない」という言葉を投げたのか。それは「いつも人の意見を聞くだけではなくて、自分でよく考えなさい」という切り返しの宿題だった。
 その後、ぼくがたどりついた答えは「防衛力は必要だ。しかし、核兵器は使わせない、使わない」ということである。
 外相も務めたK氏はおそらくそう言いたかったのだろう。だからこそ日本は外交が大事だよ、だれとでもオープンにつきあい、世界中から信頼される本当の国際国家になるんだよ、それが安全保障の基盤だと。
 例え、佐藤栄作首相がニクソン米大統領との間で有事の際には沖縄に核を持ち込めるという密約を結んでいて、そのことをK氏がひた隠しにしていたとしてもだ。
 タカ派の重鎮だった故中曽根康弘元首相は、自派のパーティーでの講演で、こんな話をしていた。
「他国から、わが国の領空を侵犯する軍用機が飛んで来ると自衛隊の戦闘機は、必ず二機が一緒にスクランブル発進します。なぜ二機なのか。それは一機が、その侵犯した戦闘機の前を横切る。そのとき相手が撃ってきたら、それを確かめた後で、はじめて味方のもう一機が攻撃するんです。これが日本の専守防衛です。絶対に、こちらから先に手を出してはいけない」
 タカ派の代表格にしても、こうである。たぶん、あのバカな政治家の頭の構図は「核兵器は抑止力」ではなく、「核兵器は攻撃力」でできているのだろう。ぼくは「そんなに核を使って、皆殺しをやりたいのか。こっちだって皆殺しされるんだぞ」と言ってやりたい。「核兵器は抑止力」の言葉には「核兵器で報復する」がくっついているのだ。
 中曽根氏は海軍短期現役組の元海軍主計中尉だった。短期現役組は、政界でもひとつのエリート集団だった。戦争はどんどんエスカレートして、最後は核兵器という1945年8月の現実を知っている政治家はいなくなってしまった。同時に、政治家の質も落ちた。
 いまはチカラ対チカラの単一思考がじわじわと広がっているように感じる。こういう状況をつくりだしているのが隣国・中国であることは国際的にも明らかだ。
 そのトップの顔も、国情もわかっている。こちら側が徒党を組んで絞り上げれば、はい、わかりましたと引き下がるような相手ではない。米国だってそうだ。自分の主義主張を言い張るアングロサクソンと漢民族が激突しているだから。このままではケンカ相手同士の米中の方が先にトップ会談をやりそうな雲行きである。
 お隣さんの中国の懐に飛び込んで、この不気味な流れを外交の力で食い止めなくては、と立ち上がる国際派の日本の政治家の顔がまったく見えないのはどういうわけか。
 8月になると原爆、敗戦、そして中国、米国との関係を考えてしまう。

ムカゴ採りと山芋掘り2021年08月10日 17時04分

 台風9号が通り過ぎて、昨日の日中はエアコンなしで過ごした。今朝もいくぶん涼しくて、早朝は虫の音がにぎやかだった。ツクツクボウシも鳴き始めた。近くに自生している山芋(自然薯)のつるには、いつの間にかムカゴが大きくなっていた。
 いまはムカゴを食べたことのない人の方が多いかもしれない。齧(かじ)ると青臭くて苦みある表皮のなかは、ちゃんと粘り気のある山芋の粒になっている。ムカゴご飯にしたり、塩ゆでにしたり、ぼくには懐かしい味だ。このあたりでも、たまに農家の直売店で見かけることがある。
 父は山芋掘りと釣りの名人だった。小さな田舎町の鍛冶屋にスコップのさじ部を持ち込んで、その金属板を適当な幅に切断してもらい、それに長い木の丸棒をつけた自作の山芋掘りの道具を持っていた。これで掘ると市販されている鉄製の道具に比べて、数倍のスピードで広くて深い穴を掘ることができる。
 高校3年の秋の日に、クラスの友人3人を誘って、父と足立山に山芋掘りに行ったことがある。3人とも山芋を掘るのは初めてだった。
 特徴であるハート型をした葉の形を教えて、山芋にもメスとオスとがあって、メスの方がおいしいこと。つるに虫のついた跡のある山芋はすりおろすと黒く変色すること。このときばかりは学校で劣等生のぼくが、彼らの先生役だった。
 山芋は、地中に伸びている山芋本体に生えているヒゲを見ながら掘っていく。集中していないと本体にスコップの刃先が当たって、途中でザックリとやってしまう。そうなると、いままでの苦労が台無しになって、ああ、やってしまった、とがっかりする。そこがまたおもしろいところだ。
 3人の友だちは、両手にできた豆をつぶして格闘していたが、みな途中でボキボキに切断してしまい、無傷で掘りあげた友はいなかった。
 手の届くところにアケビの実がぶら下がっていたので、ちぎって渡したら、アケビを食べるのも初めてだと言っていた。ぼくはアケビも知らないのかと意外だった。
 受験勉強に打ち込まなければならない時期だったが、本心は、みんな自然のなかで遊びたかったのだろう。赤土で汚れた軍手の中に握られた切り口が真っ白な山芋と、彼らがはじけるように笑っていた白い歯をおもいだす。
 山芋はつるがあるうちは、それをたどって根元を掘ればいい。だが、冬が近づくと山芋のつるは節のところで折れて、ほとんど落ちてしまう。そうなると、つるの根元につながっている山芋の首(土の中に隠れている山芋の頭の部分)がどこにあるのかわからなくなる。
 そういうときでも、父はたやすく土の中に隠れている山芋の首を見つけていた。
 まず、枝先に枯れた山芋のつるが残っている木を見つける。次に、その下に行って、地面に落ちている山芋のつるの中から、形で判断して、根元の部分のつるを見つける。そのあたりの土を手でかるく払うように掘る。あらわれた土の表面には細い木の根が網目のように広がっている。その中から放射線状に伸びている根を見分けて、その放射線状の中心点をたどっていくと、そこに山芋の首がある、というわけだ。同じことを繰り返しているうちに、山芋の根の特徴が一発で見分けられるようになると教えてくれた。
 だが、父からそういう説明を聞いても、九州をはなれたぼくは、とうとう山芋掘りの名人にはなれなかった。
 学生時代、小倉の家から父の掘った立派な山芋を送ってきたことがある。ぼくは、こんなもの、送ってくれたって……と、うれしいよりも、恥ずかしいような気持ちになった。そして、すぐ顔なじみの真向いの家にぜんぶ持って行った。
 父の気持ちがわかるようになったのは、父と同じ立場になったときである。あの特製の山芋掘りのスコップは、父のかたみとして、ぼくの手元に置いてある。今年の秋は、初めて父の道具を持って、久しぶりに山芋でも掘りに行こうかな。

わが家の『人情馬鹿物語』2021年08月20日 14時54分

 ゆっくり歩いて10分ほどのブックオフに行く。数日来、降り続いた雨があがって、室見川を見るのは久しぶりである。茶色に濁った水の流れはあちこちで底石にぶつかって、いくつもの波の小山をつくりながら勢いよく流れていた。
 店内に入って、ネットで注文した文庫本を受け取る。ほとんど新品の川口松太郎作・『人情馬鹿物語』。この本は、東京の下町に昔かたぎの人々が暮らしていたころを懐かしむ作家たちがときどき取り上げていて、いわゆる人情本のテキスト的な存在らしい。
 こういう本を読んでみたいな、と思ったのは、いまの世の中、ちょいとおもいやりが無さすぎじゃないかと感じているからである。日々、ニュースで取り上げられる事例を数えるだけでも、思いやりのない事件や社会問題はたちまち10本の指では足りなくなる。同じく下町生まれの池波正太郎氏の言い草ではないが、誠に生きづらい世の中になったものだとおもう。
 さて、『人情馬鹿物語』に話を戻す。例えば、半村良氏はこの作品について、彼の直木賞受賞作・『雨やどり』のあとがきで、こう書いている。
「川口松太郎さんの『人情馬鹿物語』に狂ってしまったのは、『火事息子』(注: 久保田万太郎作)の直後ではなかったろうか。…(略)…そういう私が、今になってこの本を出してもらえるようになった。…(略)…シリーズのタイトルが『新宿馬鹿物語』であるのも、私にしてみればごく当然のことなのである。…(略)…『火事息子』や『人情馬鹿物語』に惚れぬいた身が、それを下敷きにして自分なりの小説を書き上げてしまったのだ」
 あの久世光彦氏もそうだ。この人は『廣(※正字は日偏がつく)吉の恋 昭和人情馬鹿物語』を書いた。それについて某新聞に寄稿した彼自身のエッセイがある。
「(この小説は)大正のころの下町の人情を描いた、川口松太郎さんの『人情馬鹿物語』にあやかった、昭和初期の人情噺(ばなし)である…(略)…いまや死後に近い(川口氏の作品にある)物言いをノートに写し取る。飽きると久保田万太郎さんで同じことをした」
 こんな文章に出会うと、本家本元の『人情馬鹿物語』を読んでみたくなるではないか。
 まだ続きがある。あの宮部みゆき氏は、ある対談でこう言っている。
「そもそも私は、『どぶどろ』という作品がものすごく、もうたまらなく好きで、いつか『どぶどろ』みたいなものを書きたいなと思って始めたのが『ぼんくら』シリーズなんです」
 ぼくはまだ『どぶどろ』を手にしたことはないが、その作者が半村良氏ときけば、ははーん、あれとつながっているな、というぐらいの見当はつく。
 ところで――。
 ひと月ほど前のこと、花好きのカミさんが面倒をみているベランダの鉢に、タネを撒いた覚えのない新芽が出てきた。その艶やかな葉っぱを見て、カミさんは、捨てたらかわいそう。きれいな花が咲くかもしれない、とかわいがってきた。猛暑のなかでも枯らさないように水と栄養をやって、どんどん大きくなった。そして、すらりと伸びた茎の先に、ゴマ粒ぐらいの花らしいものをつけた。
 ずっと期待していたものとは違う。よくよく見ると、そこらあたりに生えている雑草だった。
 これが最近のわが家での『人情馬鹿物語』である。

言葉をくれた赤トンボ2021年08月23日 11時07分

 昨日の夕方、雨上がりの草むらの細い葉先に、赤トンボがとまっているのを見つけた。スマホをとりだして、そっと接近して撮影する。
 手前にある草が邪魔なので、気づかれないように息を殺して、手を伸ばしたとたん、小さな赤トンボはパッと飛んで行った。かわいい宝石が消えたようだった。
 思いだせば、ずいぶん酷いことをしたものだが、子どもころ右手に棒切れを握りしめて、目の高さのところを群れになって飛んでいた赤トンボを、バシッ、バシッと打ち落として、まるで自分がチャンバラ映画の主人公になったみたいに、タァー、トゥーと声をあげながら、走りまわっていたことがある。
 それでも赤トンボたちはぼくからはなれなかった。パラフィンのように薄くて透明な4枚の羽は夕陽を反射しながら、数えきれないほどのオレンジ色の閃光体となって、じゃれあうように飛びつづけていた。
 あれは太陽の子どもたちだったのだろうか。トンボたちは怖くなかったのだろうか。
 もう二度とトンボをたたき殺すのは止めたと決めてから、ぼくは赤トンボがもっとも愛おしい昆虫になった。
 ここからはまったく個人的なつぶやきになるが、仕事でルポなどの原稿を書いていたとき、自然の中で育ってよかったなとおもうことが何度もあった。それは自然から学んだ知識の量ではなく、自然が感じさせる奥深さとか、勁(つよ)さと言ったもので、いわば自然との体験のことである。
 話が前後するが、たまたま今朝、開いた本に以下の文章を見つけた。だから、こうして赤トンボの話を書くことにしたのだ。
「詩は行動のなかにも理解のなかにも消え去らぬ。最初描かれたそのままの姿を何時までも保存しています。保存している許りではなく、読む人により日に新たな味わいを生みます。恰も、自然が人間に、どんな行動の為に利用されようと、どんな形式の下に理解されようと、あるが儘の姿を保存し、例えば画家の眼に日に新たな美しさを提供している様なものだ。…(略)…文学者は、言葉を何かの符牒や記号としてではなく、どこまでも、色彩もあり目方もある自然物の様に扱っているものだと言えましょう」(出典: 小林秀雄『考えるヒント3』-文学と自分)
 ぼくは文学者ではないが、これから先、赤トンボを見るとき、きっと新たな味わいや美しさを発見して、それを言葉にするだろう。この冒頭に書いた言葉とは違う言葉で。
 そういうよろこびを、あのオレンジ色に輝いていた赤トンボたちは、ぼくにくれたのだとおもう。それにしても、こんなことに気づくまで、長い時間がかかるものだ。

■写真は、1枚だけ撮影できた赤トンボ。

食べられるフグの怖さ2021年08月28日 21時36分

 朝の5時、真っ暗いなかを息子が釣りに出かけて行った。職場の仲間と糸島の漁港でカマスを狙ってみるという。カマスは群れになって小魚を襲う。岸辺にやってくる、ほんのわずかの時間がサビキで釣れるチャンスなので、そうたやすく釣れる魚ではない。
 案の定、気温30度を超えた昼前に、手ぶらで帰ってきた。
「何も釣れなかったのか」
「うん、食べられるフグが釣れたけど、小さいのが1匹だったから、海に戻してきた」
「ん? 食べられるフグ?」
「そう、シロサバフグ」
「お前、(シロサバフグが)わかるの?」
「うん、店で出しているからね」
 息子は魚料理が売り物の和食の店で調理をやっている。シロサバフグを知っていてもおかしくないが、言われるまで気がつかなかった。そして、ぜひ、食べられるフグの見分け方を教えてもらいたいとおもった。
 というのも、ぼくは「こいつは絶対に食べられるフグだ」と断言してもいいとおもうフグを釣り上げても、まだ一度も持ち帰ったことがないのである。「もしも……」の怖さが頑固にブレーキをかけるのだ。
 いまの時期、漁港の堤防から竿をだすと、嫌になるほど外道のフグが食いついてくる。まんまるい目をいっぱいに開いて、ブギュッ、ブギュッと鳴きながら、白い腹をパンパンにふくらませる姿は愛嬌があってかわいいが、こいつがいると本命の釣りにならない。
 鹿児島の港町にいたころ、生きているフグの腹を指先で撫でて、プウーッと大きくふくらんだやつを、通りかかった車に向かって放り投げていた同級生のワルがいた。タイヤに轢かれたフグは、パーン!と渇いた音をたてた。
 ぼくたちはフグのざらざらした腹を撫でてはふくらまし、へこんだら、また撫ぜてはふくらましを繰り返して、へとへとになったフグを海に帰していたものだ。生きたフグ提灯は子どもたちがいじくりまわしたくなる遊び相手だった。
 そのフグが「食べられる!」と知ったのは、東京から福岡市に移転してしばらく経ったとき。お隣の新宮町の人たちは、あの邪魔者扱いされているフグをふだんから食べているというではないか。呼び名もチーチーフグといい、いかにもおいしそうな名前までつけられていた。
「内臓は猛毒だから、絶対に食べちゃいけない。チーチーフグの大きいのは刺身にするとうまいね。唐揚げもいいよ。えっ、食べられないと思っていたの! 食べてごらんよ、おいしいよ」
 しかし、なんと言われようとも、ぼくは食べない。魚の図鑑と照らし合わせて、食用OKと確認しても、食べようとはおもわない。とどのつまり、命が惜しいのである。(このブログを目にした人も食べるのだけは止めてほしい。よく似たフグもいるのだ。)
 ぼくがまだ両親の下にいたころ、わが家では父が釣ってきたシロサバフグ(父はカナトフグと呼んでいた)を味噌汁に入れて、ふつうに食べていた。キノコも父がとってくるものは安心だった。
 たぶん先祖代々、受け継がれてきたそれらの能力や技術は父の代で途絶えて、このぼくは受け継いでいない。だから釣ったフグも、自生しているキノコも危なっかしくて食べる気がしない。いまとなっては後の祭りだが、父親からちゃんと習っておけばよかった。
 また釣りに行くという息子に、今度は食べられるフグは捨てないで、持って帰るように頼んだ。そして、プロの腕前で安全に調理してもらって、熱いフグの味噌汁を仏壇にもそなえてあげることにしよう。

■写真は、先日の大雨の様子が残っている室見川。以前、遊歩道の上まで達していた濁流がひいた後、遊歩道には多くのハヤが行き場を失って、小さな子どもたちに追いかけまわされていたことがあった。

ぼくの「青春の門」と「パンツの山」2021年08月31日 08時46分

 あれも若者の特権のひとつだったのだろうか。10代から20代のころ、いろんな人が背中を押してくれた。見ず知らずの人から忘れられない言葉をかけられることもあった。
 あれは一浪して東京の私大に入学して、2か月ほど過ぎたころだった。どんな所用があったのか覚えていないが、ある平日の昼下がり、ぼくは西武新宿線・高田馬場駅のホームに立っていた。少しばかり伸びた髪、白の綿シャツ、Gパン、下駄ばきの恰好で、手には布製のバンドで結んだ授業の教本を持っていた。ホームは閑散としていて、電車の本数が少ない時間帯だった。
 そのとき5、6メートルほどはなれたところにいたサラリーマン風の男性が、ぼくの顔を見ながら近づいてきた。年のころは30歳ぐらい、まったく面識のない人だった。その男性は目の前までやってくると、口元に微笑をたたえながら、こう話しかけてきたのだ。
「君は早稲田の新入生ですか。五木寛之の『青春の門』を読んだことがありますか。ぜひ、読んでご覧なさい」
 この人、いったい何を言っているんだろうとおもった。
「『青春の門』の主人公はね、君のような人ですよ」
 そう言うと、ニコッと顔をくずして、また元いた場所へとはなれて行った。
 たったそれだけのことだった。だが、そのひと言は、ぼくの胸のなかに竜巻のような渦を巻き起こしたのである。東京に出てきて、初めての勇気づけられた言葉だった。
 その日、さっそく学内の書店で平積みされていた『青春の門 筑豊編』を買い求めた。主人公の伊吹信介は、ぼくが住んでいた小倉から近い筑豊の生まれだった。ホームで声をかけてきたあの男性は、同じホームで電車を待っていた田舎っぽい学生が九州の出身だと見抜いていたのだろうか。
 『青春の門』を読み上げたその夜、ぼくは大学の正門前の屋台に立ち寄って、おでんで腹ごしらえをして、下駄を鳴らしながら歩きはじめた。まだ東京の街をよく知らなかった。都心をぐるりとまわっている山手線を歩けるところまで歩こうとおもった。すでに夜更けの10時を過ぎていた。
 線路に沿って北から南へと下って行く。高田馬場から新大久保、新宿、代々木、原宿、渋谷、恵比寿。
 とっくに終電の時刻は過ぎた。人っ子ひとりいない、寝静まった暗い道を歩く。途中、自転車に乗った巡査から「何をしているんですか」と声をかけられた。
 目黒、五反田、大崎。その先で道を間違えた。両岸をセメントで固められた黒い川(目黒川だった)にぶつかって、下流の橋を渡ったところからコースを外れてしまった。
 見えてきた線路が東海道本線とは気づかず、やけに長い距離をひたすら歩きつづけて、着いたところは大井町。そこから引き返して、品川までたどりついたときには、すっかり明るくなっていた。電車もふだん通りに動いていた。品川から先は朝のラッシュ前の緑色の電車に乗って、東京、上野、池袋は眠ったまま通り過ぎた。
 ただ夜から朝まで歩いただけのことだった。しかし、『青春の門』を読んだ後のぼくは、東京で何かやってやろうと燃えていたのだ。
 いまおもうと、まるでミーハー並みだが、友人と小銭を出し合って、学生街の小さなスナックでいちばん安いウィスキーのボトルを初めてキープしたとき、その瓶に黒のマジックで「伊吹信介」と書き込んだ。
 そこからの自分は、はっきり変わっていったとおもう。
 小学校から高校まで、ぼくはクラスの女子とほとんど口をきいたことがなかった。鹿児島にいた子どもころ、女子と話す男子は仲間たちから笑いものにされ、軽蔑されていた。以来、同じクラスに好きな女の子がいても、一度たりとも声をかけたことはなかった。高校の体育祭のプログラムに、女子とのフォークダンスがあると知ったときは、勘弁してくれよ、と仮病をつかって欠席したほどだ。
 しかし、「『青春の門』の主人公はあなたのような人ですよ」と言われたのをきっかけに、女の人に対する頑(かたく)なな気持ちは、氷が解けるようにほぐれていくのが自分でもわかった。
 ボトルを入れたスナックで働いていた若い女の人は、ぼくのことを「シンスケさん」と呼んで、顔を出すと決まって隣の椅子に座るようになった。出身は北陸地方の田舎町だと言っていた。色が白くて、からかうと口をとんがらして睨み、すぐにまた笑顔になる人気者だった。どういうわけか気が合って、昼間二人で大学の構内を歩いたこともある。
 ある晩、まわりの客に聞こえないように、「洗濯物、溜ってるでしょ。洗ってあげるよ。パンツもかまわないから、出してね」と言ってくれた。
 数日後、下宿の窓の下から「シンスケさーん」と呼ぶ声が聞こえた。
「洗濯物、出して。洗ってあげるから」
 ぼくは大急ぎで押し入れに突っ込んでいた汚れたパンツや肌着の山を引っ張りだした。そのとき部屋に遊びにきていた友だちが「オレのも頼む!」とパンツを脱いだ。
 翌日の夕暮れ、見違えるように真っ白になった下着を届けてくれた彼女は、「ほら、こんなになっちゃった」と両手を開いてみせてくれた。細い指先は赤くなって、ぼろぼろに荒れていた。独身のアパート暮らしには、まだ洗濯機がなかったころの話である。
 そんな青春の一幕があった。それもこれも駅のホームでの見知らぬ人からのひと言が、ぼくの背中を押してくれたからだとおもう。

■写真は、一昨日の夜、カミさんと出掛けて行った福岡アビスパvs徳島ヴォルティスの試合の様子。先日、わがアビスパは無敗を続ける王者・川崎フロンターレを1-0で破る大金星をあげた。その勢いのまま徳島戦も3-0で完封。おおいに気分をよくしたが、マスクをつけっぱなしの応援は息苦しくてつらかった。