めぐり逢う・ヤコブ ― 2021年03月02日 12時03分

インスタントコーヒーを飲み飽きて、久しぶりに手回しのミルでコーヒー豆を挽き、ドリップで淹れた。モカの酸味がほどよく効いていて、やっぱり旨い。
こうして手ずからコーヒーを淹れると、学生時代に半年間、小さな喫茶店でアルバイトのマスターをやっていたころを思い出す。
その店は高田の馬場駅から大学に向かう途中の大きな交差点のすぐ近くにあった。店の名をヤコブという。生まれて初めて手にした名刺は、「店をやってみないか」と声をかけてくれたオーナーのSさんが作ってくれたもので、俳人の楠本憲吉さんがデザインしたと聞かされた。
ぼくは店の前の歩道に出す白い看板に、「すれ違う十字路 めぐり逢うヤコブ」と筆字で書いて、大学4年生のある日突然、店のマスターになったのである。
まわりの喫茶店のコーヒーは安くても一杯150円。こちらは骨董品ものの大型のミルで少量ずつ豆を挽いて、できるだけ引き立てのコーヒーをドリップで淹れて130円。Sさんは新宿中村屋の株主だったので、中村屋のカリーとコーヒーのセットは300円、同じくボルシチとコーヒーは350円で出していた。客席は、長いカウンターに7席、後ろに二人掛けの小さなテーブルが二つ。
ありていに言えば、これで儲かるはずはなく、Sさんが暇つぶしにやっていた店だった。夕方からはアルコールも出して、カネのない友だちや後輩たち、剣道部の学生、浪人生たちもやってきた。
カウンターの中の正面の壁には、大きな日本地図を貼った。学生たちが来ると、かれらの出身地を聞き、その土地の話をしてもらう趣向だった。北海道、東北、北陸、中部…、それこそ全国各地から学生たちは出て来ていて、彼らの高校時代の話と自分が出た高校の自由度の違いに驚かされることも多かった。
「高下駄を履いて、バットを手にして学校に通っていた」、「廊下にはタン壺が置いてあった」、「学帽は引き破ってかぶるのが昔から伝統です」、「便所のクソが凍るとスコップでたたき割った」、「リンゴをちぎって食うとうめえぞ」、「旺文社の全国模試でトップになった、そのときの答案用紙の名前には戸川万吉と書いた(戸川万吉は、当時、人気絶大だったマンガ「男一匹ガキ大将」の主人公)」
こんな話が続々と出て来た。
医大を中退して、ヨーロッパで柔道を教えると旅立った人。剣道部なのに、アメリカで空手を教えると海を渡って行った先輩。失恋して、彼女に渡すプレゼントを雪の積もった夜の交差点に投げ捨てた奴。国際的な仕事もしている都市設計の会社を辞めて、自分でつくった屋台を引きはじめた人。お前に負けない男になって帰って来ると、海外へ放浪の旅に出た友もいた。
ちょうど「神田川」がヒットしていて、まるで今のぼくみたいだな、とおもったこともある。みんな青春の真っただなかだった。
忙しいときよりも、ヒマな時間の方が多かったが、店というのは、流れる川の中にある石のようなもので、じっとしていてもいろんな人が漂着して来る。
オヤオヤ、かわいい女の子が入って来たぞ、と思ったら、ナント、高校の後輩だったこともある。あれから幾星霜、いまでも彼女とのお付き合いはつながっていて、ぼくが商品企画した球磨焼酎の銘柄を蔵元から定期的に、それも相当な量を買ってくれている。
まさしく「めぐり逢うヤコブ」だった。だれが仕組んだものやらわからないが、縁とはありがたいものだ。
ぼくにとってのSさんは、まさに「東京のオヤジさん」だった。何度もご自宅に泊まったことがある。洗面所には、ぼくの歯ブラシが置かれていた。誕生日には、わざわざ早朝から千葉の方面まで出世魚のスズキを釣りに行って、広島の名酒・加茂鶴の一斗樽を開けて、ご家族で祝ってくれたこともある。
Sさんの盟友のYさんは某出版社の幹部で、お二人ともGパンに下駄ばき姿のぼくを、雑誌の編集者や作家が来る池袋の店、新宿ゴールデン街、銀座のクラブなどに連れまわしてくれた。次から次へに、学生にはとても入れそうもない店を5、6軒、ハシゴするのである。帰りはたいてい黒塗りのハイヤーだった。
そのとき教えてもらった数々の社会勉強の積み重ねが、4年生になっても就職活動をしなかったぼくの将来への扉を開けてくれたのだとおもう。
念ずれば叶う、と言う。小学校のころから新聞記者になりたくて、運よく新聞社系の週刊誌のフリー記者になれたのも、Sさんとのご縁のお陰である。
後になって気づいたことだが、「東京のオヤジさん」は喫茶店のマスター稼業をおもしろがっている「息子」のことを案じて、ちゃんと行き場所を考えていてくれていたのだった。今年がSさんの10回忌になる。
ぼくが雇われマスターを辞める日が、ヤコブを閉じる日だった。
閉店の日、友人やゼミの仲間、先輩、後輩たち、運動部の連中、浪人生、学生時代にお世話になった学生街の食堂の人もやって来て、小さな店の外までにぎやかな行列ができた。
ぼくは日本酒の一升瓶を取り出して、「さぁ、やってください」と、列の最後の人まで、順番にまわし飲みをした。これで最後と、何度もくり返した。
みなさん、陽気に笑いながら、ヤコブの終わりを惜しんでくれた。本当に、いい経験をさせていただいた。いまごろ、あの人たちはどうしているだろうか。
さて、昔話はこのへんにして、もう一杯、コーヒーを淹れようかな。
こうして手ずからコーヒーを淹れると、学生時代に半年間、小さな喫茶店でアルバイトのマスターをやっていたころを思い出す。
その店は高田の馬場駅から大学に向かう途中の大きな交差点のすぐ近くにあった。店の名をヤコブという。生まれて初めて手にした名刺は、「店をやってみないか」と声をかけてくれたオーナーのSさんが作ってくれたもので、俳人の楠本憲吉さんがデザインしたと聞かされた。
ぼくは店の前の歩道に出す白い看板に、「すれ違う十字路 めぐり逢うヤコブ」と筆字で書いて、大学4年生のある日突然、店のマスターになったのである。
まわりの喫茶店のコーヒーは安くても一杯150円。こちらは骨董品ものの大型のミルで少量ずつ豆を挽いて、できるだけ引き立てのコーヒーをドリップで淹れて130円。Sさんは新宿中村屋の株主だったので、中村屋のカリーとコーヒーのセットは300円、同じくボルシチとコーヒーは350円で出していた。客席は、長いカウンターに7席、後ろに二人掛けの小さなテーブルが二つ。
ありていに言えば、これで儲かるはずはなく、Sさんが暇つぶしにやっていた店だった。夕方からはアルコールも出して、カネのない友だちや後輩たち、剣道部の学生、浪人生たちもやってきた。
カウンターの中の正面の壁には、大きな日本地図を貼った。学生たちが来ると、かれらの出身地を聞き、その土地の話をしてもらう趣向だった。北海道、東北、北陸、中部…、それこそ全国各地から学生たちは出て来ていて、彼らの高校時代の話と自分が出た高校の自由度の違いに驚かされることも多かった。
「高下駄を履いて、バットを手にして学校に通っていた」、「廊下にはタン壺が置いてあった」、「学帽は引き破ってかぶるのが昔から伝統です」、「便所のクソが凍るとスコップでたたき割った」、「リンゴをちぎって食うとうめえぞ」、「旺文社の全国模試でトップになった、そのときの答案用紙の名前には戸川万吉と書いた(戸川万吉は、当時、人気絶大だったマンガ「男一匹ガキ大将」の主人公)」
こんな話が続々と出て来た。
医大を中退して、ヨーロッパで柔道を教えると旅立った人。剣道部なのに、アメリカで空手を教えると海を渡って行った先輩。失恋して、彼女に渡すプレゼントを雪の積もった夜の交差点に投げ捨てた奴。国際的な仕事もしている都市設計の会社を辞めて、自分でつくった屋台を引きはじめた人。お前に負けない男になって帰って来ると、海外へ放浪の旅に出た友もいた。
ちょうど「神田川」がヒットしていて、まるで今のぼくみたいだな、とおもったこともある。みんな青春の真っただなかだった。
忙しいときよりも、ヒマな時間の方が多かったが、店というのは、流れる川の中にある石のようなもので、じっとしていてもいろんな人が漂着して来る。
オヤオヤ、かわいい女の子が入って来たぞ、と思ったら、ナント、高校の後輩だったこともある。あれから幾星霜、いまでも彼女とのお付き合いはつながっていて、ぼくが商品企画した球磨焼酎の銘柄を蔵元から定期的に、それも相当な量を買ってくれている。
まさしく「めぐり逢うヤコブ」だった。だれが仕組んだものやらわからないが、縁とはありがたいものだ。
ぼくにとってのSさんは、まさに「東京のオヤジさん」だった。何度もご自宅に泊まったことがある。洗面所には、ぼくの歯ブラシが置かれていた。誕生日には、わざわざ早朝から千葉の方面まで出世魚のスズキを釣りに行って、広島の名酒・加茂鶴の一斗樽を開けて、ご家族で祝ってくれたこともある。
Sさんの盟友のYさんは某出版社の幹部で、お二人ともGパンに下駄ばき姿のぼくを、雑誌の編集者や作家が来る池袋の店、新宿ゴールデン街、銀座のクラブなどに連れまわしてくれた。次から次へに、学生にはとても入れそうもない店を5、6軒、ハシゴするのである。帰りはたいてい黒塗りのハイヤーだった。
そのとき教えてもらった数々の社会勉強の積み重ねが、4年生になっても就職活動をしなかったぼくの将来への扉を開けてくれたのだとおもう。
念ずれば叶う、と言う。小学校のころから新聞記者になりたくて、運よく新聞社系の週刊誌のフリー記者になれたのも、Sさんとのご縁のお陰である。
後になって気づいたことだが、「東京のオヤジさん」は喫茶店のマスター稼業をおもしろがっている「息子」のことを案じて、ちゃんと行き場所を考えていてくれていたのだった。今年がSさんの10回忌になる。
ぼくが雇われマスターを辞める日が、ヤコブを閉じる日だった。
閉店の日、友人やゼミの仲間、先輩、後輩たち、運動部の連中、浪人生、学生時代にお世話になった学生街の食堂の人もやって来て、小さな店の外までにぎやかな行列ができた。
ぼくは日本酒の一升瓶を取り出して、「さぁ、やってください」と、列の最後の人まで、順番にまわし飲みをした。これで最後と、何度もくり返した。
みなさん、陽気に笑いながら、ヤコブの終わりを惜しんでくれた。本当に、いい経験をさせていただいた。いまごろ、あの人たちはどうしているだろうか。
さて、昔話はこのへんにして、もう一杯、コーヒーを淹れようかな。
データマンの仕事 ― 2021年03月03日 12時40分

長い間、はなれていた「書く習慣を取り戻す」ために始めたブログだが、まだまだかつてのようにはいかない。
駆け出しのころ、ぼくが記者として育ててもらったS誌でのスタートは、事件のデータマンだった。先輩記者に付いて取材のイロハを学ぶのだが、原稿を書くのは先輩で、ぼくは彼から指示されたターゲットを取材して、その情報をささい漏らさず、原稿に書いて渡すのが与えられた役目だった。10行詰めの原稿用紙で何十枚も、百枚以上もザラだった。
編集部では大きな事件が発生すると、瞬時に取材チームを編成する。そこでは取材力ナンバーワン記者を筆頭に、何人もの腕利きがデータマンになる。そして、締め切りぎりぎりまで提出されるデータ原稿の山の中から、これという数行の原稿を選んで、全体の構成を組み立てて、記事を書く人をアンカーマンという。テレビのキャスターがそうである。
ぼくはしばらくして尊敬するエース記者のTさんとコンビを組んで、やさしく、厳しく育ててもらった。本当に恵まれていたとおもう。
新聞の取材は「筋」を追う。いわゆる5W1Hで、Who(だれが)、When(いつ)、Wher(どこで)、What(何を)、Why(なぜ)、How(どのように)の組み立てが基本になる。
しかし、雑誌は新聞が書かない事実を読者に提供しなければ、お金を払っていただく価値がない。
わかりやすい例をあげると、ぼくらのころは「父親は事件の前に、酒を飲んでいた」という書き方では、ボツだった。そういう書き方の記事は、ほとんど警察発表のままに過ぎない。取材はその先にある。
父親はどこの店で、その店の中はどんな雰囲気で、そのときはどんな服装で、背広の色は、ネクタイの色は、カバンは持っていたか、どんな様子だったか、何時から何時まで、酒はどんな種類を、どれだけの量を、ツマミは何を、そのときだれと、どんな話をしていたか、帰りの様子は。
というふうに、そのときの状況が目に浮かぶように書くのである。同じ取材でも、締め切り時間がすぐやってくるテレビや新聞よりも、通常は時間に余裕のある雑誌の方がより細かくなる。
そのため材料を集める取材は体力と精神力が不可欠で、ここで踏ん張る力は記者魂しかない。それでも、うまく行かないことの方が圧倒的に多かった。特に、人間の心の闇にふれる事件の取材がそうだった。
取材は始めると、そこでつかんだ情報から、もっと確認したい情報が連鎖反応のように出てくる。追いかけるスピードはどちらが速いか、どちらが正確か、大きな事件では競合各社との取材合戦がものすごい勢いで激化していく。そして、編集部全体が「負けるな」という熱い空気に包まれる。地方にいると、なかなかできない体験が、東京ではふつうのことだった。
地方赴任からデビューする若手記者が、政治部なら自民党の平河クラブ、国会記者クラブ、そして官邸クラブを目指す気持ちはよくわかる。
もちろん、権力上昇志向からではなく、日本の中枢を取材したいという欲求はあって当然だとおもう。
ぼくも初めて官邸に足を踏み入れたときや、警視庁の取り調べ室で、眼光鋭い捜査一課の刑事に取材したときには、「俺は記者になったぞ」を実感したものだ。
筋を追う新聞と違って、雑誌の原稿では「読ませるところは、肉をつけて」書く。記事の中に、関係するいろんな人物が登場するし、載せるコメントの数も新聞の比ではない。
ちなみに新聞のトップ原稿の行数を数えてみればわかることだが、1行が12,3字で100行もない。長尺モノでも、週刊誌の特集記事の方がもっと原稿の量は多い。(なんだか、初心者相手の講師のようになってきた)
「オイ、男がかけていたメガネは、どんなメガネなんだ」と原稿に赤字を入れながら、デスクから質問が飛んで来る。メガネひとつでも、カネ持ちなのか、ブランド好みなのか、それとも安物なのか、人物像がガラリと変わるから、油断はできないのである。
ある大きな疑獄事件で、ぼくは、焦点の男性が5,000円のパンツをはいていた、という情報をつかんだ。その奥さんが高給取りの夫の自慢話として吹聴していたのである。
近所の家を一軒一軒歩いて、何か1行でも書ける情報はないかと粘り強く取材したから、出てきた話だった。その週号の発売日、電車の吊り広告に、「五千円のパンツをはいた男」というタイトルがデカデカと出たこともあった。
このようにデータマンは、取材のデータ原稿の質、量が求められる。取材先で聞いたことは、相手が話した通りの言葉遣いで書かなければならない。なぜかというと、それはそのまま、アンカーマンがコメントして使うかも知れないからだ。ぼくも、こうして鍛えられた。
こんな入門書的なことは、新聞、雑誌に限らず、記者ならだれでもやっていることである。記事になるのは、取材した量のほんのわずかしかない。書かない情報の方がはるかに多い。
だが、こうした話は、まず、しない。聞かれても、個人情報に関わることで、傷つけてはいけない人もいるし、面倒くさいから、当たり障りのないことしか答えたくない。
仕事とはそういうものだとおもう。テレビのワイドショーで、取材前線の情報を持たずに、人の痛みも知らずに、ペラペラしゃべっている人を見ると、強烈な違和感を覚える。
データマンの仕事について聞かれることがあったら、もう廃版になっているかもしれないが、立花隆さんの著作「農協」(朝日文庫)のあとがきを一読することをおすすめする。一緒に取材したことがあるI先輩のていねいな文章が載っている。
東京をはなれるとき、ケジメをつけたいとおもって、それまでの取材メモは全部捨てた。だが、どうしてもジャーナリストのしっぽは、まだ残ったままの自分がいる。
たぶん、風のひょう吉は、あの編集部の熱気が忘れられずに、これからもいろんなエピソードを書くだろうという気がしている。
■写真は、記者時代に使っていたメモ帖の表紙裏。初心忘れずで、中には何も書いていないが、これだけは手元に残している。
駆け出しのころ、ぼくが記者として育ててもらったS誌でのスタートは、事件のデータマンだった。先輩記者に付いて取材のイロハを学ぶのだが、原稿を書くのは先輩で、ぼくは彼から指示されたターゲットを取材して、その情報をささい漏らさず、原稿に書いて渡すのが与えられた役目だった。10行詰めの原稿用紙で何十枚も、百枚以上もザラだった。
編集部では大きな事件が発生すると、瞬時に取材チームを編成する。そこでは取材力ナンバーワン記者を筆頭に、何人もの腕利きがデータマンになる。そして、締め切りぎりぎりまで提出されるデータ原稿の山の中から、これという数行の原稿を選んで、全体の構成を組み立てて、記事を書く人をアンカーマンという。テレビのキャスターがそうである。
ぼくはしばらくして尊敬するエース記者のTさんとコンビを組んで、やさしく、厳しく育ててもらった。本当に恵まれていたとおもう。
新聞の取材は「筋」を追う。いわゆる5W1Hで、Who(だれが)、When(いつ)、Wher(どこで)、What(何を)、Why(なぜ)、How(どのように)の組み立てが基本になる。
しかし、雑誌は新聞が書かない事実を読者に提供しなければ、お金を払っていただく価値がない。
わかりやすい例をあげると、ぼくらのころは「父親は事件の前に、酒を飲んでいた」という書き方では、ボツだった。そういう書き方の記事は、ほとんど警察発表のままに過ぎない。取材はその先にある。
父親はどこの店で、その店の中はどんな雰囲気で、そのときはどんな服装で、背広の色は、ネクタイの色は、カバンは持っていたか、どんな様子だったか、何時から何時まで、酒はどんな種類を、どれだけの量を、ツマミは何を、そのときだれと、どんな話をしていたか、帰りの様子は。
というふうに、そのときの状況が目に浮かぶように書くのである。同じ取材でも、締め切り時間がすぐやってくるテレビや新聞よりも、通常は時間に余裕のある雑誌の方がより細かくなる。
そのため材料を集める取材は体力と精神力が不可欠で、ここで踏ん張る力は記者魂しかない。それでも、うまく行かないことの方が圧倒的に多かった。特に、人間の心の闇にふれる事件の取材がそうだった。
取材は始めると、そこでつかんだ情報から、もっと確認したい情報が連鎖反応のように出てくる。追いかけるスピードはどちらが速いか、どちらが正確か、大きな事件では競合各社との取材合戦がものすごい勢いで激化していく。そして、編集部全体が「負けるな」という熱い空気に包まれる。地方にいると、なかなかできない体験が、東京ではふつうのことだった。
地方赴任からデビューする若手記者が、政治部なら自民党の平河クラブ、国会記者クラブ、そして官邸クラブを目指す気持ちはよくわかる。
もちろん、権力上昇志向からではなく、日本の中枢を取材したいという欲求はあって当然だとおもう。
ぼくも初めて官邸に足を踏み入れたときや、警視庁の取り調べ室で、眼光鋭い捜査一課の刑事に取材したときには、「俺は記者になったぞ」を実感したものだ。
筋を追う新聞と違って、雑誌の原稿では「読ませるところは、肉をつけて」書く。記事の中に、関係するいろんな人物が登場するし、載せるコメントの数も新聞の比ではない。
ちなみに新聞のトップ原稿の行数を数えてみればわかることだが、1行が12,3字で100行もない。長尺モノでも、週刊誌の特集記事の方がもっと原稿の量は多い。(なんだか、初心者相手の講師のようになってきた)
「オイ、男がかけていたメガネは、どんなメガネなんだ」と原稿に赤字を入れながら、デスクから質問が飛んで来る。メガネひとつでも、カネ持ちなのか、ブランド好みなのか、それとも安物なのか、人物像がガラリと変わるから、油断はできないのである。
ある大きな疑獄事件で、ぼくは、焦点の男性が5,000円のパンツをはいていた、という情報をつかんだ。その奥さんが高給取りの夫の自慢話として吹聴していたのである。
近所の家を一軒一軒歩いて、何か1行でも書ける情報はないかと粘り強く取材したから、出てきた話だった。その週号の発売日、電車の吊り広告に、「五千円のパンツをはいた男」というタイトルがデカデカと出たこともあった。
このようにデータマンは、取材のデータ原稿の質、量が求められる。取材先で聞いたことは、相手が話した通りの言葉遣いで書かなければならない。なぜかというと、それはそのまま、アンカーマンがコメントして使うかも知れないからだ。ぼくも、こうして鍛えられた。
こんな入門書的なことは、新聞、雑誌に限らず、記者ならだれでもやっていることである。記事になるのは、取材した量のほんのわずかしかない。書かない情報の方がはるかに多い。
だが、こうした話は、まず、しない。聞かれても、個人情報に関わることで、傷つけてはいけない人もいるし、面倒くさいから、当たり障りのないことしか答えたくない。
仕事とはそういうものだとおもう。テレビのワイドショーで、取材前線の情報を持たずに、人の痛みも知らずに、ペラペラしゃべっている人を見ると、強烈な違和感を覚える。
データマンの仕事について聞かれることがあったら、もう廃版になっているかもしれないが、立花隆さんの著作「農協」(朝日文庫)のあとがきを一読することをおすすめする。一緒に取材したことがあるI先輩のていねいな文章が載っている。
東京をはなれるとき、ケジメをつけたいとおもって、それまでの取材メモは全部捨てた。だが、どうしてもジャーナリストのしっぽは、まだ残ったままの自分がいる。
たぶん、風のひょう吉は、あの編集部の熱気が忘れられずに、これからもいろんなエピソードを書くだろうという気がしている。
■写真は、記者時代に使っていたメモ帖の表紙裏。初心忘れずで、中には何も書いていないが、これだけは手元に残している。
書き直すのは、読者サービス ― 2021年03月04日 09時07分

エース記者のTさんには、記者として、人間として、大切なことをたくさん教わった。
あれは「白ヘル軍団」と呼ばれて、法政の剛腕・江川に黒星をつけた東大野球部の取材だったか、それとも北島監督が率いる、名手・松尾が大活躍していた明大ラグビー部の取材だったか、ぼくがデータ原稿の束を持って、新聞社の個室で原稿を書いているTさんに届けたときのことである。ある夏の日の土曜日、夜中の零時を過ぎていた。
土曜日の夜の編集部は、特集部、コラム部、グラビア部、経済部ともに締め切り時間との戦いになる。夜の11時を過ぎても代議士に電話取材する人もいる。どんなに遅くても、どこにいても、政治家は追いかけても構わない。そして、たいていの政治家はちゃんと電話に出てくれる。夜遅く出張から帰って来て、すぐ書き始める人がいるのも、ごくふつうのことだった。
たった2行か、3行しか書いていない原稿用紙を足元に花吹雪のように散らして、頭を掻きむしっている先輩もいれば、コンテができるまでは書かないというじっくり型もいた。直木賞をとった佐藤雅美さんがそうだった。
たばこの煙りのダンスに合わせるように、スラスラと書く人もいた。その代表格が「江夏の21球」で知られる、ぼくより2歳年上の山際淳司さん。お二人とも鬼籍に入られたが、あのころの編集部はツワモノぞろいだった。
そうして原稿を書きあげた人から「お先にぃ~」とか、「オイ、下の屋台で待ってるぞ。早く書いてしまえよ」と言って、ひとり二人と去っていく。
Tさんはいつも最後の人だった。Tさんが書き終わるまで、デスクも編集長もじっと待っていた。その原稿をレイアウトする整理部、校閲部も大手印刷工場のある別室で待機。みんな徹夜である。しかし、待つ楽しみがあった。エースのTさんは、ライバル他社にも、政治家たちにも一目置かれていて、彼の原稿を読めるのが待ち遠しかったのである。
そのTさんは原稿用紙を無駄にしなかった。ザラ紙の原稿用紙の一枚一枚が反り返っていて、どれも黒く汚れている。3Bの鉛筆を右手に持って、2、3行書いては、左の手の消しゴムでゴシゴシ消して、書き直して、書き直したかと思えば、またゴシゴシ消して、また書き直すのである。まわりは黒い消しゴムのカスだらけ。
その消しゴムのカスを指先でつまみとって、ぼくに見せながら、こう言ったのだ。
「これはね、ぼくの読者サービスなんだ」
この言葉は終生、忘れない。
「こうやって、何度も、何度も書き直すのはね、読者のためなんだ」
どなたもそうだろうが、すぐ近くに背中を追いかけたくなる先輩がいる人は幸せである。Tさんは退社されて、お寺を継がれたが、目白の教会で結婚式をあげたぼくたち夫婦の仲人にもなっていただいた。
彼は、現役時代に、ある直木賞作家から「あなた、小説を書きなさいよ。ぜったい、直木賞とれるわよ」と言われていた人である。
■ぼくたち編集部記者はみな3Bの鉛筆を使っていた。ボールペンや万年筆で書こうものなら、先輩記者から「おお、大記者になったなぁ」と皮肉られたものだ。
あの池波正太郎さんの師匠・長谷川伸も紙を大切にしていた。書き仕損じた原稿用紙の裏を使って、びっしり書いていたという。
■九州の民放ラジオ局が制作した番組から最優秀賞を選び、全国大会へ推薦するある賞の審査委員をしていたとき、某ラジオ局の名物プロデューサーに、「書き直すのは読者サービス」の話をしたことがある。
翌年、また同じ審査会の席でお会いした。そのとき若い女性の部下を横にして、彼はこう言った。
「書き直すのは読者サービス、というお話を伺って、昨年の応募作をつくり直しました。そうしたら別の賞で最高賞を取ったんですよ」
あれは「白ヘル軍団」と呼ばれて、法政の剛腕・江川に黒星をつけた東大野球部の取材だったか、それとも北島監督が率いる、名手・松尾が大活躍していた明大ラグビー部の取材だったか、ぼくがデータ原稿の束を持って、新聞社の個室で原稿を書いているTさんに届けたときのことである。ある夏の日の土曜日、夜中の零時を過ぎていた。
土曜日の夜の編集部は、特集部、コラム部、グラビア部、経済部ともに締め切り時間との戦いになる。夜の11時を過ぎても代議士に電話取材する人もいる。どんなに遅くても、どこにいても、政治家は追いかけても構わない。そして、たいていの政治家はちゃんと電話に出てくれる。夜遅く出張から帰って来て、すぐ書き始める人がいるのも、ごくふつうのことだった。
たった2行か、3行しか書いていない原稿用紙を足元に花吹雪のように散らして、頭を掻きむしっている先輩もいれば、コンテができるまでは書かないというじっくり型もいた。直木賞をとった佐藤雅美さんがそうだった。
たばこの煙りのダンスに合わせるように、スラスラと書く人もいた。その代表格が「江夏の21球」で知られる、ぼくより2歳年上の山際淳司さん。お二人とも鬼籍に入られたが、あのころの編集部はツワモノぞろいだった。
そうして原稿を書きあげた人から「お先にぃ~」とか、「オイ、下の屋台で待ってるぞ。早く書いてしまえよ」と言って、ひとり二人と去っていく。
Tさんはいつも最後の人だった。Tさんが書き終わるまで、デスクも編集長もじっと待っていた。その原稿をレイアウトする整理部、校閲部も大手印刷工場のある別室で待機。みんな徹夜である。しかし、待つ楽しみがあった。エースのTさんは、ライバル他社にも、政治家たちにも一目置かれていて、彼の原稿を読めるのが待ち遠しかったのである。
そのTさんは原稿用紙を無駄にしなかった。ザラ紙の原稿用紙の一枚一枚が反り返っていて、どれも黒く汚れている。3Bの鉛筆を右手に持って、2、3行書いては、左の手の消しゴムでゴシゴシ消して、書き直して、書き直したかと思えば、またゴシゴシ消して、また書き直すのである。まわりは黒い消しゴムのカスだらけ。
その消しゴムのカスを指先でつまみとって、ぼくに見せながら、こう言ったのだ。
「これはね、ぼくの読者サービスなんだ」
この言葉は終生、忘れない。
「こうやって、何度も、何度も書き直すのはね、読者のためなんだ」
どなたもそうだろうが、すぐ近くに背中を追いかけたくなる先輩がいる人は幸せである。Tさんは退社されて、お寺を継がれたが、目白の教会で結婚式をあげたぼくたち夫婦の仲人にもなっていただいた。
彼は、現役時代に、ある直木賞作家から「あなた、小説を書きなさいよ。ぜったい、直木賞とれるわよ」と言われていた人である。
■ぼくたち編集部記者はみな3Bの鉛筆を使っていた。ボールペンや万年筆で書こうものなら、先輩記者から「おお、大記者になったなぁ」と皮肉られたものだ。
あの池波正太郎さんの師匠・長谷川伸も紙を大切にしていた。書き仕損じた原稿用紙の裏を使って、びっしり書いていたという。
■九州の民放ラジオ局が制作した番組から最優秀賞を選び、全国大会へ推薦するある賞の審査委員をしていたとき、某ラジオ局の名物プロデューサーに、「書き直すのは読者サービス」の話をしたことがある。
翌年、また同じ審査会の席でお会いした。そのとき若い女性の部下を横にして、彼はこう言った。
「書き直すのは読者サービス、というお話を伺って、昨年の応募作をつくり直しました。そうしたら別の賞で最高賞を取ったんですよ」
接触がわるいのかな ― 2021年03月09日 16時48分

「お父さん、スイッチが入らないよ。あーあ、とうとう、これも限界かな」
「エエーッ、今度はナニ? レンジかい?」
朝っぱらから、カミさんがあまり心臓によくないことを言う。
「炊飯器のスイッチが、何度やっても入らないのよ。おかしいなぁ、接触がわるいのかな。もう、これも年代モノだからね」
家電の調子がおかしくなったら、その原因はなんでもかんでも「接触がわるいみたい」。これって、わが家だけ?
カミさんはいつものように、一発、二発、炊飯器のボディーをひっぱたいた。それで、ときどき動くことがある。次に本体を持ちあげて、ゴン、ゴン、とワゴンの台に軽く打ちつけた。それでもだめなようで、三発、四発、五発、前よりも力を入れて、バン、バン、バン、とたたく。
どうせ壊れたんだから、こうなったら、息の根を止めてもかまうものかとおもうようになる。カミさんを見たら、やっぱり、そんな顔をしていた。
ぼくの経験では、家電がこわれる原因のトップスリーのひとつは、電源コードの切断である。コードがねじれたりするうちに、内部の銅線がちぎれてしまい、電気が通らなくなる。
診断してみたら、やっぱりコンセントに差し込むプラグの根元あたりの内部銅線が切れた状態だった。いちばんコードの切れやすいところだが、差し込みプラグとコードは一体型になっていて、全体が樹脂でしっかり固められている。
ホラネ、分解できないでしょ。悪あがきしないで、さっさと新しい製品に買い替えなさいよ。そんなメーカー側の声が聞こえそうである。いまは製品の全体の一部が故障しても、小さな部品交換など相手にしてもらえない。
「仕方がないね。買い換えようかな」
「ちょっと待て。やるだけ、やってみるから」
さて、結果は写真の通り。
近くのホームセンターで、目的の商品はすぐ見つかった。取り換え用の差し込みプラグで、価格は75円(税別)。
さっそく炊飯器のコードの問題の部分を切断して、内部の銅線をとり出して、買ってきた差し込みプラグの中のそれぞれの端子につないだ。
たちまち一件落着。買い替えたら、ン万円のところが、たったの75円ですんだ。こういうのは、すごくうれしい。
ずいぶん前の話だが、カローラの運転席側のドアの調子がおかしくなったことがあった。指先でレバーを引いても、まるで手応えがなく、ドアが開かない。そのときは、ドアの内側のカバーを外して、レバーを調整するバネの代わりに、パンツのゴム紐一本で直した。あのときはもっとうれしかった。
見えなくしているものを取り除くと、内部の構造は丸見えになって、原因と対策は一目瞭然。これは何も修理の話だけでなく、世の中には似たようなケースがいろいろありそうだ。
今日はいいことをした。カミさんが帰って来たら、うんと自慢してやろう。
「エエーッ、今度はナニ? レンジかい?」
朝っぱらから、カミさんがあまり心臓によくないことを言う。
「炊飯器のスイッチが、何度やっても入らないのよ。おかしいなぁ、接触がわるいのかな。もう、これも年代モノだからね」
家電の調子がおかしくなったら、その原因はなんでもかんでも「接触がわるいみたい」。これって、わが家だけ?
カミさんはいつものように、一発、二発、炊飯器のボディーをひっぱたいた。それで、ときどき動くことがある。次に本体を持ちあげて、ゴン、ゴン、とワゴンの台に軽く打ちつけた。それでもだめなようで、三発、四発、五発、前よりも力を入れて、バン、バン、バン、とたたく。
どうせ壊れたんだから、こうなったら、息の根を止めてもかまうものかとおもうようになる。カミさんを見たら、やっぱり、そんな顔をしていた。
ぼくの経験では、家電がこわれる原因のトップスリーのひとつは、電源コードの切断である。コードがねじれたりするうちに、内部の銅線がちぎれてしまい、電気が通らなくなる。
診断してみたら、やっぱりコンセントに差し込むプラグの根元あたりの内部銅線が切れた状態だった。いちばんコードの切れやすいところだが、差し込みプラグとコードは一体型になっていて、全体が樹脂でしっかり固められている。
ホラネ、分解できないでしょ。悪あがきしないで、さっさと新しい製品に買い替えなさいよ。そんなメーカー側の声が聞こえそうである。いまは製品の全体の一部が故障しても、小さな部品交換など相手にしてもらえない。
「仕方がないね。買い換えようかな」
「ちょっと待て。やるだけ、やってみるから」
さて、結果は写真の通り。
近くのホームセンターで、目的の商品はすぐ見つかった。取り換え用の差し込みプラグで、価格は75円(税別)。
さっそく炊飯器のコードの問題の部分を切断して、内部の銅線をとり出して、買ってきた差し込みプラグの中のそれぞれの端子につないだ。
たちまち一件落着。買い替えたら、ン万円のところが、たったの75円ですんだ。こういうのは、すごくうれしい。
ずいぶん前の話だが、カローラの運転席側のドアの調子がおかしくなったことがあった。指先でレバーを引いても、まるで手応えがなく、ドアが開かない。そのときは、ドアの内側のカバーを外して、レバーを調整するバネの代わりに、パンツのゴム紐一本で直した。あのときはもっとうれしかった。
見えなくしているものを取り除くと、内部の構造は丸見えになって、原因と対策は一目瞭然。これは何も修理の話だけでなく、世の中には似たようなケースがいろいろありそうだ。
今日はいいことをした。カミさんが帰って来たら、うんと自慢してやろう。
「自民党をぶっ壊す」を読む-1 ― 2021年03月15日 10時57分

昨今の政治家や高級官僚たちの言動に愛想をつかして、政治不信になっている人も多いのではあるまいか。若い人たちが政治への関心をなくす気持ちもわかる。
その理由のひとつに、小選挙区制の導入によって、派閥による権力闘争の熾烈なドラマがなくなったことも関係しているのでは、とおもう。
総理の椅子をめぐって、火花を散らすような攻防戦が起きない。民主党が政権を獲得したときの高揚感もひと昔前のこと。早い話、政治がおもしろくない。
権力者たちのやることも、「忖度」、「カケモリ」、「桜を見る会」、「公文書偽造」、「女房の選挙違反の手伝い」、「接待漬け」など、実にこざかしい限り。
そこで、思い出すままに、自民党戦国時代と言われたころの政治権力をめぐるドラマの一端を書いてみよう。主人公は田中角栄で、これから先は、ぼくの気ままな独り言である。
いささか旧聞に属するが、小泉純一郎が自民党の総裁選に立候補したときの選挙スローガンの「自民党をぶっ壊す」。続いて、彼が総理になったときの「郵政改革」。
この二つの言葉を耳にしたとき、「あの問題がこんなふうに爆発するのか」とおもった。それには以下のいきさつがあったからである。そして、「あの問題」はまわりまわって、いまのぼくたちの暮らしにも密接にかかわっている。
週刊誌の記者時代のぼくには「政治の師」がいた。仮にDさんとしておく。政界の動きに通じた知慮の人である。ある日、Dさんから、こんなことを言われた。
「立花さんが書いた田中角栄の金脈問題よりも、もっと大きなカクさんの金脈がある。財政投融資ですよ。ぼくも協力するから、やってみませんか」
ちょうど月刊文春に「田中角栄の研究」(1974年11月号)を発表した立花隆さんが脚光を浴びていたころである。政界は「三角大福中」(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赴夫、中曽根康弘)が割拠していた。「金権政治」、「構造汚職」という言葉も飛び交い、「目白の闇将軍」とも呼ばれていた田中は、常に注目のマトだった。
Dさんのいう財政投融資と金脈の関係とは、おおよそ次のような仕組みである。
ここに3枚のカードがある。これを使って、どんなことができるか、という視点で説明しよう。
最初のカードは、田中角栄は39歳の若さで郵政大臣になったこと。以来、郵政省は田中派の影響力が強いと言われていた。
2枚目のカードは建設省。田中派の牙城と言われていた。
3枚目は大蔵省。田中は約3年間、大蔵大臣の座にあった。
尋常高等小学校卒ながら、頭が抜群に切れて、「コンピューター付きブルトーザー」(これはわがデスクが命名した)と言われた田中は、この3枚のカードの使い方を熟知していた。政界随一の達人だったと言っていい。
では、これらのカードとそれにくっついているカネの流れの全体図を見て行こう。
まず、郵便局は郵便貯金や簡易保険の契約金を集めている。人々からの膨大な預貯金は、Dさんが指摘した財政投融資の原資になる。
その権限を持つのは大蔵省。財政投融資は「第二の予算」とされ、政治家たちの我田引水(公共事業)の「つかみ金」とも言われていた。また公共事業費、出資金及び貸付金の財源として、大蔵省は建設国債も発行している。
次に、この莫大なカネを公共事業費として振り分けるのは建設省で、最後に行きつくのは建設業界、という構図である。そして、その一部始終に、ただひとり3枚のカードを握っている田中角栄の息がかかっている。Dさんはそう言いたかったのだ。
では、何のために?
最大派閥を率いていた田中の信条は「数は力」。もとより「数」とは派閥の人数だけではない。その前に選挙に勝たねばならない。だから「数」の本質は「選挙の票数」にほかならない。
大量の票を期待できるひとつが建設業界。そこは自民党、とりわけ公共事業の誘致に強い田中派の大票田だった。いわゆる「土建政治」である。
ぼく自身も田中派の有力代議士の地盤に取材に入った途端、それまでの片側1車線の道路が、田園地帯のなかをまっすぐに伸びる、立派な歩道つきの幅の広い道路に変わって、驚いたことがあった。天と地ほどインフラ整備が違うのだ。
田中が「日本列島改造論」を出版した直後から、日本の建設業者は全国各地で爆発的に増えていった。建設業界から田中の政治団体への献金がいかに派手なものであったかは、立花隆さんチームが調べあげている。
Dさんは、そのころ社会の関心が高かった「金脈」という言葉を使って、以上のカラクリを明らかにした上で、国民の預貯金が一部の政治家の権力拡大に使われ、日本の政治をゆがめている、そう言いたかったに違いない。
疑獄事件は古代の曽我氏のころから綿々と続いている。当時のぼくは勉強不足と政治感覚の未熟さもあって、Dさんのホームラン級の企画を編集会議で通すだけの力がなかった。
以上は、あくまでも推測に基づいたロジックである。しかし、政治の取材を重ねて、先の筋書きを自分の頭で理解したとき、それまでの霧が晴れるように、ぼくの胸にはストンと落ちたのである。
念のために、建設国債も公共事業も国会の審議を経て、承認されていることを付け加えておく。
ここまでが独り言の前半部。小泉純一郎が主役に登場する話の続きは、また後ほど。 (敬称脈)
その理由のひとつに、小選挙区制の導入によって、派閥による権力闘争の熾烈なドラマがなくなったことも関係しているのでは、とおもう。
総理の椅子をめぐって、火花を散らすような攻防戦が起きない。民主党が政権を獲得したときの高揚感もひと昔前のこと。早い話、政治がおもしろくない。
権力者たちのやることも、「忖度」、「カケモリ」、「桜を見る会」、「公文書偽造」、「女房の選挙違反の手伝い」、「接待漬け」など、実にこざかしい限り。
そこで、思い出すままに、自民党戦国時代と言われたころの政治権力をめぐるドラマの一端を書いてみよう。主人公は田中角栄で、これから先は、ぼくの気ままな独り言である。
いささか旧聞に属するが、小泉純一郎が自民党の総裁選に立候補したときの選挙スローガンの「自民党をぶっ壊す」。続いて、彼が総理になったときの「郵政改革」。
この二つの言葉を耳にしたとき、「あの問題がこんなふうに爆発するのか」とおもった。それには以下のいきさつがあったからである。そして、「あの問題」はまわりまわって、いまのぼくたちの暮らしにも密接にかかわっている。
週刊誌の記者時代のぼくには「政治の師」がいた。仮にDさんとしておく。政界の動きに通じた知慮の人である。ある日、Dさんから、こんなことを言われた。
「立花さんが書いた田中角栄の金脈問題よりも、もっと大きなカクさんの金脈がある。財政投融資ですよ。ぼくも協力するから、やってみませんか」
ちょうど月刊文春に「田中角栄の研究」(1974年11月号)を発表した立花隆さんが脚光を浴びていたころである。政界は「三角大福中」(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赴夫、中曽根康弘)が割拠していた。「金権政治」、「構造汚職」という言葉も飛び交い、「目白の闇将軍」とも呼ばれていた田中は、常に注目のマトだった。
Dさんのいう財政投融資と金脈の関係とは、おおよそ次のような仕組みである。
ここに3枚のカードがある。これを使って、どんなことができるか、という視点で説明しよう。
最初のカードは、田中角栄は39歳の若さで郵政大臣になったこと。以来、郵政省は田中派の影響力が強いと言われていた。
2枚目のカードは建設省。田中派の牙城と言われていた。
3枚目は大蔵省。田中は約3年間、大蔵大臣の座にあった。
尋常高等小学校卒ながら、頭が抜群に切れて、「コンピューター付きブルトーザー」(これはわがデスクが命名した)と言われた田中は、この3枚のカードの使い方を熟知していた。政界随一の達人だったと言っていい。
では、これらのカードとそれにくっついているカネの流れの全体図を見て行こう。
まず、郵便局は郵便貯金や簡易保険の契約金を集めている。人々からの膨大な預貯金は、Dさんが指摘した財政投融資の原資になる。
その権限を持つのは大蔵省。財政投融資は「第二の予算」とされ、政治家たちの我田引水(公共事業)の「つかみ金」とも言われていた。また公共事業費、出資金及び貸付金の財源として、大蔵省は建設国債も発行している。
次に、この莫大なカネを公共事業費として振り分けるのは建設省で、最後に行きつくのは建設業界、という構図である。そして、その一部始終に、ただひとり3枚のカードを握っている田中角栄の息がかかっている。Dさんはそう言いたかったのだ。
では、何のために?
最大派閥を率いていた田中の信条は「数は力」。もとより「数」とは派閥の人数だけではない。その前に選挙に勝たねばならない。だから「数」の本質は「選挙の票数」にほかならない。
大量の票を期待できるひとつが建設業界。そこは自民党、とりわけ公共事業の誘致に強い田中派の大票田だった。いわゆる「土建政治」である。
ぼく自身も田中派の有力代議士の地盤に取材に入った途端、それまでの片側1車線の道路が、田園地帯のなかをまっすぐに伸びる、立派な歩道つきの幅の広い道路に変わって、驚いたことがあった。天と地ほどインフラ整備が違うのだ。
田中が「日本列島改造論」を出版した直後から、日本の建設業者は全国各地で爆発的に増えていった。建設業界から田中の政治団体への献金がいかに派手なものであったかは、立花隆さんチームが調べあげている。
Dさんは、そのころ社会の関心が高かった「金脈」という言葉を使って、以上のカラクリを明らかにした上で、国民の預貯金が一部の政治家の権力拡大に使われ、日本の政治をゆがめている、そう言いたかったに違いない。
疑獄事件は古代の曽我氏のころから綿々と続いている。当時のぼくは勉強不足と政治感覚の未熟さもあって、Dさんのホームラン級の企画を編集会議で通すだけの力がなかった。
以上は、あくまでも推測に基づいたロジックである。しかし、政治の取材を重ねて、先の筋書きを自分の頭で理解したとき、それまでの霧が晴れるように、ぼくの胸にはストンと落ちたのである。
念のために、建設国債も公共事業も国会の審議を経て、承認されていることを付け加えておく。
ここまでが独り言の前半部。小泉純一郎が主役に登場する話の続きは、また後ほど。 (敬称脈)
「自民党をぶっ壊す」を読む-2 ― 2021年03月17日 14時35分

先のブログの続きを書く。
ぼくが記者を辞めて、20余年後に、財政投融資をめぐる覇権争いの第2幕が開くとは思いもよらなかった。
時代は変わって、主役は小泉純一郎に移る。彼は総裁選に3回挑戦して最高権力者になった。ここからは権力闘争が主題になる。
小泉は田中角栄の生涯の敵だった福田赴夫の秘書をしていた。先ごろ東京オリンピック競技大会組織委員会会長を辞任した森喜朗と並んで、福田派の格さん、助さんと呼ばれていた人物である。そして、小泉も郵政大臣を経験している。
もっと言えば、建設国債を初めて発行したのは、佐藤内閣のときに大蔵大臣をしていた福田赴夫で、その建設国債と公共事業がリンクしていることはすでに述べた。
福田の子飼いだった小泉は、「自民党をぶっ壊す」と宣言して、悲願の総理のイスに座るやいなや、闘争心をむき出しにして、「政治生命を賭けて郵政改革をやる」と乗り出した。
そのとき、ぼくはピン!ときた。
そうか、小泉にとって「角福戦争」は終わっていなかったのだ、親分だった福田の敵討ちをやる気なのだ、と。
福田は勝利を確信していた1978年の総裁選の予備選で、田中の支持を受けた大平にまさかの敗北を喫した。そのとき福田は悔しさを押し殺して、「天の声にも変な声がたまにはある」との名セリフを残して、官邸を去った。小泉の胸中、推して知るべし、である。
福田は東大法学部を主席で卒業し、大蔵省の主計局長を務めたエリート。対する田中は尋常高等小学校卒から土建業経営のたたき上げ。ともに佐藤内閣を支えたころからの終生のライバルで、田中は「福田の泣く顔が見たい」と言っていた。
そうした事情から、「自民党をぶっ壊す」と言った小泉の標的は、仇敵の経世会(旧田中派)と見るのが至当だろう。それをたたきつぶす手段として、小泉は先にふれた財政投融資に狙いを絞ったのではないか。だからこその郵政改革ではなかったか。
ぼくにはそう思えてならない。実際、小泉と親しかったある人物も同様の発言をしている。これが永田町の論理というか、政治感覚である。
権力闘争とは凄まじいものだ。小泉は反対する者にはすべてに「抵抗勢力」のレッテルを貼って、問答無用で切り捨てた。郵政選挙では抵抗勢力と決めつけた自民党代議士を公認せず、さらにその選挙区に新たな公認候補の「刺客」を送った。
あのやり口は、田中角栄がロッキード事件の時の法相だった稲葉修(三木派)の選挙区に、「刺客」を立てたことをほうふつとさせる。そのころ稲葉の選挙区を取材したぼくには、田中がやったことを、そのまま小泉がやり返したように映った。
ときは移り、郵政改革ははたして国民にとって幸せだったかどうかが気にかかる。
一昨年、民営化された日本郵政の郵便局員に保険契約増の過酷なノルマが課され、それによって多くの高齢者が甚大な被害に遭ったことが明らかになった。確かに特定郵便局の世襲化には首をかしげることもあったが、世襲化の問題なら、政治家だってそうだろう。ちなみに小泉純一郎は3世議員だった。いまの進次郎は、なんと4世である。
「三角大福中」はみな世襲ではない。また先の戦争を体験している。それぞれ強烈な個性の持ち主で、いずれも総理の在任中、得意な分野で成果を上げた。
人物像を語るのにレッテル貼りは危険だが、総理の座に就いた順に、ざっと彼らの政権のイメージを言えば、田中の「金権政治」の後に、「クリーン三木」、次は「経済の福田」、自民党最大の危機と言われた「40日抗争」の末に急死した大平は、日本の最高クラスの知性を集めて、環太平洋構想、総合安全保障、田園都市構想など、いまなお高く評価される政策研究会の報告書を残した。中曽根はそれを下敷きして政策を実行した。
激しい派閥抗争を繰り広げながらも、自民党では前政権とは異質のリーダーが次の政権を担い、前任者の傷跡をリカバリーする作用が働いていたのだ。
さて、いまはどうか。小泉、安倍、菅の後継者リレーの特徴は「前任の路線を、さらに推し進める」である。「反対すると飛ばされる」、永田町にはそういう空気が蔓延しているという。
その半面、外交では先人たちが汗を流して築いた中国、韓国との友好関係は、いったん逆風が吹くと、成すすべもなく雲散霧消させてしてしまった。
小泉政権の「構造改革なくして、景気回復なし」、「グローバルスタンダード」とひとつ覚えのように進めた政策の結果が「勝ち組、負け組」という差別をもたらし、後継者の安倍政権の下で、より深刻な格差社会と大量の非正規雇用者を生み出している。その片方で、小泉政権の閣僚として構造改革を推し進めた竹中平蔵は派遣大手のパソナグループの会長におさまっている。おもわず、うーん、とうなってしまう。
世界がうらやむ「一億総中流社会」だった日本は、年収200万円以下の人たちが国民の4割を占めるという恐るべき社会に変貌した。そこを新型コロナウィルスが直撃したのだから、たまったものではない。菅の言う「自助」だけで、どうなるものではない。
いったい小泉の構造改革とはだれのためのものだったのか。確かに、ときの経団連会長をはじめ、もろ手をあげて歓迎した経営者もいる。
しかし、グローバル資本主義の旗振り役のひとりだった中谷巌が「懺悔(ざんげ)の書」で述べているように、それは「負の効果」ももたらす。アメリカ発のグローバル資本主義を模範とした小泉構造改革は、日本人の伝統的な長所や強みをメチャクチャに破壊したのである。アメリカで広がった深刻な格差社会はそのまま日本に移植されてしまった。状況はさらに悪くなっているとおもう。
最後に、「鬼平犯科帳」の作者・池波正太郎の言葉をあげておく。(「新銀座日記」1989年の日記より抜粋)
「日本の戦後で、もっとも質が下落したのは政治家だ。それは企業の発展と傲慢とに足並みをそろえて下落してしまった。私は大平前首相のころまでは、自民党に希望をつないでいたが、いまは、投票する気にもなれない。 (略) 軍人の手に握られていた戦前は、むろんのことにひどいものだったが、いまの政治は、別の意味でもっと悪くなってきている。まさかに彼らが戦争を起こすとは考えられないが、こうなると何をするか知れたものではない。彼らは国の将来をまったく考えていない、としかおもえない」
この言葉をそっくりそのまま、いまの政治家たちに進呈したい。 (敬称略)
ぼくが記者を辞めて、20余年後に、財政投融資をめぐる覇権争いの第2幕が開くとは思いもよらなかった。
時代は変わって、主役は小泉純一郎に移る。彼は総裁選に3回挑戦して最高権力者になった。ここからは権力闘争が主題になる。
小泉は田中角栄の生涯の敵だった福田赴夫の秘書をしていた。先ごろ東京オリンピック競技大会組織委員会会長を辞任した森喜朗と並んで、福田派の格さん、助さんと呼ばれていた人物である。そして、小泉も郵政大臣を経験している。
もっと言えば、建設国債を初めて発行したのは、佐藤内閣のときに大蔵大臣をしていた福田赴夫で、その建設国債と公共事業がリンクしていることはすでに述べた。
福田の子飼いだった小泉は、「自民党をぶっ壊す」と宣言して、悲願の総理のイスに座るやいなや、闘争心をむき出しにして、「政治生命を賭けて郵政改革をやる」と乗り出した。
そのとき、ぼくはピン!ときた。
そうか、小泉にとって「角福戦争」は終わっていなかったのだ、親分だった福田の敵討ちをやる気なのだ、と。
福田は勝利を確信していた1978年の総裁選の予備選で、田中の支持を受けた大平にまさかの敗北を喫した。そのとき福田は悔しさを押し殺して、「天の声にも変な声がたまにはある」との名セリフを残して、官邸を去った。小泉の胸中、推して知るべし、である。
福田は東大法学部を主席で卒業し、大蔵省の主計局長を務めたエリート。対する田中は尋常高等小学校卒から土建業経営のたたき上げ。ともに佐藤内閣を支えたころからの終生のライバルで、田中は「福田の泣く顔が見たい」と言っていた。
そうした事情から、「自民党をぶっ壊す」と言った小泉の標的は、仇敵の経世会(旧田中派)と見るのが至当だろう。それをたたきつぶす手段として、小泉は先にふれた財政投融資に狙いを絞ったのではないか。だからこその郵政改革ではなかったか。
ぼくにはそう思えてならない。実際、小泉と親しかったある人物も同様の発言をしている。これが永田町の論理というか、政治感覚である。
権力闘争とは凄まじいものだ。小泉は反対する者にはすべてに「抵抗勢力」のレッテルを貼って、問答無用で切り捨てた。郵政選挙では抵抗勢力と決めつけた自民党代議士を公認せず、さらにその選挙区に新たな公認候補の「刺客」を送った。
あのやり口は、田中角栄がロッキード事件の時の法相だった稲葉修(三木派)の選挙区に、「刺客」を立てたことをほうふつとさせる。そのころ稲葉の選挙区を取材したぼくには、田中がやったことを、そのまま小泉がやり返したように映った。
ときは移り、郵政改革ははたして国民にとって幸せだったかどうかが気にかかる。
一昨年、民営化された日本郵政の郵便局員に保険契約増の過酷なノルマが課され、それによって多くの高齢者が甚大な被害に遭ったことが明らかになった。確かに特定郵便局の世襲化には首をかしげることもあったが、世襲化の問題なら、政治家だってそうだろう。ちなみに小泉純一郎は3世議員だった。いまの進次郎は、なんと4世である。
「三角大福中」はみな世襲ではない。また先の戦争を体験している。それぞれ強烈な個性の持ち主で、いずれも総理の在任中、得意な分野で成果を上げた。
人物像を語るのにレッテル貼りは危険だが、総理の座に就いた順に、ざっと彼らの政権のイメージを言えば、田中の「金権政治」の後に、「クリーン三木」、次は「経済の福田」、自民党最大の危機と言われた「40日抗争」の末に急死した大平は、日本の最高クラスの知性を集めて、環太平洋構想、総合安全保障、田園都市構想など、いまなお高く評価される政策研究会の報告書を残した。中曽根はそれを下敷きして政策を実行した。
激しい派閥抗争を繰り広げながらも、自民党では前政権とは異質のリーダーが次の政権を担い、前任者の傷跡をリカバリーする作用が働いていたのだ。
さて、いまはどうか。小泉、安倍、菅の後継者リレーの特徴は「前任の路線を、さらに推し進める」である。「反対すると飛ばされる」、永田町にはそういう空気が蔓延しているという。
その半面、外交では先人たちが汗を流して築いた中国、韓国との友好関係は、いったん逆風が吹くと、成すすべもなく雲散霧消させてしてしまった。
小泉政権の「構造改革なくして、景気回復なし」、「グローバルスタンダード」とひとつ覚えのように進めた政策の結果が「勝ち組、負け組」という差別をもたらし、後継者の安倍政権の下で、より深刻な格差社会と大量の非正規雇用者を生み出している。その片方で、小泉政権の閣僚として構造改革を推し進めた竹中平蔵は派遣大手のパソナグループの会長におさまっている。おもわず、うーん、とうなってしまう。
世界がうらやむ「一億総中流社会」だった日本は、年収200万円以下の人たちが国民の4割を占めるという恐るべき社会に変貌した。そこを新型コロナウィルスが直撃したのだから、たまったものではない。菅の言う「自助」だけで、どうなるものではない。
いったい小泉の構造改革とはだれのためのものだったのか。確かに、ときの経団連会長をはじめ、もろ手をあげて歓迎した経営者もいる。
しかし、グローバル資本主義の旗振り役のひとりだった中谷巌が「懺悔(ざんげ)の書」で述べているように、それは「負の効果」ももたらす。アメリカ発のグローバル資本主義を模範とした小泉構造改革は、日本人の伝統的な長所や強みをメチャクチャに破壊したのである。アメリカで広がった深刻な格差社会はそのまま日本に移植されてしまった。状況はさらに悪くなっているとおもう。
最後に、「鬼平犯科帳」の作者・池波正太郎の言葉をあげておく。(「新銀座日記」1989年の日記より抜粋)
「日本の戦後で、もっとも質が下落したのは政治家だ。それは企業の発展と傲慢とに足並みをそろえて下落してしまった。私は大平前首相のころまでは、自民党に希望をつないでいたが、いまは、投票する気にもなれない。 (略) 軍人の手に握られていた戦前は、むろんのことにひどいものだったが、いまの政治は、別の意味でもっと悪くなってきている。まさかに彼らが戦争を起こすとは考えられないが、こうなると何をするか知れたものではない。彼らは国の将来をまったく考えていない、としかおもえない」
この言葉をそっくりそのまま、いまの政治家たちに進呈したい。 (敬称略)
タラの芽が歌ってる ― 2021年03月19日 17時19分

春の陽気に誘われて、久しぶりに車で近くの山に向かった。道路の舗装が切れたところで車を停めて、白っぽく渇いた土の山道を歩く。
背の高い木はない。ということは、このへんは玄界灘から吹きつける風が強いのであろう。靴底からゴツゴツと石ころを踏みつける感触が伝わってくる。上へ、上へと登って、気がついたら、初めて入る山であった。
ウグイスが鳴いている。車も来ない。人もいない。でも、ぼくには探しモノがある。
やがて道端にちいさな荒れ地があらわれた。ひょろひょろと棒のような木が群生している。こういうところに探しに来た春の贈り物はある。
ホラね、タラの芽がありました。芽吹いたばかりで、若草色の小さなロケットのような形をしている。
あまりにもかわいらしいので、今日は見るだけで終わり。2、3日もすれば若葉が出てくるだろう。
きっと、だれか採りに来るはず。天ぷらによし、さっと湯でて、酢味噌をつけるもよし。タラの芽ほど狙われやすい山菜はない。そろそろ芽が出そろったかなと楽しみにして、採りに行ったら、もうすでに採られた後だったことはザラにある。
タラの木は年数が経つと消えてなくなってしまう。いい穴場を見つけたとよろこんで、数年後に行ってみたら、植林された杉の勢いに負けて、陰も形もなくなっていたこともあった。
タラの木は陽当たりのいい荒れ地に生える。それからサクラ、クヌギ、ハンノキなどの陽樹が育ち、やがてクスノキ、シイ、カシなどの陰樹が成長する。いわゆる植生の遷移で、タラの木は陽があたらなくなると消えてしまうのだ。
陰樹の高木林が安定した状態を極相林、別称でクライマックスという。「極相林をクライマックスと言う」の一文を眼にしたとき、ぼくは、なんて素敵な自然界の物語を表す言葉だろうとおもった。
裸地にコケ植物や地衣類が進入し、そこに草が生えて、陽樹、陰樹と移り変わって、最後には極相林、すなわちクライマックスになる。まるでフルオーケストラの奏でる森の交響曲のようではないか。
このタラの芽たちも、よろこびの春を歌っているのだろう。ぼくは幸せな気分になって、ゆっくりと山道をくだった。
背の高い木はない。ということは、このへんは玄界灘から吹きつける風が強いのであろう。靴底からゴツゴツと石ころを踏みつける感触が伝わってくる。上へ、上へと登って、気がついたら、初めて入る山であった。
ウグイスが鳴いている。車も来ない。人もいない。でも、ぼくには探しモノがある。
やがて道端にちいさな荒れ地があらわれた。ひょろひょろと棒のような木が群生している。こういうところに探しに来た春の贈り物はある。
ホラね、タラの芽がありました。芽吹いたばかりで、若草色の小さなロケットのような形をしている。
あまりにもかわいらしいので、今日は見るだけで終わり。2、3日もすれば若葉が出てくるだろう。
きっと、だれか採りに来るはず。天ぷらによし、さっと湯でて、酢味噌をつけるもよし。タラの芽ほど狙われやすい山菜はない。そろそろ芽が出そろったかなと楽しみにして、採りに行ったら、もうすでに採られた後だったことはザラにある。
タラの木は年数が経つと消えてなくなってしまう。いい穴場を見つけたとよろこんで、数年後に行ってみたら、植林された杉の勢いに負けて、陰も形もなくなっていたこともあった。
タラの木は陽当たりのいい荒れ地に生える。それからサクラ、クヌギ、ハンノキなどの陽樹が育ち、やがてクスノキ、シイ、カシなどの陰樹が成長する。いわゆる植生の遷移で、タラの木は陽があたらなくなると消えてしまうのだ。
陰樹の高木林が安定した状態を極相林、別称でクライマックスという。「極相林をクライマックスと言う」の一文を眼にしたとき、ぼくは、なんて素敵な自然界の物語を表す言葉だろうとおもった。
裸地にコケ植物や地衣類が進入し、そこに草が生えて、陽樹、陰樹と移り変わって、最後には極相林、すなわちクライマックスになる。まるでフルオーケストラの奏でる森の交響曲のようではないか。
このタラの芽たちも、よろこびの春を歌っているのだろう。ぼくは幸せな気分になって、ゆっくりと山道をくだった。
「角福戦争」と中曽根政権 ― 2021年03月22日 14時44分

先に田中角栄と福田赴夫との「角福戦争」について少しふれた。「角」と「福」の戦い。見方によっては、組織運営の参考になる発想を秘めている。その視点に立って、当時の政界のエピソードを記しておこう。
ぼくのもう一人の「政治の恩師」に政治評論家のIさんがいる。すでに鬼籍に入られたが、ときの有力政治家たちの知恵袋だった。取材にうかがうと、有名な砂場の蕎麦やうな重の出前をとってくれたりと、とてもかわいがってもらった。
そのIさんが中曽根政権の誕生にまつわる秘話を教えてくれた。中曽根が田中角栄の後押しを受けて、鈴木善幸から政権を引き継いだときの裏話である。
第一次中曽根内閣は、田中の懐刀の後藤田正晴を官房長官に据え、ロッキード裁判に批判的だった元警視総監の秦野章を法相にした。それまで内閣の大番頭の官房長官は、首相の派閥から出すのが不文律だったから、後藤田の起用は衝撃的だった。
この露骨な人事は世間の反発を買い、マスコミも大々的に取り上げて、中曽根内閣のことを「直角内閣」とか「角影内閣」と呼ぶほどだった。こうしたこともあって、中曽根政権はスタートのときから短命説がつきまっていたのである。
さて、ここからがIさんの内緒話になる。
組閣の人事を固める前に、中曽根はIさんに会った。そして、次のような相談をしたという。その用件とは-、
-佐藤栄作の長期政権の後、「三角大福中」の政争が続いて、みな短命内閣に終わった。田中には借りがあるし、後藤田の起用には腹をくくっている。だが、そうすると世間から袋叩きにあうのは目に見えている。自分の内閣は短命で終わりたくない。何かいい知恵はないだろうか-
それに対して、政界随一の参謀と目されていたIさんの答えは明快だった。
-「人事の佐藤」と呼ばれた佐藤元総理のやり方が参考になる。佐藤は福田と田中をカウンターパートナーとして使った。福田が蔵相のとき、田中は幹事長。福田も幹事長にしたし、田中も蔵相をやった。最後は、福田が外相、田中は通産相をしている。
そうして、いつも同格で張り合わせることで、ふたりはお互いを意識して、自分の方があいつよりも上だ、次の総理にふさわしいのは自分だと汗をかくし、互いに牽制し合って、ときの最高権力者に歯向かうことはしない。福田と田中をカウンターパートナーとして扱ったことが、佐藤の長期政権の秘訣だ。
だから、あなたも同じように、次の総理候補と衆目が認めるライバルふたりを起用して、常に同等の扱いで内閣や党の要職につけておいたらいい。そのふたりとは、同期当選組の竹下登と安倍晋太郎だ-
中曽根は言われた通りにした。竹下蔵相、安倍外相のコンビは政権発足から3年半以上も固定され、最後は竹下幹事長、安倍総務会長のコンビで締めくくっている。どちらが上でも、下でもない。終始、カウンターパートナーの関係だった。
これには後日談がある。ある席で、中曽根がIさんのところにやって来て、こう言ったという。
「あなたの忠告通りに、竹下と安倍をカウンターパートナーとして使ったから、お陰様で長期政権の基盤ができました」
もう少し説明しておくと、Iさんのいうカウンターパートナーとは、相対するふたりのバランスをとることが肝要で、どちらか一方が欠けると全体が壊れるという意味もある。次代を担う人材の中から、だれもが認めるライバル関係の実力者をふたり選び、いつも同列の要職のポストにつけて、甲乙つけがたい状態のままにして競わせることが政権の政策の実行と安定に寄与するという人事戦略だ。
きょうは「角福戦争」のもうひとつの側面を書いた。歴史をひもとけば、こういう事例は散在しているとおもう。カウンターパートナーの考え方は、ひとつの組織運営術としても通用しそうである。
■写真は、オキザリスの花。鉢の土を捨てたところから芽が出て、かわいい花が咲いた。
ぼくのもう一人の「政治の恩師」に政治評論家のIさんがいる。すでに鬼籍に入られたが、ときの有力政治家たちの知恵袋だった。取材にうかがうと、有名な砂場の蕎麦やうな重の出前をとってくれたりと、とてもかわいがってもらった。
そのIさんが中曽根政権の誕生にまつわる秘話を教えてくれた。中曽根が田中角栄の後押しを受けて、鈴木善幸から政権を引き継いだときの裏話である。
第一次中曽根内閣は、田中の懐刀の後藤田正晴を官房長官に据え、ロッキード裁判に批判的だった元警視総監の秦野章を法相にした。それまで内閣の大番頭の官房長官は、首相の派閥から出すのが不文律だったから、後藤田の起用は衝撃的だった。
この露骨な人事は世間の反発を買い、マスコミも大々的に取り上げて、中曽根内閣のことを「直角内閣」とか「角影内閣」と呼ぶほどだった。こうしたこともあって、中曽根政権はスタートのときから短命説がつきまっていたのである。
さて、ここからがIさんの内緒話になる。
組閣の人事を固める前に、中曽根はIさんに会った。そして、次のような相談をしたという。その用件とは-、
-佐藤栄作の長期政権の後、「三角大福中」の政争が続いて、みな短命内閣に終わった。田中には借りがあるし、後藤田の起用には腹をくくっている。だが、そうすると世間から袋叩きにあうのは目に見えている。自分の内閣は短命で終わりたくない。何かいい知恵はないだろうか-
それに対して、政界随一の参謀と目されていたIさんの答えは明快だった。
-「人事の佐藤」と呼ばれた佐藤元総理のやり方が参考になる。佐藤は福田と田中をカウンターパートナーとして使った。福田が蔵相のとき、田中は幹事長。福田も幹事長にしたし、田中も蔵相をやった。最後は、福田が外相、田中は通産相をしている。
そうして、いつも同格で張り合わせることで、ふたりはお互いを意識して、自分の方があいつよりも上だ、次の総理にふさわしいのは自分だと汗をかくし、互いに牽制し合って、ときの最高権力者に歯向かうことはしない。福田と田中をカウンターパートナーとして扱ったことが、佐藤の長期政権の秘訣だ。
だから、あなたも同じように、次の総理候補と衆目が認めるライバルふたりを起用して、常に同等の扱いで内閣や党の要職につけておいたらいい。そのふたりとは、同期当選組の竹下登と安倍晋太郎だ-
中曽根は言われた通りにした。竹下蔵相、安倍外相のコンビは政権発足から3年半以上も固定され、最後は竹下幹事長、安倍総務会長のコンビで締めくくっている。どちらが上でも、下でもない。終始、カウンターパートナーの関係だった。
これには後日談がある。ある席で、中曽根がIさんのところにやって来て、こう言ったという。
「あなたの忠告通りに、竹下と安倍をカウンターパートナーとして使ったから、お陰様で長期政権の基盤ができました」
もう少し説明しておくと、Iさんのいうカウンターパートナーとは、相対するふたりのバランスをとることが肝要で、どちらか一方が欠けると全体が壊れるという意味もある。次代を担う人材の中から、だれもが認めるライバル関係の実力者をふたり選び、いつも同列の要職のポストにつけて、甲乙つけがたい状態のままにして競わせることが政権の政策の実行と安定に寄与するという人事戦略だ。
きょうは「角福戦争」のもうひとつの側面を書いた。歴史をひもとけば、こういう事例は散在しているとおもう。カウンターパートナーの考え方は、ひとつの組織運営術としても通用しそうである。
■写真は、オキザリスの花。鉢の土を捨てたところから芽が出て、かわいい花が咲いた。
ワラビを手折る ― 2021年03月24日 11時11分

昨日、カミさんは年に一度の健康診断のため、会社は休み。気晴らしに、先日、タラの芽を見つけた山に連れて行った。
あの濃いピンク色の花は河津桜だろうか、深い緑の山肌を背景にして数本が競うように咲き誇っていたが、早くもあらかた散ってしまい、カミさんに見せることはできなかった。
そして、タラの芽は。あの日の翌日、雨が降ったから、グンと大きくなっているはず。
やはり、全部、摘み取られていた。ぼくの背丈の倍以上もある木から胸の高さのものまで20本ほどが群生しているので、相当の量を持ち帰ったのだろう。ま、仕方がない。
すると、カミさんが足もとに小さなワラビを見つけた。ふだん持ち帰ることはないが、汁の実用に数本、手折った。春のおすそ分けをいただいて帰る。
わが家は山菜には少しうるさい。というのも、カミさんは新潟県南魚沼の生まれで、そこは有名な豪雪地帯。ゴールデンウイークが近づくと、分厚い雪の布団をはぎすてた野山に、いっせいに山菜が顔を出す。
土地の人の人気ナンバーワンはコゴミで、次が木の芽(写真)、シオデといったところ。ツクシは足の踏み場もないほど道端に生えているので、だれも見向きもしない。
初めて木の芽を食べたとき、アケビのツルの先っぽだよ、と聞いて、それなら九州にもいくらでもある、よくこんなものをよろこんで食べるなと驚いた。ところが、見た目も、食感も、ぼくが知っているアケビのツルとは大違いだった。
太さはせいぜいツマヨウジぐらいで、焦げ茶色のツルはそうめんのように細い。生えている状態も、山あいの道端や土手の草むらに混じって、ちょうどネコがしっぽを立てているような格好で、かわいいツルの芽を伸ばしている。それが網のように広がっているのだ。木に巻きつくようにして、太いツルを伸ばしている九州のアケビがたくましい男性だとすると、こちらのそれは雪国の愛らしい小娘である。
雪深い里の山菜には甘みがある。長い冬を重たい雪の下で耐えてきたからこそ、風味もじっくりたくわえているのだろう。
ぼくはタラの芽が大好きだから、すぐ近くのたんぼの脇の土手まで歩いて、ビニール袋いっぱいに採ってくる。いつもカミさんの姉夫婦の家にお世話になるのだが、そんなことをやるのはぼくだけ。セリも自生しているのだが、みなさん、これも無視。
ひとつ、すごくおいしい山菜料理がある。義理の姉の得意な料理で、みんな大好きだから、山盛りに作って、バクバク食べてしまう。
材料にはフキノトウを使う。といっても、よくテレビなどで紹介される、あの小さなフキノトウの花ではない。もう少し大きくなっているのを採る。
こんなものを食べる人は、土地の人でも見かけない。それでも姉の手にかかると、いろいろ工夫した出来上がりは、フキノトウ特有の香味が詰まっていて、苦みもちょうどいい。朝昼晩、食べても飽きない。(これについては詳しくは書かないでおこう。東京からも山菜採りの人がたくさん来るようになって、「山菜採り禁止」の札があちこちに立てられている)
これで新潟の地酒をやると、まさに至福のひとときである。あの八海山は、カミさんの郷里の地酒。八海山が超人気で品薄のときには、同じ酒造の金城山を飲んでいた。ほかに高千代、巻機、鶴齢、白瀧、どれを飲んでも越後の酒はめっぽう旨い。
息子たちが小さいころは、夏休みに車で郷帰りして、毎日、近くの川に行き、ヤマメやイワナ、アユ、カジカ、ウグイをモリで突いて、ときにはヤマメやアユを手づかみにして、そいつを肴に地酒を酌んでいた。
要するに、ぼくも、カミさんも、根っからの田舎者で、山に行っても、川に行っても、海に行っても、何か獲物を持って帰らないと気がすまないのだ。
■南魚沼の山道の脇に自生している「木の芽」の写真が見つかったので、ワラビの写真と差し替えました。
あの濃いピンク色の花は河津桜だろうか、深い緑の山肌を背景にして数本が競うように咲き誇っていたが、早くもあらかた散ってしまい、カミさんに見せることはできなかった。
そして、タラの芽は。あの日の翌日、雨が降ったから、グンと大きくなっているはず。
やはり、全部、摘み取られていた。ぼくの背丈の倍以上もある木から胸の高さのものまで20本ほどが群生しているので、相当の量を持ち帰ったのだろう。ま、仕方がない。
すると、カミさんが足もとに小さなワラビを見つけた。ふだん持ち帰ることはないが、汁の実用に数本、手折った。春のおすそ分けをいただいて帰る。
わが家は山菜には少しうるさい。というのも、カミさんは新潟県南魚沼の生まれで、そこは有名な豪雪地帯。ゴールデンウイークが近づくと、分厚い雪の布団をはぎすてた野山に、いっせいに山菜が顔を出す。
土地の人の人気ナンバーワンはコゴミで、次が木の芽(写真)、シオデといったところ。ツクシは足の踏み場もないほど道端に生えているので、だれも見向きもしない。
初めて木の芽を食べたとき、アケビのツルの先っぽだよ、と聞いて、それなら九州にもいくらでもある、よくこんなものをよろこんで食べるなと驚いた。ところが、見た目も、食感も、ぼくが知っているアケビのツルとは大違いだった。
太さはせいぜいツマヨウジぐらいで、焦げ茶色のツルはそうめんのように細い。生えている状態も、山あいの道端や土手の草むらに混じって、ちょうどネコがしっぽを立てているような格好で、かわいいツルの芽を伸ばしている。それが網のように広がっているのだ。木に巻きつくようにして、太いツルを伸ばしている九州のアケビがたくましい男性だとすると、こちらのそれは雪国の愛らしい小娘である。
雪深い里の山菜には甘みがある。長い冬を重たい雪の下で耐えてきたからこそ、風味もじっくりたくわえているのだろう。
ぼくはタラの芽が大好きだから、すぐ近くのたんぼの脇の土手まで歩いて、ビニール袋いっぱいに採ってくる。いつもカミさんの姉夫婦の家にお世話になるのだが、そんなことをやるのはぼくだけ。セリも自生しているのだが、みなさん、これも無視。
ひとつ、すごくおいしい山菜料理がある。義理の姉の得意な料理で、みんな大好きだから、山盛りに作って、バクバク食べてしまう。
材料にはフキノトウを使う。といっても、よくテレビなどで紹介される、あの小さなフキノトウの花ではない。もう少し大きくなっているのを採る。
こんなものを食べる人は、土地の人でも見かけない。それでも姉の手にかかると、いろいろ工夫した出来上がりは、フキノトウ特有の香味が詰まっていて、苦みもちょうどいい。朝昼晩、食べても飽きない。(これについては詳しくは書かないでおこう。東京からも山菜採りの人がたくさん来るようになって、「山菜採り禁止」の札があちこちに立てられている)
これで新潟の地酒をやると、まさに至福のひとときである。あの八海山は、カミさんの郷里の地酒。八海山が超人気で品薄のときには、同じ酒造の金城山を飲んでいた。ほかに高千代、巻機、鶴齢、白瀧、どれを飲んでも越後の酒はめっぽう旨い。
息子たちが小さいころは、夏休みに車で郷帰りして、毎日、近くの川に行き、ヤマメやイワナ、アユ、カジカ、ウグイをモリで突いて、ときにはヤマメやアユを手づかみにして、そいつを肴に地酒を酌んでいた。
要するに、ぼくも、カミさんも、根っからの田舎者で、山に行っても、川に行っても、海に行っても、何か獲物を持って帰らないと気がすまないのだ。
■南魚沼の山道の脇に自生している「木の芽」の写真が見つかったので、ワラビの写真と差し替えました。
佐木隆三さん、爆笑事件 ― 2021年03月25日 08時41分

佐木隆三さんの著書「身分張」が映画化されたと話題を呼んでいる。その本は知人から贈られたが、読まないままにどこかにいってしまった。それはさておき、佐木さんとはちょっとしたご縁があって、大笑いしたことがある。
初めて会ったのは、彼の「復讐するは我にあり」が1976年の直木賞受賞作に決定した翌日だった。
訪ねて行った自宅は埼玉県の、たしか私鉄沿線の静かな町の郊外だったとおもう。こぎれいな木造モルタルのアパートで、まわりには新築の家や低階層のアパートがポツポツと建ちはじめていた。案内された6畳ほどの仕事部屋からは畑がちらほら見えた。お茶を出してくれた奥さんは、沖縄の石垣島の出身で、若くて美人だった印象が残っている。
この日、佐木さんは予想通りに二日酔いだった。新宿のゴールデン街で受賞の祝い酒をやって、明け方近くに返って来たと言っていた。それでも念願の直木賞を受賞した興奮の余韻か、いたって元気で、機嫌よく応接してくれた。
意外だったのは、彼の仕事場の小部屋に本がほとんどなかったことである。作家らしく本や資料が山積みになっているイメージは完全に外れた。執筆に使われている机は木製で、どこにでもあるようなシンプルなものだった。
「本を買うカネがないので、調べものをするときには図書館に行きます」とのことだった。失礼ながら、地道にはげむ作家の懐(ふところ)事情を垣間見たような気がした。
佐木さんは笑顔が似合う。ニコッと笑うと、メガネの奥の目が細くなって、ほんわりとやさしい顔になった。
2時間近くもいただろうか。持参した「復讐するは我にあり」の上下2冊に黒いペンで、サインをしてもらい、気分よく引き上げたことを覚えている。
佐木さんとぼくの間には第2ラウンドがあった。それは「復讐するは我にあり」の映画化をめぐるトラブルにからむものだった。スポーツ紙等に、映画製作の監督は今村昌平に決定と報じられたのだが、同業の黒木和雄から異議が出た。黒木監督の言い分は「佐木さんは、ぼくが映画にしてもいいと言った。その約束もとっていた」というもの。
ひと通りの取材をして、ぼくはその騒動をコラムに書いた。原稿では、佐木さんの優柔不断さに原因があると結論づけた。多くのメディアも同じ論調だった。
雑誌が出た日、佐木さんから電話がかかってきた。「あなたが、あんな記事を書くとは思わなかった」という抗議の電話だった。だが、後日、彼と言葉を交わしたときには笑っていた。いろんな武勇伝の持ち主だったが、いつまでも根に持つような人ではない。
最後に、いかにも佐木さんらしいエピソードを。
小説担当のEさんが、彼に頼んでいた原稿の催促電話をしたときのことである。
「モシモシ、佐木先生ですか。週刊××のEです。お世話になっています。原稿のことで、お電話差し上げました」
(少し、間を置いて)
「……はい、佐木です。ただいま留守にしています。御用の方は、ご用件をお伝えください」(このセリフは、後からEさんに聞いた)
「モシモシ、いらっしゃるんでしょ」
「……」
「佐木さん、そこにいるんでしょ。この電話、聞いているんでしょ!」
「……」
「モシ、モーシ!」
「……」
「わかっているんですよ。この留守電、最後に、ピィーという音が鳴らないじゃないですか!」
(少し間を置いて)
「すみません……」
これが、その場に居合わせた編集部全員を大爆笑させた、佐木隆三さんの「ニセ留守電事件」である。
なんだか、好きになるんだよな、こういう人は。それにしても、売れっ子になるのはご同慶の至りだが、締め切りに追いかけまわされる作家も、またつらいものだとおもう。
■佐木さんは2015年11月1日に亡くなった。享年78歳。ぼくが会った夫人とは再婚で、2011年に離婚している。
■写真と本文とは関係ありません。
初めて会ったのは、彼の「復讐するは我にあり」が1976年の直木賞受賞作に決定した翌日だった。
訪ねて行った自宅は埼玉県の、たしか私鉄沿線の静かな町の郊外だったとおもう。こぎれいな木造モルタルのアパートで、まわりには新築の家や低階層のアパートがポツポツと建ちはじめていた。案内された6畳ほどの仕事部屋からは畑がちらほら見えた。お茶を出してくれた奥さんは、沖縄の石垣島の出身で、若くて美人だった印象が残っている。
この日、佐木さんは予想通りに二日酔いだった。新宿のゴールデン街で受賞の祝い酒をやって、明け方近くに返って来たと言っていた。それでも念願の直木賞を受賞した興奮の余韻か、いたって元気で、機嫌よく応接してくれた。
意外だったのは、彼の仕事場の小部屋に本がほとんどなかったことである。作家らしく本や資料が山積みになっているイメージは完全に外れた。執筆に使われている机は木製で、どこにでもあるようなシンプルなものだった。
「本を買うカネがないので、調べものをするときには図書館に行きます」とのことだった。失礼ながら、地道にはげむ作家の懐(ふところ)事情を垣間見たような気がした。
佐木さんは笑顔が似合う。ニコッと笑うと、メガネの奥の目が細くなって、ほんわりとやさしい顔になった。
2時間近くもいただろうか。持参した「復讐するは我にあり」の上下2冊に黒いペンで、サインをしてもらい、気分よく引き上げたことを覚えている。
佐木さんとぼくの間には第2ラウンドがあった。それは「復讐するは我にあり」の映画化をめぐるトラブルにからむものだった。スポーツ紙等に、映画製作の監督は今村昌平に決定と報じられたのだが、同業の黒木和雄から異議が出た。黒木監督の言い分は「佐木さんは、ぼくが映画にしてもいいと言った。その約束もとっていた」というもの。
ひと通りの取材をして、ぼくはその騒動をコラムに書いた。原稿では、佐木さんの優柔不断さに原因があると結論づけた。多くのメディアも同じ論調だった。
雑誌が出た日、佐木さんから電話がかかってきた。「あなたが、あんな記事を書くとは思わなかった」という抗議の電話だった。だが、後日、彼と言葉を交わしたときには笑っていた。いろんな武勇伝の持ち主だったが、いつまでも根に持つような人ではない。
最後に、いかにも佐木さんらしいエピソードを。
小説担当のEさんが、彼に頼んでいた原稿の催促電話をしたときのことである。
「モシモシ、佐木先生ですか。週刊××のEです。お世話になっています。原稿のことで、お電話差し上げました」
(少し、間を置いて)
「……はい、佐木です。ただいま留守にしています。御用の方は、ご用件をお伝えください」(このセリフは、後からEさんに聞いた)
「モシモシ、いらっしゃるんでしょ」
「……」
「佐木さん、そこにいるんでしょ。この電話、聞いているんでしょ!」
「……」
「モシ、モーシ!」
「……」
「わかっているんですよ。この留守電、最後に、ピィーという音が鳴らないじゃないですか!」
(少し間を置いて)
「すみません……」
これが、その場に居合わせた編集部全員を大爆笑させた、佐木隆三さんの「ニセ留守電事件」である。
なんだか、好きになるんだよな、こういう人は。それにしても、売れっ子になるのはご同慶の至りだが、締め切りに追いかけまわされる作家も、またつらいものだとおもう。
■佐木さんは2015年11月1日に亡くなった。享年78歳。ぼくが会った夫人とは再婚で、2011年に離婚している。
■写真と本文とは関係ありません。
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