我、生還す2023年03月02日 20時24分

「××さん、わかりますか。ガンはまとまったままで、散らばっていませんでした。予定通りに手術は終わりましたからね。ガンはぜんぶ切除しました。安心していいですよ」
 麻酔が覚めて、渇望していた言葉が待っていた。きつくて、苦しくて、痛くてたまらなかったが、もう一度、確認せずにはいられなかった。
「ガンは、ぜんぶ、きれいにとれたんですね」
「はい」
「家内への連絡をお願いします」
 あれから9日目になる。こうしてやっとブログを書けるようになった。読んでいただいている方々にも、明るい報告をできるのがうれしい。
 集中治療室でひと晩を過ごし、翌日の夕暮れには一般病棟に戻って来た。
 この間、ひっきりなしの大量の薬剤の投与、24時間の看護師さんたちのお世話で、命をつなぐことができた。効き目のある薬と看護師さんたちがいなければ、苦しみながら死んでいたに違いない。みんなに援けてもらった。心底からそうおもう。
 吐き気と重ぐるしい痛みに責め続けられていた長い夜、ぼくの頭のなかに浮かんだ映像がある。
 それは国の指導者から強制的に戦争駆り出されて、遠く故郷をはなれた異国のジャングルや凍土の上、海のなかで命を落とした人たちのことである。
 医者もなく、薬もなく、激痛に耐えて、ただ耐えるしかなくて、死んでいった人たち。それまで平和に暮らしていたであろう彼らは、ベッドで身動きできないぼくのすぐ横にいた。
 ロシアの兵士から拷問を受けて、虐殺されたウクライナの人たちも出てきた。戦争で亡くなった人々の歴史が次から次へと。
 プーチン(だけではないが)よ、お前が真っ先に死と隣り合わせの前線へ行け。人が死ぬのをなんともおもわない馬鹿な奴らは、お前たちだけで好きなだけ戦争をやれ。消耗品のように次づきと殺されていく現場で、同じ目に遭って、何がいちばん大事なのか、よく考えろ。
 拷問のような苦しさにじっと耐えながら、どうして、こんなことをおもったのか、自分でもよくわからない。生と死の境い目を意識したなかで、生きて還りたくても、還れなかった人たちのことを連想させたのだろうか。
 腹部を大きく開いた手術とその後の苦悶のなかで、いままでになく与えられた命について考えさせられた。そして、これからは命を賛歌しようとおもった。それしかない。
 ぼくの書く散文にも、ようやくひとつの魂が息づいた、探しl求めていたリアリズムをやっとつかめるかもしれない。そんな確かな気がしている。
 こんなぼくよりも数倍も苦しがっている人はもっと大勢いるのだ。これから先も苦しみを抱えながら、生きて行く人もいるのだ。
 あともう少しだ。まだ点滴の管は外れないし、吐き気でほとんど食べられない、傷口は痛む、夜は背中の筋が痛くて眠れない。まだまだキツイけれど、少しずつ、少しずつ、出口は近づいて来た。
 休み、休み、ここまで書いた。

■消灯前にスマホのビデオ電話で話すカミさんの顔に、彼女らしい笑顔がもどってきた。長男にもいいことがあったようで、わが家にいっぺんに春がやってきた。次男は今夜、漢方薬を持ってきてくれたという。
 早くよくなって、わが家に帰りたいなぁ。
 写真は、西方にあるマンションに、朝陽が反射しているところ。

フリーな立場で、戦いの場へ2023年03月11日 14時37分

 青い空、ポカポカ陽気の下、お日さまの暖かい日差しに包まれて、ゆっくり、ゆっくり10数分歩いて、食品スーパーまで買い物に行ってきた。お腹の傷は痛むが、こうして自由に歩きまわれるのがすごくうれしい。
 先月21日に手術。2週間後の今月7日に、予定よりも早く退院できた。
 前日は、リハビリコースにもなっている廊下をぐるぐる廻って、1万2千歩あまりを歩いた。こんな患者はぼくひとりだけ。医者も、リハビリ担当の女性もびっくり仰天して、前倒しで、即退院となった。
 担当の医師が言うには、術後の経過は「非常に順調です」とのことだった。
 だがね、それは違んだよね。
 傷口をかばって、エビのように背中をまるめるしかなく、寝返りも打てない夜がずっと続いたから、背中の筋がガチンガチンにこわばってしまい、そちら方が傷よりも痛くてたまらず、睡眠剤をもらってもほとんど眠れなかった。
 朝がくるまでの長いこと、辛いことといったら。吐き気も止まらずに食事はほとんど残すし、順調どころか、本人はもうへとへとだったのだ。
 だからね、一日でも早く家に戻って、熱いお風呂に入って、こわばっている背中の筋肉をほぐしたい一心で、歩いていたんだよ。
 でも、結果的にはそれがよかったことになる。
 いまのぼくは「膵臓がんです」、ではなくて、「膵臓がんでした」になった。カミさんも食事が喉を通らず、眠れずで、ずいぶん痩せたと言っている。ぼくもガリガリに痩せてしまったが、ふたりで何度も何度も、最悪の事態からまぬがれて、がんから解放されたよろこびをしみじみと噛みしめている。
 後から聞いた話では、地元の診療所から総合病院の糖尿病科を紹介されて、そこで初めてすい臓がんが見つかる人は珍しくないという。そして、そのほとんどは、すでにがんがあちこちに転移しているとか。
 たまたまぼくはそうではなかった。本当に、本当に運がよかった。
 さて、済んでしまった病気の話はこのへんで打ち切って(まだ傷口は癒えていないが)、別のことを書こう。
 入院中に、手伝いを頼まれていたある首長選について、応援する新人候補者の「戦略シート」を書き上げた。A4のペーパーに2枚。さらにポスター案を同じく1枚。これを読んでもらえば、こうすれば勝てる、という戦い方の組み立てがわかるはずだ。
 退院直後に、この件で連絡をいただいた方に情勢を聞くと、やはり敵の動きが活発で先行しているという。あちらは選挙に手慣れているからな、そうだろうな。
 ぼくは選挙用のリーフレットとポスターの制作を頼まれていたのだが、その話を受けてから、退院するまで1か月が過ぎている。当然、リーフレットは出来上がっていた。ポスターも発注済みだろうし、どうやら、この方面での出番はなくなったようだ。
 だが、やはり気になる。電話をくれた方も、「ぜひ、選挙のアドバイスをお願いします」と言ってくれている。
 よし、やるか。
 書類ケースから、古いノートを引っ張り出した。40年ほど前に書いたノート。表紙には「選挙参謀」とある。記者時代のメモやノートはすべて捨ててしまったが、どういうわけか、これだけは手元に残っていた。
 「選挙の神様」とも言われた政治の師・Dさんが選挙戦の戦い方について書いた本からポイントを写し取ったものである。40年前でも、内容は現在にも通じていて、まったく色あせていない。
 読むと頭にスイッチが入って、戦う勇気も湧いてくる。やってやろうという気になる。
 明後日の月曜日、仲介役を務めてくださる方のご自宅で、その候補者と会うことになっている。公示日まであと35日。この間、候補のやるべきこと、考え方や行動の方法を教えてほしい、というのが依頼のテーマ。
 選挙参謀でもなんでもないフリーな立場だから、出しゃばらない程度に、言うべきことはきちんと言っておこう。
 さぁ、今度は戦略の話ではなくて、実際の一つひとつの行動をどうするか、すなわち「作戦シート」を整理しておかねば。

■ようやくブログを書く気になるまで、気力、体力が充電できた。晩酌の赤ワイン、日本酒少量ずつが食欲増進につながった。どちらも空っぽになったから、また買ってきた。

大江健三郎に感謝2023年03月27日 18時32分

 開腹手術をして、1か月が過ぎた。1週間前の月曜日には抜糸の施術を受けた。
 一歩前進である。腹部の傷口を縫い合わせていた糸がなくなったことで、いくらか楽にはなった。だが、鳩尾(みぞおち)からへその下までの縦一本の傷跡には、痛点をつなぐ電流が切れ目なく通っていて、やわらかい肌着がふれるだけでも顔をしかめるほど疼く。
 憂うつである。でも、仕方がない。医者の言う「日にち薬」を頼りに、気長に回復を待つしかない。
 このブログ、前回の原稿からずいぶん間が空いてしまった。書きたいことがあっても、からだがきつくて、気力がわいてこなかった。
 書きたいと思っていたひとつは、学生時代にいちばん身近な作家だった大江健三郎が亡くなったことだ。88歳。老衰だったという。
 買い集めた大江の単行本はぜんぶ処分してしまったが、手元には新潮社刊の大江健三郎全作品(全6巻)、同じく全作品第Ⅱ期(全6巻)を残している。1ページが上下2段組で、小さな活字がびっしり組まれている。あのころの本はそんな装丁が多かった。
 学生時代の下宿にはテレビなどのぜいたく品はあろうはずもなく、ひとりの時間の楽しみといえば本を読むことだった。大江の本も机の上に積み上げて、徹夜でよみふけったものだ。内容はきれいに忘れてしまったけれど、彼の文章にはいまなお励まされることが多い。
 ちなみに、手元にある大江の講演集の文庫本(2007年発刊)を開くと、ぼくがつけた傍線が1ページ目からあちこちに引いてある。それだけ心に留めておきたい文章がいっぱいあるということだ。傍線は太いのもあれば、細いのも、波線や二本線もある。これまで数え切れないぐらい、同じところを読んできた印(しるし)である。
 今日は大江について書くと決めたから、ほんのごく一部を抜粋してみよう。
 -私は(略)表現ということの一番根本にあるものを、エラボレーションだと考えるようになりました。人間が、何か表現しようとする。その時、子供でも、その職業に表現という言葉が似合わないような人でも、みんなどのように自分を表現するかと、エラボレーションの努力をしているのです。-
 (※大江は、エラボレーションの意味について、入念に作る(仕上げる)こと、労作といった訳語が自分にはなじみがある、と書いている)
 -私も、自分の小説家としての仕事を短くいうならば、言葉をみがくこと、みがいた言葉によって自分を表現することだ、と考えています。-
 そして、彼はこう続けている。
 -私は小説と共にエッセイ、評論を書いてきました。それらのどれも、私にとって、端的に言葉をみがく作業だといっていいのです。私は若い時に、言葉のエラボレーションこそを仕事の方法にしよう、と選択しました。準備期間の後、ある時間をかけて文章を書きます。その草稿を、最初に要した時日の三倍かけて、二度、三度と書きなおします。そしてあらためて仕上げの――それこそこの言葉にふさわしいのですが--エラボレーションをします。それが私のすべての文章についての、それを書く習慣です。-
 別のところには、こんな文章もある。
 -かつて私は、生涯の敬愛する友、武満徹の死の後で、「武満徹のエラボレーション」という講演をしました。武満さんの作曲を、エラボレーションを繰り返して作り上げたものと聴きとってのことですが、私は武満さんの音楽はもとより、その文章も人間もエラボレーションの最上の達成と受けとめてきました。-
 日本の先人たちが創ってきた、ひとつ一つの言葉を考えぬいて書く文化の崩壊に危機感を持っていて、こんなことを正直に書き残してくれた大江健三郎という作家は、やっぱり別格だとおもう。
 昨日、ぼくは書架に納めていた本の中から迷うことなく選別して、これから先も読み返すことはないと判断した131冊の本を処分した。一昨年からときどき処分していて、これまでに合計600冊ほどになる。そして、昨日はそのことにまったく後悔はなかった。
 これも心境の変化だろうか。死を覚悟した大病をして、残された時間を意識するようになって、本当に必要なものがようやくわかり始めてきたような気がしている。
 ところで、ぼくが41歳のときにつくった個人会社の名前は「表現社」という。
 人はみな表現者である。人はみな自分を表現しようして生きている。そんな人たちが集まる会社にしたい。そのような趣旨から名付けた。振り返ると、そこには大江健三郎の影響があったのかもしれない。
 「師」とは直接的な師弟の関係がなくても、例え故人や年下であろうとも、あるいはその人が書いた書籍であろうとも、自分が「師」と思えば、それで「師」になるという。
 大江健三郎もまたそういう世界へ旅立ってしまった。

■先に書いた首長選の手伝いの件。都市高速を経由して、車で片道50分の打ち合わせのお宅まで、立て続けに3回行ってきた。印刷直前の選挙用リーフレットを預かって、失礼を覚悟の上で、ぜんぶ書き直した。

■カミさんが面倒をみているベランダの花。春の陽射しを浴びて、どれもうれしそうに咲いている。