神田神保町のあの店は2022年06月21日 14時30分

 今朝、東京に行く息子を地下鉄の駅まで送った。神田神保町で仕事の打ち合わせがあるという。
 彼にとっての東京は妻の実家がある新潟への通過点に過ぎず、それも幼いころのおぼろげな記憶しかないとか。30代の半ばを過ぎて、ほとんど初めて東京の土を踏むことになったわけだ。
 ぼくたち夫婦からすれば、「お前、遅れているんじゃないの」。どこかやるせない気分である。
「あのな、神保町はな、日本一の古本屋街でな、明治大学や日大、専修大などが集まっていてな、出版社も多いんだ」
 こちらはいろいろ案内をしたくなって、昨日も勝手に東京のガイドをやりはじめる始末。
「昼飯は、いもやのトンカツがいいぞ。あれっ、何年か前に行ったときには、もう閉店になってたかな。じゃあ、生ビールと洋食のL。そう、Lだ。ぜひ、行ったらいいよ」
 自分が行くわけでもないのに、なんとなく旅ごころがときめいて、いまのLはどうなっているのか、インターネットで調べた。すると、あの有名なエピソードは店のホームページのどこにも載ってなかった。
 うーん。そうか、いまごろこんな話をしても、通用しないか。でも、書き残しておいてもいいのになぁ。そうおもうので、そのことを書く。
 ぼくが学生だった1970年代、ビアホールのLはすでに名が売れていた。なぜ、そうなったのかといえば、メディアにとり上げられることがたびたびあったからだ。その話題を提供していたのが、英文学者の吉田健一である(故人)。
 父親はあの吉田茂、母親は牧野伸顕の娘で、大久保利通のひ孫にあたる。子どものころからパリやロンドンで暮らし、ケンブリッジ大学にも在籍した。食通のエッセイでも知られていて、ユーモアがあって、ちょっと毛色の変わった高名な学者だった。
 その吉田健一には、ある習慣があった。当時、務めていた中央大学の講義がある日、吉田がよく通っていたのがLだった。そして、座る席はいつも決まっていた。
 これが評判を呼んだのだ。いつの間にか、Lはあの吉田健一がひいきにする「日本一、生ビールがうまい店」になっていた。当時は、料理よりも生ビールがこの店の売りだった。
 吉田が座る席に、自分も座りたい。そこで日本一といわれる生ビールを飲みたい。そういう人が訪れるようになったのである。いまなら、SNSを使った情報発信というところだろうか。
 かくいうぼくもそのひとり。記者になって、日本一うまいという生ビールを、吉田の指定席で飲んで、そのうまさの秘密を探るべく、Lに取材に行った。
 当時の店主の名前は(記者時代の取材メモをぜんぶ捨てたので)覚えていないが、小柄で背筋がしゃんとした初老の男性だった。吉田は、この店主だけしか、ビア樽から自分のビールを注ぐことを許さなかった。
 やはり、現場に行って、取材をして、はじめてわかることがある。
 この店主は生ビールに人生を賭けていたと言ってもいい。彼は生ビールの鮮度も、うまさも、それを貯蔵する樽(タンク)の管理が非常に大事です、といっていた。
 樽のなかはどうなっているのか、外からは見ることができない。だが、必ず滓(おり)のようなものが付着してくるという。そこで、この店主は定期的に、完全に身を浄(きよ)めたうえに、さらに清潔(無菌)なビニールで手足をおおい、大きな樽の中に入って、すみからすみまで洗って、洗って、洗いあげていたのだ。客に出すビアグラスだけでなく、樽のなかまで磨き上げていた。まさにプロ、である。
 もちろん、そのとき樽の底にはまだいくらかビールが残っている。それは惜しげもなく、廃棄していた。
 自宅に遊びに来るように誘われて、後日、またいろんな話をうかがった。そこで話題にのぼったのは、自分の次を担う後継者のこと。バトンタッチするのに、自信が持てないようだった。
「跡を継がせる息子には、まだ吉田先生からビールを注いでいいよ、というお許しが出ないんです。ビールの泡が(わたしが注いだものとは)ちがう、とおっしゃるんですよ」
 名店とは、そこに舌の肥えた客がいて、その人との真剣勝負をたのしむ店主との緊張感のなかから生まれるのだろう。
 いまさらとり立てて持ち出すほどの話ではないが、こんなこともありました、という一幕でした。

■昨夜の雨でできた水たまり。息子が幼いころ、水たまりをみつけるとそのなかに入って、小さな長靴をはいた足で、バシャ、バシャ、と踏みつけて遊んでいた。
 水しぶきが四方八方に跳ね散る。それをみながら、「ワーイ、水の花火、水の花火」とよろこんでいた。子どもは詩人である。あのころの面影は泡と消えてしまったが……。

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