「青春の書」に勇気づけられる ― 2025年08月03日 17時48分

朝の5時半。夜なかに2度起きて、ようやく浅い眠りに落ちていたぼくの頭の上で、空気の揺れる気配がした。カミさんだった。
「きょうは寝坊するんじゃなかったのか」
「花壇の花に液肥をやったの」
仕事が休みなのに、早起きが習慣になって、いつまでも寝ていられなかったらしい。
さいわいにして彼女は元気。こちらはまだ薬の副作用を引きずったままで、起き上がるにもしばしの時間と気合が要る。慢性的な寝不足もあって、ずっと頭も脚もふらふらして、いまにも倒れそうなときがある。すっかりわが家の大黒柱ではなくなって、夫婦の関係もこれまでの「援け合う」から、一方的に「扶けられる」に変わってしまった。
自分がそうなったから感じるのだが、「扶け合う(力を貸す)」という言葉は、これからの時代をつくるキーワードになってほしい、そうなるんだろうなともおもう。
身近なところにも、そんな具体例が増えている。カミさんは近くにある障がいを持つ人たちが暮らしている施設で、「生活支援員」の立場でパートをしている。勤務時間は朝6時から9時までの3時間。月の半分ほど働く契約である。
たったの3時間だが、いつもくたくたになって帰って来る。
ひと口に障がいといっても、肉体的なものから、発達障がい、適応障がい、精神障がい、知的障がい、双極性障がいなど、その種類は千差万別で、この分野にとんと知識のないぼくは、「この種の施設で、入居者の人たちのお世話をする仕事はそう簡単には務まらないだろうなぁ」ということぐらいしか想像できない。
詳しいことは書けないが、カミさんが働いている施設には、目の見えない人、口のきけない人、歩けない人、会話が通じない人、両性の性格を持つ人、ここから仕事に通っている人、手間のかからない人、人なつっこい人、よく食べる人、起こしても起きない人など、一人ひとりに、その人だけの特徴があるらしい。ただし、独りでは生活していけないことだけは共通しているという。
カミさんもこんな環境で働くのは初めてのこと。仕事から帰った日は、「今日の出来ごと」の話になる。どれもこれもこまかな世話ごとのようにみえてしまうが、おそらく生きているあいだじゅう、障がいから逃げられない本人や家族にとっては容易ならない問題にちがいなく、そんな話をじっと聞きながら、いまの自分と比較する。
不謹慎な言いまわしになるけれど、「気の毒に、つらいだろうなぁ」から、「オレは違うぞ。自分で動けるからな」、「きっとよくなってみせるからな」とたちまち自分を優位な立場に置いてしまう。そして、カミさんがこんな施設と縁ができたことすら、「これもなにかの因縁かな」と自分のいいように結びつけている。
突然、話は飛ぶが、一昨日から大江健三郎が1970年から文芸雑誌に書き始めた文章をまとめた『文学ノート』を数十年ぶりに読み返している。70年はぼくが早稲田に入った年である。つまり、ぼくの「青春の書」のひとつ。
鉛筆で新しく傍線を引きながら、読み返しているうちに元気が出てきた。その当時から大江は、まずプロット(物語の筋)をつくって、似たような原稿を大量生産する売れっ子作家たちをコテンパンにやっつけていた。しっかり入念な論証をしたうえで、「ニセの作家」とまで切り捨てている。彼の指摘は現代の出版界や作家にも通じるのではないか。
ちなみに「ムツゴロウおじさん」こと畑正憲も、同時代に大江がいたから小説家になることを諦めたひとりである。
なんという勇気と破壊力だろうか。だからこそ、大江を読んでいたのだ。そのことにきちんと頭の整理をして気がついた。
とにかく書く。まず書くことが大事なのだ。大江はこうも書いている。「(書くことで)現にあるような自分を乗りこえて、新しい自分にいたること」。
それでこんな破り捨ててもいいようなブログを書く気になった。
からだに無理はきかないけれど、うまくは言えないけれども、ぼくはいま静かに興奮している。
■先日、高校時代の友のふたりから電話があった。心配していた。ありがたいなぁ。
腹に力をこめて、「いまは副作用がきついけどな。暑いから自宅にこもっているけれど、大丈夫だよ。まだまだ、そう簡単には死なんよ。お互いにからだには気をつけようや」と明るい声を出した。
「きょうは寝坊するんじゃなかったのか」
「花壇の花に液肥をやったの」
仕事が休みなのに、早起きが習慣になって、いつまでも寝ていられなかったらしい。
さいわいにして彼女は元気。こちらはまだ薬の副作用を引きずったままで、起き上がるにもしばしの時間と気合が要る。慢性的な寝不足もあって、ずっと頭も脚もふらふらして、いまにも倒れそうなときがある。すっかりわが家の大黒柱ではなくなって、夫婦の関係もこれまでの「援け合う」から、一方的に「扶けられる」に変わってしまった。
自分がそうなったから感じるのだが、「扶け合う(力を貸す)」という言葉は、これからの時代をつくるキーワードになってほしい、そうなるんだろうなともおもう。
身近なところにも、そんな具体例が増えている。カミさんは近くにある障がいを持つ人たちが暮らしている施設で、「生活支援員」の立場でパートをしている。勤務時間は朝6時から9時までの3時間。月の半分ほど働く契約である。
たったの3時間だが、いつもくたくたになって帰って来る。
ひと口に障がいといっても、肉体的なものから、発達障がい、適応障がい、精神障がい、知的障がい、双極性障がいなど、その種類は千差万別で、この分野にとんと知識のないぼくは、「この種の施設で、入居者の人たちのお世話をする仕事はそう簡単には務まらないだろうなぁ」ということぐらいしか想像できない。
詳しいことは書けないが、カミさんが働いている施設には、目の見えない人、口のきけない人、歩けない人、会話が通じない人、両性の性格を持つ人、ここから仕事に通っている人、手間のかからない人、人なつっこい人、よく食べる人、起こしても起きない人など、一人ひとりに、その人だけの特徴があるらしい。ただし、独りでは生活していけないことだけは共通しているという。
カミさんもこんな環境で働くのは初めてのこと。仕事から帰った日は、「今日の出来ごと」の話になる。どれもこれもこまかな世話ごとのようにみえてしまうが、おそらく生きているあいだじゅう、障がいから逃げられない本人や家族にとっては容易ならない問題にちがいなく、そんな話をじっと聞きながら、いまの自分と比較する。
不謹慎な言いまわしになるけれど、「気の毒に、つらいだろうなぁ」から、「オレは違うぞ。自分で動けるからな」、「きっとよくなってみせるからな」とたちまち自分を優位な立場に置いてしまう。そして、カミさんがこんな施設と縁ができたことすら、「これもなにかの因縁かな」と自分のいいように結びつけている。
突然、話は飛ぶが、一昨日から大江健三郎が1970年から文芸雑誌に書き始めた文章をまとめた『文学ノート』を数十年ぶりに読み返している。70年はぼくが早稲田に入った年である。つまり、ぼくの「青春の書」のひとつ。
鉛筆で新しく傍線を引きながら、読み返しているうちに元気が出てきた。その当時から大江は、まずプロット(物語の筋)をつくって、似たような原稿を大量生産する売れっ子作家たちをコテンパンにやっつけていた。しっかり入念な論証をしたうえで、「ニセの作家」とまで切り捨てている。彼の指摘は現代の出版界や作家にも通じるのではないか。
ちなみに「ムツゴロウおじさん」こと畑正憲も、同時代に大江がいたから小説家になることを諦めたひとりである。
なんという勇気と破壊力だろうか。だからこそ、大江を読んでいたのだ。そのことにきちんと頭の整理をして気がついた。
とにかく書く。まず書くことが大事なのだ。大江はこうも書いている。「(書くことで)現にあるような自分を乗りこえて、新しい自分にいたること」。
それでこんな破り捨ててもいいようなブログを書く気になった。
からだに無理はきかないけれど、うまくは言えないけれども、ぼくはいま静かに興奮している。
■先日、高校時代の友のふたりから電話があった。心配していた。ありがたいなぁ。
腹に力をこめて、「いまは副作用がきついけどな。暑いから自宅にこもっているけれど、大丈夫だよ。まだまだ、そう簡単には死なんよ。お互いにからだには気をつけようや」と明るい声を出した。
8月6日。「あの日」のことを想像する ― 2025年08月06日 22時58分

副作用の谷間をぬけた。旨そうな分厚いトンカツが頭のなかでちらちらして、かつ丼もいいなぁ、なんて思いはじめたので、もう大丈夫。元気バリバリとまではいかないけれど、いまの自分に合った「巡航速度」があって、無理なく安全に進んでいるという感覚である。
朝の8時過ぎにテレビをつけたら、広島の平和記念式典の中継をやっていた。原爆が投下された8時15分、式典の司会者の声に促され、さっと立ち上がって、1分間の黙とうをした。
目の前のカレンダーには、6月23日の余白に、「オキナワ」と鉛筆で書き込んである。8月6日は「ヒロシマ」、9日は「ナガサキ」、15日は「終戦」、9月2日は「日本、降伏文書に調印」。
あの日から80年が経つ。だが、「あの日から」と言いながら、ぼくは「あの日」のことを体験していない。
学生時代に大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を読んで(当時の必読の書だった)、原爆資料館に行ったことはある。だが、ふだんの暮らしをしているさなかに、一瞬にして殺された10万人以上の人たちの様子やその場の匂い、泣きすがる母親や子どもたちの声などの、なにひとつも知らないのだ。
せめて当時の記録映像やドキュメント番組、写真などを見たり、関連する本を読んで、あの日のことを想像するしかない。中継をみながら、それぐらいはもっとやる務めがあるな、と改めておもった。(テレビをみた後、書棚から『長崎の鐘』(著者・永井 隆)を取り出した。)
だが、世界の情勢はオキナワ、ヒロシマ、ナガサキほかの願いに反して、はっきり逆回転している。
戦争には数々の教訓がある。ここでは皆殺しの道具として開発された核兵器について、ひと言だけ書いておこう。
「道具は使うためにつくるのだ」。
まぁ、ひとりでカリカリしてもしようがないか。
少なくとも今日のこの日、広島のことを考えている人は、きっとぼくと同じような考え方でつながっているとおもいたい。
そうなのだ、今日は「連帯の日」なのだ。書いているうちに、そのことに気がついた。
■朝の7時すぎ、近くのたんぼを見たくなって散歩にでた。きれいな緑の海がひろがっている。猛暑のなか、くっついて生きているカモがいた。
朝の8時過ぎにテレビをつけたら、広島の平和記念式典の中継をやっていた。原爆が投下された8時15分、式典の司会者の声に促され、さっと立ち上がって、1分間の黙とうをした。
目の前のカレンダーには、6月23日の余白に、「オキナワ」と鉛筆で書き込んである。8月6日は「ヒロシマ」、9日は「ナガサキ」、15日は「終戦」、9月2日は「日本、降伏文書に調印」。
あの日から80年が経つ。だが、「あの日から」と言いながら、ぼくは「あの日」のことを体験していない。
学生時代に大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を読んで(当時の必読の書だった)、原爆資料館に行ったことはある。だが、ふだんの暮らしをしているさなかに、一瞬にして殺された10万人以上の人たちの様子やその場の匂い、泣きすがる母親や子どもたちの声などの、なにひとつも知らないのだ。
せめて当時の記録映像やドキュメント番組、写真などを見たり、関連する本を読んで、あの日のことを想像するしかない。中継をみながら、それぐらいはもっとやる務めがあるな、と改めておもった。(テレビをみた後、書棚から『長崎の鐘』(著者・永井 隆)を取り出した。)
だが、世界の情勢はオキナワ、ヒロシマ、ナガサキほかの願いに反して、はっきり逆回転している。
戦争には数々の教訓がある。ここでは皆殺しの道具として開発された核兵器について、ひと言だけ書いておこう。
「道具は使うためにつくるのだ」。
まぁ、ひとりでカリカリしてもしようがないか。
少なくとも今日のこの日、広島のことを考えている人は、きっとぼくと同じような考え方でつながっているとおもいたい。
そうなのだ、今日は「連帯の日」なのだ。書いているうちに、そのことに気がついた。
■朝の7時すぎ、近くのたんぼを見たくなって散歩にでた。きれいな緑の海がひろがっている。猛暑のなか、くっついて生きているカモがいた。
記録的な大雨と盆休み ― 2025年08月11日 22時13分

朝の4時20分。仕事に出かけるカミさんに合わせて起きた。大雨のことが気になって、スマホでNHKのニュースを見る。熊本の玉名市に大雨特別警報が出ていた。予報されていた福岡ではなかった。もっと南の方だった。
その後のニュースも記録的な大雨の実況報告が中心で、ほんの数日前まで、あんなに騒いでいた記録的な暑さや水不足の報道がまるでよその国にあったことのようである。
だが、この夏の異常な暑さと異常な大雨は別々に起きる現象ではなく、いわば双子の関係にあるらしいことは、この道の専門家ではないぼくにもだいたいの見当はつく。
海水温が27度前後もあるそうだから、水蒸気をたっぷり含んだ雲がどんどん生産されていて、それらが偏西風に乗って、次から次に日本列島に流れ込んでいるわけだ。こいつはだれにも止めようがない。
この自然現象は、「止めようがない」ところまで来てしまったのではないか。ここがいちばんの問題点で、来年も、その先も、記録的な猛暑と記録的な大雨は続くのではあるまいか。
こんな漠然としたシロウト考えはぼくだけではないようだ。午前中に電話をくれた友人も同じ見方だった。しばし、異常気象と孫の将来の話になった。
めずらしく新潟のカミさんの実家を継いでいる義兄からも電話があった。自分も病気持ちなのに、ぼくのからだのことを心配していた。なにか申しわけない気持ちになった。
「ふつうに生活しています。ぼくのからだのことはそんなに心配しなくていいから。新潟に行きたいなぁ。元気になったら、かならず行くからね」
きっと一緒に飲んで騒いだ、あのころのたのしかった盆休みの記憶が忘れられずに、こちらの大雨のニュースをきっかけにして、電話をかけてくれたのだろう。
きょうはブラジルにいる高校時代の同級生からも半年ぶりにメールが届いた。「西高3人組」のひとりの彼とは、ことし3月に福岡市内で一緒に飲む予定だった。その約束が彼の実兄の訃報に接して、お流れになった。兄さんの新盆が近づいて、日本に里帰りしたくなったのだろうか。
この盆休み、ぼくたち夫婦にはなにも予定がない。ふたりの息子に声をかけているけれど、晩飯に来るかどうかわからない。若いころの自分もそうだった。
あと何度あるかわからない盆休み。すぐに、まだ何度でもあるさ、と自分に言い聞かす。最後は決まって、ぜったいによくなる、と強く念を押す。
大空を行く変幻自在の雲の動きを見ながら、いろんな思いが駆けめぐっている。
その後のニュースも記録的な大雨の実況報告が中心で、ほんの数日前まで、あんなに騒いでいた記録的な暑さや水不足の報道がまるでよその国にあったことのようである。
だが、この夏の異常な暑さと異常な大雨は別々に起きる現象ではなく、いわば双子の関係にあるらしいことは、この道の専門家ではないぼくにもだいたいの見当はつく。
海水温が27度前後もあるそうだから、水蒸気をたっぷり含んだ雲がどんどん生産されていて、それらが偏西風に乗って、次から次に日本列島に流れ込んでいるわけだ。こいつはだれにも止めようがない。
この自然現象は、「止めようがない」ところまで来てしまったのではないか。ここがいちばんの問題点で、来年も、その先も、記録的な猛暑と記録的な大雨は続くのではあるまいか。
こんな漠然としたシロウト考えはぼくだけではないようだ。午前中に電話をくれた友人も同じ見方だった。しばし、異常気象と孫の将来の話になった。
めずらしく新潟のカミさんの実家を継いでいる義兄からも電話があった。自分も病気持ちなのに、ぼくのからだのことを心配していた。なにか申しわけない気持ちになった。
「ふつうに生活しています。ぼくのからだのことはそんなに心配しなくていいから。新潟に行きたいなぁ。元気になったら、かならず行くからね」
きっと一緒に飲んで騒いだ、あのころのたのしかった盆休みの記憶が忘れられずに、こちらの大雨のニュースをきっかけにして、電話をかけてくれたのだろう。
きょうはブラジルにいる高校時代の同級生からも半年ぶりにメールが届いた。「西高3人組」のひとりの彼とは、ことし3月に福岡市内で一緒に飲む予定だった。その約束が彼の実兄の訃報に接して、お流れになった。兄さんの新盆が近づいて、日本に里帰りしたくなったのだろうか。
この盆休み、ぼくたち夫婦にはなにも予定がない。ふたりの息子に声をかけているけれど、晩飯に来るかどうかわからない。若いころの自分もそうだった。
あと何度あるかわからない盆休み。すぐに、まだ何度でもあるさ、と自分に言い聞かす。最後は決まって、ぜったいによくなる、と強く念を押す。
大空を行く変幻自在の雲の動きを見ながら、いろんな思いが駆けめぐっている。
消えた、「民族大移動」 ― 2025年08月13日 23時06分

お盆休みの景色が変わった。
歩いて行けるところに食品スーパーが5店舗ある。そこで感じたことなので、きわめて狭い範囲での印象だとおもわれるかもしれない。だが、ぼくは毎日、これらのどこかの店に買い物に行っているから、長期的な「定点観測」の報告と言ってもいいだろう。
きょうは13日、お盆の入り。朝の11時前、このあたりでは新鮮な魚の品ぞろえで知られているスーパーに行った。ちょうど店が混雑する時間帯である。ところが駐車場は空いていた。店内もがらんとしている。
魚売り場には、帰省した人たちをもてなす家庭をターゲットにした寿司や刺身の大皿がいくつも並んでいる。値段は平常の3割増しほどか。
だが、それらに手を伸ばす人はいない。焼肉やバイキングの大盛りセットが目立つ精肉のコーナーも、オードブルの皿が威張っている惣菜コーナーも似たような売れ行きだった。レジにも客の列はできていない。いつもの週末よりもさびしい景色である。
「お盆の魚売り場は客でごった返していて、近づけないぐらいだったのになぁ。帰省する人が減ったのかな。人が集まって、にぎやかになる家庭が少なくなったんだろうな」
カミさんは別の見方をしていた。
「お盆はなんでも値段が高くなるから、買わないわよ。2、3日、我慢すればいいんだもの」
「そうだよな、なにもかも値上がりしているし、だんだんそうなるよな。でも、なんかお盆らしくないよなぁ」
この傾向はいまに始まったことではないが、ひところの正月とお盆休みの時期は、道路も新幹線や在来線の特急も、飛行機からフェリーまで、たいへんな帰省ラッシュで、「民族大移動」と言われたものだ。
そうだった、「民族大移動」という言葉があった。若い人が聞いたら、どこの国の話なのかと、びっくり仰天するかもしれない。別の角度から見れば、それだけ元気に動きまわる人の数が少なくなった、そういうことだろう。
帰宅して、夫婦でこんな昔話をしていたら、わが家も同じようなことになった。
「たまには一緒に晩飯を食うか」と声をかけていたふたりの息子は、どちらも「行けなくなった」という連れない返事。
覚悟はしていたけれど、現実を突きつけられて、少しばかり落ち込んだ。
まぁ、仕事の都合だからな、仕方がないか。ふたりとも車で10分ぐらいのところにいるのだから、いつでも来れるし、元気で近くにいるだけでも、「よし」としよう。
これも意識の深いところでつながっているのだろうか、ふと記憶の底から、河島英五の『野風増』の歌声が聞こえてきた。
♪ お前が20歳(はたち)になったら、
酒場でふたりで飲みたいものだ
・・・・・・
いいか 男は生意気ぐらいがちょうどいい
いいか 男はおおきな夢を持て
野風増 野風増 男は夢を持て
いい歌だなぁ。息子たちはとっくに20歳を過ぎているけれど、そんなことはどうでもいい。
こんな歌を大声で歌いたいときもある。
■大雨が通りすぎて、また暑い夏が戻ってきた。散歩の途中、塀の上で居眠りしていたネコと目があった。眠くてたまらない顔をしていた。
夜の9時過ぎ。仕事を終えた長男がふらりとやってきた。しばらくいて、「また来るからね」と帰って行った。
歩いて行けるところに食品スーパーが5店舗ある。そこで感じたことなので、きわめて狭い範囲での印象だとおもわれるかもしれない。だが、ぼくは毎日、これらのどこかの店に買い物に行っているから、長期的な「定点観測」の報告と言ってもいいだろう。
きょうは13日、お盆の入り。朝の11時前、このあたりでは新鮮な魚の品ぞろえで知られているスーパーに行った。ちょうど店が混雑する時間帯である。ところが駐車場は空いていた。店内もがらんとしている。
魚売り場には、帰省した人たちをもてなす家庭をターゲットにした寿司や刺身の大皿がいくつも並んでいる。値段は平常の3割増しほどか。
だが、それらに手を伸ばす人はいない。焼肉やバイキングの大盛りセットが目立つ精肉のコーナーも、オードブルの皿が威張っている惣菜コーナーも似たような売れ行きだった。レジにも客の列はできていない。いつもの週末よりもさびしい景色である。
「お盆の魚売り場は客でごった返していて、近づけないぐらいだったのになぁ。帰省する人が減ったのかな。人が集まって、にぎやかになる家庭が少なくなったんだろうな」
カミさんは別の見方をしていた。
「お盆はなんでも値段が高くなるから、買わないわよ。2、3日、我慢すればいいんだもの」
「そうだよな、なにもかも値上がりしているし、だんだんそうなるよな。でも、なんかお盆らしくないよなぁ」
この傾向はいまに始まったことではないが、ひところの正月とお盆休みの時期は、道路も新幹線や在来線の特急も、飛行機からフェリーまで、たいへんな帰省ラッシュで、「民族大移動」と言われたものだ。
そうだった、「民族大移動」という言葉があった。若い人が聞いたら、どこの国の話なのかと、びっくり仰天するかもしれない。別の角度から見れば、それだけ元気に動きまわる人の数が少なくなった、そういうことだろう。
帰宅して、夫婦でこんな昔話をしていたら、わが家も同じようなことになった。
「たまには一緒に晩飯を食うか」と声をかけていたふたりの息子は、どちらも「行けなくなった」という連れない返事。
覚悟はしていたけれど、現実を突きつけられて、少しばかり落ち込んだ。
まぁ、仕事の都合だからな、仕方がないか。ふたりとも車で10分ぐらいのところにいるのだから、いつでも来れるし、元気で近くにいるだけでも、「よし」としよう。
これも意識の深いところでつながっているのだろうか、ふと記憶の底から、河島英五の『野風増』の歌声が聞こえてきた。
♪ お前が20歳(はたち)になったら、
酒場でふたりで飲みたいものだ
・・・・・・
いいか 男は生意気ぐらいがちょうどいい
いいか 男はおおきな夢を持て
野風増 野風増 男は夢を持て
いい歌だなぁ。息子たちはとっくに20歳を過ぎているけれど、そんなことはどうでもいい。
こんな歌を大声で歌いたいときもある。
■大雨が通りすぎて、また暑い夏が戻ってきた。散歩の途中、塀の上で居眠りしていたネコと目があった。眠くてたまらない顔をしていた。
夜の9時過ぎ。仕事を終えた長男がふらりとやってきた。しばらくいて、「また来るからね」と帰って行った。
「会いましょう」、数年ぶりの声を聞く ― 2025年08月16日 10時49分

お盆にやった「次につながるいいこと」のひとつを書いておく。
先日、朝早くから地元紙の朝刊に目を通していたら、経済面を開いたところで目が止まった。連絡をしないまま数年が過ぎて、気になっていた人の顔写真が載っていた。
90歳になっていた。年齢を見て、胸を衝(つ)かれた。
その人はKaさん。ご縁ができたのは24年も前のこと。きっかけは知人の紹介で、Kaさんの経営哲学をまとめた本の出版の手伝いをしたことだった。初版と第2刷はぼくのちいさな制作会社から出した。
ぼくが鹿児島の小学校に入学した年に、Kaさんは九大を卒業して、地元の銀行に就職している。若いときから活躍されて、先行するライバル銀行を幾度も歯ぎしりさせた人で、代表取締役専務、関連会社の会長を経て、個人事務所を設立。
その準備のときに声をかけられた。
「この人なら、きっと新しい風を巻き起こすに違いない。これから自由になって、未来へのタネ撒きをする人だから」。本づくりをして、そう確信していたので、よろこんで参加した。
Kaさんは銀行時代にも、将来を背負う有望な人材を何人も育てていたという。ご本人の自慢話ではない。ほかから聞こえていた。
与えられた名刺の肩書は、メディア・プロデューサー。自分で言うのは気がひけるけれど、本人が気づいていない強みを見抜く眼力、やる気を引き出すこころ遣いは、こういう人に共通している。
抜群の人脈の持ち主で、関東や関西からもいろんな人が伝手を頼りにして、まるで磁石に吸い寄せられるようにKaさんの事務所にやってきた。
新しいビジネスの情報を持っている人は、それを活かしてくれる出会いの場を探している。そのマッチングをする役割は、Kaさんの独壇場とも言えた。第一、そんな面倒なことをやる人はほかにいなかった。
ふつうなら大手企業を営業訪問しても、担当者が会ってくれればいい方で、それすら夢物語の会社がいまでも圧倒的に多い。
ところが、Kaさんは、必ずその人物に会って、たっぷり時間をかけて、じっくり話を聞いたうえで、これは世のなかにひろげる価値があると判断したら、いきなり大手のトップに話をつなぐ。そして、そのエライ人たちは、「こんないい話は知りませんでした。わたしの耳にはこういう情報は入ってきません」というのがほとんどであった。
こうして実際に、地元の無名のベンチャーが超スピードで上場を果たした例もある。
シニアの財団の九州本部の事務局長もやらせてもらった。よく中州にも連れて行ってくれた。折々の話の一つひとつが、人脈づくりの要諦や経営の壁を打ち破る発想の生きた実例集で、惜しみなくその極意の数々を教えてくれた。
もちろん、それらが氷山の一角ということはわかっている。とにかく、カラオケでも、ゴルフでも、講演でも、ご本人は楽しんでおられるけれど、とても同じことはできそうもない努力の人だと言っておこう。
ここで若い人にアドバイスするとしたら、「自分からぶつかって、素直な気持ちで話を聞くようにすれば、年配の人は親切にいろいろ教えてあげたくなるものだよ」ということかな。
数年間、自分の会社と「二足のわらじ」をはいて、好きなことを自由にやらせてもらった。その間、ものすごい勢いで新しい名刺が溜まっていった。
そのうち、こちらもほかにやることがあって、だんだん足が遠のいてしまった。そして、初めての出版から15年後、再びお呼びの声がかかった。2冊目の本の手伝いの話だった。
10時過ぎ、もう一度、5段抜きの記事を読んだ。盆休みだから、いまはご自宅にいらっしゃるはず。しばし迷って、3分後、Kaさんのスマホに電話した。
お元気そうな声だった。はなれていた時間をぜんぜん感じない。30分ちかく経っても話は終わりそうもなかった。そして、「事務所に来ませんか」となった。後継者も育って、このごろは用件があるときだけ出かけているという。
やっぱり、こちらから動いてよかった。涼しくなったときに、Kaさんに会う目的ができた。
よし、90歳の大先輩に負けないように、元気なところを見せなくちゃ。
■いままで書いた本を並べてみた(共著を含む)。ほかにもう1冊あったのだが。
Kaさんの著書は手前中央の『アライアンス・パワー』と『傍楽(はたらく)』の2冊。どちらも好評で、社員教育のテキストとして採用した企業もある。
先日、朝早くから地元紙の朝刊に目を通していたら、経済面を開いたところで目が止まった。連絡をしないまま数年が過ぎて、気になっていた人の顔写真が載っていた。
90歳になっていた。年齢を見て、胸を衝(つ)かれた。
その人はKaさん。ご縁ができたのは24年も前のこと。きっかけは知人の紹介で、Kaさんの経営哲学をまとめた本の出版の手伝いをしたことだった。初版と第2刷はぼくのちいさな制作会社から出した。
ぼくが鹿児島の小学校に入学した年に、Kaさんは九大を卒業して、地元の銀行に就職している。若いときから活躍されて、先行するライバル銀行を幾度も歯ぎしりさせた人で、代表取締役専務、関連会社の会長を経て、個人事務所を設立。
その準備のときに声をかけられた。
「この人なら、きっと新しい風を巻き起こすに違いない。これから自由になって、未来へのタネ撒きをする人だから」。本づくりをして、そう確信していたので、よろこんで参加した。
Kaさんは銀行時代にも、将来を背負う有望な人材を何人も育てていたという。ご本人の自慢話ではない。ほかから聞こえていた。
与えられた名刺の肩書は、メディア・プロデューサー。自分で言うのは気がひけるけれど、本人が気づいていない強みを見抜く眼力、やる気を引き出すこころ遣いは、こういう人に共通している。
抜群の人脈の持ち主で、関東や関西からもいろんな人が伝手を頼りにして、まるで磁石に吸い寄せられるようにKaさんの事務所にやってきた。
新しいビジネスの情報を持っている人は、それを活かしてくれる出会いの場を探している。そのマッチングをする役割は、Kaさんの独壇場とも言えた。第一、そんな面倒なことをやる人はほかにいなかった。
ふつうなら大手企業を営業訪問しても、担当者が会ってくれればいい方で、それすら夢物語の会社がいまでも圧倒的に多い。
ところが、Kaさんは、必ずその人物に会って、たっぷり時間をかけて、じっくり話を聞いたうえで、これは世のなかにひろげる価値があると判断したら、いきなり大手のトップに話をつなぐ。そして、そのエライ人たちは、「こんないい話は知りませんでした。わたしの耳にはこういう情報は入ってきません」というのがほとんどであった。
こうして実際に、地元の無名のベンチャーが超スピードで上場を果たした例もある。
シニアの財団の九州本部の事務局長もやらせてもらった。よく中州にも連れて行ってくれた。折々の話の一つひとつが、人脈づくりの要諦や経営の壁を打ち破る発想の生きた実例集で、惜しみなくその極意の数々を教えてくれた。
もちろん、それらが氷山の一角ということはわかっている。とにかく、カラオケでも、ゴルフでも、講演でも、ご本人は楽しんでおられるけれど、とても同じことはできそうもない努力の人だと言っておこう。
ここで若い人にアドバイスするとしたら、「自分からぶつかって、素直な気持ちで話を聞くようにすれば、年配の人は親切にいろいろ教えてあげたくなるものだよ」ということかな。
数年間、自分の会社と「二足のわらじ」をはいて、好きなことを自由にやらせてもらった。その間、ものすごい勢いで新しい名刺が溜まっていった。
そのうち、こちらもほかにやることがあって、だんだん足が遠のいてしまった。そして、初めての出版から15年後、再びお呼びの声がかかった。2冊目の本の手伝いの話だった。
10時過ぎ、もう一度、5段抜きの記事を読んだ。盆休みだから、いまはご自宅にいらっしゃるはず。しばし迷って、3分後、Kaさんのスマホに電話した。
お元気そうな声だった。はなれていた時間をぜんぜん感じない。30分ちかく経っても話は終わりそうもなかった。そして、「事務所に来ませんか」となった。後継者も育って、このごろは用件があるときだけ出かけているという。
やっぱり、こちらから動いてよかった。涼しくなったときに、Kaさんに会う目的ができた。
よし、90歳の大先輩に負けないように、元気なところを見せなくちゃ。
■いままで書いた本を並べてみた(共著を含む)。ほかにもう1冊あったのだが。
Kaさんの著書は手前中央の『アライアンス・パワー』と『傍楽(はたらく)』の2冊。どちらも好評で、社員教育のテキストとして採用した企業もある。
「幸運の道」を走って、治療へ ― 2025年08月19日 17時28分

点滴の薬が入ったちいさなペットボトルほどの容器を、いまも肩からぶら下げている。
昨日は3週間ごとの通院日。医師との会話もめぼしい内容はなく、決められたレールの上を淡々と進んでいる。とくに注意することもないという。
3月にようやく再発が確定したとき、医師からは「完治するのは無理ですね」とはっきりいわれた。だが、「人それぞれですから」という言葉を何度も耳にしている。どちらを信じるかと問われたら、答えはいうまでもないだろう。
化学療法室は静かだった。ぼくの点滴がいちばん長い時間がかかるので、最後はひとりきりになる。そこで看護師さんと少し話をした。
今回わかったのは、点滴の最高齢者は90代だったこと。つい数年前まで70代は少数派で、高齢者扱いだったけれど、いまでは80代が数人もいて、なかには「早くこの点滴を外してくれ。仕事に行くから」と注文をつける男性もいるそうだ。
信じられん。どうしようもない理由があるにしても、元気がいいなぁ。
ぼくは74歳だし、きつい抗がん剤の治療に耐えて、ベッドの上でもパソコンを触ったりしているので、癌が3つと小粒のそれが腹膜に散らばっている割には元気な患者だとおもわれているらしい。そうおもわれなかったら、こんなところにいる用はない。
「点滴を受けていると、いま癌をやっつけているんだなとおもいますね」
これは「ケモ室」(化学療法室の略語)で、ぼくがいつも口にする言葉である。
昨日のことを振り返りながら、先日電話したKaさんの言葉がずっと引っかかっている。
「毎日が日曜日で、人と会っていないと新しい情報も入ってこないし、なにをするにも達成する目的が目の前にないと、やっぱり身が入りませんね。△△さんは、なにかやっていますか?」
そう訊かれて、答えに窮した。病気のことはなにも話していない。
2年前の2月の手術のときは、入院する直前までインターネットで依頼のあった選挙の戦い方やコンセプト、組織づくりのアドバイスから、実践的な戦略シートの提供、スピーチ原稿、ミニ集会と街頭演説の原稿を仕上げて、群馬県の女性の依頼主までメールで送った。
並行して、近隣の町長選の参謀役を頼まれ、退院した6日後には手術の痛みをこらえて、打ち合わせに参加した。(この日、夜のニュースで、大江健三郎の死去の報に接す。)
あのときは生きて還れる保証はなかった。仕事をつくって、それを支えにしていた面もあった。さいわい、初出馬のどちらも当選した。
少しずつでもよくなること。それがいまの最優先事項である。80代の元気じいさんの話を聞いて、上には上がいるものだと、いいカンフル剤になった。
病院へつながっている国道202号線のことを、すい臓癌から手術で救ってくれた縁起のいい道なので、勝手に「幸運の道」と呼んでいる。いつもそう言い聞かせながら、スカイブルーの軽四で走って行く。
昨日の昼下がり、ふいに次男がやって来た。盆休みは熊本県の水害に遭った特約店の後片づけなどで、ほとんど休みなしだったという。
宮崎県日向市近郊の特産品、「へべす」を大量に持ってきてくれた。毎年、この時期に提げて来る。柑橘系の果実で、さわやかな香りとほどよい酸味がたまらない。カミさんはさっそく大半を果汁にして冷凍庫へ。
焼酎の水割りに、この新鮮な果汁をたっぷり絞って、一杯やりたいなぁ。
昨日は3週間ごとの通院日。医師との会話もめぼしい内容はなく、決められたレールの上を淡々と進んでいる。とくに注意することもないという。
3月にようやく再発が確定したとき、医師からは「完治するのは無理ですね」とはっきりいわれた。だが、「人それぞれですから」という言葉を何度も耳にしている。どちらを信じるかと問われたら、答えはいうまでもないだろう。
化学療法室は静かだった。ぼくの点滴がいちばん長い時間がかかるので、最後はひとりきりになる。そこで看護師さんと少し話をした。
今回わかったのは、点滴の最高齢者は90代だったこと。つい数年前まで70代は少数派で、高齢者扱いだったけれど、いまでは80代が数人もいて、なかには「早くこの点滴を外してくれ。仕事に行くから」と注文をつける男性もいるそうだ。
信じられん。どうしようもない理由があるにしても、元気がいいなぁ。
ぼくは74歳だし、きつい抗がん剤の治療に耐えて、ベッドの上でもパソコンを触ったりしているので、癌が3つと小粒のそれが腹膜に散らばっている割には元気な患者だとおもわれているらしい。そうおもわれなかったら、こんなところにいる用はない。
「点滴を受けていると、いま癌をやっつけているんだなとおもいますね」
これは「ケモ室」(化学療法室の略語)で、ぼくがいつも口にする言葉である。
昨日のことを振り返りながら、先日電話したKaさんの言葉がずっと引っかかっている。
「毎日が日曜日で、人と会っていないと新しい情報も入ってこないし、なにをするにも達成する目的が目の前にないと、やっぱり身が入りませんね。△△さんは、なにかやっていますか?」
そう訊かれて、答えに窮した。病気のことはなにも話していない。
2年前の2月の手術のときは、入院する直前までインターネットで依頼のあった選挙の戦い方やコンセプト、組織づくりのアドバイスから、実践的な戦略シートの提供、スピーチ原稿、ミニ集会と街頭演説の原稿を仕上げて、群馬県の女性の依頼主までメールで送った。
並行して、近隣の町長選の参謀役を頼まれ、退院した6日後には手術の痛みをこらえて、打ち合わせに参加した。(この日、夜のニュースで、大江健三郎の死去の報に接す。)
あのときは生きて還れる保証はなかった。仕事をつくって、それを支えにしていた面もあった。さいわい、初出馬のどちらも当選した。
少しずつでもよくなること。それがいまの最優先事項である。80代の元気じいさんの話を聞いて、上には上がいるものだと、いいカンフル剤になった。
病院へつながっている国道202号線のことを、すい臓癌から手術で救ってくれた縁起のいい道なので、勝手に「幸運の道」と呼んでいる。いつもそう言い聞かせながら、スカイブルーの軽四で走って行く。
昨日の昼下がり、ふいに次男がやって来た。盆休みは熊本県の水害に遭った特約店の後片づけなどで、ほとんど休みなしだったという。
宮崎県日向市近郊の特産品、「へべす」を大量に持ってきてくれた。毎年、この時期に提げて来る。柑橘系の果実で、さわやかな香りとほどよい酸味がたまらない。カミさんはさっそく大半を果汁にして冷凍庫へ。
焼酎の水割りに、この新鮮な果汁をたっぷり絞って、一杯やりたいなぁ。
短編小説、コトはじめ ― 2025年08月22日 14時56分

「小説、公募」でネット検索すると、〇〇〇文学賞がずらずら出てくる。はるか雲の上の輝かしい賞から地方のもの、こんな賞もあるのかまで、毎月いくつも応募の締め切りがある。
少し探ってみたら、数百から千通以上もある応募総数のうち、70代が増えているという。90歳を越える人もいるとか。その人たちの気持ち、なんとなくわかる。
一昨日は一歩も外に出なかった。昨日は、夕食前に目と鼻の先にあるスーパーに行っただけ。食欲なし、ひと口ぶんのご飯を飲み込むのがやっとで、意欲半減のありさまだが、一日じゅう、ごろごろしていたわけではない。
午前中も、午後からも、もうひとつのおおきな15.6型のノートパソコンに向かっていた。これなら縦書きで文字がつづれる。文章のぜんたいを見ながら、続きが書ける。
こうしてもったいぶって前置きを重ねている理由をそろそろ白状しておこう。
一昨日の朝から短編小説を書きはじめた。これまで何度も、何度も、やるぞとおもいながら、おもうだけで一日が終わっていた。日が経つにつれて、決意も熱意も消えうせてしまうのがお決まりのパターンだった。
最初から短編の構想が決まっているわけではないけれど、書いているうちに、自分をどこかへ連れて行ってくれるだろうという期待感はある。初日は400字を6枚、2日目はそれを修正して、計11枚になった。目標は30枚である。
あとは続くかどうかだ。その気持ちを維持するためにも、こんなブログを書いている。
(ここでカミさんから、「買い物に行くよ」と声がかかった。作家生活のようにはいかないな)
短編はずいぶん読んできた。名作をノートに書き写したことも幾たびか。だが、いまは鴎外、直哉、井伏、梶井の時代ではない。若い人たちはスマホの画面をみながら、どこでもすらすら書くという。ぼくと同年配で公募している人たちも、たぶん世代ギャップを感じていることだろう。
それでもいい。ともかく自分の可能性に挑戦するたのしみができたのだから。
短編の舞台は、あの波当津である。海に潜るシーンも、宴会の様子も書いた。そして、読み返しておもった。
うーん。こいつは、「ボツ」だな。
午前中にカミさんと買い物に行ったのは大正解だった。行きつけのドラッグストアで、初めてウワサの「古古米の備蓄米」にめぐりあった。カミさんの「カン」が当たった。
店内に入ると、40歳ぐらいの女性がうれしそうにぼくの顔をみて、チョン、チョン、チョン、と指先で右の方を指さしている。そこに備蓄米が積まれていた。残り少なかった。
福岡市内では、まず備蓄米にお目にかかることはない。九州には出まわっていないのだ。価格は税込みで、1,980円。安いとはいえ、米の値段が跳ね上がる前はもっと安かった。
「暮らしにくくなったものだ。昔はね、刈り取った稲は天日で干してね、・・・」。
歳をとったらこんなことも書いておきたくなる。でも、きっと読まれへんやろな。
少し探ってみたら、数百から千通以上もある応募総数のうち、70代が増えているという。90歳を越える人もいるとか。その人たちの気持ち、なんとなくわかる。
一昨日は一歩も外に出なかった。昨日は、夕食前に目と鼻の先にあるスーパーに行っただけ。食欲なし、ひと口ぶんのご飯を飲み込むのがやっとで、意欲半減のありさまだが、一日じゅう、ごろごろしていたわけではない。
午前中も、午後からも、もうひとつのおおきな15.6型のノートパソコンに向かっていた。これなら縦書きで文字がつづれる。文章のぜんたいを見ながら、続きが書ける。
こうしてもったいぶって前置きを重ねている理由をそろそろ白状しておこう。
一昨日の朝から短編小説を書きはじめた。これまで何度も、何度も、やるぞとおもいながら、おもうだけで一日が終わっていた。日が経つにつれて、決意も熱意も消えうせてしまうのがお決まりのパターンだった。
最初から短編の構想が決まっているわけではないけれど、書いているうちに、自分をどこかへ連れて行ってくれるだろうという期待感はある。初日は400字を6枚、2日目はそれを修正して、計11枚になった。目標は30枚である。
あとは続くかどうかだ。その気持ちを維持するためにも、こんなブログを書いている。
(ここでカミさんから、「買い物に行くよ」と声がかかった。作家生活のようにはいかないな)
短編はずいぶん読んできた。名作をノートに書き写したことも幾たびか。だが、いまは鴎外、直哉、井伏、梶井の時代ではない。若い人たちはスマホの画面をみながら、どこでもすらすら書くという。ぼくと同年配で公募している人たちも、たぶん世代ギャップを感じていることだろう。
それでもいい。ともかく自分の可能性に挑戦するたのしみができたのだから。
短編の舞台は、あの波当津である。海に潜るシーンも、宴会の様子も書いた。そして、読み返しておもった。
うーん。こいつは、「ボツ」だな。
午前中にカミさんと買い物に行ったのは大正解だった。行きつけのドラッグストアで、初めてウワサの「古古米の備蓄米」にめぐりあった。カミさんの「カン」が当たった。
店内に入ると、40歳ぐらいの女性がうれしそうにぼくの顔をみて、チョン、チョン、チョン、と指先で右の方を指さしている。そこに備蓄米が積まれていた。残り少なかった。
福岡市内では、まず備蓄米にお目にかかることはない。九州には出まわっていないのだ。価格は税込みで、1,980円。安いとはいえ、米の値段が跳ね上がる前はもっと安かった。
「暮らしにくくなったものだ。昔はね、刈り取った稲は天日で干してね、・・・」。
歳をとったらこんなことも書いておきたくなる。でも、きっと読まれへんやろな。
短編、最後で大チョンボ ― 2025年08月29日 15時01分

さぁ、ブログを書こう。
昨日まで短編に挑戦していた。ボツにするのは踏み止まったものの、ほとんど書き直しである。執筆のペースが上がったのは、ある公募の締め切り日の今月末が迫ってから。毎度のことだ。
初回の脱稿は一昨日の夕方。読み返して、手を入れた第2稿は昨日の16時ごろに仕上がった。A4のコビー用紙に印刷して32枚ある。さらに時間の許す限り、推敲を重ねて30枚にすれば、ともかく応募の条件はクリアできる。
自己採点すると内容は幼稚で、言葉の選び方や組み合わせもまだまだ力不足。舞台設定から登場人物、筋書きまで、過去におなじような作品は腐るほどあることも知っている。
こっちだって編集者の端くれなんだから、こんな新鮮味のない原稿は書き出しをチラッと読むだけで、審査する人から即決で除外されるのは百も承知の上だ。
それでもぼくにとっては書いたこと自体に意味がある。
ぼくしか書けないところがあるのだ。そして、この経験はこれから先もきっと役に立つに違いないのだから。
と、ここまでは、なんとか「書き上げる」という目的にたどり着いた。ところが、大チョンボをしていたことに、この段階で気がついた。
枚数が間違っていた。
30枚は、400字詰めの計算だった。ぼくがパソコンの画面を見ながら書いたのは縦20字、行数40行の800字である。それを32枚、書いた。つまり、2倍以上もオーバーしている。
しばし、茫然自失。
削ろうかとおもった。原稿は削ろうとおもえば、いくらでも削れるものだ。文章が引き締まって、言いたいこともわかりやすくなるし、読みやすくもなる。わかりきった鉄則である。
でも、いまは気を取り直している。ターゲットを別の公募に変えた。この原稿はしばらく熟成させて、もう一度、魂を入れ直してやろう。
ともかく書き上げてよかった。次はもっと「らしく書ける」ようになりたい。今日は別の短編にチャレンジする気持ちになっている。
問題は、アレだ、アレ。
この決意がいつまで続くかどうかである。
からだの方は相変わらずで、3、4日前まできつかった。点滴を重ねてきた副作用のせいだろう、初めて舌にしびれが出てきた。味覚を感じとれなくなって、何を食べてもうまくない。いまも完全には元に戻っていない。立ち上がると、ふらーり、ふらーりするのも変わらない。
だが、これがふつうの状態で、それでも調子は上がってきている。
はやくこの猛暑が終わって、涼しくなってほしい。閉じこもっているばかりで、外を歩けないのが困る。原稿を書くにも、なにか刺激が要る。
昨日まで短編に挑戦していた。ボツにするのは踏み止まったものの、ほとんど書き直しである。執筆のペースが上がったのは、ある公募の締め切り日の今月末が迫ってから。毎度のことだ。
初回の脱稿は一昨日の夕方。読み返して、手を入れた第2稿は昨日の16時ごろに仕上がった。A4のコビー用紙に印刷して32枚ある。さらに時間の許す限り、推敲を重ねて30枚にすれば、ともかく応募の条件はクリアできる。
自己採点すると内容は幼稚で、言葉の選び方や組み合わせもまだまだ力不足。舞台設定から登場人物、筋書きまで、過去におなじような作品は腐るほどあることも知っている。
こっちだって編集者の端くれなんだから、こんな新鮮味のない原稿は書き出しをチラッと読むだけで、審査する人から即決で除外されるのは百も承知の上だ。
それでもぼくにとっては書いたこと自体に意味がある。
ぼくしか書けないところがあるのだ。そして、この経験はこれから先もきっと役に立つに違いないのだから。
と、ここまでは、なんとか「書き上げる」という目的にたどり着いた。ところが、大チョンボをしていたことに、この段階で気がついた。
枚数が間違っていた。
30枚は、400字詰めの計算だった。ぼくがパソコンの画面を見ながら書いたのは縦20字、行数40行の800字である。それを32枚、書いた。つまり、2倍以上もオーバーしている。
しばし、茫然自失。
削ろうかとおもった。原稿は削ろうとおもえば、いくらでも削れるものだ。文章が引き締まって、言いたいこともわかりやすくなるし、読みやすくもなる。わかりきった鉄則である。
でも、いまは気を取り直している。ターゲットを別の公募に変えた。この原稿はしばらく熟成させて、もう一度、魂を入れ直してやろう。
ともかく書き上げてよかった。次はもっと「らしく書ける」ようになりたい。今日は別の短編にチャレンジする気持ちになっている。
問題は、アレだ、アレ。
この決意がいつまで続くかどうかである。
からだの方は相変わらずで、3、4日前まできつかった。点滴を重ねてきた副作用のせいだろう、初めて舌にしびれが出てきた。味覚を感じとれなくなって、何を食べてもうまくない。いまも完全には元に戻っていない。立ち上がると、ふらーり、ふらーりするのも変わらない。
だが、これがふつうの状態で、それでも調子は上がってきている。
はやくこの猛暑が終わって、涼しくなってほしい。閉じこもっているばかりで、外を歩けないのが困る。原稿を書くにも、なにか刺激が要る。
橋の上からタヌキと目が合う ― 2025年08月31日 18時07分

実物だった。目の前でうろうろしているタヌキをはじめて見た。もちろん、動物園の話ではない。
まだ小学校に上がる前、母の郷里に遊びに行ったとき、鉄砲撃ちの好きなじいさんがいて、タヌキの皮を包丁かなにかで剥いでいるところをみた記憶がある。白い脂肪が幼い目に強烈だった。きれいに剥ぎとった皮はえり巻きにするという話をうっすら覚えている。
こちらも鉄砲撃ちの名人だったという父方の祖父も、タヌキの毛皮のえり巻きを愛用していた。これも消え失せた里山文化のひとつである。
いまどき鳥獣保護管理法で守られているタヌキを見かけるのは、たいてい夜に車を運転して、山のなかを走っているとき。ライトの光のなかを一目散に走って逃げるのがいる。車にひかれて、道路の上でぼろ雑巾のようになっている姿もときどきみかける。
まさか、こんな住宅地で、野生のタヌキに遭遇するとはおもわなかった。
昨日の夕暮れ、すぐ近くにある食品スーパーからの帰り道、片側1車線の橋を渡っていたときだった。10メートルほど先の上流で、何かが動いている様子が目にとまった。
黒と茶色が混じったような色をしている。猫かな。でも、ちょっと違うな。ガリガリに痩せているし、猫よりも胴体が長い。それにノラネコ猫だって、あんなに汚れていない。
そのうす黒いやつがこっちを向いた。あの顔だ。目のまわりが黒っぽくて、はなれたところからみても愛嬌がある。タヌキだ。間違いない。
大急ぎで、スマホを取り出した。タヌ公はぼくの顔をちらちら見ながら、浅い流れのなかを小走りでやってくる。どうやら橋の下に隠れるつもりらしい。
はやくも真下に来た。またちいさな丸い目で、こっちを見上げた。止まれ、そこで止まってくれ。
ああ、間に合わない。とうとうタヌちゃんは橋の下に消えてしまった。反対側にまわって、こちらの姿が見えないように橋の上からじっと待ち伏せたけれど、敵はちゃんと心得ていて、この化かし合いはタヌ公の勝ち。
でも、あいつに教えてあげたいことがあった。
この川の幅は3、4メートル、川底から地面までは3メートルほどある。両側の壁と川底はコンクリートの3面張りだから、あのちいさなタヌキが自力で登りきるのはとうてい無理である。
脱出する方法は限られている。このまま下流を目指して、室見川との合流地点まで行って、そこでいちど水のなかに飛び込んで、川岸に這い上がるか。それとも上流に引き返して、自分が川のなかに入った場所まで戻るか。そのふたつしかない。
それにしても人の多い住宅地で、よくもまぁ、生き延びているものだ。
もう一度、あいつに会いたいなぁ。わずか1分間ほどの出会いだったけれど、あのとぼけたような、どうしたらいいのか困っているような、こころ細げな顔を、もっと間近でまじまじと見たかった。
まだ小学校に上がる前、母の郷里に遊びに行ったとき、鉄砲撃ちの好きなじいさんがいて、タヌキの皮を包丁かなにかで剥いでいるところをみた記憶がある。白い脂肪が幼い目に強烈だった。きれいに剥ぎとった皮はえり巻きにするという話をうっすら覚えている。
こちらも鉄砲撃ちの名人だったという父方の祖父も、タヌキの毛皮のえり巻きを愛用していた。これも消え失せた里山文化のひとつである。
いまどき鳥獣保護管理法で守られているタヌキを見かけるのは、たいてい夜に車を運転して、山のなかを走っているとき。ライトの光のなかを一目散に走って逃げるのがいる。車にひかれて、道路の上でぼろ雑巾のようになっている姿もときどきみかける。
まさか、こんな住宅地で、野生のタヌキに遭遇するとはおもわなかった。
昨日の夕暮れ、すぐ近くにある食品スーパーからの帰り道、片側1車線の橋を渡っていたときだった。10メートルほど先の上流で、何かが動いている様子が目にとまった。
黒と茶色が混じったような色をしている。猫かな。でも、ちょっと違うな。ガリガリに痩せているし、猫よりも胴体が長い。それにノラネコ猫だって、あんなに汚れていない。
そのうす黒いやつがこっちを向いた。あの顔だ。目のまわりが黒っぽくて、はなれたところからみても愛嬌がある。タヌキだ。間違いない。
大急ぎで、スマホを取り出した。タヌ公はぼくの顔をちらちら見ながら、浅い流れのなかを小走りでやってくる。どうやら橋の下に隠れるつもりらしい。
はやくも真下に来た。またちいさな丸い目で、こっちを見上げた。止まれ、そこで止まってくれ。
ああ、間に合わない。とうとうタヌちゃんは橋の下に消えてしまった。反対側にまわって、こちらの姿が見えないように橋の上からじっと待ち伏せたけれど、敵はちゃんと心得ていて、この化かし合いはタヌ公の勝ち。
でも、あいつに教えてあげたいことがあった。
この川の幅は3、4メートル、川底から地面までは3メートルほどある。両側の壁と川底はコンクリートの3面張りだから、あのちいさなタヌキが自力で登りきるのはとうてい無理である。
脱出する方法は限られている。このまま下流を目指して、室見川との合流地点まで行って、そこでいちど水のなかに飛び込んで、川岸に這い上がるか。それとも上流に引き返して、自分が川のなかに入った場所まで戻るか。そのふたつしかない。
それにしても人の多い住宅地で、よくもまぁ、生き延びているものだ。
もう一度、あいつに会いたいなぁ。わずか1分間ほどの出会いだったけれど、あのとぼけたような、どうしたらいいのか困っているような、こころ細げな顔を、もっと間近でまじまじと見たかった。
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