言葉には人を変えるチカラがある2026年05月02日 18時48分

 朝刊を開けたら大好きな人の記事が載っていた。
 2年ぶりかな。迷わず電話した。着信音1、2回であの明るい声が返って来た。気持ちまで一発でつながった感じである。
「ああ、どうも、どうも。どう? 元気?」
「ご無沙汰です。新聞、見ました。相変わらずやってますね。I さんらしいなぁ」
 そのレポート記事によると、Iさん(79歳)は北九州市立のY図書館と共催で「読書サロン」を開催したという。50~80代の男女9人がテーブルで差し向いになって、自分たちが読んでいる本や知ってほしい本、作家のことなどを1時間半ほど話し合ったそうだ。
 いわゆる一般参加型の企画で、募集の方法は館内にチラシを張り出しただけだった。こんなやり方では人が集まるかどうか、フタが開くまでわからない。
「リスクがあるのに、よくやりますね。ふつうの人はやらんでしょ」
「本が好きだからね。やると言った以上、ひとりでも参加してくれる人がいたら、やらなくちゃいかんでしょ」
 彼はこれまでも毎月4、50人も参加する定例の飲み会や国際関係の勉強会、NPO法人の代表など、5指にあまる異業種交流会や勉強会を立ち上げて、身銭(みぜみ)を切って引っ張って来た。それらの会報やこまめに書いた彼の原稿の数と量だけでもたいした価値がある。
 80歳が近いので、若いころのようにはいかない。数年前には大手術をしている。その後遺症が出て、なんと昨日まで入院していたというではないか。
 彼との出会いは、ぼくが50代になったころだった。初めてお会いしたときからウマが合った。そして、還暦を迎えたときに、彼はこんなアドバイスをくれたのだ。
「△△さんもそろそろ外に向かって発言しなくっちゃ、もったいないですよ。人の話を聴くばかりじゃなくて、今度は自分が人に話す番で、人に伝える年齢なんだから」
 そのひと言がぼくを変えたと言ってもいい
 ある日、彼から電話がかかってきた。
「△△さん、うちの図書館で話してくれませんか。講演のテーマは、上手な広報のやり方がいいかな。やってくれるやろ」
 それまでのぼくは取材をする側で、話をする側ではなかった。でも、「これからは自分が話す番」というあのひと言が新しいチャレンジへのきっかけになっていた。やってよかったとおもう。
 癌のことも Iさんには隠す必要がない。最後は「まだまだやることがありますね」というエールの交換になった。
 言葉には人を変えるチカラがある。自分が追いかけたくなるような、ああいう先輩が次々にいなくなってしまった。せめて、そのお人柄だけでも、こうして書き留めておこう。
(このブログは3日前に書いた。体調がすぐれず、推敲できずにそのままにしておいた。もう大丈夫です。)

■新緑の室見川。杖をついて、転ばないように、ゆっくり、ゆっくり歩く。途中のベンチで、しばらく5月の風に吹かれた。明日3日と4日、福岡市は『博多どんたく港まつり』の日。例年のことながら、この祭りがあるときは雨の予報。

シアワセになろう2026年05月03日 11時23分

 5月3日。憲法記念日。朝から曇り空で、風やや強し。肌寒い。
 昨日の夕食前、疲れ気味のカミさんにこんな声をかけた。
「(義姉が送ってくれた)八海山、一杯ずつ飲もう。美味しいから。シアワセになろう」
 大先輩からいただいた大ぶりの盃を取り出して、キーンと冷えた新潟の地酒を注ぐ。封を切ってから3杯目。しみじみ味わって、大切に飲むようになった。
 大型連休中なので、音沙汰なしの近くにいるふたりの息子にLINEした。
 すぐに既読のマークはついたが、未だに連絡なし。たぶん、連れて来るとはおもうが、2歳4か月になる男孫の顔も見られるかどうか。
 別に冷たいとはおもわない。彼らも予定があるのだろう。そして、そうしているうちにある日、親との永遠の別れが来る。自分がそうだった。なってみなけばわからないことだらけである。
 それに比べれば、後輩の横浜組がつくったグループLINE(メンバー4人)のにぎやかなこと。みなさん、活発に動いている。
 はっきり変わったのは、「自分たちが発言しなくては、日本がおかしくなる」という危機意識に火が付いたこと。まったく知らなかったが、みんな勉強していた。その糸がつながって、みなさん青春復活の顔をしている。
 彼らも人との出会いに恵まれていることも知った。それぞれがこの連休を楽しんでいる。LINEの文章に、新緑、富士山、鯉のぼり、バーベキュー、ログハウス、車の買い替え、脳トレ、川柳などの言葉が目に入る。ふたりの息子にもこういう仲間たちがいたらいいな、とおもう。ぼくたち夫婦が知らないだけなのかもしれないが。
 わが空間はこの「一畳」だけ。ここで「一夢」を追いかける。たどりついたら、こういうことだった。
「八海山、一杯ずつ、飲もう。シアワセになろう」
 こんなキザなセリフもすらりと言えるようになった。
 
 追記 : 長男から連絡があった。明日の夕方、全員で来るという。のんびりムードは一転して、気ぜわしくなった。
 
■写真は「幸神社」。近くにある橋本神社の境内にある。新緑が美しいちいさな鎮守の森で、先に紹介した「絆の木」もここにある。
 通い慣れている人によれば、「マイナスイオンが半端じゃない。こんなところはありません。とくに梅雨に入る前がすごい」という。

大声を出すことが少なくなった2026年05月06日 15時49分

 5月の連休も今日で終わり。こちらは無職の身分なので、ずっと連休中なのだが、それでもテレビのニュースで東京などへ戻って行くサラリーマン家族の様子などを見ているうちに、かつての自分の姿と重ねてしまう。
 東京人からは、「帰る田舎があって、うらやましいなぁ」とよく言われたものだ。いまでもそうだろうか。
 東京に出たまま根を下ろして、そのまま帰って来ない人も大勢いる。都会と田舎とどちらの暮らしがいいとは断定できないが、こうして地方の人口は減り続ける。その一方で、「移住」もちょっとしたブームらしい。
 もしも、「分身の術」ができて、ぼくがふたりになって、ひとりは東京に、もうひとりは美しい海辺の村に住めたら、どんなにおもしろいことだろう。ぎゅうぎゅう詰めの通勤電車に乗る人生か、それとも自転車でのんびり通う人生を選ぶか。分身の術が使えたら、どちらもやってみて、決めることができるのに。
 ひとりはあの娘と結婚して、もうひとりはこの娘をお嫁さんに、なんてことができたら、こちらはどうだろうか。きっとオオゴトになるに違いない。ホント、人生に最初から正解なんて、あるのだろうか。
 さて、今日は午後2時からサッカーのアビスパ福岡vs京都戦。いまごろカミさんはメインスタンドで友だち総勢4人と声を張り上げていることだろう。
 DAZNで試合は見れるし、ゲーム展開は気になるけれど、それよりもこうして文章を書く方を選んでいる。ということは、自分にとっての優先順位はサッカーよりも、書く方が上ということか。
 このところ横浜にいる後輩君から、日本の将来を心配して、高市首相に対して、いや日本の政治家ぜんたいに向かって、厳しい意見のスピードボールがどんどん投げ込まれてくる。気を許し合う仲だから、率直で過激な発言も多い。かなり、アタマに来ている様子だ。
 だが、そんなキャッチボールのできる環境がとてもうれしい。次から次に大切な人がいなくなって、そういうことができなくなっていたのだ。彼らは、ぼくの閉じていた引き出しを引っ張りだしてくれている。
 学生時代は友と安いウィスキーをやりながら、がんがん大声を上げて、夜が明けるまでやりあったものだ。向かいの家のおばさんから、「昨日の夜はにぎやかだったねぇ」と笑われたことが何度もある。
 そこの家の3人娘の次女と末っ子がぼくの4畳半のアパートに遊びに来て、「英語の勉強を教えて」と言われて、劣等生は面食らったこともあった。
 中学から高校に上がった末っ子は、この九州出身の貧乏学生になついて、小鍋で作ったインスタントラーメンを食べて帰ったりした。ぼくのことを「わたしの彼よ」とも言っていた。
 それからしばらくたって、今度は同じアパートの1階の部屋を借りていた芸大の学生と一緒に来て、「わたしの彼よ」という報告があった。思い出すと吹き出しそうになる。
 あのころのように大声を出すことが少なくなったなぁ。
 だが、後輩君たちに負けないように、いまこそ大きな声を出すときかもしれない。ぼくたちの役目として。
 このアサブロにはハイレベルの文章をお書きになる先輩諸氏が何人もいらっしゃる。ようやくそのことにも気がついた。みなさん、声を上げているのだ。
 今日の体調は上向き。この勢いで、エッセイや短編にもチャレンジして、応募してみたい。また逃げださないように、何度でも書いておく。

■花壇の花たちが歌っている。もうすぐこれらの春の花は終わり。右側の花は引っこ抜いて、夏の花に植え替える時期がきた。
 先日、カミさんはベランダ用と合わせて、花を10鉢買った。手伝いたいけれど、ちょっときびしいかな。
 手伝えるようになること。それも身近な目標のひとつ。
 アビスパ福岡、PK戦で勝利。気分がいい。今夜はカミさんと祝杯。

頭ふらふらで、急なCT検査2026年05月12日 10時46分

 頭がふらふら。いかん! おっとっとと。
 病院のなかの採血室で、ゴロンと真横に倒れてしまった。ガタンと外まで聞こえそうな音がした。
 昨日の通院の予約時刻は正午で、午前中の人の波は過ぎていたから騒ぎにならずにすんだ。それでも5、6人の看護師さんが飛んできて、黒い野球帽に白いマスクをして、なんとか立ち上がろうしている老体のぼくを取り巻いた。
 (ああ、こんなみっともないザマで、本当によくなるのだろうか)
 それからの移動はずっと車椅子だった。ちゃんと看護師さんが椅子を押して、院内を連れまわしてくれた。みなさん、やさしい人たちばかりである。
 担当の医者に会ったのは、ぼくが最後の順番だった。病院に着いてから、すでに1時間45分が経過。
 何度も訴えてきたが、今日こそは言うぞと決めていた。
 頭ふらふらのことである。家のなかでもふつうに歩けないのだ。顔を洗うにも立っていられないのだ。
 ぼくの後に患者がいないのも、踏み込むチャンスだった。
 医者もいつもとは違う様子に気がついたのだろう。すぐCTで頭部だけの撮影になった。結果は、「とくに何もありせんね。来週、MRIもやりましょう」
 恐れていた頭のなかの妖怪の塊がじわじわ溶けていく。
 こう書くとぼくたちの関係がギスギスした印象を与えるかもしれないが、そんなことはない。ぼくはかってに彼は戦友だとおもっている。
「がんが見つかって4年ですかね」
「3年半です。このぶんなら4年は行けるとおもっているんですが」
「再発して、2年ですか」
 とても忙しい人だから、こんなふうに話すことはまずない。
 看護師さんが席を外しているのを確認して、横浜の同病の後輩Ka君の癌治療のことに触れた。Ka君が通院している神奈川県立がんセンターの存在は彼も承知。
 Ka君はステージ4の段階で、膵臓癌が見つかった。それでも飛びまわっているほど元気である。ぼくにはわかるが、そこには同じように、「死と向き合っている」心境も左右しているとおもう。
 何年もこの病気に付き合っていると、医療の進歩のスピードと日々患者に対応するだけでも手がいっぱいの外来の医者の知識との間に、そして病院との間にも蓄積された情報量や経験値の差があることがうっすらとわかってくる。
 外科部長の彼に対して、失礼とはおもったが、歳はこっちの方が上だ。社会人として、飯を食って来たキャリアも違う。Ka君の話を耳に入れておいた方がよいだろうと判断した。
 彼は関心を持って、ぼくの顔を見ていた。耳慣れない言葉もあったのだろうか、スマホで検索もした。知ったかぶりはいっさいしなかった。なんと正直な男だろう。
「いまやっている抗がん剤の効果が出なかったら、別の方法を考えましょう」
 ありがたい。彼は次の手も考えている。せめて、この副作用から解放されたら、まだまだやっていける自信がある。
 その後、車椅子のまま化学療法室へ。終わったのは4時半過ぎ。
 くたくたに疲れた。でも、いい日だった。カミさんにぜんぶ報告した。  
 点滴をしたばかりだったが、冷たいビールの最初のひと口がうまかった。

■団地のなかのケヤキの新緑がまぶしい。この南北に伸びたメインの歩道を往復すると2,000歩になる。途中に公園やベンチがあるので助かる。この2,000歩をひとりで歩けるようになりたい。

「死の宣告」から脱出までの3日間-①2026年05月21日 16時05分

 久しぶりにブログを書く。
 静かな雨が降っている。いま入院中で、ベッドの上。ここに至るまでの18日(月)から20日(水)までの3日間は、予期せぬ「死の宣告」から脱出までのわが人生最大の危機だった。
 オレもここで、もうすぐ死ぬのか、癌で死ぬって、こういうことかとおもった。会わずに終わるいろんな人が頭のなかをかけめぐった。整理してご報告しよう。

 ■18日(月曜日)
 病院に行く日(抗がん剤の点滴の日)
 頭がふらついている。この前のように車椅子が使えたらいいなと思ったので、仕事から帰ったカミさんが同行してくれることになった。座っているときは大丈夫だから、いつものように車のスピードを落として行く。4、5分で到着。
 10:30。採血、採尿、体重、血圧、酸素量測定の後、MRI(今回は頭だけ)、薬剤師、糖尿科へ。糖尿科は2か月に1回のペース。女医の話を聴く。特に問題なし。
 13:00 やっと外科。医師の診察。MRIは異常なし。癌細胞の転移もなし。安心した。今度はこちらの希望を医師に言う。今日のいちばんの目的である。
 内容は、「何度も、何度も言ってきたように、副作用がきつくて、このままではからだが持たない。もう耐えられない。だから、今日の点滴は止めてほしい。いまの抗がん剤もできれば変えてほしい」。その一点に絞った。
 結果はOK。今週、来週は休みにして、次の抗がん剤を考えますで決着。その際、休養は入院するか、自宅がいいか問われたが、もちろん自宅を選択。
「何かあったら、いつでも連絡して」と医者も顔見知りの看護師さんも言ってくれた。
 すべて、こちらの思い通りに進んだ。これで元気になれるぞとうれしかった。
 ところが、その夕方から、からだがまたきつくなってきた。だんだんひどくなってきて、夕食もとらず、7時ごろにはふとんの中へ。ひと眠りすればよくなるはずだった。

 ■19日(火曜日)
 緊急入院の日。
 朝からからだのきつさが尋常ではない。カミさんは早くから仕事へ。9時過ぎに戻って来たときもぼくはふとんの中。きつくて、きつくて、起き上がれないのだ。
 心配症のカミさんは、しきりに病院に行こう、救急車を呼ぼうかと言う。ぼくは「きつくて動けないんだよ」と答える。そのまま眠りに落ちた。
 そのうち、彼女は「〇〇さんが車を出してくれるんだって、病院に電話するよ」と言う。気持ちはよくわかる。だが、こちらは動きたくても動けないのだ。
 救急車の選択は最初から捨てていた。人から見られたくなかった。
いまおもえば、ぼくには見栄があった。団地の人たちの目を気にしていた。判断力がどうかしていたとおもう。
 今度は、「△△(長男)が車を出してくれるんだって。近くのクリニックに行ってみる? 電話するね」ときた。「起きあがれるようになったら頼むから」とも言っていたのに。あまりのしつこさにとうとう怒りが爆発。「動けないといっているだろ!」と怒鳴りつけてしまった。一度ならず、二度までも。
 やっと起き上がれるようになったのは午後3時。いつもの病院がいいのはわかっていたが、すぐ近くの方で、応急対策がとれればいいと甘い判断をした。
 息子の車に乗って、目的のクリニックに到着(今までのクリニックは3月いっぱいで廃業)。 
 結果は、やはりお手上げだった。結局、昨日行ったばかりのいつもの病院へ。息子は仕事で戻って行った。確かにきつくてたまらなかった。しかし、まさか、これが「死の宣告」につながるとは。

「死の宣告」から脱出までの3日間 ①

■写真はチリアヤメ。団地の中を歩いていて、カミさんが見つけた。球根で、花は3センチぐらいの大きさ。朝咲いて夕方にはしぼむ一日花です。
 実はこの原稿、昨夜はなぜか興奮状態で、さらに部屋においてある機械が音を出して、何度も看護師さんがやって来て、とうとう一睡もできませんでした。若いころ、平気で徹夜で記事を書いていたころを思い出しました。(笑い)

「死の宣告」から脱出までの3日間-②2026年05月22日 16時59分

 後ろからカミさんが押してくれる病院の車椅子に乗って緊急治療室へ。白衣や青い仕事着を着用した若い人たちから、薄くて、細くて、狭い黒のベッドの上に載せられる。清潔でひろい空間は照明も冷たくて寒い。目を閉じたまましばらく待つ。
 近くで担当の医師の声が聞こえた。よかった、こんな時間でも駆けつけてくれたのだ。彼は患者のためなら、暮れも正月も夜中もない。休みなしで働く外科のエースである。
 ところが、彼の呼びかけは予想もしないものだった。
「△△さん、残念なことを言うけどね、もう駄目かもしれないね」
 きつくて、きつくてたまらないのに、目も口も開けていられないのに、やっとここまで来たのに、いちばん怖れていた言葉が担当の医者の口から真っ先に飛び出したのだ。
「死の宣告」だった。拒否したくても、ただ静かに聞くしかなかった。
「心臓が止まるかもしない。そのときはマッサージする?」
 おおきく首を横にふる。
 暖かい手が、ぼくの冷たくなった左の手の指をやさしく包んでいるのがわかった。血の通ったカミさんの手だった。
 そのとき、ぼくは時間の記憶があいまいになっていたことを後から知った。
 実は、この医者の短い話の席にカミさんはいなかった。外で待っていて、入院手続きの書類などに書き込みをしていたという。そして、そこに担当の医師がやってきた。手には延命治療に関するペーパーが握られていた。サインの欄があった。
「奥さん、いまご主人の了解は得ましたが、延命治療はしないでいいということでした。それでいいですか」
 カミさんは突然のことで気が動転した。
「はい。以前からふたりでそう話していましたから、それで結構です。でも、あんなに元気だったのに、こんなことってあるんですか」
 声もなく医師は深くうなずいた。
「いつ心臓が止まってもおかしくありません」
「そんな……」
 部屋のなかに入って、ぼくの手を握ったのは、このやりとりの後だった。
「△△さん、できる限りのことはやるけどね。それでも限界があるからね。あとは持ちこたえられかどうかだね。よくなって、おうちに帰れるかもしれないからね」
 医者は死を迎えようとしている人に、こんなことを言うのかとおもった。閉じたままの目に、先に旅立った親しい人たちの顔が次々に浮かんだ。
 そうか、オレはとうとう死ぬのか。ここが死に場所か。そのときはもうすぐ来るのか、1時間後か。それとも今夜が山場か。たぶん、今夜なんだろうな。
 カミさんは泣くよな。ごめんな、幸せにしてあげられなかったな。息子たちにも会えないのか。話しておきたいことがいっぱいあるのに。友だちもびっくりするだろうな。
 さまざまなおもいがかけめぐる。
 その後、目を閉じたまま、血液検査、心臓の検査、CTほかの検査が延々と続いた。治療は始まらない。
 こんなときでも、検査、検査。寒くて、寒くてたまらない。
 ときどき若い女性の笑い声が聞こえた。たのしそうに働いているのだろう。いったいどれだけの時間が過ぎたのだろうか。それからベッドのまま運ばれて、病室の分厚いベッドの上らしいところに移された。ここはいくらか温かい。
 カミさんとはとうとう会えなかった。もう、会えないかもしれないな。こうやって人は独りで死んでいくのだ。父も、母もそうだった。
 これも後から知ったことだが、カミさんは同意が必要なさまざまな文書にサインをして、夕方6時半ごろ、ようやくぼくが寝ている病棟の5階まで上がって来た。だが、すでに面会が許される時刻は過ぎていて、断られたという。 
 帰り道は独りだった。彼女にはすぐにでもやらなくてはいけない使命があった。
 もう、夫は家に帰って来ないかもしれない。こうしている間も、いつ心臓が止まるかもしれないのだ。
 自宅に戻って、まず長男へ電話した。いつも陽気な次男は沖縄に出張中だった。「お父さんともっと話をしたかった」という涙声の次男の声を聞いて、涙が止まらなくなったという。
 それからぼくの姉へ。「まわりの親戚にはまだ黙っていて」という約束で。姉には癌のことはいっさい知らせていなかった。ふたりとも電話の声が涙で詰まったという。このところぼくのことが気になっていたそうだ。
 ぼくは眠れなかった。
 人はこうやって死ぬのか。あの世に行ったら、懐かしいあの人たちに会えるのかなぁ。会って、みんな元気でにぎやかにお酒を飲みたいな。そうなったらいいな。
 でも、まだオレは生きている。こんなことで死んでたまるか。みてろ、絶対に生還してやるからな。こうして考えるのも生きているからだ。今夜は死なんぞ。死ぬ気がせん。生きて、書いてやる。

「死の宣告」から脱出までの3日間-②

追記 : 明日の正午ごろ退院します。無事に家に戻れます。副作用がきつい抗がん剤とサヨナラできたので、うまく行けば頭のふらつきや杖の生活から解放されて、また髪の毛が生えるかもしれません。(笑い)
 再来週から新しい抗がん剤治療が始まる予定。きびしい状況に変わりはありませんが、気持ち的にはずいぶん明るくなりました。

■病室から西方の景色。以前にこのあたりはぜんぶ田んぼや畑だった。昆虫や水生動物の生き物たちもいっぱいいたという。

「死の宣告」から脱出までの3日間-最終編2026年05月23日 14時38分

 目を閉じたまま薄暗い部屋のなかで、強気になったり、弱気になったり。病室のベッドの上に運ばれて、いまは動いている心臓がいつ止まるのか。目の前に迫って来ているはずの死の訪れが頭からはなれない。
 いまは生きている。何か考えよう。考えているあいだは生きていられるのだから。
 自分が死んだ後はどうなるのだろう。
 葬式のことを考えた。坊さんは要らない。何十万円もする戒名も要らん。親がつけてくれた本名がいちばんわかりやすくていい。位牌の後ろには「風のひょう吉」と書いてもらおう。風にようにやってきて、風のようにこの世から消え去るのだ。その方がオレらしくていい。このことはカミさんにも話してある。
 葬式は小人数がいいから、家族葬でやろうと決めていたよな。ということは、カミさん、長男家族、次男の5人か。孫はまだ幼いから、通夜はたったの3人だけか。ちょっと寂しいな。酒があっても盛り上がりに欠けるな。
 そうだ、音を入れよう。それがいい。にぎやかになる。えーと、いまスマホでよく聞いている歌は、上条恒彦の「出発の歌」だろ、都はるみの「千年の古都」だろ、それから北島三郎の「風雪流れ旅」。いいねぇ。
 でも、ちょっと感覚が古いな。そうそう、ベートーヴェンの「田園」があった。モーツァルトもいいかな、題名はわからんけど。それから雰囲気を出すために、葬式らしい読経を流すのもあり、だな。別に宗派はどこでもいい。ぜんぶUチューブでやれる。料金はタダだし。
 そんなことを考えているうちに、葬式の演出家をやっているみたいな気分になって、このまま死んでしまう気がしなくなった。
 医者はあんなことを言っていたけれど、オレは本当に死ぬのだろうか。

■20日(火曜日)

「お食事でーす」
「なにも食べれません」
 横向きに寝たまま、無意識にちいさく返事をした。しばらくして目が覚めた。
 ああ、生きている。
 点滴が目に入った。からだはそんなにきつくない。昨日とは、はっきり違う。ああ、よかった、よかったぁ。
 7時過ぎ、カミさんに万感の思いを込めてメールを打った。
「おはよう。心配かけたね」
 後から聞いたら、やはり、一睡もしていなかった。まだとても信じられない、受け入れられないように感じながら、ずいぶん泣いたという。
 9時近く、担当の医師がやって来た。その顔に緊張感はどこにもなかった。
「どう、調子は」
「大丈夫です。先生があんなことを言うものだから。そんなふうに見えたんですか」
「あのときはね。いままで弱ってきていたのが、何かが炎症を起こしたんだろうね、、」
 どうしても訊いておきたいことがあった。
 癌の人がいっぺんに具合が悪くなって、あっという間に死んでしまうという事例がある。その話が先日タモリの出演していたNHKの癌特集の番組で取り上げられていたのである。あのときのシーンが頭のなかに焼き付いていたのだ。
 それによれば、ある日突然、血液中の癌細胞が急激に増えて、からだの器官が対応できなくなって、2、3日で亡くなってしまうという。今回の症状はまさしくそれだ、それでぼくも急にこんなことになったんだとおもっていたのである。
「昨日のデータの結果はどうだったんですか」
「どれも特別な異常はなかったね」
「そうですか。異常はなかったんですね」
「ただ、目には見えないけれど、癌細胞は肺と肝臓にも転移しているし、全身に散らばっているからね」
「ええっ。肺と肝臓にも? 初めて聞きました」
「肝臓は違ったかな。肺にはあるね」
「初耳です。この前のCT検査でも転移なし、だったでしょ」
「目に見えないちいさな癌細胞だからね」
「そういうことですか。それならわかります」
 この説明は納得できた。もともと癌細胞はだれでも持っている。問題はそれが癌になるかどうかなのだ。いちばん気になっていた血液中の癌細胞は大増殖していなかったのだ。
 昼過ぎ、カミさんと長男が面会にやって来た。夕方ちかくには次男も顔をみせた。みんな眠れなかったという。
「心配かけたな。さて、最初から話そうか」
 次男には、ぼくが死んだ後のこのブログの始末を頼んだ。

「死の宣告」から脱出までの3日間-最終編

■ベランダに置いてある桑の木に黒く熟した実がいっぱいついている。

じっくり巻き返してやろう2026年05月25日 16時28分

 あんなことがあったから、ずいぶん心配をかけてしまった。あの夜、カミさんは「ああ、お父さんはこの家には戻って来ないんだ」と覚悟したという。
 そんなふうに思っていたんだ。医者からそう言われたのも同然だったから。どんなに心細かったことだろう。
 一連のことは、がんばってこのブログの3部作として書いたが、担当の医者からはっきり「駄目かもしれない。いつ心臓が止まってもおかしくない。延命治療をしますか」と言われたときの動揺はあんなものじゃなかった。
「オレは奇跡的に生還した」。そう思っている。
 こうして家に帰ることができない人もいる。
 ぼくは運がよかった。生と死の分かれ道に立ったときでも、負けてたまるかと思った。この体験はいつかきちんと書こう。
 70歳のカミさんとはまだ話し合うことがいっぱいある。戒名の件は念を押した。遺産はないので、その点の気苦労はないが、心配なのは独り残される彼女のことである。
 幸い、仲のいい姉ふたりがいて、ひとりは早くに夫を亡くしているので、同じ境遇として気持ちが通じ合うところも多々あるだろう。また、団地暮らしでよかったとも思う。今回も近くにいるカミさんの友だちが支えてくれた。ありがたさが身にしみた。
 こんなブログでも、書いていないと心配する人たちがいる。いまその心配を取り除くために書いている。
 今月はエッセイを書いて、懸賞に応募する予定だ。原稿用紙3枚。残りはあと6日。
 体調は落ち着いてきたが、ネタを考える気力に欠けているので、このブログのなかにある小話をひと捻(ひね)りするつもりだ。もし入選したら儲けもの。トライ、アゲインあるのみ。
 この歳になって、10代のときから持ち続けていた自分の気持ちに正直に従って、「職業・作家」を目指すことにした。同じように志望していた「職業・記者」はすでに体験ずみ。たいして変わりはあるまい。上手、下手は関係ない。オレの人生だもの、いままでと同じように、好きにように生きるさ。
 とにかく、あの辛い副作用の抗がん剤から解放されたのがすごくおおきい。きっと頭のふらつきもいまよりは軽くなって、もっと外に出て、歩けるようになるだろう。そうなったら、こっちのもの。
 退院した土曜日は、横浜の後輩君たちが部活のOBたち総勢6人で、母校・早稲田に集合して、おおいに気勢をあげていた。その様子がLINEで続々と送られてきた。ちゃんとぼくが渡しておいた球磨焼酎の『山ほたる』もたのしんでもらったようだ。
「都の西北」、「紺碧の空」を大声で歌いまくったという。同じすい臓がんのKa君がいちばんの元気者だったようで、みんな驚いていたらしい。いいな、彼らしいなぁ。
 さぁ、こちらも無理をしないで、じっくり、ゆっくり、少しずつ巻き返してやろう。

■ベランダ栽培のキャベツの原種・ケール。こんなところまで虫が卵を産みつけにやってくる。葉っぱはカミさんが毎日作ってくれるスムージーの材料に。

エッセイを書く前に2026年05月29日 15時37分

 右目の視力が落ちて、よく見えない。新聞の文字もぼわーっとして、こうしてパソコンに打ち込んでいる文字も読みとるのにひと苦労している。今日か、明日のうちにはエッセイ3枚の原稿を書かねばならないが、こんなことでブレーキがかかるとは思わなかった。
 エッセイはこのブログに載せたものを転用する予定だった。だが、主催者に確認の電話を入れたところ、全面書き直しならOKと言われた。それはそれで別にどうってことはない。ただ、この右の目がなぁ。
 今日は朝からさわやかな天気。カミさんのパート先も平穏だったようで、このぶんなら、どうやら「波瀾の5月」を乗り切れそうである。
 死の入口まで行ったから、一日一日の過ごし方がこれまでよりもずっと重く感じる。そのとき思ったことをメモする機会が多くなった。そして、その紙片をあちこちに留めている。すべて自分への励ましのメッセージである。
 午前中は、玄関、ふだん使用していない北の部屋、リビングに置いている絵を取り替えた。「絵」といっても何年の前からの使い終えたカレンダーの水彩画やイラストで、どの作品にも四季がある。
 信州の山々の風景画や暖色系の草原のイラストは新緑の季節のものへ、コーヒーカップなどを赤や緑の強烈な原色で描いたイラストは、涼しげな海のクジラのそれに差し替えた。ほんのちょっとしたことで、狭い団地の部屋はぼく好みのちいさなミュージアムになる。
 机の上にある紅葉(もみじ)やイチョウの落ち葉、どんぐりの実、男の子の宝ものだった小刀の肥後守、そして、波当津の浜から持ち帰って来た平べったくて、黒っぽい小石。こんな小物たちもときどき触りたくなる。
 カミさんは季節に合わせて、いつもの花壇の花を入れ替えてくれた。応援しくれるオバサンからいただいたチューリップの球根はだれかにごっそり掘り盗られてしまった。
 仕方のないことだ。こういう手合いは人のモノを自分勝ってに盗るのが好きなのだ。快楽犯というやつ。またやるに違いないから、質(たち)が悪い。ぼくも採るのは好きだが、一緒にされたくない。
 カミさんは数種類の花のタネを肥料と共に仕込んだシートも移植した。新潟の姉が送ってくれたもので、4、5本の芽が伸びている。お隣さんは「いただきものですが……」と断りながら、マリーゴールドのタネをくれた。ある人は花ではなく、インゲンマメの苗を3本と幾粒かのタネくれた。捨てるわけにもいかず、カミさんはわざわざそれ用のプランターを買って、ベランダ栽培を始める始末。
 面倒くさく感じるときもある。でも、それでいいとおもう。前町内会長のUさんは、「次はハチク(筍)を持って来るから」と言っていたが、ハチクの季節はもう終わってしまった。
 こんな取り止めもないことが、わが家のその日、その日の物語になっている。
 つい先ほど、近くの整形外科医に行っていたカミさんが帰ってきた。頼んでいたことがあった。帰り道にブックオフに立ち寄って、ネットで注文していた大江健三郎の本を取って来て、というお願いごとである。
 本は場所をとるので、買うのはいつも文庫本にしている。だが、文庫でもけっこうな値段のものもある。むしろ中古品でも、実際は新品の売れ残り品にかなり安い本が多い。今回の『イン・レイト・スタイル』の単行本は定価1,800円(税別)が、わずか220円(税込み)だった。活字文化の価値観というか、需要と供給で決まる市場価格はここまで変わってしまった。
 この本は、大江が福島の原発事故に出会って、急遽書いたという本である。ともかく尊敬する作家が心を込めて書いた220円の真新しい本が手元にある。
 もう何度も触っている。エッセイを書く前に、いますぐ読みたい欲望と戦わざるを得ない羽目に陥った。