サルスベリへの思い2023年09月26日 17時27分

 自宅のある3階から階段を下りて、舗道に歩み出したとき、赤い野球帽が目に入った。
 (あ、また会った。きっと立ち話がはじるぞ。)
 お相手は、ぼくらの町内会長のFさん。この公団住宅は棟ごとに自治会が組織されていて、わが会長さんはなかでも古株である。歳はぼくよりひとまわり下の62歳。職業は大工さんで、やや小柄の坊主頭には手ぬぐいの鉢巻がよく似合いそうだ。
 町内会長さんの仕事の中身についてはよく知らないが、何でも屋のお世話係といったところか。団地の年間事業計画の全体会議に出たり、町内会費を預かったり、市の広報紙や共益費の決済報告書を1階の郵便ポストに入れてまわったり、ひとりで何役もこなして、住民たちのこまごまとした相談にものってくれる。
 もしも、彼が小説家なら興味津々の人間ドラマがいくらでも書けそうだが、そこは会長職の責任をちゃんと心得ていて、「個人的な訳ありの話も知っているけれど、人には言えないもんね」とFさん。
 それでも胸にしまっておけないこともあるのだろう。いつか独居老人の孤独死について訊ねたとき、「ありますよ。数か月前には風呂場で亡くなっていた男性の高齢者がいた」と聞いたことがある。
 笑顔の絶えない、いかにも円満ふうな丸い顔、笑うと目が線になる。このあたりでの顔の広さはだんぜんで、こういう人を博多っ子の気質を受け継いでいる「気やすい人」というのだろう。ぼくたち夫婦も気やすくお付き合いさせてもらっている。
 このFさん、このところ好きな日本酒を断っていて、家のなかにこもりがちである。
 体調がよくないのだ。もともと心臓に疾患があると言っていた。もうひとつの別の持病もひどくなって、立ち上がるとくらくらめまいがするとか。とうとう車の運転もあきらめて、つい数日前には愛車の軽四も手放してしまい、大工の仕事もやめてしまった。
 Fさんも元がん患者である。20年ほど前に胃がんの手術をしている。「見つかったときは、だいぶ進行していて、もうだめかとおもった。死ぬんだなと覚悟したもんね」という彼の言葉はそっくりそのまま、ぼくの気持ちを代弁してくれている。
 病気のことよりももっと気の毒なのは、彼がひとり身であることだ。娘さんが中学生、下の男の子が小学生のときに離婚して、こどもたちは奥さんと一緒に出て行ってしまった。あれからずいぶん経つ。
 仲のいい家族と評判だっただけに、Fさんの家族崩壊のニュースは衝撃だった。離婚の原因をあれこれ推測するうわさが広がったときのFさんはどんな心境だっただろうか。
 その後も親子の交流は続いているので、その点はよかったけれど、人づきあいがよくて、元気印の代表格みたいだった人が60歳を過ぎて、全快する見込みのない病気になって、仕事もできなくなり、家には話す相手もいない境遇になってしまった。
 この団地のそれぞれの部屋に一つひとつのドラマがある。
 Fさんとはきょうもまたこんな話になった。
「部屋にいてもひとりやろ。悪い方にばっかり考えて、(胸を軽くたたきながら)ここがぎゅっと苦しゅうなって、頭がおかしくなりそうになるんですよ。テレビもおもしろくないし、眠れないけど、寝るしかないもんね」
 とっさになぐさめる言葉が出てこない。でも、こちらも病気持ちである。
「ぼくは糖尿病だから、定期的に××病院に通っているけど、お互いにいまは養生するときだとおもうよ。まずは健康なからだを取り戻すことに専念しようよ。でも、このあいだよりも、顔色もよくなったし、だいぶ元気になったよね」
 いまのFさんのヒマつぶしは、若いころにいちばんなりたかったという植木屋の真似ごとをすることらしい。やりたがっているのは自分の手で植えた2本のサルスベリの剪定である。頭上5、6メートルの高さまで伸びた幹を半分ほどの高さにして、見た目の形をよくしたいのだという。
 Fさんのサルスベリは団地の入口のランドマークになっている。ピンクと白の花がきれいで、写真を撮る人もいる。彼にとってはかわいい娘と息子のようなものなのかもしれない。
「剪定を手伝ってください」と言われた。「よし、わかりました」と答えた。見事なサルスベリの木にしてやろうじゃないか。
 これといった予定のないぼくたちは、こんなささいな計画でも気持ちを明るくしてくれる小さな夢なのである。

■今日は彼岸明け。異常な猛暑続きだったのに、ちゃんと秋はやってきた。花から花へと飛びまわっているアゲハチョウも元気を取り戻したようだ。