ナイフが見張っている2022年09月21日 14時46分

 最強と言われた台風14号は予報がはずれて、何ごともなく通り過ぎた。急にやってきた秋風がここちよい。真っ赤な彼岸花がそこかしこに咲いて、そろそろ室見川の河口からハゼが産卵のために上ってくるころである。
 ここしばらく、釣りに行っていないが、秋ハゼのシーズンになると胸が騒ぐ。「ダボハゼ」とはよく言ったもので、ハゼは大きな口で無警戒にパクリと食いついてくる。川岸のすぐ目の前の窪みにも穴場があって、そのポイントをみつけたら、子どもでも簡単に爆釣りできるのも魅力だ。
 大きなものは刺身によし、天婦羅もいいが、手軽につくれる唐揚げもまたよし。ふっくらした白身のおいしさは高級魚にも引けを取らない。
 そんなことを考えはじめたら、整理箱から釣り針や釣り糸を引っ張り出して、ハゼ釣りの仕掛けをつくりたくなった。すると引き出しの奥の方にナイフがみえた。
 アウトドアが好きな人なら、だれでも知っているスイス製の万能ナイフである。よくみかけるのはハンドルの部分が赤い樹脂の商品で、スイスの国旗の十字のマークがついたもの。
 ところが、このナイフには十字の目印がどこにもない。持っている人はそんなにいないとおもう。
 ハンドルは鹿の角でできている。肉を切って血や油で汚れても、表面がデコボコしている鹿の角は握った指が滑りにくいので、樹脂製のものより格段に安全である。
 コンパクトな本体に納められている用具の種類も多い。大小のナイフ、栓抜き、ハサミ、ルーペ、ノコギリ、ヤスリ、ドライバーなど12種もある。その一つひとつを取り出して、使い途をあれこれ想像していると時間が経つのを忘れてしまう。
 実は、この万能ナイフには亡くなった大先輩からのメッセージがこめられている。その方は日本で初めてフッ素樹脂の製造技術をアメリカから持ち帰り、それまでの炭鉱経営から大転換して、今日のフッ素樹脂のトップメーカーの基盤をつくった伝説の人である。中興化成工業の先々代社長を務めたKさん。
 彼の若い日の夢は、海外特派員のジャーナリストになることだった。しかし、会社の後継者になる運命には逆らえず、その悔しさもあってか、海外を飛びまわるのが好きだった。そして、スイスに行ったとき、日本には売っていないナイフを二つ買って来た。そのひとつをぼくにくださったのである。
 あのときこう言われた。
「このナイフはふたつしかない。だれにもやるつもりはなかったけど、期待しているからね。もし、そうでなくなったら、このナイフは返してもらうからね」
 自分ができなかった分だけ、ジャーナリストとして、がんばれよ。そういう意味だったとおもう。
 Kさんの会社の広報誌をはじめ、雑誌への寄稿文の代筆、地元紙のトップインタビューなど、いろんな原稿を書かせていただいた。
 それだけの機会を与えられ、それだけのモノを教えてもらったことになる。名経営者と言われた人から教えを受けた場所は、社長室だけではない、ぼくにはとても縁のない高級店もそうだった。
 いつも笑顔を絶やさない人だったが、ときおりオーナー経営者の素顔もみせることもあった。あるとき同社の幹部が社長室の席をはずした直後に、Kさんはこんなことを言った。
「君は彼のことをどうおもう? 一度、××長をやらしてみたんだが、あいつは駄目だ。来月から選手交代だ」
 それまでの柔和な顔が一変していた。
 ぼくも一度だけ、叱られたことがある。知人から誘われて、あるネットビジネスを立ち上げるメンバーに加わって、その新しい名刺をKさんに渡したときのことだった。
「何をやっているんだ、君は。自分の本分を忘れたのか。あのナイフを返してもらおうかな」
 言葉以上に、その眼はこわかった。
 それから先も、ぼくは取材と原稿書きの仕事から距離をおいて、いろんなことに首を突っ込んできた。それらのほとんどが失敗に終わった。だが、やったことで無駄なものはひとつもないとおもう。そのことをどうやって証明しようか。
 引き出しの隅っこに隠れていたこのナイフは、今もぼくを見張り続けている「お守り」なのかもしれない。
 そうだったのか。あのときナイフを取り上げないで、Kさんがくれた本当のメッセージとは、このことだったのだ。今にして、ようやく気がつくことばかりである。

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