子は親に似るのか ― 2023年11月03日 18時03分

昨日の昼下がり、上の息子がつくね芋を2本持ってきた。手渡されたビニール袋には阿蘇山をのぞむ観光物産館のシールが貼られていた。こんな地味な食材を手土産に提げてくるということは、きっと親がよろこぶはずだとおもったのだろう。
今朝は寝坊して7時過ぎに起床。朝食のみそ汁の具はカミさんの要望に応えることに決めていた。
さっそく、つくね芋の小さいのを取り出して、表面の汚れた皮をタワシでこすり落として、手早くすりおろした。白い糊(のり)のようにくっついた塊をスプーンで切り取って、静かに沸騰しているみそ汁用の小鍋に入れる。たちまちでんぷん質が固まって、ふっくらした餅のようになる。よくみかける長芋ではこうはいかない。
これなら歯の弱い人でも大丈夫。やわらかくて、なつかしい味がするりと喉もとをすべっていく。結婚して、カミさんはこんな食べ方があることを知って、すっかり気に入っている。
できることなら、畑で栽培されたつくね芋よりも、野山に自生している山芋(自然薯)の方がいい。粘りけがもっと強くて、精力もついて、お椀に盛ったときの香りもちがう。
調理をしながら、子どもころ父の後ろにくっついて、山の斜面の木々のあいだを歩きまわり、山芋のツルの見分け方や掘り方を教えてもらったことをおもいだした。
ひと汗かいたあとの母が持たせてくれた水筒の麦茶がうまかった。木漏れ日がさす地べたに座って、野鳥の鳴き声を聞きながら食べた梅干し入りのおにぎりもおいしかった。
美食という言葉も、そんなことに縁のある家でもなかったけれど、天然ウナギやイセエビなど、子どものころふつうに食べていたもので、いまでは美食に出世したものも多い。
ぼくもふたりの息子に、父と同じことをいろいろやってみせた。よその子のように遊園地に連れて行ったことはなく、出かける先はいつも山、川、海だった。(ありがたいことに、遊園地は子どもの友だちの親御さんが連れて行ってくれた。)
その行く先々で何かしらの獲物、たとえば山では沢ガニとかアケビ、川ではヤマメやアユ(これは新潟での話)、海では貝類、ウニなどを素手でとっていた。糸島半島の岩場でタコをつかまえたこともある。子どもたちに自然のなかで遊ぶおもしろさを伝えたかったのだ。
息子がつくね芋を買って来たのも、山に連れて行って、山芋を掘ってみせて、とろろ汁を食べさせた影響があるのかもしれない。彼が釣りをやったり、アウトドアが好きなのも、波止場や防波堤で一緒に竿を出したり、あちこちで家族キャンプをやったことがあるからだろう。
正月には待望の男の子が生まれる予定なので、家族の思い出がつまっている7人用のテント、タープ、野外用の調理台から器具類など、どれも安い買い物ではなく、きれいなままだから、みんな持って行ってもらいたいとおもっている。いつかこういう日がくるかもしれないと手元に置いていてよかった。
それにしても父から教えもらったことのほんのかすり傷ほどしか、息子たちに伝授していない。ぼく自身がちゃんと受け継がなかったから、キノコの知識も、よく釣れるサビキの作り方も、投網を打つ技も途絶えてしまった。
核家族や転勤族が増えるにつれて、親子代々守り続けてきた知識も技術も跡形なく雲散霧消してしまう。このぼくがいい例だ。
もうひとつは言い訳みたいになるけれど、あのころとは身近なところにある自然がすっかり変わってしまった。同じことをしたくても、できなくなってしまった。
(この項、次に続く)
■世話をしている花壇の花がひところの勢いをなくしてきた。日日草にはタネがいっぱいついていて、夏の花々も次世代へのバトンタッチの準備が進んでいる。
今朝は寝坊して7時過ぎに起床。朝食のみそ汁の具はカミさんの要望に応えることに決めていた。
さっそく、つくね芋の小さいのを取り出して、表面の汚れた皮をタワシでこすり落として、手早くすりおろした。白い糊(のり)のようにくっついた塊をスプーンで切り取って、静かに沸騰しているみそ汁用の小鍋に入れる。たちまちでんぷん質が固まって、ふっくらした餅のようになる。よくみかける長芋ではこうはいかない。
これなら歯の弱い人でも大丈夫。やわらかくて、なつかしい味がするりと喉もとをすべっていく。結婚して、カミさんはこんな食べ方があることを知って、すっかり気に入っている。
できることなら、畑で栽培されたつくね芋よりも、野山に自生している山芋(自然薯)の方がいい。粘りけがもっと強くて、精力もついて、お椀に盛ったときの香りもちがう。
調理をしながら、子どもころ父の後ろにくっついて、山の斜面の木々のあいだを歩きまわり、山芋のツルの見分け方や掘り方を教えてもらったことをおもいだした。
ひと汗かいたあとの母が持たせてくれた水筒の麦茶がうまかった。木漏れ日がさす地べたに座って、野鳥の鳴き声を聞きながら食べた梅干し入りのおにぎりもおいしかった。
美食という言葉も、そんなことに縁のある家でもなかったけれど、天然ウナギやイセエビなど、子どものころふつうに食べていたもので、いまでは美食に出世したものも多い。
ぼくもふたりの息子に、父と同じことをいろいろやってみせた。よその子のように遊園地に連れて行ったことはなく、出かける先はいつも山、川、海だった。(ありがたいことに、遊園地は子どもの友だちの親御さんが連れて行ってくれた。)
その行く先々で何かしらの獲物、たとえば山では沢ガニとかアケビ、川ではヤマメやアユ(これは新潟での話)、海では貝類、ウニなどを素手でとっていた。糸島半島の岩場でタコをつかまえたこともある。子どもたちに自然のなかで遊ぶおもしろさを伝えたかったのだ。
息子がつくね芋を買って来たのも、山に連れて行って、山芋を掘ってみせて、とろろ汁を食べさせた影響があるのかもしれない。彼が釣りをやったり、アウトドアが好きなのも、波止場や防波堤で一緒に竿を出したり、あちこちで家族キャンプをやったことがあるからだろう。
正月には待望の男の子が生まれる予定なので、家族の思い出がつまっている7人用のテント、タープ、野外用の調理台から器具類など、どれも安い買い物ではなく、きれいなままだから、みんな持って行ってもらいたいとおもっている。いつかこういう日がくるかもしれないと手元に置いていてよかった。
それにしても父から教えもらったことのほんのかすり傷ほどしか、息子たちに伝授していない。ぼく自身がちゃんと受け継がなかったから、キノコの知識も、よく釣れるサビキの作り方も、投網を打つ技も途絶えてしまった。
核家族や転勤族が増えるにつれて、親子代々守り続けてきた知識も技術も跡形なく雲散霧消してしまう。このぼくがいい例だ。
もうひとつは言い訳みたいになるけれど、あのころとは身近なところにある自然がすっかり変わってしまった。同じことをしたくても、できなくなってしまった。
(この項、次に続く)
■世話をしている花壇の花がひところの勢いをなくしてきた。日日草にはタネがいっぱいついていて、夏の花々も次世代へのバトンタッチの準備が進んでいる。
室見川から消えた秋の景色 ― 2023年11月03日 18時11分

自然が変わってしまうことは、近くの室見川でも起きている。
秋の彼岸が過ぎるころから、室見川には博多湾から数えきれないほどのハゼがのぼってきた。河口一帯はハゼ釣りの名所だった。
潮が満ちはじめるにつれて、川の両岸には釣り竿やバケツを提げた家族連れがやってきて、どのバケツのなかにも生きたハゼが入っていた。あちこちから「今夜はハゼの天ぷらにしよう」とか、「大きいのは刺身がいいね」という、たのしそうな会話も聞こえた。
残念ながら、すべて過去形の話である。いま釣り人はだれもいない。あんなにいたハゼはすっかりいなくなった。
どこかで書いたが、そして、確たる根拠はないが、原因は環境汚染だとおもっている。
あるときから釣り上げたハゼのお腹のなかは、ぜんぶ白子になった。つぶつぶのたまごを持っているハゼはいなくなった。
家に持ち帰った30匹ほどのハゼを包丁でさばくと、膨らんだ腹から出てくるのはどれもこれも白子だった。ハゼは産卵のために室見川の汽水域までのぼってくるのに、みんな白子なのだ。新しい生命が生まれるわけがない。
恐ろしくなった。こんなもの食べて大丈夫なのかとおもった。そして、近い将来、室見川からハゼはいなくなると確信した。
テレビ局や新聞社の記者たちは、こんな異変に気がついていないのか、オレなら絶対に調べるのに。でも、本当に環境汚染だとしたら、記事にしたときの影響は大きいだろうな、そんなことも考えた。
もう20年以上も前のことだ。この認識は誤りなのかもしれない。だが、だれも声をあげないので、一筆書いておく。
このような環境の変化は室見川に限らない。そこらへんを散歩するだけでも、ふだんの生活の足もとに異変を告げる赤信号は点滅している。
以前よりも、スズメをみなくなった。カラスも減った。近くのスーパーの魚売り場のコーナーには、なんと北海道産のブリの切り身が並んでいた。しかも、このあたりでとれる近海モノよりもサイズが大きくて、立派である。北の海でブリの大漁が続いているのは報道で見聞きしていたが、まさかここ福岡市でその現実を突きつけられるとは。
ブリは九州が本場だとおもっている。博多では正月の雑煮の定番である。それなのに本場の面目、丸潰れの一幕だった。
こうしてだんだん異変にも慣れて、おかしいことを、おかしいとおもわなくなっていくのだろうか。いや、とっくの昔からそうだったという気がしてならない。
■明日はルヴァンカップの決勝戦。わがアビスパ福岡は国立競技場で浦和レッズと対戦する。
勝ってほしい。優勝してほしい。応援をはじめてから20年ほどになる。本当に弱かった。よく負けた。それがどうだ、ついにここまで来た。あと1試合。きっと勝つ。
写真は先週土曜日に地元であった横浜FM戦。今季いちばん多いサポーターが集まった前で、0-4で負けた。
でも、内容にはみるものがあった。だからこそ、「浦和には絶対に勝つ。優勝する」。選手たちには先日の敗戦が強烈なバネになっているはずだ。明日はテレビの前で、「ヤッター」と叫んで、何度も立ち上がるぞ。
秋の彼岸が過ぎるころから、室見川には博多湾から数えきれないほどのハゼがのぼってきた。河口一帯はハゼ釣りの名所だった。
潮が満ちはじめるにつれて、川の両岸には釣り竿やバケツを提げた家族連れがやってきて、どのバケツのなかにも生きたハゼが入っていた。あちこちから「今夜はハゼの天ぷらにしよう」とか、「大きいのは刺身がいいね」という、たのしそうな会話も聞こえた。
残念ながら、すべて過去形の話である。いま釣り人はだれもいない。あんなにいたハゼはすっかりいなくなった。
どこかで書いたが、そして、確たる根拠はないが、原因は環境汚染だとおもっている。
あるときから釣り上げたハゼのお腹のなかは、ぜんぶ白子になった。つぶつぶのたまごを持っているハゼはいなくなった。
家に持ち帰った30匹ほどのハゼを包丁でさばくと、膨らんだ腹から出てくるのはどれもこれも白子だった。ハゼは産卵のために室見川の汽水域までのぼってくるのに、みんな白子なのだ。新しい生命が生まれるわけがない。
恐ろしくなった。こんなもの食べて大丈夫なのかとおもった。そして、近い将来、室見川からハゼはいなくなると確信した。
テレビ局や新聞社の記者たちは、こんな異変に気がついていないのか、オレなら絶対に調べるのに。でも、本当に環境汚染だとしたら、記事にしたときの影響は大きいだろうな、そんなことも考えた。
もう20年以上も前のことだ。この認識は誤りなのかもしれない。だが、だれも声をあげないので、一筆書いておく。
このような環境の変化は室見川に限らない。そこらへんを散歩するだけでも、ふだんの生活の足もとに異変を告げる赤信号は点滅している。
以前よりも、スズメをみなくなった。カラスも減った。近くのスーパーの魚売り場のコーナーには、なんと北海道産のブリの切り身が並んでいた。しかも、このあたりでとれる近海モノよりもサイズが大きくて、立派である。北の海でブリの大漁が続いているのは報道で見聞きしていたが、まさかここ福岡市でその現実を突きつけられるとは。
ブリは九州が本場だとおもっている。博多では正月の雑煮の定番である。それなのに本場の面目、丸潰れの一幕だった。
こうしてだんだん異変にも慣れて、おかしいことを、おかしいとおもわなくなっていくのだろうか。いや、とっくの昔からそうだったという気がしてならない。
■明日はルヴァンカップの決勝戦。わがアビスパ福岡は国立競技場で浦和レッズと対戦する。
勝ってほしい。優勝してほしい。応援をはじめてから20年ほどになる。本当に弱かった。よく負けた。それがどうだ、ついにここまで来た。あと1試合。きっと勝つ。
写真は先週土曜日に地元であった横浜FM戦。今季いちばん多いサポーターが集まった前で、0-4で負けた。
でも、内容にはみるものがあった。だからこそ、「浦和には絶対に勝つ。優勝する」。選手たちには先日の敗戦が強烈なバネになっているはずだ。明日はテレビの前で、「ヤッター」と叫んで、何度も立ち上がるぞ。
今日11月8日は「幸運の日」 ― 2023年11月08日 16時39分

今日は1年前にすい臓がんが見つかった日。あれから無事に1年が過ぎた。
決めたことがある。「11月8日は幸運の日」にすると。
昨年のこの日、がんが見つからなかったら、確実に手遅れになっていた。奇跡的に早く見つかって、本当に運がよかった。「幸運の日」としか言いようがない。
昨年のスケジュール帳を開けてみると、11月8日はこう記している。(前日は近くのクリニックに行って、総合病院を紹介された経緯がある。)
現7:50。8:30前には白十字病院へ。血糖値が待ったなしに高いので、最終的な手段・インスリンを覚悟して行く。
白十字で入院のための検査。すい臓がん(の疑い)が発見。約2cm強でかなり大きい。
明日、外科医で検査することに。△子にLineで休みをとってもらうよう連絡。
夕食時、△子に糖尿病のことしか話さず。まだわからないのだから悲しませることはない。食欲なし。
今日を「幸運の日」にしようと思いついたのは、つい昨日のことである。
福岡で一緒に飲んで、ブラジルに帰る高校時代の同級生が中継地のダラス空港からLINEを送ってきて、それを機に小倉にいる同じ同級生2人に電話を入れたのがきっかけだった。
数年ぶりに聞く友の声。すい臓がんのことを打ち明けた。やはり、ぼくだけではなく、友にも大きな変化が起きていた。
ひとりは5年半ほど前から腎臓を患って、人工透析を受けているという。週3回、病院に通って、1回につき5時間もかかるそうだ。自宅から往復する時間を入れたら、1日がつぶれてしまう。ずっとそんな生活をしているのだ。なにも知らなかった。
クラスでもバツグンの元気男で、いつも人を大笑いさせる冗談を飛ばして、彼がいるだけで、パッとまわりがあかるくなる。こちらがからだのことを心配すると、あのころと変わらない大きな声で笑って返された。
「小倉に出て来いよ。飲もうや。土曜日は人工透析がない日だから、オレはかまわんからな」
「いいのかよ」
「オレ、元気っちゃ。ふだんはどうもないっちゃ。この前は娘のいる大阪まで行って、大学時代の友だちと飲んだんよ。出て来いよ、な。こっちから博多に行ってもええぜ」
友とはありがたいものだ。病気を口実にじっとしたまま下を向いていられないとおもった。
もうひとりの友はクラスの世話役が板についていて、同期会の話になった。
「コロナで何年も会っていないからな。そろそろ一度ケジメをつけようやという話が出とるんよ。決まったら、連絡するから」
「ケジメって、なんだよ。あれか、ここで会っておかないと、みんなどんどん死んでしまって、もう会えなくなるということか」
「まぁ、そんなところだ。みんな歳だからな、オレもいろいろあるっちゃ」
2年前にはぼくたちの恩師が亡くなったという。ほかにも同期生の訃報の情報を知っているのかもしれない。すい臓ガンのことを話しても、それほど驚かれなかった。
夜の10時近くになっていたが、こちらもご無沙汰続きのたいへんお世話になった人にも電話した。一杯やろうと誘われた。この人もガンからの生還者である。
ずいぶん会っていないのに、3人ともさっき別れたばかりのように変わっていない。こんなことなら、もっと早く電話すればよかった。
それぞれから「運がよかったなぁ」と言われて、「11月8日はがんがみつかった日ではなく、幸運の日なのだ」とおもうようになった。「幸運の日」とスケジュール帳にも書き込んだ。
なんていい名称なのだろう。このアイデアは、われながらよく思いついたものだと、とても気に入っている。
■先日のルヴァンカップの決勝戦。期待通りに、わがアビスパ福岡がビッグチームの浦和レッズに勝った。夢だった舞台の国立競技場の主役は、ぼくたちのアビスパ福岡の選手、監督、コーチ、スタンドをネービーブルーに染め上げたサポーターたちだった。
こんな日が来るとは。涙がとまらず、カミさんとティッシュペーパーを何枚も濡らした。弱くて、下手で、チームもバラバラで、負けるのがふつうで、いいカモにされていた歴史は無駄ではなかった。
カミさんは一昨日に開催された祝勝会にも参加した。スタジアムに通い続けていた彼女の思いもやっと報われた。胸にたまっていたものが一度に吹っ切れた気がする。
決めたことがある。「11月8日は幸運の日」にすると。
昨年のこの日、がんが見つからなかったら、確実に手遅れになっていた。奇跡的に早く見つかって、本当に運がよかった。「幸運の日」としか言いようがない。
昨年のスケジュール帳を開けてみると、11月8日はこう記している。(前日は近くのクリニックに行って、総合病院を紹介された経緯がある。)
現7:50。8:30前には白十字病院へ。血糖値が待ったなしに高いので、最終的な手段・インスリンを覚悟して行く。
白十字で入院のための検査。すい臓がん(の疑い)が発見。約2cm強でかなり大きい。
明日、外科医で検査することに。△子にLineで休みをとってもらうよう連絡。
夕食時、△子に糖尿病のことしか話さず。まだわからないのだから悲しませることはない。食欲なし。
今日を「幸運の日」にしようと思いついたのは、つい昨日のことである。
福岡で一緒に飲んで、ブラジルに帰る高校時代の同級生が中継地のダラス空港からLINEを送ってきて、それを機に小倉にいる同じ同級生2人に電話を入れたのがきっかけだった。
数年ぶりに聞く友の声。すい臓がんのことを打ち明けた。やはり、ぼくだけではなく、友にも大きな変化が起きていた。
ひとりは5年半ほど前から腎臓を患って、人工透析を受けているという。週3回、病院に通って、1回につき5時間もかかるそうだ。自宅から往復する時間を入れたら、1日がつぶれてしまう。ずっとそんな生活をしているのだ。なにも知らなかった。
クラスでもバツグンの元気男で、いつも人を大笑いさせる冗談を飛ばして、彼がいるだけで、パッとまわりがあかるくなる。こちらがからだのことを心配すると、あのころと変わらない大きな声で笑って返された。
「小倉に出て来いよ。飲もうや。土曜日は人工透析がない日だから、オレはかまわんからな」
「いいのかよ」
「オレ、元気っちゃ。ふだんはどうもないっちゃ。この前は娘のいる大阪まで行って、大学時代の友だちと飲んだんよ。出て来いよ、な。こっちから博多に行ってもええぜ」
友とはありがたいものだ。病気を口実にじっとしたまま下を向いていられないとおもった。
もうひとりの友はクラスの世話役が板についていて、同期会の話になった。
「コロナで何年も会っていないからな。そろそろ一度ケジメをつけようやという話が出とるんよ。決まったら、連絡するから」
「ケジメって、なんだよ。あれか、ここで会っておかないと、みんなどんどん死んでしまって、もう会えなくなるということか」
「まぁ、そんなところだ。みんな歳だからな、オレもいろいろあるっちゃ」
2年前にはぼくたちの恩師が亡くなったという。ほかにも同期生の訃報の情報を知っているのかもしれない。すい臓ガンのことを話しても、それほど驚かれなかった。
夜の10時近くになっていたが、こちらもご無沙汰続きのたいへんお世話になった人にも電話した。一杯やろうと誘われた。この人もガンからの生還者である。
ずいぶん会っていないのに、3人ともさっき別れたばかりのように変わっていない。こんなことなら、もっと早く電話すればよかった。
それぞれから「運がよかったなぁ」と言われて、「11月8日はがんがみつかった日ではなく、幸運の日なのだ」とおもうようになった。「幸運の日」とスケジュール帳にも書き込んだ。
なんていい名称なのだろう。このアイデアは、われながらよく思いついたものだと、とても気に入っている。
■先日のルヴァンカップの決勝戦。期待通りに、わがアビスパ福岡がビッグチームの浦和レッズに勝った。夢だった舞台の国立競技場の主役は、ぼくたちのアビスパ福岡の選手、監督、コーチ、スタンドをネービーブルーに染め上げたサポーターたちだった。
こんな日が来るとは。涙がとまらず、カミさんとティッシュペーパーを何枚も濡らした。弱くて、下手で、チームもバラバラで、負けるのがふつうで、いいカモにされていた歴史は無駄ではなかった。
カミさんは一昨日に開催された祝勝会にも参加した。スタジアムに通い続けていた彼女の思いもやっと報われた。胸にたまっていたものが一度に吹っ切れた気がする。
おいしく食べる ― 2023年11月10日 15時41分

休みをとっていたカミさんと買い物に出かけた。行きつけのスーパーの魚売り場にハタが出ていた。カレイやサケ、ブリの切り身が並んでいるなかで、丸ごと1匹の赤と黄色の魚体がひときわうつくしい。15センチから20センチほどの2匹がパックになっていて、値段は560円。
「珍しいんじゃない、これ。ハタって、アラとは違うの?」
「違うけど、まぁ、同じ仲間だからな」
迷うことなくカミさんの手が伸びた。
「これにしようよ。夜は鍋にしよう」
即決だった。高級魚のアラ(クエ)やマハタよりも味はいくぶん落ちるけど、博多に住んでいてよかったなぁと感じるときだ。
さいわい魚のお腹の内臓は処理されていた。鍋にして食べやすいように、小ぶりの出刃の刃先を鋭くとがった赤い背びれにそって突き割いて、くし状の小さな骨ごと取り出した。切り口をきれいに仕上げないとせっかくの美形が台無しになる。頭を切り落とし、肉厚のところは3枚におろして、残りはぶつ切りにした。
包丁を手にして魚をさばくのは子どものころから見てきたし、おもしろくて好きである。いまどき魚を一匹まるごと買う人はあまりみかけないが、まるごと買う方がだんぜんお得なこともある。
魚屋さんは、魚のおいしいところを知っている。一匹まるごと販売する背景には、その魚や漁師さんへの敬意とお客に対するメッセージも込められているとおもう。「きれいにぜんぶ食べてね」。そんな声が聞こえる。このアカハタもたぶんそうだろう。
食通で鳴らした作家の開高健は、魚のいちばんうまいところは口先のまわりと書いていた。
若いころ、そのエッセイを読んだとき、おいおい、魚とキスでもしたいのかと笑ってしまったが、いったん刷り込まれた記憶はおそろしいものだ。ぼくも鍋の中からハタの頭を取り出して、その大きな口先のまわりの皮やゼラチン質をチューチューやって、小骨までしゃぶりつくした。
たしかに美味い。そして、これは男の食べ方だなとおもった。あの開高なら、「美人の魚の赤いぷっくりした唇にふるえるようなエロチズムを感じた。どうにも我慢ができなかった」とでも表現するのだろうか。(いくらなんでもそれはないか)。ともあれ、昨夜の鍋はなかなかのものであった。
東京にいたころの独身時代、休日には昼過ぎから下駄をはいて、歩いて15分ほどの寿司屋によく通ったものだ。
板前さんは飲み仲間のコウちゃんで、彼の寿司屋に行くのは客足が途絶えた午後2時半ごろ。いつも貸し切りである。まず生ビールの中ジョッキを空けて、それから常温の日本酒をやっていた。
こちらからは注文しない。黙っていても、最初にアワビの肝に、もみじおろしを添えた小鉢が出てくる。
初めてこの店を訪れたとき、つまみを注文する前に、「△△ちゃん、アワビの肝は好き?」と訊かれた。まもなく、「はい。これはぼくからのサービスね」と出されたのがアワビの肝だった。
独特の苦みとねっとりした濃厚な味わいのある緑色の肝は、アワビの身を貝殻から外さないと取り出せない。生きているアワビを、いわば1個犠牲にして、希少な珍味をサービスしてくれるのだ。田舎者のぼくがそのことをちゃんとわかっているのを、コウちゃんは知っていた。
その日、彼は手を休めずに、何かごそごそやっていて、次はマグロの中落ちが小皿の上に山盛りで出てきた。それからは何も言わず、聞かずのまま、ふたりのあいだでこのパターンが続いていた。もちろん、アワビの肝も、マグロの中落ちも、コウちゃんからの「友情の気持ち」である。
その厚意に応えたわけではないが、お銚子と盃でチビリチビリやるのが面倒くさくなって、途中で杉の升に取り替えてもらい、日本酒を何度もお代わりした。飲んだ量は3合や4合ではすまなかったはずだ。
締めくくりは別腹で握りをつまんで、会計は判で押したように2千円少々だった。こうしてぼくは仲良しの兄貴分の店で、昼間からいい心持ちになって、仕事のストレスを解消していた。
どうしてだかわからないが、めし屋や飲み屋での似たような体験はけっこうある。どこへ行っても、出される食べ物は何もかもおいしく、うれしそうに、ぜんぶきれいに食べていた。
地方から出てきて、うまそうに食って、うまそうに飲む若いやつがいる。それがよかったのかもしれない。
■ベランダにザルをふたつ置いて、陽に当てた。左は小カブのやわらかい葉っぱ、右はエノキ茸。カブの葉は塩もみにして漬物に。エノキは乾燥させて保存する。ヒマだから、こんなことをしている。(昨日の話です。今日は朝から雨。)
「珍しいんじゃない、これ。ハタって、アラとは違うの?」
「違うけど、まぁ、同じ仲間だからな」
迷うことなくカミさんの手が伸びた。
「これにしようよ。夜は鍋にしよう」
即決だった。高級魚のアラ(クエ)やマハタよりも味はいくぶん落ちるけど、博多に住んでいてよかったなぁと感じるときだ。
さいわい魚のお腹の内臓は処理されていた。鍋にして食べやすいように、小ぶりの出刃の刃先を鋭くとがった赤い背びれにそって突き割いて、くし状の小さな骨ごと取り出した。切り口をきれいに仕上げないとせっかくの美形が台無しになる。頭を切り落とし、肉厚のところは3枚におろして、残りはぶつ切りにした。
包丁を手にして魚をさばくのは子どものころから見てきたし、おもしろくて好きである。いまどき魚を一匹まるごと買う人はあまりみかけないが、まるごと買う方がだんぜんお得なこともある。
魚屋さんは、魚のおいしいところを知っている。一匹まるごと販売する背景には、その魚や漁師さんへの敬意とお客に対するメッセージも込められているとおもう。「きれいにぜんぶ食べてね」。そんな声が聞こえる。このアカハタもたぶんそうだろう。
食通で鳴らした作家の開高健は、魚のいちばんうまいところは口先のまわりと書いていた。
若いころ、そのエッセイを読んだとき、おいおい、魚とキスでもしたいのかと笑ってしまったが、いったん刷り込まれた記憶はおそろしいものだ。ぼくも鍋の中からハタの頭を取り出して、その大きな口先のまわりの皮やゼラチン質をチューチューやって、小骨までしゃぶりつくした。
たしかに美味い。そして、これは男の食べ方だなとおもった。あの開高なら、「美人の魚の赤いぷっくりした唇にふるえるようなエロチズムを感じた。どうにも我慢ができなかった」とでも表現するのだろうか。(いくらなんでもそれはないか)。ともあれ、昨夜の鍋はなかなかのものであった。
東京にいたころの独身時代、休日には昼過ぎから下駄をはいて、歩いて15分ほどの寿司屋によく通ったものだ。
板前さんは飲み仲間のコウちゃんで、彼の寿司屋に行くのは客足が途絶えた午後2時半ごろ。いつも貸し切りである。まず生ビールの中ジョッキを空けて、それから常温の日本酒をやっていた。
こちらからは注文しない。黙っていても、最初にアワビの肝に、もみじおろしを添えた小鉢が出てくる。
初めてこの店を訪れたとき、つまみを注文する前に、「△△ちゃん、アワビの肝は好き?」と訊かれた。まもなく、「はい。これはぼくからのサービスね」と出されたのがアワビの肝だった。
独特の苦みとねっとりした濃厚な味わいのある緑色の肝は、アワビの身を貝殻から外さないと取り出せない。生きているアワビを、いわば1個犠牲にして、希少な珍味をサービスしてくれるのだ。田舎者のぼくがそのことをちゃんとわかっているのを、コウちゃんは知っていた。
その日、彼は手を休めずに、何かごそごそやっていて、次はマグロの中落ちが小皿の上に山盛りで出てきた。それからは何も言わず、聞かずのまま、ふたりのあいだでこのパターンが続いていた。もちろん、アワビの肝も、マグロの中落ちも、コウちゃんからの「友情の気持ち」である。
その厚意に応えたわけではないが、お銚子と盃でチビリチビリやるのが面倒くさくなって、途中で杉の升に取り替えてもらい、日本酒を何度もお代わりした。飲んだ量は3合や4合ではすまなかったはずだ。
締めくくりは別腹で握りをつまんで、会計は判で押したように2千円少々だった。こうしてぼくは仲良しの兄貴分の店で、昼間からいい心持ちになって、仕事のストレスを解消していた。
どうしてだかわからないが、めし屋や飲み屋での似たような体験はけっこうある。どこへ行っても、出される食べ物は何もかもおいしく、うれしそうに、ぜんぶきれいに食べていた。
地方から出てきて、うまそうに食って、うまそうに飲む若いやつがいる。それがよかったのかもしれない。
■ベランダにザルをふたつ置いて、陽に当てた。左は小カブのやわらかい葉っぱ、右はエノキ茸。カブの葉は塩もみにして漬物に。エノキは乾燥させて保存する。ヒマだから、こんなことをしている。(昨日の話です。今日は朝から雨。)
頭の上がらない恩人 ― 2023年11月11日 17時44分

朝いちばんに、歩いて3、4分のK医院に行って来た。インフルエンザ予防のワクチンを打ってもらうのが目的で、もうひとつ肝心な要件もあった。
このクリニックこそ、1年前にすい臓がんが見つかるまでの筋道をつけてくれたところである。
あの日、ここで健康診断を受けていなかったら、糖尿病の専門的な治療先として総合病院を紹介されることはなかった。そして、入院が決まって、その前段階のいろんな精密検査を受けていなかったら、すい臓がんはみつからなかった。
まるで用意された一本道に導かれるようにして、からだの奥深くに潜んでいたすい臓がんにたどり着いたのだ。そんなわけで、もうひとつの肝心な要件とは、K医師に会って、「お陰様で、がんの手術はうまくいきました。助かりました」という報告とお礼を言うことだった。
この人は患者に向かって、べらべらしゃべらない。少ない言葉で用を足すところがある。文章にすれば、彼が発する言葉の意味合いは単純にして明確なのだろうが、一度きりの声の情報では、とっつきにくい感じが残る。
今日もいつもどおりだった。少しは期待していたのだが、「おぅ、よかった、よかった。元気になりましたね」という高揚感のある言葉はなかった。ごく軽めに、「よかったですね」、だけ。
自然体というか、平常心というか、こちらは死にかかったのだ、もうちょっと愛想よくできないものか。
その代わり、糖尿病とすい臓がんの関係について、新しい解説をしてくれた。
「毎日自分でインスリンの注射をしています。糖尿病をほったらかしにして、油断していたのがいけなかったですね」
「油断ということじゃないと思いますよ。血糖値が急に上がるのは、からだのどこかに異変が起きているからで、それですい臓がんがみつかったのだから、よかったとおもう方がいいですよ」
血糖値が急に上がる→からだに異変→すい臓がん。そんな図式を示されたのだ。だが、「血糖値が急に上がる」のひと言がひっかかった。どこからそんな言葉が出たのだろうか。
K医師から出されていた糖尿病の飲み薬を勝手に中断して、10年近くも通っていなかった。その間、彼はぼくの血糖値のデータをチェックしていない。なのに、どうして、「血糖値が急に上がる」と言えるのか。
家に帰って、しばらく考えた末に、ようやくこんな考え方に達した。
-目に見えてやせはじめたから、健康診断を受けたのだ。そのときK医師から、いつごろからやせたのかという質問があった。
そういえばどこかに、糖尿病が悪化していくと、からだのなかの脂肪を糖にして、やせていくと書いてあった。
ということは、逆に言えば、どんどんやせるとは、血糖値もそれだけ高くなっているということだ。そうか、医者は、やせはじめた時期を聞いて、それまでのデータがなくても、「血糖値が急に上がっている」と判断したのだ。
きっとその時点で、異変に気がついていた。すい臓がんの可能性も頭をよぎったに違いない-
いい勉強になった。以前、このブログにK医師のことを取り上げて、医者は説明が下手だ、と書いた。いまでもそう思っているが、専門家の話はよくよく注意して聞くことが大事だと再認識した。
インフルエンザワクチンの注射が終わって、ひとりで待合室にいるとき、K医師が出て来た。
「60歳を過ぎたら、ほとんどの人ががんになりますからね。半分はがんですから。だから、はやくわかってよかったですね。こうして歩いて来れたのだから。がんになったと落ち込むよりも、がんがみつかった、よかったとおもって生きて行く方がずっといいですよ」
さいごに、人間らしい(?)言葉を頂戴した。
よっぽど「11月8日は幸運の日」の話をしようかなと迷ったが、きっとこの人とは盛り上がらないだろうなとおもって、口に出すのは止めた。
それでも彼は頭の上がらない、ぼくの恩人である。
■昨日、カミさんにつられて、花壇を彩っていた夏の花々を片づけた。ここだけ残したピンクの日日草に、居場所をうばわれたバッタの親子がいた。
朝晩は急に寒くなった。親の背中にかわいい子どもがしがみついている。なんだかこころ細そうにもみえる。
このクリニックこそ、1年前にすい臓がんが見つかるまでの筋道をつけてくれたところである。
あの日、ここで健康診断を受けていなかったら、糖尿病の専門的な治療先として総合病院を紹介されることはなかった。そして、入院が決まって、その前段階のいろんな精密検査を受けていなかったら、すい臓がんはみつからなかった。
まるで用意された一本道に導かれるようにして、からだの奥深くに潜んでいたすい臓がんにたどり着いたのだ。そんなわけで、もうひとつの肝心な要件とは、K医師に会って、「お陰様で、がんの手術はうまくいきました。助かりました」という報告とお礼を言うことだった。
この人は患者に向かって、べらべらしゃべらない。少ない言葉で用を足すところがある。文章にすれば、彼が発する言葉の意味合いは単純にして明確なのだろうが、一度きりの声の情報では、とっつきにくい感じが残る。
今日もいつもどおりだった。少しは期待していたのだが、「おぅ、よかった、よかった。元気になりましたね」という高揚感のある言葉はなかった。ごく軽めに、「よかったですね」、だけ。
自然体というか、平常心というか、こちらは死にかかったのだ、もうちょっと愛想よくできないものか。
その代わり、糖尿病とすい臓がんの関係について、新しい解説をしてくれた。
「毎日自分でインスリンの注射をしています。糖尿病をほったらかしにして、油断していたのがいけなかったですね」
「油断ということじゃないと思いますよ。血糖値が急に上がるのは、からだのどこかに異変が起きているからで、それですい臓がんがみつかったのだから、よかったとおもう方がいいですよ」
血糖値が急に上がる→からだに異変→すい臓がん。そんな図式を示されたのだ。だが、「血糖値が急に上がる」のひと言がひっかかった。どこからそんな言葉が出たのだろうか。
K医師から出されていた糖尿病の飲み薬を勝手に中断して、10年近くも通っていなかった。その間、彼はぼくの血糖値のデータをチェックしていない。なのに、どうして、「血糖値が急に上がる」と言えるのか。
家に帰って、しばらく考えた末に、ようやくこんな考え方に達した。
-目に見えてやせはじめたから、健康診断を受けたのだ。そのときK医師から、いつごろからやせたのかという質問があった。
そういえばどこかに、糖尿病が悪化していくと、からだのなかの脂肪を糖にして、やせていくと書いてあった。
ということは、逆に言えば、どんどんやせるとは、血糖値もそれだけ高くなっているということだ。そうか、医者は、やせはじめた時期を聞いて、それまでのデータがなくても、「血糖値が急に上がっている」と判断したのだ。
きっとその時点で、異変に気がついていた。すい臓がんの可能性も頭をよぎったに違いない-
いい勉強になった。以前、このブログにK医師のことを取り上げて、医者は説明が下手だ、と書いた。いまでもそう思っているが、専門家の話はよくよく注意して聞くことが大事だと再認識した。
インフルエンザワクチンの注射が終わって、ひとりで待合室にいるとき、K医師が出て来た。
「60歳を過ぎたら、ほとんどの人ががんになりますからね。半分はがんですから。だから、はやくわかってよかったですね。こうして歩いて来れたのだから。がんになったと落ち込むよりも、がんがみつかった、よかったとおもって生きて行く方がずっといいですよ」
さいごに、人間らしい(?)言葉を頂戴した。
よっぽど「11月8日は幸運の日」の話をしようかなと迷ったが、きっとこの人とは盛り上がらないだろうなとおもって、口に出すのは止めた。
それでも彼は頭の上がらない、ぼくの恩人である。
■昨日、カミさんにつられて、花壇を彩っていた夏の花々を片づけた。ここだけ残したピンクの日日草に、居場所をうばわれたバッタの親子がいた。
朝晩は急に寒くなった。親の背中にかわいい子どもがしがみついている。なんだかこころ細そうにもみえる。
そういう生活感覚なんだよ ― 2023年11月15日 16時20分

このところ、カミさんはときどき早帰りするようになった。予定していた仕事が入らかったというのが早退の理由で、昨日は午後2時半に帰宅の指示が出たという。
「帰ってくださいと言われるのは、いつも突然だもんね。社員は残るけど、契約社員は帰宅させられるから、今月の給料も少ないなぁ。△△さんはとても食べていけないから、夜は皿洗いのバイトをしているんだよ」
こんな話を聞くたびに、格差社会だなぁ、とおもう。
会社側の都合で非正規社員の勤務時間はどうにでもなる。雇用主は働いた分の時給だけ払えばいい。それはその通りなのだが、非正規雇用者の割合は雇用者全体の約4割を占めるから、大勢の人たちの将来の希望とか、やる気をしぼませている。日本の活力が低下しているのは、この格差の構造が企業の経営を支えている岩盤になっていることだ。
一時給付金とか、所得税の減税とか、そのときだけの小手先の政策で少しばかり水をやっても、がっちりと世の中に組み込まれている格差の岩盤はびくともしない。この閉塞感を打開するには過去のしがらみを打ち壊して、これからの日本をどう新しくつくっていくかというダイナミックなビジョンが欠かせない。だが、いまの政治家たちにそんな覇気のある人材はいるだろうか。
岸田政権の支持率の低下も同じ延長線上にある。政権の評価をさぐる世論調査に「失望した」の項目があれば、政治家たちをみるぼくたち国民の目がどんなものか、もっとはっきりするだろうに。
ひと昔前の中選挙区制のころなら、まちがいなく倒閣運動が起きているはずである。
中選挙区制では自民党の候補者同士の戦いが熾烈をきわめていた。たとえば、ぼくが選挙の取材をしていた1979年の衆議院選で、ハマコー(故浜田幸一)がいた金権選挙区で有名だった千葉3区は定員5に対して、当選者はオール自民党系である。
群馬3区(定員4)は福田赴夫、中曽根康弘、小渕恵三の歴代総理が並立していた。田中派の金丸信と福田派の田辺国男がいて、角福代理戦争の激戦区だった山梨全県区(定員5)は自民党の候補が4議席を占め、野党の社会党候補は最下位当選だった。ここは金丸系と田辺系の知事が替わると県庁の勢力図も変わるとまで言われていた。
あのころは街なかのスナックやバーも候補者別に色分けされていた。自分の支持する候補者がキープしているボトルは飲み放題で、選挙が終わったあとに飲み代の請求書が候補者の選挙事務所にドサッと届くという話が各地の選挙区に転がっていた。
ある有力代議士は選挙カーにネクタイをいっぱい積んで、皮靴のまま農家の人が汗を流しているたんぼの畔に入り、靴を泥まみれにして、自分のつけていたネクタイを外して渡していた。選挙戦の最終盤で準備していたカネを配らなかったから落選したとほぞを噛む陣営もあった。いずれも自民党同士のつばぜり合いをめぐる戦いで、こんな話はゴロゴロあったのだ。
あんな選挙戦を肯定する気はない。ただ、中選挙区制ではいまよりもはるかに熱い戦いが繰り広げられていたのは事実である。そして、もっと盛り上がったのが、こうして選挙戦を勝ち抜いてきた政治家たちが自分の派閥の親分を担いで、天下取りの大波を起こす倒閣運動だった。
総理の椅子をめざす派閥の領袖たちも、それぞれが長い年月をかけて積み重ねてきた政治キャリアと国民に訴えるビジョンを掲げて、一世一代の勝負に臨んでいた。
当時の領袖のなかには閣僚ポストにいても倒閣の辞表を出す人物もいたが、いまの政治家たちは横目でお互いの顔色をうかがってばかりだ。故人の安倍晋三にまで遠慮している。
そんなチマチマした権力闘争よりも、いっそのこと格差社会の岩盤勢力を味方につけて、「主権在民党」でも旗揚げしたらどうかとおもってしまう。
政治の話はきりがないので、このへんにしておこう。
昨日の話の続きを書く。
「会社がはやく終わったから、このあいだ試着してみて、ちょっといいなとおもっていた冬物のコートをまた見に行ったの。でも、やっぱり9,900円は高いなとおもって、買うのは止めたの」
気に入っても値段を確認して、どうしようかと迷ってしまい、とうとう商品を元の棚に戻して、買わずに帰るのはいつものことだ。
「そうか、残念だったな。でも、ゼロが1個違っても気に入るものだったら、さっさと買う人もいるだろうな」
「お父さん、いくら何でもそれはないわよ。990円はないわよ。そんなに安かったら、わたしだって、すぐ買うわよ」
「はぁ? お前、なにか勘違いしてないか」
「だって、ゼロが1個違うんでしょ」
「だからさ、それはさ、9万9,000円という話だろ。それでもお金持ちは高いとおもわなくて、その場ですぐに買うという話だろ」
「そうか、そうだよね。でも、わたし、てっきり990円だとおもったわ」
「そうおもったということは、そういう生活感覚なんだよ」
おはずかしい話だが、こんなところにも格差社会はしのびよっている。
■桜の葉が赤や黄色に色づいて、木立のまわりに散っている。きれいな色の葉っぱを選んで、机の前の壁のボードにピンで留めた。その隣には去年の落ち葉が2枚残っている。
机の上には、こちらも去年の秋に拾ってきたナンキンハゼやイチョウ、名前を忘れた手の平ぐらいの大きさの黄色い葉が透明のアクリル板の下に散っている。
ぜんぶで8枚。今年も紅葉していく順番に取り替えてやろう。
「帰ってくださいと言われるのは、いつも突然だもんね。社員は残るけど、契約社員は帰宅させられるから、今月の給料も少ないなぁ。△△さんはとても食べていけないから、夜は皿洗いのバイトをしているんだよ」
こんな話を聞くたびに、格差社会だなぁ、とおもう。
会社側の都合で非正規社員の勤務時間はどうにでもなる。雇用主は働いた分の時給だけ払えばいい。それはその通りなのだが、非正規雇用者の割合は雇用者全体の約4割を占めるから、大勢の人たちの将来の希望とか、やる気をしぼませている。日本の活力が低下しているのは、この格差の構造が企業の経営を支えている岩盤になっていることだ。
一時給付金とか、所得税の減税とか、そのときだけの小手先の政策で少しばかり水をやっても、がっちりと世の中に組み込まれている格差の岩盤はびくともしない。この閉塞感を打開するには過去のしがらみを打ち壊して、これからの日本をどう新しくつくっていくかというダイナミックなビジョンが欠かせない。だが、いまの政治家たちにそんな覇気のある人材はいるだろうか。
岸田政権の支持率の低下も同じ延長線上にある。政権の評価をさぐる世論調査に「失望した」の項目があれば、政治家たちをみるぼくたち国民の目がどんなものか、もっとはっきりするだろうに。
ひと昔前の中選挙区制のころなら、まちがいなく倒閣運動が起きているはずである。
中選挙区制では自民党の候補者同士の戦いが熾烈をきわめていた。たとえば、ぼくが選挙の取材をしていた1979年の衆議院選で、ハマコー(故浜田幸一)がいた金権選挙区で有名だった千葉3区は定員5に対して、当選者はオール自民党系である。
群馬3区(定員4)は福田赴夫、中曽根康弘、小渕恵三の歴代総理が並立していた。田中派の金丸信と福田派の田辺国男がいて、角福代理戦争の激戦区だった山梨全県区(定員5)は自民党の候補が4議席を占め、野党の社会党候補は最下位当選だった。ここは金丸系と田辺系の知事が替わると県庁の勢力図も変わるとまで言われていた。
あのころは街なかのスナックやバーも候補者別に色分けされていた。自分の支持する候補者がキープしているボトルは飲み放題で、選挙が終わったあとに飲み代の請求書が候補者の選挙事務所にドサッと届くという話が各地の選挙区に転がっていた。
ある有力代議士は選挙カーにネクタイをいっぱい積んで、皮靴のまま農家の人が汗を流しているたんぼの畔に入り、靴を泥まみれにして、自分のつけていたネクタイを外して渡していた。選挙戦の最終盤で準備していたカネを配らなかったから落選したとほぞを噛む陣営もあった。いずれも自民党同士のつばぜり合いをめぐる戦いで、こんな話はゴロゴロあったのだ。
あんな選挙戦を肯定する気はない。ただ、中選挙区制ではいまよりもはるかに熱い戦いが繰り広げられていたのは事実である。そして、もっと盛り上がったのが、こうして選挙戦を勝ち抜いてきた政治家たちが自分の派閥の親分を担いで、天下取りの大波を起こす倒閣運動だった。
総理の椅子をめざす派閥の領袖たちも、それぞれが長い年月をかけて積み重ねてきた政治キャリアと国民に訴えるビジョンを掲げて、一世一代の勝負に臨んでいた。
当時の領袖のなかには閣僚ポストにいても倒閣の辞表を出す人物もいたが、いまの政治家たちは横目でお互いの顔色をうかがってばかりだ。故人の安倍晋三にまで遠慮している。
そんなチマチマした権力闘争よりも、いっそのこと格差社会の岩盤勢力を味方につけて、「主権在民党」でも旗揚げしたらどうかとおもってしまう。
政治の話はきりがないので、このへんにしておこう。
昨日の話の続きを書く。
「会社がはやく終わったから、このあいだ試着してみて、ちょっといいなとおもっていた冬物のコートをまた見に行ったの。でも、やっぱり9,900円は高いなとおもって、買うのは止めたの」
気に入っても値段を確認して、どうしようかと迷ってしまい、とうとう商品を元の棚に戻して、買わずに帰るのはいつものことだ。
「そうか、残念だったな。でも、ゼロが1個違っても気に入るものだったら、さっさと買う人もいるだろうな」
「お父さん、いくら何でもそれはないわよ。990円はないわよ。そんなに安かったら、わたしだって、すぐ買うわよ」
「はぁ? お前、なにか勘違いしてないか」
「だって、ゼロが1個違うんでしょ」
「だからさ、それはさ、9万9,000円という話だろ。それでもお金持ちは高いとおもわなくて、その場ですぐに買うという話だろ」
「そうか、そうだよね。でも、わたし、てっきり990円だとおもったわ」
「そうおもったということは、そういう生活感覚なんだよ」
おはずかしい話だが、こんなところにも格差社会はしのびよっている。
■桜の葉が赤や黄色に色づいて、木立のまわりに散っている。きれいな色の葉っぱを選んで、机の前の壁のボードにピンで留めた。その隣には去年の落ち葉が2枚残っている。
机の上には、こちらも去年の秋に拾ってきたナンキンハゼやイチョウ、名前を忘れた手の平ぐらいの大きさの黄色い葉が透明のアクリル板の下に散っている。
ぜんぶで8枚。今年も紅葉していく順番に取り替えてやろう。
ランボルギーニと和尚さん ― 2023年11月20日 18時06分

昨日の日曜日を利用して、福岡市内のお寺に預けていた娘の遺骨を延岡市にあるわが家の墓に納めた。生まれる直前に旅立ってしまったが、水子の位牌の裏には名前を書いてある。40年ぶりに抱いた小さな骨壺は空箱のように軽かった。
高速道路をひた走り、湯布院、別府を経由して延岡までの往復距離は561.2km。新幹線の東京駅から新大阪駅の距離よりも長い。九州の中央部は九州山地が南北につらなっているので、坂道やカーブが多くて、けっこう疲れる。
天気がよかったせいか、いつもよりも車は多かった。走行車線をのんびり走っていたら、後ろからバリバリバリッと爆竹のような排気音を鳴り響かせて、見慣れない高級スポーツカーが隊列を組んで追い越して行った。車体が低くて、車幅の広い威風堂々の一団が過ぎたら、しばらくしてまた次の一団がやってきた。そしてまた次の隊列が。
軽四のホンダN1の助手席にいるカミさんが目で追いかけながら訊いた。
「あれ、なんていう車? すごいね」
「フェラーリだよ。7、8台いたな。愛好会の仲間たちかな。あのお坊さんの友だちの車はランボルギーニだったよな」
あのお坊さんというのは、一昨日の午後に訪ねて行ったお寺の和尚さんのこと。40年前に遺骨を預かってくれた和尚さんとは代が替わって、いまの住職はぼくと同年配である。
その日はじめて知ったのだが、彼は6回もがんができたという。腎臓、膀胱、肺のそれぞれに2回ずつ。1回だけでも眠れないほど落ち込むのに、上には上がいるものだ。
さて、彼とイタリアの高級スポーツカー・ランボルギーニの話に移る。
「長い付き合いの友人がいて、彼もガンで余命3か月と宣告されたんです。そしたら、オレは残されている時間は好きなようにやるんだと言って、4,500万円もする白のランボルギーニを買ったんです。そして、わたしに頼みがある、と言ったんですよ」
その頼みとは、自分が死んで火葬場で焼かれた後、遺骨は好きなランボルギーニに乗せて、家まで送り届けてほしいとのことだった。
そういうわけで、この和尚さん、触ったこともないランボルギーニを運転して、火葬場まで行き、そこでお経をあげて、帰りは亡き友の奥さんと遺骨を助手席に乗せて帰る約束をしてしまったという次第。
「あの車は目立ちますからね。袈裟(けさ)を着た坊主がそんな車を運転していたら、あの坊さん、ものすごいカネ持ちだと思われるじゃないですか。だから袈裟の上にジャンパーを着て、乗ったこともない車だったけど、なんとかなるわいと腹をくくって、助手席にはこちらもジャンパーを着た弟子を乗せて、火葬場まで運転して行ったんです」
最初はエンジンのかけ方がわからなかった。燃費がものすごく悪いので、途中でエンストしたら困ると心配になって、ガソリンスタンドに入ったら、燃料の投入口の開け方がわからなかった。そんな出たとこ勝負の道中だったらしい。
「問題は帰りですよ。途中でジャンパーを忘れたことに気がついたんです。エンジンの音はものすごいし、真っ白なランボルギーニはいやでも目立つし。なのに助手席には喪服を着て、白い布に包まれた骨壺を抱いているご婦人がいて、その横で運転しているのは袈裟を来た寺の坊主ですよ。赤信号で停まったら、隣に停車した車の人がジロジロのぞくんです。スピードを出せない一般の道路でしょ。もうギャラリーがすごいんですよ」
こうして驚愕、羨望、軽蔑のいろんな視線を一身に浴びながら、彼は友だちとの約束を立派に果たした。娘のお骨も大切に保管してくれて、気持ちよく返してくれた。
長いあいだお世話になって来た寺の護持会のメンバーも返上して、この和尚さんとの直接的なご縁は切れたけれど、どこか気になるお人である。
お寺とのご縁も、この人の話も、もっと書きたいことが残っている。
■団地の花壇にこれからシーズンを迎える花の苗を植えた。花を選んだり、植える場所を決めるのはカミさんの権限で、こちらはもっぱら土を耕したり、苗を植えつける役目。
パンジー、ノールポール、ストック、ネメシア、アリッサムの苗とオキザリスの球根を植えた。花泥棒がいるので、取られるのは覚悟の上である。反対に、「いつもお花をみています。きれいですね。ありがとうございます」と声をかけてくる人もいる。そう言われるとうれしくなる。
高速道路をひた走り、湯布院、別府を経由して延岡までの往復距離は561.2km。新幹線の東京駅から新大阪駅の距離よりも長い。九州の中央部は九州山地が南北につらなっているので、坂道やカーブが多くて、けっこう疲れる。
天気がよかったせいか、いつもよりも車は多かった。走行車線をのんびり走っていたら、後ろからバリバリバリッと爆竹のような排気音を鳴り響かせて、見慣れない高級スポーツカーが隊列を組んで追い越して行った。車体が低くて、車幅の広い威風堂々の一団が過ぎたら、しばらくしてまた次の一団がやってきた。そしてまた次の隊列が。
軽四のホンダN1の助手席にいるカミさんが目で追いかけながら訊いた。
「あれ、なんていう車? すごいね」
「フェラーリだよ。7、8台いたな。愛好会の仲間たちかな。あのお坊さんの友だちの車はランボルギーニだったよな」
あのお坊さんというのは、一昨日の午後に訪ねて行ったお寺の和尚さんのこと。40年前に遺骨を預かってくれた和尚さんとは代が替わって、いまの住職はぼくと同年配である。
その日はじめて知ったのだが、彼は6回もがんができたという。腎臓、膀胱、肺のそれぞれに2回ずつ。1回だけでも眠れないほど落ち込むのに、上には上がいるものだ。
さて、彼とイタリアの高級スポーツカー・ランボルギーニの話に移る。
「長い付き合いの友人がいて、彼もガンで余命3か月と宣告されたんです。そしたら、オレは残されている時間は好きなようにやるんだと言って、4,500万円もする白のランボルギーニを買ったんです。そして、わたしに頼みがある、と言ったんですよ」
その頼みとは、自分が死んで火葬場で焼かれた後、遺骨は好きなランボルギーニに乗せて、家まで送り届けてほしいとのことだった。
そういうわけで、この和尚さん、触ったこともないランボルギーニを運転して、火葬場まで行き、そこでお経をあげて、帰りは亡き友の奥さんと遺骨を助手席に乗せて帰る約束をしてしまったという次第。
「あの車は目立ちますからね。袈裟(けさ)を着た坊主がそんな車を運転していたら、あの坊さん、ものすごいカネ持ちだと思われるじゃないですか。だから袈裟の上にジャンパーを着て、乗ったこともない車だったけど、なんとかなるわいと腹をくくって、助手席にはこちらもジャンパーを着た弟子を乗せて、火葬場まで運転して行ったんです」
最初はエンジンのかけ方がわからなかった。燃費がものすごく悪いので、途中でエンストしたら困ると心配になって、ガソリンスタンドに入ったら、燃料の投入口の開け方がわからなかった。そんな出たとこ勝負の道中だったらしい。
「問題は帰りですよ。途中でジャンパーを忘れたことに気がついたんです。エンジンの音はものすごいし、真っ白なランボルギーニはいやでも目立つし。なのに助手席には喪服を着て、白い布に包まれた骨壺を抱いているご婦人がいて、その横で運転しているのは袈裟を来た寺の坊主ですよ。赤信号で停まったら、隣に停車した車の人がジロジロのぞくんです。スピードを出せない一般の道路でしょ。もうギャラリーがすごいんですよ」
こうして驚愕、羨望、軽蔑のいろんな視線を一身に浴びながら、彼は友だちとの約束を立派に果たした。娘のお骨も大切に保管してくれて、気持ちよく返してくれた。
長いあいだお世話になって来た寺の護持会のメンバーも返上して、この和尚さんとの直接的なご縁は切れたけれど、どこか気になるお人である。
お寺とのご縁も、この人の話も、もっと書きたいことが残っている。
■団地の花壇にこれからシーズンを迎える花の苗を植えた。花を選んだり、植える場所を決めるのはカミさんの権限で、こちらはもっぱら土を耕したり、苗を植えつける役目。
パンジー、ノールポール、ストック、ネメシア、アリッサムの苗とオキザリスの球根を植えた。花泥棒がいるので、取られるのは覚悟の上である。反対に、「いつもお花をみています。きれいですね。ありがとうございます」と声をかけてくる人もいる。そう言われるとうれしくなる。
いい例になります ― 2023年11月30日 14時46分

11月も今日で終わり。今月は「暗」から「明」に切り替わる潮目になってほしいと望んでいたら、どうやらその通りになりつつある。
先日の定期診断で担当の外科医がこんなことを言っていた。
「4月24日からはじめた抗がん剤の点滴のデータも順調ですし、1年間やらなくてもいいかな。年明けの1月末にCT検査をやって、その結果で判断しましょう」
「もう抗がん剤を打たなくてもいいということですか」
「そうですね。結果によっては化学療法を中止します。でも、定期的な通院は続きますよ」
うまくいけば2週間に1度の憂鬱な点滴から解放されるかもしれない。治療の前倒しは大歓迎である。抗がん剤を止めれば体調はもっとよくなるだろう。
手術後の退院も予定より早かった。早く家に帰りたい一心で、開腹手術の傷の痛みをこらえて、ベッドの横でシャドーピッチングをしたり、病棟の廊下を黙々と1万歩も歩いていたのがよかった。
あの手術の前に、メスを握る医師が「△△さんは大丈夫ですよ。治ろうという意思が強いですから。そういう気持ちがないと病気はよくなりません」と言っていたが、その通りだとおもう。
外科の次にまわった糖尿病科の若い女医さんに、さっそく先ほどの外科医との話をした。ぼくのすい臓がんのことをとても気にしているのだ。
「本当ですか。すばらしいです。△△さんのような人は本当にめずらしいんですよ。先日、糖尿病の担当医のチームでカンファレンス(※患者の情報を報告して、今後の医療ケアを協議する会議)をしたんです。ほかにもすい臓がんの人がいるんですけど、そのなかで△△さんのことが話題になったんです。すごく順調だね、いいねという声があがっていました」
そんなふうに診(み)られているとは知らなかった。
この女医さんは糖尿病の患者がやってくると、病状に応じて入院をすすめる。そのときいくつもの決まった精密検査を行う。そして、その結果を真っ先に患者に告げる立場にある。最悪の場合、嫌でも応でも、がんの告知をしなければならないのだ。
みた目では、だれがその対象なのかわからない。しかし、患者本人も気がついていないがん細胞と確実に出あう。そのプレッシャーはたいへんなものだろう。短い時間ではあったが、彼女とはそんな話もした。
ぼくにすい臓がんを告げたときの彼女の暗い顔と沈んだ声を、いまでもはっきり覚えている。
糖尿病担当の自分にはどうすることもできない。なぐさめることもできない。ただ、事実ありのままを話すしかない……。ぼくが告知を受けた翌日も、「△△さんのことが気になって眠れませんでした。奥様には話されましたか」と言っていた。
こんな場面に、彼女は嫌というほど立ち会ってきたのだ。
「すい臓がんがみつかった患者さんのいい例になるように、がんばります」
「ぜひ、そうしてください」
がんばりますとは言ったものの、再発しないという保証はどこにもない。だが、「暗」から「明」への予兆をしっかりキャッチした気持ちにはなった。このブログも、がんの話題から少しずつ離れていけそうである。
今月は1回、飲み会をやった。来月は何年ぶりかで忘年会の予定も入っている。
■室見川を渡った西区にはあちこちにたんぼがあって、秋に刈り取った稲の株からいっせいに蘖(ひこばえ)が伸びている。寒空の下、ちゃんとモミをつけて、二度目の実りのときを迎えている。
先日の定期診断で担当の外科医がこんなことを言っていた。
「4月24日からはじめた抗がん剤の点滴のデータも順調ですし、1年間やらなくてもいいかな。年明けの1月末にCT検査をやって、その結果で判断しましょう」
「もう抗がん剤を打たなくてもいいということですか」
「そうですね。結果によっては化学療法を中止します。でも、定期的な通院は続きますよ」
うまくいけば2週間に1度の憂鬱な点滴から解放されるかもしれない。治療の前倒しは大歓迎である。抗がん剤を止めれば体調はもっとよくなるだろう。
手術後の退院も予定より早かった。早く家に帰りたい一心で、開腹手術の傷の痛みをこらえて、ベッドの横でシャドーピッチングをしたり、病棟の廊下を黙々と1万歩も歩いていたのがよかった。
あの手術の前に、メスを握る医師が「△△さんは大丈夫ですよ。治ろうという意思が強いですから。そういう気持ちがないと病気はよくなりません」と言っていたが、その通りだとおもう。
外科の次にまわった糖尿病科の若い女医さんに、さっそく先ほどの外科医との話をした。ぼくのすい臓がんのことをとても気にしているのだ。
「本当ですか。すばらしいです。△△さんのような人は本当にめずらしいんですよ。先日、糖尿病の担当医のチームでカンファレンス(※患者の情報を報告して、今後の医療ケアを協議する会議)をしたんです。ほかにもすい臓がんの人がいるんですけど、そのなかで△△さんのことが話題になったんです。すごく順調だね、いいねという声があがっていました」
そんなふうに診(み)られているとは知らなかった。
この女医さんは糖尿病の患者がやってくると、病状に応じて入院をすすめる。そのときいくつもの決まった精密検査を行う。そして、その結果を真っ先に患者に告げる立場にある。最悪の場合、嫌でも応でも、がんの告知をしなければならないのだ。
みた目では、だれがその対象なのかわからない。しかし、患者本人も気がついていないがん細胞と確実に出あう。そのプレッシャーはたいへんなものだろう。短い時間ではあったが、彼女とはそんな話もした。
ぼくにすい臓がんを告げたときの彼女の暗い顔と沈んだ声を、いまでもはっきり覚えている。
糖尿病担当の自分にはどうすることもできない。なぐさめることもできない。ただ、事実ありのままを話すしかない……。ぼくが告知を受けた翌日も、「△△さんのことが気になって眠れませんでした。奥様には話されましたか」と言っていた。
こんな場面に、彼女は嫌というほど立ち会ってきたのだ。
「すい臓がんがみつかった患者さんのいい例になるように、がんばります」
「ぜひ、そうしてください」
がんばりますとは言ったものの、再発しないという保証はどこにもない。だが、「暗」から「明」への予兆をしっかりキャッチした気持ちにはなった。このブログも、がんの話題から少しずつ離れていけそうである。
今月は1回、飲み会をやった。来月は何年ぶりかで忘年会の予定も入っている。
■室見川を渡った西区にはあちこちにたんぼがあって、秋に刈り取った稲の株からいっせいに蘖(ひこばえ)が伸びている。寒空の下、ちゃんとモミをつけて、二度目の実りのときを迎えている。
最近のコメント