空を泳ぐ鯉、川で生きる鯉2023年05月01日 23時02分

 五月晴れの雲ひとつない空に鯉のぼりが泳いでいる。空はどこまでも青く広がる海原のようだ。鯉のぼりは真横になって、からだを震わせたり、だらりとぶら下がったり。風の吹くままに身を任せて、意地を張ることもなく、ここちよさそうである。
 こんな光景をめったに目にしなくなった。今日の午後の約1時間の散歩中に、鯉のぼりを上げていたのは1軒だけだった。
 まわりにはひとつも見当たらない。端午の節句の出番がやってきたのに、屋根より高いところで一緒に泳ぐ仲間たちはいない。男の子の誕生と成長を願うシンボルもぽつんとしていて、どこか寂しげである。
 そう言えば、先日夕方のローカルニュースで、近くの川でハヤが1匹だけ釣れたので、塩焼きにしましたという視聴者からの証拠写真が紹介されていた。
 若い女性アナウンサーは「ハヤというお魚がいるんですね。わたし知りません」と言っていた。もうひとりの男性アナは「ハヤって、川で釣れるんですか?」。
 ああ、ハヤが泳いでいるところを見たこともないのだ、世の中の動きを伝えるのが職業のこの人たちは。
 昼下がり、さわやかな外の空気を吸いたくなって、室見川に出た。一昨日の雨で水量は少し増えていた。水辺では子どもたちが大きな声を上げて遊んでいる。
 あの子たちのために、大切に守りたい景色があった。
 このあたりの室見川の異変を知ったのは、ぼくが退院して数日後のことである。
 そのときカミさんとふたりで、コンクリート製の堰でせき止められて、池のようになっている水のなかをのぞいていたら、見知らぬ男性から声をかけられた。
「鯉はおらんやろ」
 どうやら、ぼくの目線を追っていたらしい。
「そうですね。いつもこのあたりに大きなやつが10匹以上は泳いでいましたよねぇ」
「そうよ、すぐ目の前にいっぱいいたんよ。パンを投げてやる人もいたから、人にも慣れていたんよ」
「50センチ以上の鯉もいたでしょ。どこに行ってしまったんですかねぇ」
「みんな食われたんよ。釣って食ったやつがいるんだよ。泥臭くて、とても食えたもんじゃないのに」
「ええ、食べた? あんなにいたのに。ぜんぶ、ですか」
「そう。1匹もおらんごとなってしもうた」
 ぼくよりもちょっと年が若くて、うす汚れた灰色のブルゾンを羽織っていた男は怒っていた。
「ここで鯉を釣っている人たちは、釣るのが楽しみで来ている。だから釣った鯉は放して、家には持って帰らん。でも、あいつら××人は違うんだ。泥を吐かせなくても、すぐに食うんだよ」
 その男性は「××人」、「××人」と何度も、何度も繰り返した。よそ者から自分たちの庭を荒らされたような気分なのだろう。
 釣った魚を食べる人がいたって、別に不思議でもなんでもない。でも、食った、食ったと聞かされるたびに、ぼくはだんだん不快になった。
 詳しい話は省くが、息子たちが小学校の低学年のころ、佐賀県の山中にある大きな池の水をぜんぶ抜いて、鯉のつかみ取り大会があった。
 ふたりとも泥まみれになって、長男は30センチ余りの鯉をつかまえた。次男もどうにか小さなやつを押さえこんだ。2匹の鯉は、ぼくたち家族が別荘にしていた小学校の廃校の池で飼うことにした。
 だが、溜り水のような狭いところで、鯉たちが生きていくのはだれの目にも無理だった。次男の鯉は早々と死んでしまった。
「ウロコも剥げているし、とても助からないからね」とぼくは嫌がる長男を説き伏せて、新潟の義母から得意料理の「鯉こく」のつくり方を教えてもらい、家族みんなで鯉の命を無駄にせずに、いただくことにした。
 電話で教えてもらった通り、カミさんは頭から数えて7枚目のウロコのところに出刃包丁を当てた。目隠しされた鯉は、包丁の刃先が入っても、まな板の上でぴくりとも動かない。
 子育てが初心者だったぼくは、息子に対してよりも、むしろ自分自身に向かって、これも教育だと言いくるめていた節があったとおもう。そんなぼくの考え方に、子どもたちもカミさんまでも巻き込んでしまった。
 ところが、きちんと味噌仕立てにして、お椀によそった鯉の身は、2日や3日ほどきれいな水にはなしていても、泥臭くて、とても食えたものではなかった。
「食べないのなら……、捨てるんだったら、ぼくの鯉を殺さなくてもよかったのに」
 精いっぱい、にらんだ幼い目から大粒の涙がぽたぽた、ぽたぽたと落ちた。いつもは陽気な次男も下を向いたまま黙り込んでいた。
 室見川の河畔で、突然いなくなった鯉の話を聞いたとき、一瞬にしてあのときの思い出がよみがえった。たぶんカミさんも同じだったろう。
 これからは急速に暖かくなる。室見川の遊歩道にもいたるところに蚊柱が立って、川面を小さな虫たちが飛び始める。そこへ毛バリを流すとハヤが飛びついてくる。
 この地に移ってきたとき、よく毛バリでハヤを掛けたものだ。釣っても食べるわけでもないし、その遊びはすっかり止めてしまった。
 待てよ、ああいう釣りの方法をやって見せるだけでも、いまどきの子どもたちはびっくりするかもしれない。そして、生きている魚をその幼い手に渡したとき、ぼくもそうだったように、きっと何かを感じとることだろう。

あざみの花に会いたくなった2023年05月07日 19時20分

 高嶺の百合の それよりも
 秘めたる夢を ひとすじに
 くれない燃ゆる その姿
 あざみに深き わが想い

 ふと浮かんできた倍賞千恵子の『あざみの歌』を小声で歌っているうちに、新緑の草むらのなかですっくと立ちあがり、赤紫色に燃えている花に会いたくなった。
 刃先が鋭くとがった葉っぱに守られて、そっとさわることさえ許そうともしない野の花に、モンシロチョウがひらひらと舞い降りる。いまごろは、きっとそんな景色が広がっているはずだと見当をつけて、室見川の上流へ歩いて行った。
 そうでもしないと、以前はそこらにあったあざみの花は見つからないのである。
 連休中どこにも出かけなかったが、すぐ近くに室見川があるので、いつでもちょっとした遠足気分を楽しめる。この春も川辺でセリを摘んだり、カミさんが「おばさんの作ってくれた料理に挑戦してみたい」と言うので、ふたりでイタドリのやわらかい茎先を手折って、ひと晩水にさらして、きんぴらにした。
 こうした山野草が食卓を彩るとぼくたち夫婦はうれしくなって、話もはずむし、いつもより酒も旨くなる。
 イタドリのことを新潟生まれのカミさんは「すっかんぽ」と言う。鹿児島の桜島付近では「ポン」、大分の南部では「サド」と呼んでいた。
 子どものころ野山で遊びまわって喉が渇いたら、まっすぐに伸びた太いやつをポキンと折って、茶色の薄い皮を手で剥いて、ムシャムシャ食ったものだ。あの酸っぱい味を思い出すだけで、口のなかに唾液が出てくる。
 あざみの花にはひとりで会いに行った。腹の傷はまだ痛むので、川沿いの遊歩道のあちこちに置かれているベンチで休みながら、そろそろ進む。
 室見川にかかっている橋をひとつ、二つ越えて、三つ目を対岸に渡る。
 ここまで自宅から2キロあまり。このあたりの川底は砂地になっていて、手で掘ると小粒のシジミが出てくるのだが、探してみる人はいないようだ。室見川の河口近くの汽水域では、親指の先ほどの大きさのシジミが簡単に採れるので、大潮のときは家族連れでにぎわう。
 そのシジミはここから大雨のときに流されて行ったものに違いあるまい。上流に立つと、ここにいたシジミたちの流れて行く様子が目に浮かぶ。いったいどんな波乱の旅路だったのだろうか。
 川辺には野イチゴが群生していて、なかに踏み込んで行くと真っ赤に熟した丸くておおきなイチゴが隠れていた。形をくずさないように摘みとって、3個だけ口のなかにほうり込んだ。
 野イチゴの細い茎にも、あざみと同じように小さなトゲが生えている。そんな藪(やぶ)のなかに好んで入り込む人はいない。いまが食べごろの赤い野イチゴたちはだれからも見つかることなく、土に還って行くのだろう。
 あざみの花は遠くからでもそれとわかった。大きく育ったイタドリのまわりのあちこちで、紅(あか)く燃えている。やっぱり白いモンシロチョウも飛んでいた。お前たち、生きていたかとうれしくなった。

 ここまで書いているうちに、島崎藤村だったら、『千曲川のスケッチ』ではなく、『室見川のスケッチ』でも書いただろうかとおもった。そして、今度は彼の『千曲川旅情の歌』の一節が浮かんだ。

 千曲川いざよふ波の岸近き
 宿にのぼりつ
 濁り酒濁れる飮みて
 草枕しばし慰む

 昨日またかくてありけり
 今日もまたかくてありなむ
 この命なにを齷齪(あくせく)
 明日をのみ思ひわづらふ

 詩人は、あざみの花でも、流れる川でも、いつまでも語り継がれる詩(うた)にする。彼らは野の花や川の流れに、どれだけたくさんのものを見たのだろうか。

用心のためにやりましょう2023年05月12日 11時03分

 先日の朝8時過ぎ、少し早めに自宅を出て、2週間ぶりに病院に行った。前回に続いて、抗がん剤の点滴を受けた。手術はうまくいったのに、また抗がん剤を打たれる。ほかの病気と違うところである。
「再発の可能性があるので、用心のためにやりましょう」
 昨年11月の初診のときの医師の話がずっと胸に刺さったままだ。
 「再発の可能性」、「用心のために」という言葉に、この病気の特徴があますところなく込められている。同じ目に遭っている人なら、逃げ出したくなるほど身にしみておわかりだろう。
「手術で目に見えるがんはぜんぶ取っても、目に見えないがん細胞はまだ残っている可能性があります。いつ、どこで再発するかわかりません。ですから、手術が終わった後も、抗がん剤でまだ残っているかもしれないがん細胞をたたくことをお勧めします。でも、それでも再発する人もいます。しない人もいます。よろしいですか」
「ぜひ、お願いします」
 あのとき、こんなやりとりがあった。その後も繰り返し言われた。
 医者の説明は文句のつけようがない、ごくまともな話である。
 いつかは発がんのメカニズムも解明されて、予防医学が確立される日も来るのだろうが、それがいつのことか、さっぱりわからない。だが、世の中、先がわからないのは当たり前のことで、何もかもわかって都合よく生きたいなんて、夢のようなおめでたい注文なのだ。そもそも最初から答えのわかっている人生なんて、何のために生まれてきたのかわからないではないか。
 (うん。このあたり、だんだん風のひょう吉らしくなってきた)
 それにしても「病は気から」とはよく言ったものだ。再発防止の抗がん剤治療が始まってから、「よし、やるぞ」という気持ちになって、そのせいか、ぼくの体調はこれまでにないペースで回復してきた。
 腹の傷の痛みはまだとれないが、それでもだいぶ痛みを飼い慣らして、縦に18センチもある生々しい傷跡も、からだの一部として同化してきた感がある。
 抗がん剤を打たれても、いまのところ何ともない。だるくもならないし、吐き気もしない、食欲も落ちない。しかし、この先半年も、1年も続くとなると、どんな副作用が出てくるか、これもまたわからない。
 カミさんは、「お父さん、頭がハゲたら、ハゲが見えないように、すっぽり隠せる帽子を買ってあげるね」、なんて言っている。
 そんなところまで、よく気がつくなぁ。でも、もしかしたら、ぼくのハゲ頭を見てみたくて、あんなことを言ったのだろうか。
 ここまで触れなかったが、初診のときの医師はぼくが退院した後に転勤して、彼の上司である外科医が新しい担当になった。この人こそ、ぼくの手術のリーダーで、腹を開いて、ぜんぶのがんを切り取ってくれた当人である。
 初めて会ったときも、初対面の気がしなかった。ここでは「頼りになる、いい医者にめぐり会えた」とだけ書いておこう。
 さぁ、新しいチームで、再発防止の長い戦いがはじまった。担当医は「××さんは、手術ができただけでも幸運ですよ」と言っている。
 その言葉も、この胸の奥にしっかり抱きしめて歩いて行きたい。

■散歩の途中、妙なところに置いてある白い棒が目に入った。
 なにかな? スマホを取り出してシャッターを押した。すると、この白い棒はひとりで右に傾いて、また元に戻った。ひと呼吸おいて、小さな三角形が二つ出てきた。
 そっと忍び寄って、のぞいてみた。
 白い棒はニャンコの右の前脚だった。三角形は耳だとわかった。右脚をまっすぐ上に伸ばして、白いお腹をていねいになめていたのだ。そのまましばらく、ぼくらはじっと見つめ合った。

新潟の山の幸、福岡の海の幸2023年05月19日 12時35分

 一昨日も、昨日も夕餉はおいしくて、たのしかった。食卓にはカミさんの姉から届いた山菜が並んでいた。どれもこれもがうまかった。雪深い新潟県南魚沼市の山中でとれたばかりのもの。手間をかけて、お金をかけて、わざわざ送っていただいた。ありがたいことである。
 カミさんによれば、義姉は先日のぼくのブログを見て、「イタドリを食べてるなんて、かわいそうになってさ」、ということらしい。なにしろ、あちらは山菜の本場なのだ。
 ダンボール箱のなかに入っていたのは、ネマガリダケ、タラの芽、コシアブラの芽、木の芽(アケビのツルの新芽)、ウド、ワラビ、フキ、それに立派なマイタケ。
 ウドとワラビはすぐ食べられるように、きんぴら風に味つけされていた。ネマガリダケもひとつの袋入りは、そのまま調理できるように皮をはいで、固い節のところは切り落としてあった。
 まるで計ったようなタイミングで、いつもより早く仕事が終わって帰宅したカミさんは、さっそくネマガリダケがたっぷり入った親子丼の具をつくってくれた。
 このかわいらしい筍は下茹でする必要がない。九州にはない種類で、春になるとブナやナラの林の下に広がっている笹薮から「お待たせしました」と顔を出す。
 この夜、ふたりで食べた山菜は、ウド、ワラビ、木の芽、ネマガリダケの4種類。どれもこれもが久しぶりの味で、どんどん箸がすすむ。やや大ぶりのぐい呑みに注いだ冷や酒も、アテ(つまみ)がいいので、たちまち空いてしまう。
 こんな夜は、いつ以来かなぁ。
 新潟の里も今年は暖かくなるのが異常に早くて、コゴミやフキノトウはあっという間に大きくなってしまい、姉の家でも食べそこなった山菜料理があったという。先の大型連休中に、東京から山菜を求めてやって来て、当てが外れたという人たちも多かったに違いない。
 舞台は変わって、活きのいい魚料理が売り物のここ福岡でも、これから先、当てが外れたという観光客が出てくるかもしれない。
 すでにその前兆は始まっていて、昨年あたりからスーパーの鮮魚コーナーに登場する魚の種類が目に見えて少なくなった。いつ行ってもアジやサバ、養殖モノのタイやハマチ(ワラサ)、輸入モノや解凍されたサケ、カラスカレイ、赤魚、イカ、タコ、エビなどが、いつものようにあるだけだ。握り寿司のセットには、近くの海でとれた旬のネタは、まず入っていない。
 近海モノのアラカブ(カサゴ)、メバル、ヒラメ、スズキ、コチ、キス、サヨリ、メジマグロ、カワハギ、フグ、タチウオ、キューセン(ベラ)、ヤリイカなどの姿はたまにしか見かけなくなった。あったとしても、サイズが小さなものばかりだ。
 近郊の漁連の話では、海水温の変動の影響で、とれる魚や旬の時期が変わってしまったという。そこへ中国からの依頼を受けた仲買人たちによる高級魚の買い占めが追い打ちをかけている。
 福岡の魚市場も、カネ、カネ、カネの一辺倒になってしまったのだ。このままでは活きのいい魚のうまい街・福岡も、いつまで来訪者の期待に持ちこたえられるかわからない。
 海は変わった。もう元には戻らない。魚市場の勢力も海外のカネの力で一変した。これからはもっと拍車がかかるだろう。
 全国各地の人たちには、にわかに信じられないだろうが、福岡市民は近くの海でとれていた、いろんな新鮮な魚をひところのように手軽に食べることができなくなっている。
 「山菜とるな」の看板が目立つようになってきた、あの新潟の豊饒な山は大丈夫だろうか。

■届いた小包みには、一通の白い封筒も納められていた。なかには歌手の中澤卓也のコンサートのチケットが2枚入っていた。席はいちばんいい特等席。
 以前、このブログに書いたように、義姉は卓也の大ファンである。
「ふたりで行っておいで、だって。お父さん、行こうね」
 カミさんには黙っているが、今回やってきた「幸せ便」も、元をたどれば、ぼくは嫁さん選びに成功した、ということだろう。相方はどうおもっているのだろうか、悪い予感が当たりそうなので、とても聞けないが。

デスクへの報告2023年05月22日 17時21分

 押し黙ったまま、湯呑茶わんを灰色の床にたたきつけた。
 パカーン! 
 編集部の空気を切り裂くような破裂音がした。大小の白い破片が四方八方に飛び散った。
 土曜日の夜の10時過ぎ。アルミの灰皿に吸いさしの煙草を林のように突き立てて、社用の原稿用紙と格闘していた先輩たちも、出張中の代議士を電話でつかまえていた若手も、いっせいに顔を上げて、コラム担当のデスク席を見た。
 顔を真っ赤に染めたHさんが立ち上がって、固く握りしめた右手がぶるぶる震えていた。1メートル先の目の前で向き合っていたのは、24歳の若造のぼくだった。
 いまの自分と彼の最期が重なって、ときどきあの日のことを思い出す。
 どうしてあんなことになったのか、衝突した理由も、いきさつも忘れてしまったけれど、何かの事件を取材していて、その報告をしていたときだったかもしれない。
「いや、それは違うでしょ。Hさんはずっと取材の現場からはなれているから、カンが鈍くなっているんじゃないですか」
 彼の考えに納得できずに、たぶんこんな調子で、デスクの批判までやってしまった記憶がある。血気盛んといえば聞こえはいいが、あのころのぼくはまわりがよく見えずに、若さと正義感を振りまわす生意気盛りだった。
 記者が自分の言い分を通したくて、デスクに食い下がるのは何も珍しいことではなかった。それはあって当然のことだと許されていたし、デスクと記者との意見がぶつかり合う様子をどこかおもしろがっていたところもあった。
 もうひとつ付け加えておく。あのころは、そういう時代だったのだ。
 ぼくらの青春時代は70年安保の反対運動や学園紛争の最盛期で、大学構内での立て看板も、内ゲバも、反戦フォークも身近かにあって、体制を批判する声が渦巻いていた。大人たちに向かって、少しばかり暴れ馬になることぐらいは若さの特権だった。
 ジャーナリズムの分野でも、政治や社会的事件の特集記事に対する読者の関心は高くて、週刊誌の編集部そのものも熱く燃えていたころである。
 あのときもHさんとぼくの間に、だれも割って入って来なかった。愛用の湯呑みをたたき割った後、彼は黙ったまま、部屋の端っこから箒とちり取りを持ってきて、さっさと自分で飛び散った陶器の残骸を片づけた。その顔はすーっと、いつもの「仏のHさん」に戻っていた。
 ぼくは頭を下げずに、自分の席に戻った。後から叱りに来る人もいない。Hさんもあんなことがあったのをおくびにも出さなかった。
 ほとぼりが完全にさめたころ、彼から言われた言葉を覚えている。
「××君、毎晩酒ばっかり飲んでいると、ものすごい差がつくぞ。そうなったら追いつきたくても、もう追いつかないよ。ちゃんと勉強した方がいいぞ」
 それからしばらくして、Hデスクの下で、事件モノの新企画の担当に指名された。新聞に載ったベタ記事を追って、報道されていない事件の核心に迫ろうというシリーズである。
 明け方までかかって、初回の原稿をHさんに手渡して、自分の席で放心状態になっていたとき、ポン、ポン、と肩をたたかれた。右手に湯呑を、左手にはぼくの書いた原稿を持ったHデスクが立っていた。
「傑作だ!」
 振り返れば、あれがいろんな意味で、ひと皮むけたターニングポイントだったとおもう。(その後も毎晩のように酒は飲んでいるが)
 東京をはなれてから10年ちょっとして、Hさんの訃報を知った。50歳になったばかりだった。もう会えないのが悔しかった。
 詳しい病名は把握していないが、たしか鼻腔の奥にできたガンが命取りだったらしい。
 きょうは再発防止の抗がん剤投与の日。病院の治療室からHさんの怒った顔とやさしい顔とを思い浮かべながら、いまの現場報告をした。
 Hさん、ぼくは戦っています。絶対に、負けませんからね。

■散歩の途中、あまり人の通らない小路に入った。足もとに赤い宝石のような木の実が散らばっていた。見上げて、びっくり。小粒のサクランボがびっしりと実っている。
 花よりもきれいだな。
 でも、採って食べている形跡はない。枝を折って、部屋のなかに飾っているふうでもない。ただ好きなように実らしているだけのようだ。

免疫力を回復しなければ2023年05月24日 16時39分

 朝から快晴。五月晴れの明るくて青い空が広がっている。
 一昨日は再発防止の抗がん剤点滴の日だった。あれを打つと、からだのなかの白血球の数がぐんと少なくなる。免疫力が落ちるわけだ。
 すると、免疫力が落ちたのをこれ幸いとばかりに、からだの奥で眠っている好ましからぬもの、たとえばB型肝炎ウィルスのごく微量な残骸が息を吹き返して、爆発的に増殖することがある。そうなったら助かる人はいないという。
「めったにないことです。ごく希にあります」
 化学療法室で抗がん剤の点滴を打たれながら、初めて顔をあわせた若い肝臓の専門医からそう言われた。
 彼は外来の患者を待たせたまま、わざわざこのことを話すために来たのだ。血液検査の結果、ぼくは自分でも気がつかないうちに、B型肝炎にかかっていた痕跡があるという。寝耳に水の話だった。
「××さんのように70代の方は、小学校のころ注射針を使いまわしにして、予防接種を受けています」
 ああ、あのことか。使いまわしされた針で、B型肝炎ウィルスの感染が広がったという、あの話か。ぼくもそうだったのか。
「何ごともなく時間が経っていますからね。いまの××さんのからだのなかにはB型肝炎ウィルスはゼロです。まったくありません。でも、免疫力が落ちるので、非常に確率は低いけれども、ウィルスの残骸が生き返って、暴れ出すことがあるかもしれません」
 (やっと辛いガンから解放されるとおもっているのに、今度はB型肝炎か。もう、いい加減にしてくれよな)
「ですから、血液検査のデータをぼくたち肝臓の担当医も毎回チェックします。もし、異常があれば、すぐに特効薬を打ちます。それで完璧に治りますからね」
 ここまで説明を聞いて、やっと安心した。この総合病院は医師たちの連係プレーが徹底していて、たちどころにこんな対応をとってくれる。
 それにしても、自分のからだのなかに、あのB型肝炎の「歴史」があったとは。そんなことがあって、少しでも免疫力を回復しなければ、という気になった。
 いますぐできる免疫力アップの方法は、歩いて運動すること、お日様に当たること。そんなわけで、朝の8時前に室見川へ出た。
 天気は上々で、風もない。水はきれいだ。川底の砂も小石もよく見える。
 そろそろ登ってきたかな、と目をこらすと、小さな銀色の刃がギラッ、ギラッと光っている。アユの子の群れが浅い流れのなかでうねりあっていた。
 少し下流には真っ黒なカワウがいた。潜っては頭を出し、また潜っては頭を出しながら、上流へ、下流へと忙しい。隣にいるのは、水中に潜れない真っ白なコサギ。カワウとつかず離れずにいるのは、カワウが咥えそこなったおこぼれの魚でも狙っているのだろうか。
 実はここ数日、井伏鱒二の随筆『釣り宿』の文章をノートに写している。そのなかにアユやハヤがよく出てくる。
 写しながら、そうか、井伏の時代(戦前の話)の川はすごく豊かで、アユもいっぱいいたんだと思い当たった。「(隠居は)夕方までに百ぴきは缺かしたことがない」、「この人は一日に百ぴきの上も揚げていたようだ」などの文章が出てくる。
 釣り人を誘う清流は、型のいいアユだらけだったんだ。いまと違って、釣り竿を持っての旅も、川に立ちこんでの釣りも、その原稿を書くのも、おもしろかっただろうな。
 室見川の散歩から戻って、ぼくはまた写本を続けた。こんな文章がある。
「鮎の白焼は、肌に小皺が寄るように焼くものだ。先ず、炭火に近づけて、そっと軽く焼く。次に、生焼のところで火から離してじっくり焼き上げる」
(いいね、旨そうだな)
 書き写しながら、ぼくはじわじわと免疫力がアップしてきたような心持になる。

国語辞書を買いました2023年05月27日 17時12分

 20年ぶりに国語の辞書を買った。角川必携国語辞典(大野晋、田中章夫編)。
 井上ひさしが『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』のなかで、「わたしが気に入っている」と推奨している辞書である。厚さ4センチほどで、持ち運びも苦にならないし、語句の細かなニュアンスがわかりやすく説明されているのがありがたい。
 この辞書が手元にあれば、言葉の選び方に自信が持てない場面は格段に少なくなりそうだ。これまで新潮社や集英社の国語辞典にお世話になってきたが、この辞書もすぐになじむだろう。
 辞書と言えば、それをつくった編纂人に目が向く。
 東京練馬区の石神井町で所帯を持ったとき、アパートから最寄りの石神井公園駅に行く途中の閑静な住宅地にひときわ広い敷地の邸宅があった。庭先には白い漆喰壁の土蔵が建っていた。玄関の表札には「見坊豪紀」の名前が。
 あの『明解国語辞典』、『三省堂国語辞典』の生みの親として知られ、「ケンボー先生」と親しまれていた日本語学者である。お顔を見たことはなかったが、そのたたずまいはそこだけ別種の落ち着きがあって、この街全体のステータスを高めていたとおもう。
 辞書の話からどんどん離れて行くが、ぼくたち夫婦が暮らしていたアパートの近くには、もうひとりの個性派がいた。見坊氏の邸宅とは比較にならないまでも、それでも立派な一戸建てで、表札は「S・M」。あの中川一郎氏の秘書から自民党代議士、現在は日本維新の会所属の参議院議員になっているお人である。
 この人の印象は強烈だった。脱線ついでに、少し思い出話をするとー、
 自民党総裁選に立候補した中川氏を追って、N市に出張したとき、その場に居合わせた地元の有力者がぼくに絡んできたことがあった。「記者はいいかげんなことばかり書く」と言うのだ。なぜか、ひとりでカッカカッカして、おまけに「表へ出ろ!」と来た。
 もちろん、こちらは相手にしない。「だったら目の前の取材の現場を見てから、記者の仕事を評価しろ。中川さんの前で、見苦しいマネをするな」。そうおもっていた。
 中川氏はさすがに大人の風格で、その人物の前で、ぼくのことをちゃんと認めて、取材に応じて、最後にはほめてくれた。(ケンカを売って来たその人物も後に自民党代議士になって、いまも議員バッヂをつけている)
 東京に戻って、原稿を出した数日後の夜、突然、中川氏にぴったりついていた秘書のS氏がわがアパートを訪ねてきた。ニコニコ顔をして、大きな紙袋を両手にいっぱい抱えている。品目は忘れたが、とにかく北海道名産の陸と海の美味が玄関口の床に所せましと並べられた。
 気配りと行動力の人とは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。この人、きっとこのままでは終わらないな、と感じさせるものがあった。
 ぼくが東京を去るとき、議員会館に挨拶に行くと、「わかりました。××さんに(就職の口利きを)お願いしましょう」と言い、S氏はすぐさま受話器を取り上げて、九州経済界のドンと言われる人物に電話を入れようとした。とにかく、やることが早いのだ。
 実は、そのドンには、すでにぼく師の田原先生から同様の連絡が行っていた。慌てて、紹介の労をお断りした。それがS氏にお会いした最後になった。
 いまでも、あのどこか人なつっこい表情で、大きな声を出して、ズケズケ発言している様子をテレビで見るたびに、エネルギッシュだなぁ、変らないなぁ、と感心してしまう。昨今では希少な部類になってしまった、古典的なたたき上げ政治家のひとつのタイプだろう。
 こうして記憶をたどりながら書いてみると、なんと書いていないことの多いことか。
 井上ひさしは、先に挙げた『作文教室』のなかで、こんなことを言っている。抜粋してつなぐとー、
 -私たちの記憶は「短期記憶」と「長期記憶」で成立しているんですね。「長期記憶」というのは、われわれ一人ひとりにとって、たいへん貴重な財産なんです。大事な大事な「長期記憶」。これは字引にもなれば百科事典にもなるわけですね-
 ぼくらのなかにあるという長期記憶の百科事典。もしも、これを編纂できたら、いったいどんな辞書になるのだろうか。ぼくはどんな記憶でできている人間なのだろうか。

『山ほたる』と『遊木』を提げて2023年05月31日 14時28分

「(6月)2日の約束でしたが、台風2号が近づきそうなので、予定を前倒ししませんか。今日でも構いませんけど」
「わかりました。では、10時ごろに伺います」
 昨日、病気見舞いの返礼品として用意していた『山ほたる』と『遊木(ゆき)』を丈夫な紙袋に入れて、雨のなかを車で出かけた。行く先は、先の統一地方選で、力を貸してくれと頼まれたNさんの自宅である。
 お会いするのは約2か月半ぶり。我々が推した候補者は首尾よく当選したことだし、早くお目にかかって、「よかったですね、お疲れ様でした」とひと声かけたいと思っていた。ご本人の話では、「選挙が終わった後もちょっとゴタゴタしていて、まだ当選祝いの打ち上げもやっとらんのですよ」という。
 どうやら選挙戦のしこりが残っていて、「Nにやられた」という声がちらほら耳に入ってくるとか。
「だって、その通りでしょ」
「当選したんだから、(新しいトップは)はやく丸く収めんといかんのですがね」
「そうですね、仲良くしないと。これからが大変でしょうね、首長になるとこれまでとは付き合いが違ってきますからね。永田町に行って、国会議員や各省庁の官僚たちにも会うし、いままでとは別世界にいる人たちが相手になりますからね」
 一方で、選挙には敗者が出る。その人もおおぜいの人たちを巻き込んでいる。熱くなればなるほど、負けたときの衝撃は大きい。意地と面子と財産をかけて、最後にはなりふり構わなくなる泥沼の戦いが終わって、それまでの耐えがたい非難中傷の声をお互いさまとはいえあっさり水に流すのは、負けた側にとって口で言うほど簡単ではない。
 Nさんとこんなやりとりをしながら、こちらはそんな世界とは縁の切れた「外野席」なので、「まぁ、うまくやってほしいですね」と猫のようにわれ関せずの見物気分である。
 権力闘争の世界に生きる政治家は嫉妬深く、執念深いものだ。それでも必要とあれば急変して、恨みつらみもぜんぶ呑み込んで不倶戴天の敵とも笑って握手するのが彼(彼女)らである。国際政治の舞台も、永田町も、片田舎の町や村でも、権力闘争と現実主義の実相に変わりはない。首相公邸で親族と忘年会を開いてはしゃいでいた、どこかの首相の息子のような「甘ちゃん」では通用しないのだ。
 「近いうちに、一杯やりましょう」と話が落ち着いたところで、持参した紙袋から『山ほたる』と『遊木』を取り出した。
「ほう、どこの焼酎ですか」
「ふたつとも熊本の人吉・球磨地方の小さな蔵の米焼酎です。ぼくが商品開発の企画を立てて、名前もデザイン案もぜんぶやりました。まぁ、自分の子どものようなものです。お湯で割らずに、氷でやってください」
 Nさんから病気のお見舞いをいただき、お礼の品を何にしようかと迷っていたとき、そうそう、あれがあったと気がついた。自分が蔵元(高田酒造場)と一緒になってつくった商品で、入手困難だし、非常に評判もいい。自分で、自分のセールスをするのは嫌味なものだが、案外、こいつはいい贈り物になるかもしれないと思ったので、知り合いの酒屋から手に入れておいたのだ。
 入れ替わるように、Nさんはまたもや白い封筒を静かに差し出した。
「無理に仕事をお願いして、たいへんお世話になりました。4年後は生きているかどうかわかりませんが、そのときはまたお願いします」
 白い封筒は見舞いを含めて、これで3回目。そのたびにお断りしたが、拒んでは失礼になるし、ここは仕事と割り切って、ありがたく頂戴した。
 (以前、恩師の故T代議士から「(派閥のボスから出た)お盆の氷代のおすそわけだよ」と冗談にまぎらせて、お札でふくらんだ白い封筒を秘書から差し出されたことがあった。記者を辞めて、福岡で就職したぼくは子育て中で、給料が少なくて苦労をしているに違いないと察してのことだったとおもう。だが、受け取らなかった。いくら言われてもお断りした。いまでもあれでよかったのだと思っているが、失礼なことをしてしまったというほろ苦い記憶も残っている)
 70歳を過ぎても、こうして気を遣ってくださる。恥ずかしい気持ちと共に、つくづく人に恵まれたとおもう。
 しかし、その数々のチャンスを上手く活かして来たかと言えば、そうではなかった。これも実力のうち、だったのかもしれない。
 人に会えば、まだまだ力が湧いてくる。まだ何かやれそうな気がする。こんなことの繰り返しだ。
 さてと、手元から旅立って行った『山ほたる』と『遊木』を買いに行こうかな。